声の向こうで、君を見ていた

 朝、空は薄い白をかぶっていた。雲が分厚い日は、街の音が一段下がる。サエは窓を指一本ぶんだけ開け、外気の冷たさで喉の奥の蛇口をゆっくり閉めた。制服のタグが首に触れない位置を確かめ、袖口の縫い目を一度なぞる。なぞると、今日が始まったという線が胸の中に引ける。

 ――今日も、等間隔から始めよう。

 ルウガが言う。サエはうなずいて、階段を下りた。

 学校は文化祭前のざわつきに満ちていた。掲示物の紙が廊下でぱたぱた鳴り、誰かの笑い声が天井で跳ね返ってくる。教室の隅、黒板に貼られた係分担表の前で、紙の角が光った。角。目印。サエは視線をそこへ置く。置いた間に、担任が声を張った。

 「ステージ照明の調整は三年の担当だけど、二年も手伝いが必要だ。志望、いるか?」

 照明。蛍光に近い光。強い。胸の内側が一瞬だけ硬くなる。硬くなる前に、ルウガが肩の裏側を軽く叩く。

 ――「無理なら無理」って、言っていい。

 「……無理です」

 口に出した声は小さかったが、最後まで切れなかった。担任は「了解」とだけ言い、他の役割を示した。掲示板の整頓、道案内の矢印の作成。矢印。角のある形。でも、紙でできた角は刃じゃない。サエはその仕事に手を上げた。

 放課後、道案内の矢印を切る作業は静かだった。カッターが紙を渡る音は低く、等間隔。矢印の先に赤いマーカーで線を足す。線の先は、行き先を教える。行き先が見えると、胸の奥の空洞が少し埋まる。隣の机で同じ作業をしているクラスメイトが、出来上がった矢印を並べて笑った。

 「サエの矢印、角が丸いな」

 丸い。そう言われて、サエは自分の手元を見た。矢印の先っぽは、ほんの少しだけ、紙やすりで擦って尖りを落としてある。通る人が手を切らないように。言い訳を探すより先に、胸の中の誰かがうなずいた。

 ――君のやり方でいい。

 矢印を束ね、教室の後方に置く。束ねた紙の匂いは薄くて、喉に刺さらない。サエは、出来上がった矢印の一本を見つめた。赤い先端の少し手前に、鉛筆で薄く印をつける。印は終わりの線。ここまで来たら、止まっていい、という合図。昔は終わりが見えなかった。見えない夜は長すぎた。今は、自分で作れる。

 病院へ向かう歩道は、雲の縁から差した光で薄く明るかった。自動ドアの低い唸りはいつも通りで、受付の人の目の挨拶も同じ高さに落ちてくる。隅の席に、トモがいた。紙コップを二つ持ち、片方を机の右端に、慎重にそっと置く。置いた位置は、ぴたりと端に揃っている。終わりの合図。もう片方は自分の膝の上に保留して、指で縁を一度だけなぞった。

 「こんばんは」

 サエはまぶたを一度閉じ、ひらく。角度を決めてから声を出す。

 「こんばんは」

 今日の待合室は、少しだけ明るい。窓際のスタンドライトの黄が、蛍光の白をやわらげている。光の交差点から半歩離れた、柱の影を二人で選ぶ。座る前に、トモが手元の紙コップをそっと傾け、机の右端のコップの位置を示した。

 「練習、しよう」

 「うん」

 サエは鞄から小さな封筒を取り出した。封筒の角は、やはり丸く落としてある。中から薄い紙を一枚。マスキングテープで作った小さな矢印が貼ってある。矢印の途中には、鉛筆の薄い印。終わりの線。

 「これ、文化祭の矢印の余りで作った。……君の『終わりの合図』、目に見えると、便利かなと思って」

 トモは視線を合わせない。合わせないまま、うなずきの角度だけで、受け取りの合図を作る。手を伸ばす速度はゆっくりで、矢印の紙が指先に触れる一歩前で止まり、サエがもう一歩差し出す。空気が擦れる音すら立たない距離で、交換は終わった。

 「ありがとう。助かる」

 トモの声は低く、底が深い。言い切りの形だけれど、命令の気配はない。受け取った矢印を、彼は紙コップの脇に並べた。並べた位置が、終わりの線の見本になる。見本があると、練習は早い。

 「こっちは、『角を探す』の印」

 サエはメモ帳から小さな付箋を破り、角を折って、三角の影みたいな形にする。折り目が光を鈍らせる。折り目を、トモの紙コップの裏の端にそっと忍ばせる。忍ばせる手つきは、見ている人がいなければ気づかれないくらいの軽さだ。トモが指でそこを確認する。指先の動きは、合図を覚える人の動きだ。

 薄い沈黙が、柱の影に丸く座る。座った沈黙の上を、待合室の天井のパネルが一度だけパチンと鳴った。蛍光の明滅。音は小さいが、刃の気配は持っている。サエは視線を紙の矢印の終わりの線に落とし、鼻から四つ吸って、六つで吐く。吐く間に、トモの低い声が落ちる。

 「大丈夫。いま、角はここ。矢印の途中の印。戻れる」

 「うん」

 返事は短い。短いのに、胸の奥の蛇口は閉じたままだ。閉じたままでいられるのは、終わりの線が見えているからだ。線の手前で止まっていい、と体が覚える。

 受付の奥で、看護師が台車を押した。金属の脚が床をかすめ、細い音が出る。細い音は刃になりやすいが、今日は角が丸い。丸く聞こえるのは、視線が角に固定されているからだ。トモが紙コップを右端にいったん置き、また手元に戻す。置く、戻す。その運動が、終わりと始まりの練習になる。置いて終わり。持ち上げて、始まり。始まりの合図が見えると、終わりに怯えなくていい。

 「ねえ、今日、少し歩ける?」

 トモが言った。声は低く、角がない。

 「病院の、すぐ隣のドラッグストア。照明が眩しいかもしれないから無理ならやめる。耳栓を、一緒に選べたらと思って」

 サエの肩が一瞬、硬くなる。硬くなる前に、ルウガが短く言う。

 ――「無理なら無理」って言えるよ。

 「……行く。無理なら、戻る。終わりの線を作ってから」

 トモが小さくうなずく。二人はほぼ同時に、紙コップを机の右端に寄せた。終わりの線。戻る先。用意ができたら、立ち上がる。

 外の空はまだ白く、風は弱い。自動ドアを出て、隣の店舗の自動ドアに入る。店内の天井は白いLEDが等間隔に並び、蛍光よりも鋭い。鋭い光は刃の形だ。サエは視線を床から二十センチ上に置き、通路の角を探す。角は、棚の終わりと柱の始まりの境目にあった。そこに視線を引っかける。引っかけた視線の上を、トモの声が低く滑る。

 「ゆっくり。必要なら、ここで終わりにする」

 「大丈夫。角、ある」

 耳栓の棚は意外と高い位置にあった。カラフルなパッケージが等間隔に並び、柔らかさやサイズや目的が書いてある。騒音用、睡眠用、学習用。サエは書字の密度に酔わないよう、ひとつの単語だけ拾う。やわらかい、低反発。指で素材のサンプルを押す。じわっと戻る。戻る速度は遅い。遅いは、壊れにくい。

 トモが別のパッケージを指で示す。視線は棚の角に置いたまま、サエは声だけで返す。

 「それも、まし。色が薄いのが、いい」

 「じゃあ、二種類、とって、外で選ぼうか」

 「うん」

 レジの音は高かった。高い音に、胸の蛇口が少しだけ動く。動く前に、サエはポケットの付箋を握る。角を折った三角の影。影の触覚に、音の刃の角が鈍る。支払いを終え、外に出る。光は自然光に戻り、風の温度は一定だ。

 病院の敷地の隅に、小さなベンチがある。木の背もたれは角が丸く、塗装が少し剥げている。二人は少し離れて座った。トモが袋から耳栓を出し、サエへ差し出さない距離で傾ける。

 「試してみる?」

 「うん」

 サエは片方だけ耳に入れる。入れる動作はゆっくり。耳の形を確認しながら、材が膨らんでぴたりと収まるのを待つ。外の音が一段下がる。下がった世界は、いつもより平らだ。平らな世界で、サエは声を作った。

 「……低い声が、よく分かる」

 トモが笑う。笑いは声にならない。ならないまま、胸の内側の壁に薄い線で残る。線は、消えにくい。サエはもう一つの耳栓を反対の耳に入れようとして、動きを止めた。

 ――両耳を塞ぐのは、今日はやめておく?

 ルウガの提案に、サエはうなずく。片側だけの静けさが、外界と内側の間に薄い膜を作る。膜があると、刃の角度がいきなり変わらない。いきなり、は危ない。危ないものは、少しずつならしていく。

 ベンチの前の植え込みで、小さな葉が揺れた。揺れる音は低い。低い音の上で、トモが紙の矢印を取り出す。終わりの線の印に、ボールペンで小さく矢印の尾を足した。尾は、逆向きの矢印になった。

 「戻る矢印、つけた。行き止まりじゃないよ、って」

 サエはそれを見て、胸の真ん中がゆっくり温まるのを感じた。終わりは終わりで、始まりでもある。矢印の尾は、行き先のもう一方の名前だ。サエはメモ帳を取り出し、短く書く。終わりの線に、始まりの矢印。

 病院に戻ると、待合室は少し混んでいた。幼い子の声が跳ね、高い音が天井で散る。散った音が刃の形を作る前に、二人は柱の影を探した。影は深くないが、形がある。形があるという事実は、刃の角度を鈍らせる。サエは耳栓を片耳に入れ直し、視線を角に置く。トモは紙コップを右端に置いて、終わりの線をつくる。二つの合図が隣り合って並ぶ。合図は、触れないままで交換できる。

 そのとき、天井が小さく唸った。明かりが一瞬だけふっと消え、非常灯が遅れて点く。停電。小さな電子音が複数、異なる高さで鳴り始めた。電子音は刃だ。高く、細く、等間隔を踏み外す。サエの肩が跳ねる。跳ねる前に、トモの低い声が落ちた。

 「ここにいる。いまは影の中。大丈夫」

 ルウガがすぐ重ねる。

 ――視線は角。鼻から四つ、吐くとき六つ。言葉を置こう。

 「ありがとう」

 サエが言う。声は小さいのに、途中で切れない。切れない声が胸の窪みに落ちる。次に、トモが言う。

 「大丈夫」

 電子音は止まらない。止まらないけれど、二つの単語の間隔のほうが強い。最後に、サエが言う。

 「また」

 和音になった。和音の上に、電子音が乗る。乗った音は、刃の角度が鈍っていく。非常灯の黄は柔らかく、影の輪郭を浅くする。浅い影の中で、誰かの杖が床を小さく叩いた。音は高いが、すぐに消える。

 職員が何か確認している気配がして、数分で蛍光灯が戻った。音も光も、いつもの配列に戻る。戻った世界で、サエの背中の筋肉が一段ほどけた。ほどけるのは危険だが、今日はほどけ方が上手だった。ほどけ終わる前に、受付からサエの名前が呼ばれる。

 立ち上がる直前、袖の布がふっと触れた。トモのじゃない。通りかかった誰かの袖。布越しでも、身体の内側が反射で硬くなる。硬くなるのを自分で見つけ、サエは机の右端の紙コップを見る。終わりの線。そこへ視線を置く。置いた間に、蛇口が閉まる。閉まった静けさの上で、サエは言う。

 「おつかれは、帰りに言う」

 「うん。ここで待ってる」

 診察室の白は変わらない。先生はいつもの角のない言葉で、停電時の対処の練習ができたね、と言った。練習。練習は裏切らない。サエは短くうなずいた。

 戻ると、トモが立ち上がる準備をしていた。鞄の紐の位置を直し、紙の矢印を胸ポケットへしまう。しまう動作の角が丸い。丸い動作は、見ている側の呼吸を整える。

 「おつかれ」

 「おつかれ」

 声が往復し、胸骨の内側でクリックが鳴る。いつもの和音。自動ドアをくぐって外へ出ると、雲の切れ間からわずかな光が落ちていた。交差点の信号の前で、トモがポケットから小さな包装を取り出す。淡いベージュ色。耳栓。さっき買ったもの。

 「予備、渡しておく。無理なら持たないでいい」

 「持つ。片耳だけ。終わりの線まで」

 「わかった」

 二人は青信号を待つ。そのとき、紫の制服の自転車が二人の横を少し速くかすめ、ハンドルのベルが高く鳴った。刃。サエは息を一瞬止めかけて、すぐに数える。四つ吸って、六つ吐く。角に視線。終わりの線。矢印の尾。戻る。

 「大丈夫」

 トモが小さく言い、サエがうなずく。うなずきは浅い。しかし確かだ。青に変わり、白と黒の等間隔が足元を流れる。等間隔の上は歩ける。

 バス停の屋根の下で、二人は傘をたたむ。今日は降っていないから、布は乾いている。乾いた布が空気を切る音は低い。低い音の上で、トモが小さく笑った。

 「矢印、ありがとう。戻る尾、いいね」

 「君が足した」

 「一緒に、でいい」

 「一緒に」

 サエは胸の中で単語を並べる。ありがとう。大丈夫。また。終わりの線。始まりの矢印。一緒に。全部をいっぺんに持たなくていい。等間隔で、順番に、置いていけばいい。

 バスが来て、トモが乗る。扉が閉まる前、彼は顔を上げずに、いつもの短い言葉を置いた。

 「また」

 「また」

 赤いテールランプが遠ざかる。サエはベンチに短く座り、メモ帳を開く。今日の行を書く。文化祭の矢印。角を丸める。終わりの線に矢印の尾。停電。三つの単語。ありがとう。大丈夫。また。最後に小さく書き足す。

 始まりは、終わりのすぐ隣に置ける。

 家に帰ると、部屋の灯りを落とし、スタンドだけを点けた。黄色い光が、机の上で紙の矢印をやわらかく照らす。サエはその矢印を手帳の最後のページに貼った。貼る前に、角をもう一度、紙やすりで丸める。丸まった角を指でなぞる。なぞるたびに、胸の真ん中で何かが落ち着く。落ち着いたところで、喉の奥で小さくいう。

 「ありがとう」

 ――どういたしまして。君が作ったんだよ。

 「大丈夫」

 ――うん、いまは。

 「また」

 ――また。君の速度で、君の音で。

 目を閉じる。薄い闇の中で、矢印の赤い先端が、目には見えないのに確かにこちらを向いている気がした。向いている、という感覚だけで、明日の朝、等間隔から始める勇気は足りる。足りる、は十分の別名だ。十分、と胸の中で小さく言って、サエは眠りに落ちた。

     *

 木曜日。時間割の並びが悪い日。三限と四限の間、廊下に人が溢れる。サエは早めに教室を出て、角の影を確保した。影の中で数える。四つ吸って、六つ吐く。矢印の尾を指先で思い出す。段差を避け、肘を閉じ、視線を二十センチの高さに固定。ぶつからない。ぶつからない。ぶつからない。繰り返すうちに、波が引いた。引いた後に残る砂の模様は細かい。細かい模様を見てから、教室に戻る。

 放課後、病院。隅の席。柱の影。トモはいて、紙コップを右端に置いて待っていた。待っている姿勢は、急がない。急がない姿勢のそばは、刃が出ない。

 「こんばんは」

 「こんばんは」

 今日の待合室は驚くほど静かだった。静か、は音がゼロという意味ではない。音の角が落ちて、丸く転がっている状態だ。丸い音は、しばらくそばに置いておける。サエは低い声で、胸の内側から外へ渡すべき言葉をひとつ選んだ。

 「……日曜、文化祭。本番。午前なら、来られる?」

 トモが一瞬だけ息を整え、うなずく。うなずきは浅く、確か。

 「行ける。混むなら、途中まででも」

 「うん。途中で終わりの線を引けるように、矢印の尾を増やしておく」

 「じゃあ、僕は角を探す。地図、作っておく」

 「ありがとう」

 「ありがとう」

 言葉が往復し、胸の内側でクリックが鳴る。和音は、もう怖くない。怖くない合図で世界を作る練習を、二人は続けている。続けられるのは、等間隔があるからだ。等間隔からずれても戻る矢印があり、刃が出ても角があり、終わりの線があれば始まりの線も引ける。練習は裏切らない。裏切らない柱が一本でも立っていれば、目の前の夜は、真ん中より少し良い。

 受付の時計が分を一つ進めた。その合図で、二人はほぼ同時に息を吐く。吐いた息の温度が、見えない場所で重なる。重なった温度の上に、薄い印がひとつ増えた。印は目に見えないが、確かにそこにある。こんなふうに印が増えていけば、文化祭の人混みの中でも、待合室の停電の最中でも、きっと、同じやり方で戻って来られる。

 「また」

 「また」

 二人の声が、待合室の白い壁に丸く当たって、静かに消えた。消えたあとに残ったのは、等間隔の鼓動だけ。それだけで、今夜の世界は十分だった。