朝、世界はやけに静かだった。
 鳥の声も、通りの車の音も、どこか遠くにいる。サエは布団の中でまぶたを開け、呼吸の回数を数える。四つ吸って、六つ吐く。窓の外は曇り。空は、白い紙のように均一だった。
 ――今日は、音が薄いね。
 「うん。耳の中が、少しやわらかい」
 ――きっと、音のない約束の日。
 ルウガの声は低く、湿った光みたいだった。

 サエはベッドから起き上がり、机の上の瓶を見た。花はまだ咲いている。白い花弁の先に、ほんの少しだけ灰色が残っている。それが美しく見えた。
 瓶の中の水に光がゆれている。昨日よりも深い色。トモの低い声がそこに残っているような気がして、サエは静かに瓶の縁をなぞった。

     *

 午前中の学校は、曇り空のせいで教室の中が少し暗かった。蛍光灯をつけても、光はやわらかく広がるだけで、白い刃にはならない。
 サエはノートを開き、右上に点を打つ。中心点。
 今日は、その下に小さく「音」と書いた。

 先生の声が遠くで響く。チョークの音も、紙をめくる音も、全部が膜の向こうにあるようだ。
 ――音が遠い日は、君の内側の音が強くなる。
 「内側の音?」
 ――うん。呼吸とか、鼓動とか、声の気配とか。世界の奥に残ってる“残響”だよ。

 サエは鉛筆を持ったまま、手を止めた。
 「残響って、怖くない?」
 ――怖くない。だって、君の中の音だから。外から来る刃じゃない。

 そのとき、窓の外で風が吹き、木々の枝が小さく鳴った。
 葉の擦れる音が、まるで遠い海の波の音のように響いた。

 「……きれい」
 ――そう。それが、音のない約束。

     *

 放課後。
 病院の待合室には、いつものように低い音が流れていた。時計の針、空調の風、紙のめくれる音。けれど今日は、トモの姿がなかった。
 サエは柱の影の椅子に座り、鞄から手帳を取り出す。昨日のページを開く。
 影の温度。冷たい。やさしい。ありがとう。大丈夫。また。

 ページをめくる指が止まった。
 「また」――その言葉の先に、空白がある。
 ――空白も、音のひとつ。
 ルウガの声が優しく響いた。

 「でも、今日は『また』が言えない」
 ――言葉がなくても、君は約束を持っている。

 そのとき、受付の奥の自動ドアが静かに開く音がした。
 低い足音。一定の呼吸。サエは顔を上げた。
 トモが立っていた。手には小さな黒い箱を持っている。

 「遅くなってごめん」
 「大丈夫」
 トモは隣の席に座り、箱の蓋を開けた。中には、小さな黒い石が入っていた。

 「これ、音を吸う石なんだって。店の人が言ってた。部屋に置くと、静けさが増えるんだってさ」
 サエは石を見つめた。黒いのに、光を反射していた。
 「ほんとに音を吸うの?」
 「わからない。でも、君に合う気がした」

 サエは箱の中の石を指先で触れた。冷たくて、つるつるしている。その冷たさが皮膚を通り抜け、胸の奥の蛇口の向こうまで届く気がした。
 「冷たい。でも、静か」
 「それがいい音」

 トモは微笑み、いつものように低い声で言った。
 「君の声、今日は落ち着いてる」
 「音が少ないから」
 「そうだね」

 二人の間に沈黙が落ちる。けれどその沈黙は刃じゃなかった。
 待合室の光が瓶の花を照らし、白い影が壁に映る。サエは小さく息を吐いた。

 「君がいないと思って、少し怖かった」
 「ごめん」
 「違う。怖かったけど、待てた」
 「待てた?」
 「うん。君の“残響”が、胸の中にあったから」

 トモは少しだけ目を伏せ、それから笑った。
 「じゃあ、僕のほうも言うね」
 「なに?」
 「今日は、君の音がないのに、ちゃんと聞こえた」

 サエの胸の奥で、ルウガが頷く。
 ――それが、音のない約束。言葉がなくても響く音。

     *

 受付で名前が呼ばれ、サエは立ち上がる。
 「待ってて」
 「うん」

 診察室の白い光の下で、サエは瓶の花の話と、黒い石の話をした。先生は静かにうなずきながら言った。
 「誰かの声の残響があるって、すごいことですよ。それは心の深いところで繋がってる証拠です」

 「繋がってる……」
 その言葉の響きが、サエの胸の中で和音になった。

     *

 病院を出ると、外は夕暮れだった。空の色は薄い群青で、街灯がひとつ、ふたつと灯り始めている。
 トモが待っていた。
 「これ、君の分」
 黒い石をひとつ取り出し、差し出さない距離で傾ける。
 「ありがとう」
 「この石、君の声を吸ってくれるかも」
 「君の声も?」
 「たぶん」

 二人は笑った。

 「明日、あの“光でも影でもない時間”を見に行こう」
 「約束」
 「うん。音のない約束」

 信号が青に変わる。
 白と黒の等間隔が、濡れた道に浮かび上がる。
 二人の影が重なり、そこに静かな光が宿る。
 胸の奥でルウガが囁いた。

 ――呼吸して。君の音が、世界を動かしてる。

 サエは頷き、低く言った。
 「ありがとう」
 トモが続けて言う。
 「大丈夫」
 そして、ふたりで。
 「また」

 その声が街の光に溶けていく。
 音はなかった。けれど確かに世界が応えた。
 静けさが、優しく揺れた。

     *

 夜、サエは部屋で黒い石を瓶の隣に置いた。
 光が吸い込まれて、部屋がやわらかく暗くなる。
 サエは手帳を開き、今日の行を書く。

 音のない約束。静けさ。ありがとう。大丈夫。また。

 最後に、一行。

 ――言葉がなくても、呼吸は届く。

 ペンを置き、灯りを落とす。
 ルウガの声が闇の中で小さく響く。

 ――明日、音のない光を見に行こう。

 「うん。行こう」

 サエは目を閉じた。
 その夜の静けさは、世界のすべての音をやさしく包み込むように、長く、長く続いた。