朝、耳の奥で薄く鳴っているのは、目覚ましではなく、昨日の雨の名残だった。寝返りを打つと、シーツの皺が頬に触れる。触れ方は柔らかい。柔らかい触れ方は、目覚め方を決める。ゆっくり起き上がって、窓を細く開ける。外は曇りで、風は弱い。鳥の声が低い音階で続いている。続く音は、喉の奥の蛇口を慌てて閉めなくていい。
水を飲み、制服に袖を通す。生地の縫い目の位置を指で確かめて、首元のタグが皮膚に触れない角度に直す。この儀式がうまくいった日は、午前中の音が少ない。玄関で靴紐を結ぶとき、ふと胸の奥でルウガが笑った。
――今日、話すんだよね。君の真ん中のこと。
「うん」
声に出さず、喉の奥で答える。朝は声を温める時間が必要だ。声の温度を上げすぎると、すぐ刃の形に変わってしまう。変わらない温度を探しながら、学校へ向かう。
登校の道は、いつもより静かだった。雲が厚い日は、街全体が一段音量を下げる。角を曲がると、校門の前で先生が立っている。うなずきの角度だけで挨拶を返し、教室へ。席に鞄を置いた瞬間、蛍光灯が一度だけ瞬いた。薄い明滅。薄いから、耐えられる。大丈夫だと胸の内で言い、板書を写す。今日のチョークは乾いていて、黒板の音は細い線で割れない。割れない線の上なら、文字を重ねられる。
昼休み、窓際の席で弁当を広げる。海苔の匂いが上がり、隣の席のクラスメイトが箸を伸ばして笑う。笑い声は高かったけれど、距離が十分だった。距離がある笑いは刃にならない。箸を持つ手が震えないのを確認して、ゆっくり口に運ぶ。食べ終えて水を飲むと、喉のすべりが良くなった。良くなった喉で、胸の奥に向かってもう一度言う。
「今日、話す」
――うん。話そう。君の速度で、君の音で。
放課後。空の明るさは薄い灰で、風の匂いは湿っていた。僕は通い慣れた角を曲がり、病院の自動ドアの前に立つ。深く吸って、ゆっくり吐く。ドアが開く音は低く、胸骨の内側のくぼみに落ちる。受付の人と目で挨拶を交わし、いつもの隅の席を見る。トモがもう座っていた。紙コップを両手で持ち、親指で縁をなぞっている。なぞり方は昨日よりゆっくりで、角が丸い。丸い動作のそばは、呼吸が整う。
「こんばんは」
声は小さく、途中で切れない。切れない声を、自分の胸で一度受け止めてから、トモの低い声が返ってくる。
「こんばんは」
席を移すか、光を避けるか、目の端で配列を測りながら、僕は膝の上で指を組んだ。今日は話す。話せる範囲で。喉の奥でルウガが頷くのを感じて、僕はメモ帳を取り出す。表紙は布で、角は丸い。丸いものは、刃にならない。
「今日、少し、話してもいい」
トモは頷いた。頷きは一度で、角度は深すぎない。深すぎない頷きは、落ちすぎない返事の形だ。
「無理なら、止めてって言って」
「分かった。無理なら、無理って言う」
約束の形を確認してから、僕は語を選ぶ。言葉は短く、途中で切れない長さで。
「ルウガは、僕の中にいる、もうひとり。僕が音の中で迷子になる前に、地図を出してくれる。呼吸の数え方とか、視線の置き方とか、影の探し方とか。君に低い声で『大丈夫』って言われたとき、最初にその声を掴んでくれたのも、ルウガ」
トモの目は合わない。合わないけれど、耳の向きがこちらへ寄る。寄った耳の先で、紙コップの縁が一度だけ震え、すぐに止まる。止まるのが上手い人の動きだ。
「ずっと、聞こえてたの」
「いつから、と聞かれると困るけど、昔から。朝、光が強い日は、僕の代わりにカーテンの隙間を調整してくれるし、廊下が混む時間には、保健室の位置までの影の線を頭の中に引いてくれる。怖い音が突然来たときは、呼吸の列を前に出す。背中を押す、じゃなくて、隣で同じ速度で歩いてくれる感じ」
――うん。隣で、たまに先に段差を教えるくらい。
「声は、君だけに聞こえる?」
「うん。僕の内側の音だから。だから、外の人には話さなかった。話すのは、怖かった。変に見えることがあるから。でも、君の『大丈夫』を聞いたとき、ルウガが言ったんだ。『その人、君の声を聞こうとしてる』って」
トモの肩が、わずかに力を抜く。力の抜け方に、練習の跡がある。練習は裏切らない。裏切らないもののそばなら、話せる。
「ありがとう。教えてくれて」
「ううん。聞いてくれて、ありがとう」
薄い沈黙を置く。置いた沈黙の上で、待合室の奥で椅子が一脚、静かに軋む。軋みの音は低く、痛くない。トモが、紙コップを机の右端に置いた。終わりの合図だとわかる。合図を自分で作れる人のそばは、刃が少ない。
「僕のほうからも、聞いていい?」
「うん」
「ルウガと君は、どっちが話すか、どうやって決めてる」
「場面で自然に。ルウガは、僕の代わりに何かを決めたり、操ったりはしない。僕が見えていない段差を先に教えてくれるだけ。たとえば、今みたいに話すのは僕。ルウガは、言葉の角が立ちそうになったら、角度を変えるように肩を叩く。叩く、と言っても触れはしない。温度で教えてくれる。僕が、昔、音で切られすぎて、言葉の刃のほうに寄りがちだから」
――角を丸くすると、同じ意味で届くよ、と時々言う。
「角を丸くする方法、少し僕にも教えてくれる?」
「いいよ。ルウガ」
――うん。たとえば、『無理なら無理って言って』は、命令ではなく、選択肢の提示。『大丈夫』は言い切りだけど、声の底を深くして、相手の呼吸の速度に合わせる。『ありがとう』は、先に置く。刃が出そうな場面を鈍らせるから。
僕は、ルウガの言葉を受け取りながら、トモに短く訳す。トモは頷きを重ね、呼吸の長さをわずかに調整する。調整の仕方が、僕の知っている列と似ている。似ているから、胸の奥の重りが一段下りる。
その時、待合室の天井で、小さくパチンと音がした。蛍光灯が一度だけ瞬く。光が刃にならないよう、僕は視線を床から二十センチ上に固定する。トモの低い声が、すぐ届く。
「問題ない。等間隔じゃないけど、今は、一度だけ」
「うん」
返事は短く、声の温度は一定だ。一定が続くと、胸の内側の壁が崩れない。崩れない壁の内側で、ルウガがもう一度頷く。
――言えたね。ここまで。
「まだ、もう少し。話したいことがある」
トモが座り直し、紙コップを少し引く。距離の調整。調整の意図は、刃を避けるためだと分かる。僕は、メモ帳の余白に細く一本線を引き、見ないようにしながら、その線を指でなぞった。なぞりながら、言う。
「昔、家で、夕飯の時間が一番苦手だった。食器の触れ合う音、テレビの笑い声、誰かの咳払い、椅子を引く音、全部が同時に鳴って、光の明滅と重なって、視界がばらばらになった。ばらばらになると、呼吸の列が飛んで、胸の奥の蛇口が開く。止められない。あのとき、ルウガが初めて強く前に出た。『今すぐ、台所の床の角を見て』って。角を見ると、音が一瞬遅れて届く。遅れた分だけ、刃の角度が鈍る。鈍ったところで、手の内側を重ねる。重ねて、等間隔で、ありがとう、大丈夫、また、を置く。そうやって、なんとか夜を越えた」
「角を探す、は、僕も使える。合図が刃になりかけたとき、目印がほしいから」
「うん。角は目印になる。角を見ている間、顔を見なくていいし」
顔は刃だ。トモも知っている。目と目の間に張られた見えない刃に、何度も切られた人のうなずき方だ。僕は、そのうなずきにうなずきを重ねる。重ねたところに、受付の時計の分針が一段進む音が落ちる。薄い合図。合図の上で、僕は続けた。
「それから、もうひとつ。僕が、君に『大丈夫』と言われて、初めて、僕の声を少し好きだと思えた夜があった。好きと言えるほどではないかもしれないけど、嫌いじゃないと思えた。嫌いじゃない、は、長く触れていられる合図になる。合図が刃だった頃を、ちょっとだけ越えられる」
トモの口元がわずかに動く。動きは笑いに近いけれど、音がない。音のない笑いは、長く残る。残る間に、トモが低く言う。
「僕も、昨日、同じことを書いた。手帳に。『サエという名前を、口の中で転がした。転がした音が、傷にならなかった』って」
胸の奥で、薄い音が鳴った。クリック。約束の和音だ。和音は二人いないと鳴らせない。鳴った事実だけで、今日の世界は真ん中より少し良い。
受付から名前が呼ばれた。僕の番だ。呼ばれる声は柔らかく、壁に当たって丸くなる。立ち上がる前に、僕はトモのほうへ半歩だけ気配を向けた。
「また」
「また」
診察室の扉に手をかけるとき、金属の冷たさが腕に上る。上る冷たさは、余計な記憶を凍らせる。凍った記憶は動かない。先生の部屋は白く、ペンの先が黒い。短い時間で、必要なことだけ話す。ルウガの話を少しだけする。話しても、大丈夫な相手がいることも。先生は角の丸い言葉で頷いた。
「共有できるのは、強いですね」
強い、という語はまだ大きい。大きい語は重い。でも、さっきより手のひらに乗る重さになっていた。掌の中央で転がし、落とさないように指を丸める。
診察室を出ると、待合室の空気は少し軽かった。軽い空気は、帰り道の階段を一段減らしてくれる。隅の席でトモが立ち上がって、鞄の紐を肩にかける。肩にかける動作は、今日もゆっくりで、角が丸い。
「おつかれ」
「おつかれ」
交換する声の温度は一定だ。一定の温度は安心の別名だ。自動ドアをくぐると、外はまだ灰色で、風は弱い。交差点の信号の前で、僕は言った。
「次、話したいこと、もうひとつある。君の『終わりの合図』、僕も練習したい。紙コップ、右端。置く、終わる」
トモが頷く。頷きの角度は今日いちばん深い。深い返事は、底のある返事だ。底があると、落ちすぎない。
「じゃあ、次、来たとき。練習しよう。僕のほうも、角を探す、使う」
信号が青になり、白と黒の等間隔が足元を流れる。等間隔の上を歩きながら、胸の奥でルウガが静かに言う。
――いいね。交換だ。君の合図と、彼の合図。
「交換、してみたい」
――うん。交換は、触れないままでできる。
家に帰ると、窓の外はさらに薄暗くなっていた。スタンドライトを点け、黄色い光の下で手帳を開く。今日の行を短く書く。ルウガの輪郭。角を探す。終わりの合図。ありがとう。大丈夫。また。最後の行に、小さく付け足す。
僕の声が、君の低い声に似た温度で鳴った。
ペン先を止め、スタンドのスイッチを落とす。部屋の暗さがましになり、耳の奥の雨の名残も静かになる。ベッドに横になり、喉の奥で小さく言う。
「ありがとう」
――どういたしまして。君が言ったんだよ。
明日。明日も練習する。角を探すこと。終わりを置くこと。言えるときに、言える長さで言うこと。練習は裏切らない。裏切らない柱が一本でもあれば、廊下の混雑の中でも、僕は倒れない。
翌日は学校の避難訓練があった。サイレンの音は高く、長い。教室の空気が一斉に揺れる。揺れの中で、僕は前より早く角を見つけ、視線をそこに置く。鼻から四つ、吐くとき六つ。手の内側を重ね、ありがとう、大丈夫、また。列を置く。置いた列の上に、サイレンの刃が落ちる。落ちた刃は角が丸くなって、床で止まる。止まる前に、隣の席の誰かが椅子を乱暴に引いた。高い音。胸の奥の蛇口がわずかに開く。開いた先で、僕は机の右端に消しゴムを置いた。置いた位置で、終わり。終わらせる権利が、僕にもある。列が戻る。戻った列の上で、サイレンの音は遠ざかった。
放課後、病院へ行く。自動ドアの低い唸り。受付の人の目の挨拶。隅の席。トモはまだ来ていなかった。柱の影を選び、腰を下ろす。膝の上で指を組み、光の角度を測る。スタンドライトの黄色が、蛍光灯の白を少しやわらげている。やわらいだ光の中に、トモが入ってきた。紙コップを二つ持っている。二つ、は珍しい。珍しいことが刃にならないよう、僕は視線を床から二十センチ上に置いたまま、受け取らない距離で微笑む。
「練習、しよう」
トモが言う。声の底は深く、温度は一定だ。紙コップの片方を机の右端に置く。置いて、終わりの合図。もう片方のコップを、ほんの少しだけ僕のほうへ斜めに差し出して、すぐ引く。すぐ引く動作に、触れないままの約束が含まれている。僕は短く頷き、呼吸を整える。
「僕は、角を探す」
トモは頷き、視線を壁の角に置いた。僕は紙コップを机の右端に置いた。置いた位置が、今日の終わりの線になる。終わりの線が見えていれば、途中で刃が出ても、そこまで戻れる。戻れる先が目に見える。見えるのは、強い。
その時、待合室の奥で小さなトラブルが起きた。誰かが杖を倒し、床で音が跳ねる。高い音。刃になりかけた瞬間、トモが低く言った。
「大丈夫。いまは角のほうが強い」
同時に、僕は右端の紙コップに視線を落とし、置いた位置を再確認する。確認は、刃の角度を鈍らせる。鈍ったところで、胸の奥の蛇口が自然に閉まる。閉まる音はしない。しないまま、二人の呼吸が目に見えないところで重なった。
重なりの上で、受付から僕の名前が呼ばれる。立ち上がる前に、トモが言う。
「ありがとう」
「ありがとう」
声の往復が終わったところで、僕は扉のほうへ歩き出す。歩幅は一定、視線は角へ、手の内側は重ねたまま。診察室の白い部屋に入り、先生に今日の練習のことを短く話す。角を探すことと、終わりを置くこと。先生は静かに頷き、言った。
「共有の技術は、二人で強くなります」
強い、という語はまだ大きい。でも、今日は掌で転がしていられた。診察を終えて出ると、トモが立っていた。帰る準備の姿勢。鞄の紐の位置を直す動作は、今日も角が丸い。
「おつかれ」
「おつかれ」
自動ドアをくぐる頃には、外は薄闇だった。風が弱く、街の光が低い。交差点の信号に並び、僕は言う。
「ねえ」
「うん」
「君の『大丈夫』、僕の中で、もう一つの合図になった。刃じゃない合図」
トモの横顔がわずかに緩む。緩んだ影の輪郭は浅く、目の奥に刺さらない。
「君の『また』も、僕の合図になった」
「また」
「また」
白と黒の等間隔が足元を流れ、信号の向こうで小さな風が木の葉を揺らす。揺れる音は低い。低い音の上なら、歩ける。歩けるなら、続けられる。続けられるなら、僕は明日も練習する。角を探し、終わりを置き、言葉の角を丸くする練習を。
家に帰ると、手帳を開く。今日の行を書く。影の椅子。角の地図。終わりの線。ありがとう。大丈夫。また。最後に、ほんの少しだけ、勇気という語を小さく書く。大きい語は苦手だけれど、小さく書けば、掌に乗る。乗せたまま、スタンドの光を落とす。部屋の暗さはましで、耳の奥の雨は鳴っていない。ベッドに横になり、喉の奥で言う。
「また」
――また。君の速度で、君の音で。
目を閉じる。薄い闇の中に、角のない輪郭が残る。その輪郭の上に、僕たちの次の練習が薄く置かれていた。
水を飲み、制服に袖を通す。生地の縫い目の位置を指で確かめて、首元のタグが皮膚に触れない角度に直す。この儀式がうまくいった日は、午前中の音が少ない。玄関で靴紐を結ぶとき、ふと胸の奥でルウガが笑った。
――今日、話すんだよね。君の真ん中のこと。
「うん」
声に出さず、喉の奥で答える。朝は声を温める時間が必要だ。声の温度を上げすぎると、すぐ刃の形に変わってしまう。変わらない温度を探しながら、学校へ向かう。
登校の道は、いつもより静かだった。雲が厚い日は、街全体が一段音量を下げる。角を曲がると、校門の前で先生が立っている。うなずきの角度だけで挨拶を返し、教室へ。席に鞄を置いた瞬間、蛍光灯が一度だけ瞬いた。薄い明滅。薄いから、耐えられる。大丈夫だと胸の内で言い、板書を写す。今日のチョークは乾いていて、黒板の音は細い線で割れない。割れない線の上なら、文字を重ねられる。
昼休み、窓際の席で弁当を広げる。海苔の匂いが上がり、隣の席のクラスメイトが箸を伸ばして笑う。笑い声は高かったけれど、距離が十分だった。距離がある笑いは刃にならない。箸を持つ手が震えないのを確認して、ゆっくり口に運ぶ。食べ終えて水を飲むと、喉のすべりが良くなった。良くなった喉で、胸の奥に向かってもう一度言う。
「今日、話す」
――うん。話そう。君の速度で、君の音で。
放課後。空の明るさは薄い灰で、風の匂いは湿っていた。僕は通い慣れた角を曲がり、病院の自動ドアの前に立つ。深く吸って、ゆっくり吐く。ドアが開く音は低く、胸骨の内側のくぼみに落ちる。受付の人と目で挨拶を交わし、いつもの隅の席を見る。トモがもう座っていた。紙コップを両手で持ち、親指で縁をなぞっている。なぞり方は昨日よりゆっくりで、角が丸い。丸い動作のそばは、呼吸が整う。
「こんばんは」
声は小さく、途中で切れない。切れない声を、自分の胸で一度受け止めてから、トモの低い声が返ってくる。
「こんばんは」
席を移すか、光を避けるか、目の端で配列を測りながら、僕は膝の上で指を組んだ。今日は話す。話せる範囲で。喉の奥でルウガが頷くのを感じて、僕はメモ帳を取り出す。表紙は布で、角は丸い。丸いものは、刃にならない。
「今日、少し、話してもいい」
トモは頷いた。頷きは一度で、角度は深すぎない。深すぎない頷きは、落ちすぎない返事の形だ。
「無理なら、止めてって言って」
「分かった。無理なら、無理って言う」
約束の形を確認してから、僕は語を選ぶ。言葉は短く、途中で切れない長さで。
「ルウガは、僕の中にいる、もうひとり。僕が音の中で迷子になる前に、地図を出してくれる。呼吸の数え方とか、視線の置き方とか、影の探し方とか。君に低い声で『大丈夫』って言われたとき、最初にその声を掴んでくれたのも、ルウガ」
トモの目は合わない。合わないけれど、耳の向きがこちらへ寄る。寄った耳の先で、紙コップの縁が一度だけ震え、すぐに止まる。止まるのが上手い人の動きだ。
「ずっと、聞こえてたの」
「いつから、と聞かれると困るけど、昔から。朝、光が強い日は、僕の代わりにカーテンの隙間を調整してくれるし、廊下が混む時間には、保健室の位置までの影の線を頭の中に引いてくれる。怖い音が突然来たときは、呼吸の列を前に出す。背中を押す、じゃなくて、隣で同じ速度で歩いてくれる感じ」
――うん。隣で、たまに先に段差を教えるくらい。
「声は、君だけに聞こえる?」
「うん。僕の内側の音だから。だから、外の人には話さなかった。話すのは、怖かった。変に見えることがあるから。でも、君の『大丈夫』を聞いたとき、ルウガが言ったんだ。『その人、君の声を聞こうとしてる』って」
トモの肩が、わずかに力を抜く。力の抜け方に、練習の跡がある。練習は裏切らない。裏切らないもののそばなら、話せる。
「ありがとう。教えてくれて」
「ううん。聞いてくれて、ありがとう」
薄い沈黙を置く。置いた沈黙の上で、待合室の奥で椅子が一脚、静かに軋む。軋みの音は低く、痛くない。トモが、紙コップを机の右端に置いた。終わりの合図だとわかる。合図を自分で作れる人のそばは、刃が少ない。
「僕のほうからも、聞いていい?」
「うん」
「ルウガと君は、どっちが話すか、どうやって決めてる」
「場面で自然に。ルウガは、僕の代わりに何かを決めたり、操ったりはしない。僕が見えていない段差を先に教えてくれるだけ。たとえば、今みたいに話すのは僕。ルウガは、言葉の角が立ちそうになったら、角度を変えるように肩を叩く。叩く、と言っても触れはしない。温度で教えてくれる。僕が、昔、音で切られすぎて、言葉の刃のほうに寄りがちだから」
――角を丸くすると、同じ意味で届くよ、と時々言う。
「角を丸くする方法、少し僕にも教えてくれる?」
「いいよ。ルウガ」
――うん。たとえば、『無理なら無理って言って』は、命令ではなく、選択肢の提示。『大丈夫』は言い切りだけど、声の底を深くして、相手の呼吸の速度に合わせる。『ありがとう』は、先に置く。刃が出そうな場面を鈍らせるから。
僕は、ルウガの言葉を受け取りながら、トモに短く訳す。トモは頷きを重ね、呼吸の長さをわずかに調整する。調整の仕方が、僕の知っている列と似ている。似ているから、胸の奥の重りが一段下りる。
その時、待合室の天井で、小さくパチンと音がした。蛍光灯が一度だけ瞬く。光が刃にならないよう、僕は視線を床から二十センチ上に固定する。トモの低い声が、すぐ届く。
「問題ない。等間隔じゃないけど、今は、一度だけ」
「うん」
返事は短く、声の温度は一定だ。一定が続くと、胸の内側の壁が崩れない。崩れない壁の内側で、ルウガがもう一度頷く。
――言えたね。ここまで。
「まだ、もう少し。話したいことがある」
トモが座り直し、紙コップを少し引く。距離の調整。調整の意図は、刃を避けるためだと分かる。僕は、メモ帳の余白に細く一本線を引き、見ないようにしながら、その線を指でなぞった。なぞりながら、言う。
「昔、家で、夕飯の時間が一番苦手だった。食器の触れ合う音、テレビの笑い声、誰かの咳払い、椅子を引く音、全部が同時に鳴って、光の明滅と重なって、視界がばらばらになった。ばらばらになると、呼吸の列が飛んで、胸の奥の蛇口が開く。止められない。あのとき、ルウガが初めて強く前に出た。『今すぐ、台所の床の角を見て』って。角を見ると、音が一瞬遅れて届く。遅れた分だけ、刃の角度が鈍る。鈍ったところで、手の内側を重ねる。重ねて、等間隔で、ありがとう、大丈夫、また、を置く。そうやって、なんとか夜を越えた」
「角を探す、は、僕も使える。合図が刃になりかけたとき、目印がほしいから」
「うん。角は目印になる。角を見ている間、顔を見なくていいし」
顔は刃だ。トモも知っている。目と目の間に張られた見えない刃に、何度も切られた人のうなずき方だ。僕は、そのうなずきにうなずきを重ねる。重ねたところに、受付の時計の分針が一段進む音が落ちる。薄い合図。合図の上で、僕は続けた。
「それから、もうひとつ。僕が、君に『大丈夫』と言われて、初めて、僕の声を少し好きだと思えた夜があった。好きと言えるほどではないかもしれないけど、嫌いじゃないと思えた。嫌いじゃない、は、長く触れていられる合図になる。合図が刃だった頃を、ちょっとだけ越えられる」
トモの口元がわずかに動く。動きは笑いに近いけれど、音がない。音のない笑いは、長く残る。残る間に、トモが低く言う。
「僕も、昨日、同じことを書いた。手帳に。『サエという名前を、口の中で転がした。転がした音が、傷にならなかった』って」
胸の奥で、薄い音が鳴った。クリック。約束の和音だ。和音は二人いないと鳴らせない。鳴った事実だけで、今日の世界は真ん中より少し良い。
受付から名前が呼ばれた。僕の番だ。呼ばれる声は柔らかく、壁に当たって丸くなる。立ち上がる前に、僕はトモのほうへ半歩だけ気配を向けた。
「また」
「また」
診察室の扉に手をかけるとき、金属の冷たさが腕に上る。上る冷たさは、余計な記憶を凍らせる。凍った記憶は動かない。先生の部屋は白く、ペンの先が黒い。短い時間で、必要なことだけ話す。ルウガの話を少しだけする。話しても、大丈夫な相手がいることも。先生は角の丸い言葉で頷いた。
「共有できるのは、強いですね」
強い、という語はまだ大きい。大きい語は重い。でも、さっきより手のひらに乗る重さになっていた。掌の中央で転がし、落とさないように指を丸める。
診察室を出ると、待合室の空気は少し軽かった。軽い空気は、帰り道の階段を一段減らしてくれる。隅の席でトモが立ち上がって、鞄の紐を肩にかける。肩にかける動作は、今日もゆっくりで、角が丸い。
「おつかれ」
「おつかれ」
交換する声の温度は一定だ。一定の温度は安心の別名だ。自動ドアをくぐると、外はまだ灰色で、風は弱い。交差点の信号の前で、僕は言った。
「次、話したいこと、もうひとつある。君の『終わりの合図』、僕も練習したい。紙コップ、右端。置く、終わる」
トモが頷く。頷きの角度は今日いちばん深い。深い返事は、底のある返事だ。底があると、落ちすぎない。
「じゃあ、次、来たとき。練習しよう。僕のほうも、角を探す、使う」
信号が青になり、白と黒の等間隔が足元を流れる。等間隔の上を歩きながら、胸の奥でルウガが静かに言う。
――いいね。交換だ。君の合図と、彼の合図。
「交換、してみたい」
――うん。交換は、触れないままでできる。
家に帰ると、窓の外はさらに薄暗くなっていた。スタンドライトを点け、黄色い光の下で手帳を開く。今日の行を短く書く。ルウガの輪郭。角を探す。終わりの合図。ありがとう。大丈夫。また。最後の行に、小さく付け足す。
僕の声が、君の低い声に似た温度で鳴った。
ペン先を止め、スタンドのスイッチを落とす。部屋の暗さがましになり、耳の奥の雨の名残も静かになる。ベッドに横になり、喉の奥で小さく言う。
「ありがとう」
――どういたしまして。君が言ったんだよ。
明日。明日も練習する。角を探すこと。終わりを置くこと。言えるときに、言える長さで言うこと。練習は裏切らない。裏切らない柱が一本でもあれば、廊下の混雑の中でも、僕は倒れない。
翌日は学校の避難訓練があった。サイレンの音は高く、長い。教室の空気が一斉に揺れる。揺れの中で、僕は前より早く角を見つけ、視線をそこに置く。鼻から四つ、吐くとき六つ。手の内側を重ね、ありがとう、大丈夫、また。列を置く。置いた列の上に、サイレンの刃が落ちる。落ちた刃は角が丸くなって、床で止まる。止まる前に、隣の席の誰かが椅子を乱暴に引いた。高い音。胸の奥の蛇口がわずかに開く。開いた先で、僕は机の右端に消しゴムを置いた。置いた位置で、終わり。終わらせる権利が、僕にもある。列が戻る。戻った列の上で、サイレンの音は遠ざかった。
放課後、病院へ行く。自動ドアの低い唸り。受付の人の目の挨拶。隅の席。トモはまだ来ていなかった。柱の影を選び、腰を下ろす。膝の上で指を組み、光の角度を測る。スタンドライトの黄色が、蛍光灯の白を少しやわらげている。やわらいだ光の中に、トモが入ってきた。紙コップを二つ持っている。二つ、は珍しい。珍しいことが刃にならないよう、僕は視線を床から二十センチ上に置いたまま、受け取らない距離で微笑む。
「練習、しよう」
トモが言う。声の底は深く、温度は一定だ。紙コップの片方を机の右端に置く。置いて、終わりの合図。もう片方のコップを、ほんの少しだけ僕のほうへ斜めに差し出して、すぐ引く。すぐ引く動作に、触れないままの約束が含まれている。僕は短く頷き、呼吸を整える。
「僕は、角を探す」
トモは頷き、視線を壁の角に置いた。僕は紙コップを机の右端に置いた。置いた位置が、今日の終わりの線になる。終わりの線が見えていれば、途中で刃が出ても、そこまで戻れる。戻れる先が目に見える。見えるのは、強い。
その時、待合室の奥で小さなトラブルが起きた。誰かが杖を倒し、床で音が跳ねる。高い音。刃になりかけた瞬間、トモが低く言った。
「大丈夫。いまは角のほうが強い」
同時に、僕は右端の紙コップに視線を落とし、置いた位置を再確認する。確認は、刃の角度を鈍らせる。鈍ったところで、胸の奥の蛇口が自然に閉まる。閉まる音はしない。しないまま、二人の呼吸が目に見えないところで重なった。
重なりの上で、受付から僕の名前が呼ばれる。立ち上がる前に、トモが言う。
「ありがとう」
「ありがとう」
声の往復が終わったところで、僕は扉のほうへ歩き出す。歩幅は一定、視線は角へ、手の内側は重ねたまま。診察室の白い部屋に入り、先生に今日の練習のことを短く話す。角を探すことと、終わりを置くこと。先生は静かに頷き、言った。
「共有の技術は、二人で強くなります」
強い、という語はまだ大きい。でも、今日は掌で転がしていられた。診察を終えて出ると、トモが立っていた。帰る準備の姿勢。鞄の紐の位置を直す動作は、今日も角が丸い。
「おつかれ」
「おつかれ」
自動ドアをくぐる頃には、外は薄闇だった。風が弱く、街の光が低い。交差点の信号に並び、僕は言う。
「ねえ」
「うん」
「君の『大丈夫』、僕の中で、もう一つの合図になった。刃じゃない合図」
トモの横顔がわずかに緩む。緩んだ影の輪郭は浅く、目の奥に刺さらない。
「君の『また』も、僕の合図になった」
「また」
「また」
白と黒の等間隔が足元を流れ、信号の向こうで小さな風が木の葉を揺らす。揺れる音は低い。低い音の上なら、歩ける。歩けるなら、続けられる。続けられるなら、僕は明日も練習する。角を探し、終わりを置き、言葉の角を丸くする練習を。
家に帰ると、手帳を開く。今日の行を書く。影の椅子。角の地図。終わりの線。ありがとう。大丈夫。また。最後に、ほんの少しだけ、勇気という語を小さく書く。大きい語は苦手だけれど、小さく書けば、掌に乗る。乗せたまま、スタンドの光を落とす。部屋の暗さはましで、耳の奥の雨は鳴っていない。ベッドに横になり、喉の奥で言う。
「また」
――また。君の速度で、君の音で。
目を閉じる。薄い闇の中に、角のない輪郭が残る。その輪郭の上に、僕たちの次の練習が薄く置かれていた。



