日曜の朝、窓の外は白に近い曇りだった。サエはカーテンを指一本ぶんだけ開け、外気の冷たさで喉の奥の蛇口をゆっくり閉める。洗面台で水を口に含み、首元のタグが当たらない角度に襟を直す。鞄の中身を確認する。片耳用の耳栓、薄い布張りのメモ帳、紙やすりで角を落とした小さな矢印カード、鉛筆。矢印の途中には、薄い印。終わりの線。印の片側には、昨日トモが足してくれた矢印の尾。戻る矢印。
――等間隔から始めよう。四つ吸って、六つ吐く。
ルウガの声はいつも通り低い。サエはうなずき、玄関で靴紐を結ぶ。文化祭の朝は、街も少し落ち着かない匂いがする。遠くで太鼓の練習の音。低い連打。低い音は、味方だ。
学校の正門は、いつもより色が多かった。模造紙の看板、クラスTシャツ、屋台ののぼり。風は弱いのに、紙はぱたぱたと鳴る。鳴るたび、昔の合図の音が一瞬だけ顔を出す。顔を出す前に、サエは視線を校舎の角へ置いた。角はそこにある。角があるという事実が、胸の内側の空洞を少し埋める。
トモは約束の時間に正門の脇に立っていた。紺のパーカーのフードは下ろしたまま、鞄は軽い。目は合わせない。合わせない代わりに、低い声で短く置く。
「おはよう」
「おはよう」
サエは片耳に耳栓を入れる。右だけ。材が膨らんで、ぴたりと収まるまで待つ。外の音が一段下がり、低い声だけがよく届く世界になる。トモは胸ポケットから折りたたんだ紙を出した。簡単な地図。矢印が等間隔で引かれている。混雑する廊下、空きやすい階段、影のある踊り場、保健室の位置、図書室の角。紙の端には小さく、言葉が三つ。
ありがとう。大丈夫。また。
「地図、作った。迷ったら、ここに戻る」
トモは踊り場の小さな四角に、丸を描いて見せた。丸は角がない。角がない印は、刺さらない。サエはうなずき、胸の中で短く言う。
――戻れる。
校内放送の試験音が体育館から漏れている。高い音が一瞬だけ鉄の棒で叩かれたみたいに鋭い。サエの肩が少し跳ねる。跳ねる前に、トモが低く言う。
「まず、掲示の矢印を置こう。人が動く前に」
矢印係の腕章をしていると、廊下で目が合いそうになる回数が増える。サエは視線を二十センチ上に固定し、矢印の先の位置を正確に測る。階段手前の壁。曲がり角。突き当たり。紙やすりで角を丸くした矢印を、マスキングテープで留める。テープを剥がす音は低く、等間隔。安定の音が続くあいだ、胸の蛇口は閉まっている。
「角、いいね」
トモが言う。矢印の先は、ほんの少し柔らかい。通る人の手が当たっても、切れないように。サエはもう一枚を差し出さない距離で見せる。トモは受け取らず、同じ形の矢印を自分でも作って壁に貼った。二人の矢印の先は、ぴたりと揃っている。等間隔が揃うと、足が前に出る。
開場と同時に、人の流れが増えた。子どもの笑い声、屋台の呼び込み、マイクテスト。音の層が厚くなっていく。厚さが刃に変わる前に、二人は地図に印をつけた踊り場へ移動する。階段の角、壁の影。影は浅いけれど、形がある。形があるだけで、刃の角度は鈍る。
「大丈夫」
トモの声が落ちる。落ちた音は床で止まる。サエは鼻から四つ吸い、六つで吐く。吐くあいだ、耳栓のない側の耳で、屋台の油のはぜる音を聞いた。低い音だ。低い音は、味方。味方の上なら、戻れる。
矢印を追加するために、体育館の入口へ向かう。扉の前は人が多い。ちょうど吹奏楽の演奏が終わり、次の演目の準備でスタッフが走っている。ケーブルが床を這い、スピーカーのハウリングが一瞬だけ鋭く鳴った。刃。耳の膜が薄く震える。サエの視界の端で、光が白く跳ねる。跳ねる前に、トモの紙が目に入る。丸で囲まれた踊り場の印。戻る矢印。
――戻る?
ルウガが問う。サエは小さく首を振った。矢印の束を胸に押し当て、体育館の入口の上の梁を見た。角。そこに視線を置く。置いた間に、呼吸を四つ数える。トモが低い声で言う。
「一枚だけ貼る。貼って、戻ろう」
「うん」
入口の柱の陰に身を寄せ、矢印を一枚、来客の流れに沿う向きで貼る。角を丸めた先が、自然に外へ誘導する。貼り終えるまでに、ハウリングがもう一度鳴った。今度は、少し低く聞こえる。角に視線を置いているからだ。貼って、踊り場へ戻る。戻る間に、サエは心の中でひとつ置く。
ありがとう。
踊り場で、呼吸を揃える。トモは紙コップではなく、学校の自販機で買った水のペットボトルを二本持っていた。一本は自分の膝の上に置き、もう一本は差し出さない距離で傾ける。サエは受け取らない。受け取らない代わりに、ありがとうの形のうなずきを返す。それで十分だ。
昼前、校内放送が流れた。食品購入列の案内と、迷子の呼び出し。迷子の場所は、渡り廊下の端。サエとトモは目を合わせないまま、地図の上の渡り廊下の印を指で示す。足音を等間隔にして、そこへ向かう。
渡り廊下は人通りが途切れがちで、風が通った。端に、幼い男の子と、その横で困った顔をしている中年の男性がいた。祖父だろうか。男の子の頬は濡れていて、肩がまだしゃくしゃくしている。高い息。高い音は刃になりやすい。サエは半歩だけ離れた位置で立ち止まり、視線を床から二十センチ上に置いた。トモが低い声でゆっくりと言う。
「大丈夫。ここ、風がある。少し静か」
男の子はトモを見ない。見ないまま、しゃくり上げの間隔が少し伸びる。トモはペットボトルのキャップを回し、男の子の手が届くより少し遠い位置で傾ける。すぐに差し出さない。祖父らしき男性が気配を理解し、子どもに声をかけてから、ボトルを受け取る。受け渡しは、刃にならない。
「ありがとう」と男性が言った。声は低く、疲れている。サエは胸の中で同じ言葉をひとつ置く。ありがとう。トモは「また、ここで会える」と短く言い、場所の印を指で示す。渡り廊下の端の角。角が目印になる。男の子はボトルの口を少しだけ舐め、しゃくり上げがさらに長くなる。長くなる沈黙は、軽い。軽い沈黙の中で、祖父と子がゆっくり歩き始める。歩幅は揃っていない。揃っていないけれど、同じ方向へ進む。等間隔ではないが、悪くない。
昼のピークが過ぎ、屋台の音が一段下がる。油の匂いが薄くなり、代わりに甘い焼き菓子の匂いが漂う。匂いは刃じゃない。刃じゃないが、濃すぎると疲れる。二人は図書室の近くにある小さな中庭へ移動した。木製のベンチ。背もたれの角は丸く削られている。ここを地図の丸で囲む。丸の中に座り、二人で弁当ではなく、小さなおにぎりをひとつずつ頬張る。海苔の香りが上がり、喉のすべりがよくなる。
「等間隔、維持できてる?」
トモが聞く。サエはうなずき、耳栓を片側だけ抜いてみる。外の音が一段階近づく。近づきすぎないところで止める。止めるのは、練習の結果だ。止めてから、また耳栓を戻す。戻す動作は、角がない。角がない動きのそばは、呼吸が整う。
少し休んでから、矢印の補修に回る。通行量の多い角で、矢印の先が少し剥がれていた。テープを足し、先端を撫でる。撫でると、紙は落ち着く。落ち着いた紙の前を、三人組の生徒が走り抜けた。笑い声が高い。高いけれど、距離がある。距離がある笑いは、刃ではない。
午後、体育館で突発的に舞台照明のテストが始まった。スポットライトの白は鋭い。空気の輪郭が一瞬だけ硬くなる。サエは視線を梁の角に置き、矢印の終わりの線を胸の中でなぞる。終わりの線。戻る矢印。トモが低い声で言う。
「ここまで。戻ろう」
「うん」
二人は踊り場へ戻る。戻る途中、家庭科室の前で、エプロン姿の女子生徒が立ち尽くしていた。手元のトレーの上でプリンがわずかに滑り、今にも落ちそうだ。周囲を人が行き交い、彼女は身動きが取れなくなっている。サエは立ち止まり、トモを見ずに短く言う。
「矢印、一本、ここ」
トモはうなずき、流れを側面へ逃がす矢印を壁に貼る。貼るあいだ、サエは彼女から目線を外しつつ、角を指で示す。彼女は視線を角に乗せ、呼吸が一段整う。トレーの上のプリンは滑るのをやめる。彼女は小さく「ありがとう」と言って、流れの薄い側へ歩いた。歩く背中の肩は、さっきより下がっている。
午後三時、全体の音量が少しだけ上がった。校内放送の告知、ステージの歓声、屋台の終了前の呼び込み。重なる音の層は厚い。厚いけれど、二人の中に列がある。四つ吸って、六つ吐く。角を探す。終わりの線。戻る矢印。ありがとう。大丈夫。また。列があると、足は前に出る。
閉会のアナウンスが流れた。拍手。拍手の音は高いが、短い。短い音が等間隔で続くと、刃にはならない。サエは腕章を外し、矢印の何枚かをそっと剥がす。角が丸い先を、指で一度だけ撫でてから、封筒に戻す。戻す動作に、今日一日の体温が少し移る。移った体温は、紙の中に薄く残る。
人の流れが引いていく。渡り廊下の端で、昼の男の子と祖父がもう一度通りかかった。男の子の頬は乾いている。祖父は会釈をし、サエとトモもそれぞれ小さく頭を下げる。声は出さない。出さない挨拶も、十分だ。
夕方、校門の前。紙の看板は半分ほど外され、模造紙の糊の匂いが薄く漂う。空は白から灰に移り、風は弱い。サエとトモは並んで立ち、校門の角を見た。角はそこにある。角があるという事実だけで、胸の中の錘が一段下りる。
「おつかれ」
「おつかれ」
言葉が往復するあいだ、胸骨の内側で小さなクリックが鳴る。和音。今日、一日に何度も鳴った音。鳴るたびに、刃の形が少し丸くなる。
「どうだった」
トモが低く聞く。サエはゆっくり言葉を選ぶ。
「等間隔が、途切れそうになったところは、何回か。でも、角と、矢印と、地図と、君の声で、戻れた」
「俺も。混雑の肘が一度当たって、扉の内側が鳴りかけたけど、終わりの線を先に作っておいたから、そこで止められた」
サエは片耳の耳栓を外し、指で材の戻る速度を確かめる。戻る速度は遅い。遅いは、壊れにくい。壊れにくい動きのそばで、彼は言った。
「ありがとう」
「ありがとう」
「また」
「また」
校門を背にして歩き出す。白と黒の横断歩道。等間隔。等間隔の上を歩きながら、トモが胸ポケットから小さな丸いキーホルダーを取り出した。透明の樹脂の中に、白い紙が丸く封じられている。紙やすりで角を落とした小さな円。円の中心に、鉛筆で薄く点が打ってある。中心点。戻る場所。
「よかったら。刃じゃない印」
「……もらう」
サエは受け取らず、見せられたまま胸の中で形を覚える。覚えるだけで、十分だ。十分、は完璧の手前で許す合図。合図が刃だった頃を、少しずつ越える。越える方法は、今日、いくつも増えた。
病院の前に着く。待合室の自動ドアが、もう閉まりかけている時間。低い唸りが胸骨の内側に落ちる。二人は足を止め、いつものやり方で声を置いた。
「おつかれ」
「おつかれ」
「また」
「また」
赤く点いた歩行者信号が青に変わる。白と黒の等間隔が足元を流れる。等間隔の上を歩きながら、サエは胸の中で紙を一枚めくる。今日の行を書くための、空白。空白は、音を吸う。吸われた音の残りかすが、薄い温度に変わる。温度が残る夜は、長くても耐えられる。
家に着くと、スタンドライトだけを点ける。黄色い光の下で、手帳を開く。今日の行を書く。
正門の角。体育館の梁。渡り廊下の風。踊り場の丸。紙の矢印の終わりの線と、戻る矢印。迷子のしゃくり上げ。低い声。ありがとう。大丈夫。また。
最後に、小さく一行。
人波の中にも、地図は引ける。
ペン先を置き、耳栓をケースに戻す。戻す音は低い。低い音の上で、ルウガが言う。
――よく戻った。君は戻れる。次も、同じやり方で。
サエはうなずき、喉の奥で三つを並べる。
ありがとう。大丈夫。また。
等間隔で置かれた言葉の間に、眠りが静かに落ちた。
*
同じ夜、トモは自室でスタンドを点け、ノートを開いていた。今日の導線が崩れた地点に印をつけ、次に補修する矢印の位置を書き込む。体育館入口の柱。家庭科室前の流れ。図書室の角。渡り廊下の端。地図の端に、小さな丸をもう一つ足す。丸の真ん中に点。中心点。そこに「また」と薄く記す。
ペン先が止まる。止まった先で、胸の奥の蛇口が自然に閉まる。閉まった向こうで、今日の低い声がいくつも重なって、和音になる。和音は一人では鳴らない。鳴らないはずの音が鳴ったから、今日の世界は真ん中より少し良い。
窓の外で、遠い太鼓が一度だけ鳴った。連打はない。単発の低い音。低い音の上なら、眠れる。眠りの縁で、トモは小さく言う。
「ありがとう」
空白がそれを受け取り、静かにたたむ。等間隔の呼吸が続く。続くものの上で、明日の朝は始まる。等間隔から始めれば、刃は鈍る。角は見える。終わりの線は引ける。戻る矢印は足される。そうやって、二人の地図は少しずつ濃くなる。その濃さが、まだ誰にも見えなくても、十分だ。
――等間隔から始めよう。四つ吸って、六つ吐く。
ルウガの声はいつも通り低い。サエはうなずき、玄関で靴紐を結ぶ。文化祭の朝は、街も少し落ち着かない匂いがする。遠くで太鼓の練習の音。低い連打。低い音は、味方だ。
学校の正門は、いつもより色が多かった。模造紙の看板、クラスTシャツ、屋台ののぼり。風は弱いのに、紙はぱたぱたと鳴る。鳴るたび、昔の合図の音が一瞬だけ顔を出す。顔を出す前に、サエは視線を校舎の角へ置いた。角はそこにある。角があるという事実が、胸の内側の空洞を少し埋める。
トモは約束の時間に正門の脇に立っていた。紺のパーカーのフードは下ろしたまま、鞄は軽い。目は合わせない。合わせない代わりに、低い声で短く置く。
「おはよう」
「おはよう」
サエは片耳に耳栓を入れる。右だけ。材が膨らんで、ぴたりと収まるまで待つ。外の音が一段下がり、低い声だけがよく届く世界になる。トモは胸ポケットから折りたたんだ紙を出した。簡単な地図。矢印が等間隔で引かれている。混雑する廊下、空きやすい階段、影のある踊り場、保健室の位置、図書室の角。紙の端には小さく、言葉が三つ。
ありがとう。大丈夫。また。
「地図、作った。迷ったら、ここに戻る」
トモは踊り場の小さな四角に、丸を描いて見せた。丸は角がない。角がない印は、刺さらない。サエはうなずき、胸の中で短く言う。
――戻れる。
校内放送の試験音が体育館から漏れている。高い音が一瞬だけ鉄の棒で叩かれたみたいに鋭い。サエの肩が少し跳ねる。跳ねる前に、トモが低く言う。
「まず、掲示の矢印を置こう。人が動く前に」
矢印係の腕章をしていると、廊下で目が合いそうになる回数が増える。サエは視線を二十センチ上に固定し、矢印の先の位置を正確に測る。階段手前の壁。曲がり角。突き当たり。紙やすりで角を丸くした矢印を、マスキングテープで留める。テープを剥がす音は低く、等間隔。安定の音が続くあいだ、胸の蛇口は閉まっている。
「角、いいね」
トモが言う。矢印の先は、ほんの少し柔らかい。通る人の手が当たっても、切れないように。サエはもう一枚を差し出さない距離で見せる。トモは受け取らず、同じ形の矢印を自分でも作って壁に貼った。二人の矢印の先は、ぴたりと揃っている。等間隔が揃うと、足が前に出る。
開場と同時に、人の流れが増えた。子どもの笑い声、屋台の呼び込み、マイクテスト。音の層が厚くなっていく。厚さが刃に変わる前に、二人は地図に印をつけた踊り場へ移動する。階段の角、壁の影。影は浅いけれど、形がある。形があるだけで、刃の角度は鈍る。
「大丈夫」
トモの声が落ちる。落ちた音は床で止まる。サエは鼻から四つ吸い、六つで吐く。吐くあいだ、耳栓のない側の耳で、屋台の油のはぜる音を聞いた。低い音だ。低い音は、味方。味方の上なら、戻れる。
矢印を追加するために、体育館の入口へ向かう。扉の前は人が多い。ちょうど吹奏楽の演奏が終わり、次の演目の準備でスタッフが走っている。ケーブルが床を這い、スピーカーのハウリングが一瞬だけ鋭く鳴った。刃。耳の膜が薄く震える。サエの視界の端で、光が白く跳ねる。跳ねる前に、トモの紙が目に入る。丸で囲まれた踊り場の印。戻る矢印。
――戻る?
ルウガが問う。サエは小さく首を振った。矢印の束を胸に押し当て、体育館の入口の上の梁を見た。角。そこに視線を置く。置いた間に、呼吸を四つ数える。トモが低い声で言う。
「一枚だけ貼る。貼って、戻ろう」
「うん」
入口の柱の陰に身を寄せ、矢印を一枚、来客の流れに沿う向きで貼る。角を丸めた先が、自然に外へ誘導する。貼り終えるまでに、ハウリングがもう一度鳴った。今度は、少し低く聞こえる。角に視線を置いているからだ。貼って、踊り場へ戻る。戻る間に、サエは心の中でひとつ置く。
ありがとう。
踊り場で、呼吸を揃える。トモは紙コップではなく、学校の自販機で買った水のペットボトルを二本持っていた。一本は自分の膝の上に置き、もう一本は差し出さない距離で傾ける。サエは受け取らない。受け取らない代わりに、ありがとうの形のうなずきを返す。それで十分だ。
昼前、校内放送が流れた。食品購入列の案内と、迷子の呼び出し。迷子の場所は、渡り廊下の端。サエとトモは目を合わせないまま、地図の上の渡り廊下の印を指で示す。足音を等間隔にして、そこへ向かう。
渡り廊下は人通りが途切れがちで、風が通った。端に、幼い男の子と、その横で困った顔をしている中年の男性がいた。祖父だろうか。男の子の頬は濡れていて、肩がまだしゃくしゃくしている。高い息。高い音は刃になりやすい。サエは半歩だけ離れた位置で立ち止まり、視線を床から二十センチ上に置いた。トモが低い声でゆっくりと言う。
「大丈夫。ここ、風がある。少し静か」
男の子はトモを見ない。見ないまま、しゃくり上げの間隔が少し伸びる。トモはペットボトルのキャップを回し、男の子の手が届くより少し遠い位置で傾ける。すぐに差し出さない。祖父らしき男性が気配を理解し、子どもに声をかけてから、ボトルを受け取る。受け渡しは、刃にならない。
「ありがとう」と男性が言った。声は低く、疲れている。サエは胸の中で同じ言葉をひとつ置く。ありがとう。トモは「また、ここで会える」と短く言い、場所の印を指で示す。渡り廊下の端の角。角が目印になる。男の子はボトルの口を少しだけ舐め、しゃくり上げがさらに長くなる。長くなる沈黙は、軽い。軽い沈黙の中で、祖父と子がゆっくり歩き始める。歩幅は揃っていない。揃っていないけれど、同じ方向へ進む。等間隔ではないが、悪くない。
昼のピークが過ぎ、屋台の音が一段下がる。油の匂いが薄くなり、代わりに甘い焼き菓子の匂いが漂う。匂いは刃じゃない。刃じゃないが、濃すぎると疲れる。二人は図書室の近くにある小さな中庭へ移動した。木製のベンチ。背もたれの角は丸く削られている。ここを地図の丸で囲む。丸の中に座り、二人で弁当ではなく、小さなおにぎりをひとつずつ頬張る。海苔の香りが上がり、喉のすべりがよくなる。
「等間隔、維持できてる?」
トモが聞く。サエはうなずき、耳栓を片側だけ抜いてみる。外の音が一段階近づく。近づきすぎないところで止める。止めるのは、練習の結果だ。止めてから、また耳栓を戻す。戻す動作は、角がない。角がない動きのそばは、呼吸が整う。
少し休んでから、矢印の補修に回る。通行量の多い角で、矢印の先が少し剥がれていた。テープを足し、先端を撫でる。撫でると、紙は落ち着く。落ち着いた紙の前を、三人組の生徒が走り抜けた。笑い声が高い。高いけれど、距離がある。距離がある笑いは、刃ではない。
午後、体育館で突発的に舞台照明のテストが始まった。スポットライトの白は鋭い。空気の輪郭が一瞬だけ硬くなる。サエは視線を梁の角に置き、矢印の終わりの線を胸の中でなぞる。終わりの線。戻る矢印。トモが低い声で言う。
「ここまで。戻ろう」
「うん」
二人は踊り場へ戻る。戻る途中、家庭科室の前で、エプロン姿の女子生徒が立ち尽くしていた。手元のトレーの上でプリンがわずかに滑り、今にも落ちそうだ。周囲を人が行き交い、彼女は身動きが取れなくなっている。サエは立ち止まり、トモを見ずに短く言う。
「矢印、一本、ここ」
トモはうなずき、流れを側面へ逃がす矢印を壁に貼る。貼るあいだ、サエは彼女から目線を外しつつ、角を指で示す。彼女は視線を角に乗せ、呼吸が一段整う。トレーの上のプリンは滑るのをやめる。彼女は小さく「ありがとう」と言って、流れの薄い側へ歩いた。歩く背中の肩は、さっきより下がっている。
午後三時、全体の音量が少しだけ上がった。校内放送の告知、ステージの歓声、屋台の終了前の呼び込み。重なる音の層は厚い。厚いけれど、二人の中に列がある。四つ吸って、六つ吐く。角を探す。終わりの線。戻る矢印。ありがとう。大丈夫。また。列があると、足は前に出る。
閉会のアナウンスが流れた。拍手。拍手の音は高いが、短い。短い音が等間隔で続くと、刃にはならない。サエは腕章を外し、矢印の何枚かをそっと剥がす。角が丸い先を、指で一度だけ撫でてから、封筒に戻す。戻す動作に、今日一日の体温が少し移る。移った体温は、紙の中に薄く残る。
人の流れが引いていく。渡り廊下の端で、昼の男の子と祖父がもう一度通りかかった。男の子の頬は乾いている。祖父は会釈をし、サエとトモもそれぞれ小さく頭を下げる。声は出さない。出さない挨拶も、十分だ。
夕方、校門の前。紙の看板は半分ほど外され、模造紙の糊の匂いが薄く漂う。空は白から灰に移り、風は弱い。サエとトモは並んで立ち、校門の角を見た。角はそこにある。角があるという事実だけで、胸の中の錘が一段下りる。
「おつかれ」
「おつかれ」
言葉が往復するあいだ、胸骨の内側で小さなクリックが鳴る。和音。今日、一日に何度も鳴った音。鳴るたびに、刃の形が少し丸くなる。
「どうだった」
トモが低く聞く。サエはゆっくり言葉を選ぶ。
「等間隔が、途切れそうになったところは、何回か。でも、角と、矢印と、地図と、君の声で、戻れた」
「俺も。混雑の肘が一度当たって、扉の内側が鳴りかけたけど、終わりの線を先に作っておいたから、そこで止められた」
サエは片耳の耳栓を外し、指で材の戻る速度を確かめる。戻る速度は遅い。遅いは、壊れにくい。壊れにくい動きのそばで、彼は言った。
「ありがとう」
「ありがとう」
「また」
「また」
校門を背にして歩き出す。白と黒の横断歩道。等間隔。等間隔の上を歩きながら、トモが胸ポケットから小さな丸いキーホルダーを取り出した。透明の樹脂の中に、白い紙が丸く封じられている。紙やすりで角を落とした小さな円。円の中心に、鉛筆で薄く点が打ってある。中心点。戻る場所。
「よかったら。刃じゃない印」
「……もらう」
サエは受け取らず、見せられたまま胸の中で形を覚える。覚えるだけで、十分だ。十分、は完璧の手前で許す合図。合図が刃だった頃を、少しずつ越える。越える方法は、今日、いくつも増えた。
病院の前に着く。待合室の自動ドアが、もう閉まりかけている時間。低い唸りが胸骨の内側に落ちる。二人は足を止め、いつものやり方で声を置いた。
「おつかれ」
「おつかれ」
「また」
「また」
赤く点いた歩行者信号が青に変わる。白と黒の等間隔が足元を流れる。等間隔の上を歩きながら、サエは胸の中で紙を一枚めくる。今日の行を書くための、空白。空白は、音を吸う。吸われた音の残りかすが、薄い温度に変わる。温度が残る夜は、長くても耐えられる。
家に着くと、スタンドライトだけを点ける。黄色い光の下で、手帳を開く。今日の行を書く。
正門の角。体育館の梁。渡り廊下の風。踊り場の丸。紙の矢印の終わりの線と、戻る矢印。迷子のしゃくり上げ。低い声。ありがとう。大丈夫。また。
最後に、小さく一行。
人波の中にも、地図は引ける。
ペン先を置き、耳栓をケースに戻す。戻す音は低い。低い音の上で、ルウガが言う。
――よく戻った。君は戻れる。次も、同じやり方で。
サエはうなずき、喉の奥で三つを並べる。
ありがとう。大丈夫。また。
等間隔で置かれた言葉の間に、眠りが静かに落ちた。
*
同じ夜、トモは自室でスタンドを点け、ノートを開いていた。今日の導線が崩れた地点に印をつけ、次に補修する矢印の位置を書き込む。体育館入口の柱。家庭科室前の流れ。図書室の角。渡り廊下の端。地図の端に、小さな丸をもう一つ足す。丸の真ん中に点。中心点。そこに「また」と薄く記す。
ペン先が止まる。止まった先で、胸の奥の蛇口が自然に閉まる。閉まった向こうで、今日の低い声がいくつも重なって、和音になる。和音は一人では鳴らない。鳴らないはずの音が鳴ったから、今日の世界は真ん中より少し良い。
窓の外で、遠い太鼓が一度だけ鳴った。連打はない。単発の低い音。低い音の上なら、眠れる。眠りの縁で、トモは小さく言う。
「ありがとう」
空白がそれを受け取り、静かにたたむ。等間隔の呼吸が続く。続くものの上で、明日の朝は始まる。等間隔から始めれば、刃は鈍る。角は見える。終わりの線は引ける。戻る矢印は足される。そうやって、二人の地図は少しずつ濃くなる。その濃さが、まだ誰にも見えなくても、十分だ。



