声の向こうで、君を見ていた

 翌朝、空は薄い灰で、音を含んだ風が吹いていた。雲の下を走る車のタイヤの音が、遠くで波のように重なっている。サエは窓を少し開けて、冷たい空気を吸い込んだ。湿った匂い。雨の手前の匂い。雨が降る前に、世界の輪郭がわずかにやわらぐ時間だ。

 制服の袖を通し、タグを確認する。指先で布を押すと、昨日の矢印カードの紙の感触が思い出される。角を落とした端が、皮膚に優しかった。机の上には手帳が開いたままになっている。ページの端に書かれた小さな行。
 ――人波の中にも、地図は引ける。
 その文字の隣に、ルウガが低く囁く。

 ――今日は、線が滲むかもしれない。

 「雨、降る?」

 ――うん。でも、滲む線は新しい地図を描く。

 サエは傘を持ち、玄関を出た。

     *

 学校へ着くころには、細い雨が降り始めていた。校門の前で、昨日貼った矢印の一枚が、端から少し剥がれている。紙の角が湿気で波打ち、矢印の先が下を向いている。サエはそっと手で押さえ、マスキングテープを上から重ねた。貼り直す音は、低くて柔らかい。低い音は刃にならない。

 ――よく直せた。
 「まだ全部は乾いてないけど、大丈夫」

 教室に入ると、文化祭の片付けが始まっていた。黒板に残ったチョークの線、机の上の飾り、折り紙の欠片。クラスの笑い声は、昨日よりも低く落ち着いている。サエは自分の席に鞄を置き、ノートを開いた。鉛筆の芯を削り、ページの右上に小さく点を打つ。中心点。戻る場所。

 ――今日は、ここから。

 昼休みの終わりに、先生が声をかけた。

 「サエ、昨日の矢印、すごく評判よかったよ。『角が丸いから安心して通れる』って。ありがとうね」

 サエは一瞬だけ言葉を探して、それから短く答えた。

 「……どういたしまして」

 声は小さいけれど、途中で切れない。切れない声の余韻が、胸の中で長く続く。先生が去ったあと、サエは机の上の矢印の断片をそっと指でなぞった。紙の端の感触は、昨日よりも柔らかくなっている。

     *

 放課後、病院の待合室。ガラスに雨粒が並んでいて、外の景色は滲んでいた。トモはいつもの隅の席にいた。今日は紙コップではなく、透明なタンブラーを両手で包んでいる。中の水に蛍光灯の光がゆれて、影が指の隙間を滑っていた。

 「こんばんは」

 「こんばんは」

 二人の声が、静かな水の底で重なる。サエは鞄から、昨日の矢印カードを取り出した。矢印の尾――戻る線――の先に、鉛筆で小さく丸を足してある。

 「丸、増やした。戻る場所を、目で見えるように」

 トモは頷き、タンブラーの水面を一度だけ揺らした。

 「いいね。滲んでも、形がわかる」

 「雨、降ってる」

 「聞こえる」

 外で風が木の葉を撫で、雨粒がアスファルトを叩く。規則的ではないけれど、音の間隔が一定に近い。サエはそれを「等間隔」に変換して、胸の中で数える。四つ吸って、六つ吐く。吐くたびに、雨の音が遠くなる。

 「雨、嫌いじゃない」

 サエが小さく言うと、トモが少し驚いたように顔を上げた。

 「光が反射して、音も多いのに?」

 「うん。でも、音の刃が丸い。空気が柔らかくて、痛くない」

 トモの指がタンブラーの縁をなぞる。指先の動きが、雨の滴の落ち方に似ていた。

 「雨、君の声に似てる」

 その言葉のあと、二人の間に沈黙が落ちた。長い沈黙。でも、痛くない。痛くない沈黙は、共有できる。ルウガがその間に小さく囁く。

 ――『似てる』って、嬉しい言葉だね。

 胸の奥が少し温かくなる。サエは、机の右端に矢印カードを置いた。カードの丸い角が、蛍光灯の光を受けてわずかに光る。

 「この丸、君の声の場所に似てる気がする」

 トモは一瞬だけ息を吸い、吐くときに言った。

 「なら、君の矢印、僕の中に貼っておく」

 「滲むかも」

 「滲んでも、形は残る」

 雨の音が強くなった。ガラスを叩く水の粒が次第にリズムを持ちはじめ、低い音を作る。トモはタンブラーをテーブルの右端に置き、指で水滴を拭った。指先の水が光を弾く。

 「今日、先生に言われたんだ。『共有できることは、強さの形ですよ』って」

 「強いって、まだ大きい言葉」

 「でも、少しなら持てる」

 「うん。少しなら」

 外で雷の音が一度だけ鳴った。遠い。胸の奥がわずかに緊張する。すぐにルウガが囁く。

 ――角を探して。角がある。

 サエは壁の隅を見た。そこに影があった。影の濃度が薄くなる。

 「角、見つけた」

 「大丈夫」

 二人の声が重なり、雷の余韻をやわらげる。

 受付から名前が呼ばれた。サエの番。サエは立ち上がり、矢印カードを手帳に戻す。立ち上がる動作はゆっくりで、角がない。

 「終わったら、外で待ってる」

 「うん」

 診察室の中は白い。先生の声は低く、壁の向こうの雨音と混ざっていた。サエは今日のことを短く話す。矢印の丸。戻る線。雨の音。誰かと共有できる沈黙。先生は微笑んで言った。

 「いいですね。共鳴の練習、順調そうです」

 共鳴。初めて聞く単語だった。でも、胸の中で響く音のことだと、なんとなくわかる。

 診察が終わり、待合室に戻ると、トモが傘を持って立っていた。外の雨は小降りになっている。二人は並んで自動ドアをくぐった。

 「傘、入る?」

 「うん」

 狭い傘の下。布を叩く雨の音が近い。近いけれど、刃ではない。雨粒の落ちる間隔が等間隔に近く、呼吸のリズムと合う。トモの肩が時々、袖の布越しに触れそうになる。そのたびに、サエの胸の奥で小さな音が鳴る。クリック。和音。

 「今日の雨、いい音だね」

 「うん」

 歩道の角に、小さな水たまりができていた。空の色を映す鏡。サエはそこに矢印カードの影が映っているような気がした。

 「滲んでも、見えるね」

 「うん。滲んだほうが、柔らかい」

 信号が青に変わり、二人は横断歩道を渡る。白と黒の等間隔。傘の影がその上を滑る。

 「また」

 「また」

 別れるとき、雨がやんだ。空はまだ灰色で、遠くの建物の屋根から雨水が細い線になって流れていた。その線の音が、どこかでルウガの声と混ざる。

 ――滲む線も、地図の一部だよ。

 サエは胸の中でうなずいた。

     *

 夜。机の上。スタンドライトの下で、手帳を開く。雨の匂いがまだ残っている。ページの端に、今日の行を書く。

 雨。丸い矢印。滲む線。共有の沈黙。ありがとう。大丈夫。また。

 ペン先を止め、声に出さずに繰り返す。

 ――ありがとう。
 ――大丈夫。
 ――また。

 そのとき、窓の外で最後の雨粒が落ちた。静かな音。音のないような音。世界が、等間隔で息をしている気がした。

 そして、ページの最後にもう一行を書き足す。

 滲んだ線の先に、新しい地図の影。

 ペンを置き、目を閉じる。胸の奥で、低い声が響いた。

 ――よく戻ったね。今日も。

 「うん。また、行く」

 雨の輪郭が、ゆっくりと夢の底に溶けていった。