声の向こうで、君を見ていた

 朝、カーテンの隙間から差し込んだ光が、ゆっくり部屋の空気を撫でていた。サエはまだ夢と現の境目にいて、光が網膜を透ける感覚を味わっていた。昨日までの雨のにおいは薄れ、空気が乾いている。布団の中で、ルウガの声が低く響いた。
 ――今日の光は、刃じゃない。試してみる?
 「……うん」
 布団をめくり、光の中に手を伸ばす。光の粒が、皮膚の上で柔らかく跳ねる。蛍光灯の白とは違う、自然の黄色い光。眩しさよりも温度が先に届く。指の間を通る明るさが、呼吸の速さを決めてくれる。サエは一度深く吸って、六つで吐いた。喉の奥に、いつもの蛇口の気配はない。
 「大丈夫」
 声を出す。小さいが、途中で切れない。声のあとに静けさが残り、その静けさを胸で抱きしめる。
     *
 学校では、文化祭の後片付けが終わり、いつもの授業が戻っていた。クラスメイトたちはまだ少しだけ浮ついた笑い方をしている。サエはノートの端に新しい点を打つ。中心点。そこが今日の「戻る場所」。
 午前の光は、教室の窓から机の上に線を引くように差し込んでいた。光が筆箱の金属部分に反射し、一瞬だけ白く跳ねる。サエの指先がその跳ねを追いそうになる。危ない。――刃。すぐにルウガが言う。
 ――視線を角へ。
 サエは黒板の右上にある、掲示板の木枠を見た。そこが影を作っている。影があるところでは、光も落ち着く。
 「ありがとう」
 ルウガは何も言わない。ただ、胸の奥で静かに頷いた気配があった。
     *
 放課後。病院の前にはまだ昨日の雨の水たまりが残っていて、光を反射していた。空は白に近く、風が少し冷たい。サエが自動ドアをくぐると、受付の音とともに、低い声が届いた。
 「こんばんは」
 トモが隅の席にいた。今日は紙コップの代わりに、透明な瓶を持っている。中には水と一輪の白い花。茎の先が瓶の底で静かに揺れている。
 「それ、どうしたの?」
 「帰り道に拾った。折れた花。まだ生きてるかと思って、水に入れた」
 瓶の中の水面が蛍光灯を受けてきらめく。その反射は、昨日の光よりも柔らかかった。サエは少し眩しそうに目を細め、それから笑った。
 「生きてる、と思う」
 「うん。俺も」
 二人は隣り合って座り、瓶の中の花を見つめた。待合室の時計がゆっくり針を進める。光は瓶の水を透け、床の影に小さな模様を作っている。
 ――呼吸、光と合わせてみよう。
 ルウガが囁く。
 サエは光の波に合わせて息を吸い、吐く。光が瓶の中でゆらぐたびに、自分の胸の中もゆっくり動く。
 「呼吸、してるね」
 トモが小さく言った。サエはうなずく。
 「うん。光が、吸ってる」
 「いい表現だね」
 「ルウガが言った」
 トモは笑った。音を立てずに笑う。瓶の花がその笑いに合わせて、ほんの少し傾いた。
 「ねえ」
 サエが少し間をおいて言う。
 「昨日、先生が『共鳴』って言った。君と話してると、胸の奥が同じ温度になる気がする。これが共鳴?」
 「そうかも。俺も感じる。低い音で、ずっと続く感じ」
 ルウガが胸の奥でうなずいた。
 ――それは“和音”だよ。二人でしか鳴らせない音。
 「和音」
 サエが小さくつぶやくと、トモは瓶の水面を見つめて言った。
 「水にも、和音があるかもしれない。波紋が二つ重なるとき、少し高く鳴る音がある」
 サエは瓶の中をのぞき込み、二つの波がぶつかって丸い模様を作るのを見た。
 「ほんとだ」
 波紋は刃にならない。重なった部分の形は滑らかで、中心に小さな光が集まっている。
     *
 そのとき、待合室の照明が一つ、少し明滅した。蛍光灯の白い刃。サエの胸の奥で、古い記憶が動く。食卓の光。笑い声。重なる音。割れる皿。瞬間、喉の奥の蛇口が開きかけた。
 ――角を探して。
 ルウガの声。
 サエはすぐに壁の角を探した。見つからない。視界が白く揺れる。トモが動いた。瓶の花が揺れ、彼の手が光の中で止まった。指先が、瓶の影を床に落とす。その影が、黒い角の形になる。
 「ここ」
 トモの声は低く、底が深い。サエはその影に視線を置く。影は刃じゃない。影の形は、光の呼吸の裏返し。
 「大丈夫」
 「うん」
 喉の蛇口が静かに閉じる。光が再び落ち着き、瓶の中の水が透き通っていく。
 ――戻れたね。
 ルウガの声が少し誇らしげに響いた。
     *
 診察の順番が来る。サエは立ち上がる前に、瓶の中の花を見つめた。花びらの端が、少しだけ透けている。
 「この花、持って帰っていい?」
 「うん。でも、重くない?」
 「軽い」
 「なら、持って」
 サエは瓶を両手で抱えた。冷たいガラスの感触が掌を冷やす。冷たいのに、胸の内側は温かい。
 診察室の白い光の下で、先生は瓶の花を見て言った。
 「きれいですね」
 サエはうなずき、短く答えた。
 「光の呼吸」
 先生が首をかしげる。
 「トモと一緒に、光を吸って、吐いたら、光が柔らかくなった」
 先生は穏やかに微笑んだ。
 「いいですね。それが共鳴かもしれませんね」
 共鳴。やっぱりその言葉は、少し大きい。でも、掌の中にその一部を持っている気がした。
     *
 帰り道。外は夕焼けだった。雨上がりの空気が冷えて、街灯がまだ灯る前の時間。サエは傘を閉じ、瓶を胸に抱えた。瓶の水面に、夕陽の色が映る。赤とも橙とも言えない光。歩くたびに瓶の中の光が揺れる。そのたびに胸の奥が小さく鳴る。クリック。
 交差点の信号の前で、トモが隣に立つ。今日は病院から少し先まで送ってくれると言った。風が二人の間を通る。
 「光、怖くなかった?」
 「うん。今日は、呼吸できた」
 「よかった」
 「君のおかげ」
 トモは首を横に振る。
 「違うよ。君の光だ」
 信号が青に変わり、二人は渡る。白と黒の等間隔。街灯が一つ、先に灯る。電球の光が瓶の水に反射して、歩道に小さな丸を描く。
 「見て。瓶の影、角がない」
 「ほんとだ」
 サエは小さく笑い、足を止めた。
 「ねえ」
 「うん」
 「光の呼吸って、君にもできる?」
 トモは少し考えてから、答えた。
 「できると思う。でも、僕にはまだ影が足りない。光ばかり見てると、呼吸が浅くなる」
 「影、あげようか?」
 「君の影?」
 「うん。小さいけど」
 サエは自分の足元を見て、靴の横にできた影を指さした。夕陽で伸びた細い影。
 「この影、二人で踏んだら、共有できるかな」
 トモが笑う。笑い声は低く、風の中に溶ける。
 「やってみよう」
 二人は並んで立ち、影の上に足を置く。夕陽の光が角を伸ばし、二つの影が重なって一つになる。その瞬間、瓶の中の花びらがゆっくりと開いた。
 「見て」
 「咲いた」
 ルウガが胸の奥で静かに囁く。
 ――それが、和音の光。
 空の色がゆっくりと変わっていく。オレンジから群青へ。光の呼吸が世界を包む。二人の影は、夜の入り口でゆっくりと溶け合い、見えなくなった。
 サエは胸の中で小さく言う。
 「ありがとう」
 トモの声がすぐ返る。
 「大丈夫」
 そして、ふたりで同時に言う。
 「また」
 世界が、それに答えるように、街の明かりをひとつ、ふわりと灯した。
     *
 夜、サエの部屋。スタンドライトの下で、瓶の花がまだ咲いている。窓の外の街灯が反射して、部屋の中に小さな光の粒を散らしている。サエは手帳を開き、今日の行を書く。
 光。瓶の花。和音。呼吸。ありがとう。大丈夫。また。
 最後に、一行足す。
 光を吸うたび、影がやさしくなる。
 ペンを置き、部屋の明かりを落とす。
 闇の中で、ルウガの声が柔らかく響いた。
 ――君の光は、もう刃じゃない。
 サエは目を閉じ、胸の奥でゆっくり呼吸する。光の呼吸。世界の呼吸。
 そのリズムの中に、トモの声が確かに混ざっていた。