声の向こうで、君を見ていた

 夜の終わりを告げるように、カーテンの隙間から青い光が差していた。空の色はまだ夜の名残を残していて、朝というよりは、静寂の続きを見ているようだった。
 サエは目を開けた。窓際の瓶の中で、昨日の白い花がまだ咲いていた。光を受けて透けた花弁が、朝の青を抱え込むように揺れる。
 ――呼吸を合わせて。
 ルウガの声が静かに言った。
 サエはゆっくり吸って、六つで吐いた。空気が冷たい。でも冷たさは痛くなかった。胸の中で、光が薄い音を立てて膨らんでいく。

 「……おはよう」

 花に声をかけると、光が少し揺れた。まるで応えるように。

     *

 学校では、文化祭の片付けがすべて終わり、静けさが戻っていた。昨日までのざわめきが嘘のように、教室の空気は薄い。
 サエは机に座り、ノートを開く。今日の中心点を右上に打つ。
 点は鉛筆の芯の太さほどしかないのに、それがあるだけで胸が落ち着く。

 ――今日は、光のない時間を探してみよう。
 「光のない時間?」
 ――うん。光が消えた場所にも、君の線はあるから。

 午後の自習時間。窓の外は曇りはじめていた。雨の気配が少し漂う。サエは筆記具を持つ手を止め、教室の天井を見上げた。蛍光灯が消えている。昼間の曇り空が、白い天井を均一に照らしている。光も影もない時間。
 呼吸をひとつ、数える。
 四つ吸って、六つ吐く。
 音がない。匂いもない。
 代わりに、自分の心臓の鼓動が、静かに机を打つ。

 トモは隣の席にはいない。今日は通院日ではなかった。代わりに、机の引き出しに小さな紙が入っていた。
 「影の温度を、測ってみよう」
 サエはその文字を見つめて、少し笑った。トモの字は、角が少し丸い。

     *

 放課後、サエは校門を出ると、まっすぐ病院には向かわず、川沿いの道を歩いた。
 雲が低く、風は冷たい。水面に光がない。流れだけが見える。
 ――この時間だね。
 ルウガが囁く。
 ――光のない場所は、影の呼吸を聞く場所。

 サエは歩道の端にしゃがみ、手帳を開いた。鉛筆で線を一本引く。まっすぐではなく、ゆるやかな曲線。
 「影の呼吸って、どんな形?」
 ――一定じゃない。でも、戻る場所がある。波みたいに。

 風が吹き抜け、髪を揺らす。川の流れが灰色の中で静かに光る。その反射は細く、刃ではない。

 「ルウガ。僕、影って、怖くなくなった気がする」
 ――それは、君が自分の中の影を見てきたからだよ。
 ――影は形の裏にあるもの。形があれば、影もある。

 サエは手帳の線の終わりに小さな丸をつけた。
 「戻る場所」

     *

 夜。病院の自動ドアの前で、トモが傘を差して立っていた。薄い灰の空から、細い雨が落ちている。
 「こんばんは」
 「こんばんは」
 二人の声が雨の音に溶ける。

 「影の温度、測れた?」
 「うん。少し、冷たかった。でも、刺さらなかった」
 「いい温度だ」

 トモの傘が少し傾き、雨がふたりの肩を半分だけ濡らす。
 「君の影、触れたことないけど、たぶんあったかい」
 「君のは、静かに冷たい。触ると落ち着く感じ」
 ルウガが胸の奥で笑った。
 ――影は、二人で持つとちょうどいい温度になる。

 雨脚が強くなり、トモが傘の位置を少し動かす。サエの肩の上に一滴、冷たい水が落ちる。
 その瞬間、胸の奥が静かに鳴った。和音。

 「今日、ルウガが言った。光のない時間にも線はあるって」
 「うん。僕も思う。影の中でも呼吸は続く」

 二人はゆっくりと歩き出した。
 街灯の灯りが雨に滲み、足元の水たまりに光の輪を描く。光の輪の中に、二人の影が重なる。影の輪郭は曖昧で、温度がある。

 「君の声、今日、少し低い」
 「雨のせいかも」
 「落ち着く」
 「ありがとう」

 病院の前を通り過ぎ、交差点の角まで来たとき、トモが立ち止まる。
 「ねえ、今度さ」
 「うん」
 「光でも影でもない時間、見つけよう」
 「そんなの、ある?」
 「ある気がする。夕方と夜の間。呼吸が止まらない時間」
 「……行きたい」
 「じゃあ、約束」

 トモが右手をポケットから出す。指先が雨で冷えている。
 サエは傘を少し傾け、指を伸ばした。
 触れないまま、指と指の影が重なった。

 ――それが“触れない約束”。

 ルウガの声が、静かに胸の奥で響く。
 「また」
 「また」

 信号が青に変わり、白と黒の等間隔が濡れた路面に映る。二人は別の方向に歩き出す。サエは後ろを振り返らない。振り返らなくても、足元に残った影の温度が、まだ消えていないことが分かる。

     *

 夜、部屋に戻ると、瓶の中の花は少しだけ色を変えていた。花弁の先が、灰色に近い紫を帯びている。光の少ない部屋でも、その色はやさしく浮かび上がる。

 サエは手帳を開き、今日の行を書く。

 影の温度。冷たい。やさしい。ありがとう。大丈夫。また。

 ペン先を止めて、ふと思う。
 ――影にも、和音はある。

 ルウガが小さく囁く。

 ――君の影は、誰かの光で形を持つ。

 「トモの光?」
 ――そう。そして君の光も、彼の影を包んでる。

 サエはペンを置き、窓の外の暗い街を見た。
 街灯の光が濡れた道路に滲み、遠くで車の音が低く続く。光と影が交互に現れる。呼吸みたいに。

 「また」

 胸の奥で小さく言う。

 ――また。君の速度で。

 その声の残響が、瓶の中の花に触れた気がした。
 花びらがほんの少し、開く音がした。

 外の風がやさしく吹き、部屋の空気がゆるやかに流れた。
 サエは目を閉じ、静かな呼吸の中に、自分と誰かの影が重なる感覚を抱いた。
 冷たくも温かい、その境目の温度が、心の奥にしっかりと残っていた。