朝の空は、薄い水色だった。
窓を開けると、まだ冷たさを残した風が部屋の隅を撫でていく。机の上の瓶は、底に薄い水膜だけを抱いていて、黒い石の上で金の粒が小さく息をしていた。
サエは手帳の右上に点を打ち、いつもより少し長い矢印を引いた。先端に「ひらく」と書く。開くのは扉でも本でもなく、今日は街――そして、声の居場所だ。
文化祭の準備で騒がしいはずの校舎は、奇妙に落ち着いていた。昨日の「昼の放送」の余韻が残っている。
掲示板には新しい紙が貼られ、「街の静かな場所マップ」の隣に真っ白な紙。真ん中に小さな点。ペンが一本、紐で吊られている。
瑞希がその前で立ち、紙の余白に短い線を足した。
「本日の“置き声”――校内と病院と商店街で同時にやる。名前は出さない。順番も決めない。各自の“中心点”から」
「合図係は?」
「わたしと看護師さん。それから、あの子」
あの子――一年の少年は、胸ポケットに折りたたんだ紙を入れて立っていた。紙の端から覗くのは丸い印。中心点。
「こわくなったら、逃げていい」とサエが言う。
少年は首を横に振った。
「こわかったら、“ありがとう”って小さく言います」
「いい合図だ」
*
午前の終わり、放送室では瑞希が係の先生に簡単な説明をしていた。
「昼休み、三分だけ“置き声”。無音と短い声。苦手な人は耳をふさいでください、で終わりです」
「内容は?」
「“ありがとう”“大丈夫”“また”。それだけ」
先生は笑いをこらえるように頷いた。「いいな。短くて、覚えやすい」
昼。チャイムが鳴り、赤いランプが灯る。
無音が流れ、その無音が校内の空気をやわらかくする。
サエはマイクを使わない。放送室の窓を二センチだけ開けて、そこへ声を置く。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
その三つの声は風に混ざって廊下に出て、階段を降り、昇降口のガラスに当たって丸くなる。体育館の高窓を通り抜け、図書室の低い椅子に落ち、黒板の白に溶けて消える。
消えると言っても、完全には消えない。残響として、誰かの喉の奥に薄い輪を置いていく。
同じころ、病院の談話室では看護師が無言で拳をほどき、合図を送っていた。瑞希のメッセージが震え、少年の「行きます」が二文字だけ届く。
病室の窓際に置かれた小さなスピーカーからは、音楽のない音が流れ、呼吸の隙間が大きくなっていく。
誰も泣かず、誰も叫ばない。
それでも、部屋にいた人はみな、それぞれの形で頷いた。
*
放課後。
商店街の提灯には早めに灯りが入り、紙の赤が薄い夕焼けに重なる。果物屋の木箱、文房具店の棚、魚屋の氷の箱。角の丸い場所に小さな丸い紙が一枚ずつ貼られて、真ん中に鉛筆の点。
“置き声”の会場はどこでもよかった。今日は街全体が会場だ。
橋のたもとに集まったのは、サエと瑞希、少年、それから放課後の寄り道で足を止めた何人か。
「ここで締める?」と瑞希。
「締めない。置くだけ」
「そうだね」
看護師が少し遅れて走ってきて、胸ポケットの丸いスタンプを指先で指した。「準備、いい?」
少年が頷き、欄干の丸い錆に視線を置く。
合図は簡単だった。
風がひとつ渡る。
提灯が一度だけ大きく揺れる。
サエが喉の奥の戻る矢印を太くする。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
声は短く、低く、置かれる。
橋脚の影がゆっくり動き、川面に薄い輪が重なっていく。
遠くで誰かが咳払いをし、その音も輪に吸い込まれる。
少年が口を開く。
「ぼくは、昼より夜が好きです。低いから」
それは詩でも演説でもない、ただの文。けれどよかった。輪になって残った。
瑞希は目で「ありがとう」と言い、看護師は胸の前で小さく丸を作った。
*
人の流れが自然と細くなり、橋の上は広くなる。
その広さに、サエは次の声を置いた。
「歩幅の話をします。わたしの歩幅は長くありません。けれど、この街の等間隔の上なら、同じ場所を何度通っても大丈夫です」
風が髪を揺らす。誰かが笑う。
「もし、もう一度“無音の放送”ができるなら、今度は街ぜんぶでやりたい」
「今日、もうやってる」と瑞希が笑う。「見て。提灯、いっせいに落ちたら、それ合図ね」
店主たちが顔を見合わせ、通りの端から端まで短い挨拶が往復する。
金属の鎖がわずかに鳴り、太鼓の皮がひとつ鳴る。
電球が一瞬だけ曇り、街は呼吸を合わせた。
無音の放送が、はじまる。
音が消えたわけじゃない。
聴こうとする動作で、音の角が落ちる。
サエは橋の真ん中に立ち、無言で三語を口の形だけで並べた。
ありがとう。
大丈夫。
また。
返事はない。いらない。
欄干の鉄が温度を持ち、川面の小さな皺がゆっくり広がる。
*
夜になってから、病院の窓辺で灯がひとつ灯った写真が届いた。
〈“昼の放送”のお返しです。灯のある方へ〉
差出人はない。それで十分だ。
サエは写真を閉じ、レコーダーに短いトラックを作る。
「ここは、まだ灯のある場所です」
「あなたの声も、たぶんこの中にあります」
声は低く、短く、置かれた。
「ねえ、ルウガ」
――なに。
「この話、ここで終わっていい?」
――“話”なら、ね。
「物語は」
――歩幅の続くかぎり、終わらない。
「じゃあ、終わり方だけ決める」
――どうする?
「別れない。別れないで、“今日を歩く”」
――いい終わり方。始まりでもある。
*
翌日。
文化祭の朝は、早い。
校門にはまだ人が少なく、空は白から青へ移る途中だった。
教室の後方にはクラスの出し物の看板。灰色に塗った文字は、予想どおり光の角度で表情を変える。
瑞希が腕まくりをして、黒板の端に短い言葉を書く。
〈声を置く場所はこちら〉
矢印の先に、低い椅子と黄色いスタンドライト。
図書室の“静かな読む場所”から借りてきた椅子の高さは、やっぱりちょうどいい。
人の流れが増え、廊下のざわめきが厚くなる。
けれど刺さらない。
等間隔の上を歩く人が増えただけだ。
少年が手伝いに来て、案内の紙を静かに配る。紙の端は角が落ち、真ん中に点。
「今日は、ぼく、読んでもいい?」
「読む?」
「短いやつ」
サエは頷いた。「最初と最後、合図する」
少年は目を丸くして、「ありがとう」と言った。
午前の終わり、教室の片隅で小さな朗読の輪ができる。
少年が一歩前に出て、紙を開く。
「ぼくは、昼より夜が好きです。低いから。
でも、昼の低さも見つけました。
“ありがとう”って言ったら、昼でも低くなりました」
拍手は起きない。代わりに、笑いと息が混ざった音が短く重なり、床に落ちる。
瑞希が目で「合図」を送り、サエが無言で三語を口にする。輪はふたたび広がる。
*
夕方。
祭りの片づけが始まり、提灯の列が少しずつ短くなる。
橋の上の風は弱く、川面は鏡みたいに街の灯を返している。
サエは欄干に指を置き、胸の左の方角を静かに開いた。
蛇口は動かない。
戻る矢印は太い。
黒い石の上の金の粒は、呼吸のリズムで明滅している。
「ねえ、サエ」
瑞希が隣に立った。
「うん」
「わたしたち、十分やった?」
「足りないくらいが、いい」
「だよね」
「“また”が言える」
「言える」
彼女は笑って、額の汗を手の甲で拭った。夏の手前の夜は、やさしい。
看護師が通りの向こうから手を振って、胸ポケットの丸いスタンプを指先で弾いた。
少年は欄干の端に寄って、丸い錆をそっと撫でる。
「今日の終わり、どうする?」と瑞希。
「置いて、歩く」
「了解」
サエは喉の奥で短く声をつくり、低く置いた。
ありがとう。
大丈夫。
また。
三つが風に混ざり、水に落ち、街のどこかで輪になる。
目に見えない拍手が、たしかに一度、橋の下で鳴った。
*
夜更け。
部屋の灯を落とし、窓を開ける。
瓶は空になっていた。薄い水膜も、もうない。
黒い石だけが、そこに残っている。
表面の金の粒は、いままででいちばん明るく、そして、いちばん短く光った。
サエは石を掌で包み、胸の前に持ってくる。
重さは変わらない。けれど、冷たさの奥にある温度だけが、かつてより近い。
手帳を開き、今日の点から矢印を引く。
紙の端を越えて、さらにもう少し。
そこに小さく「つづく」と書く。
終わりのない言葉。
物語を終わらせ、生活を続けるための印。
「ねえ、ルウガ」
――なに。
「トモに、なんて言う?」
――なにも言わなくていい。
「でも、言いたい」
――じゃあ、三語で。
サエはうなずき、窓の外に視線を置く。
街の灯は遠く、風は低い。
口を開く。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
返事はない。
けれど、胸の左の方角が、確かにひらいた。
世界は、静かに重なった。
*
朝。
薄い水色の空に、白い雲がゆっくりと形を変える。
橋の上で、通学路の足音が等間隔に並ぶ。
果物屋の木箱には新しい季節の色、文房具店の棚には未開封のノートの匂い。病院の窓辺には、昨日の写真と同じ灯がひとつ。
“話”は、ここで終わる。
けれど、声は終わらない。
歩幅があるかぎり、残響は続く。
誰かが置いた「また」は、次の誰かの中心点に灯る。
サエは手帳を閉じ、黒い石をポケットに入れた。
等間隔の上を歩く準備はできている。
今日も、ひらく。
今日も、置く。
今日も、渡る。
そして、何度でも――
また、あしたの音で。
窓を開けると、まだ冷たさを残した風が部屋の隅を撫でていく。机の上の瓶は、底に薄い水膜だけを抱いていて、黒い石の上で金の粒が小さく息をしていた。
サエは手帳の右上に点を打ち、いつもより少し長い矢印を引いた。先端に「ひらく」と書く。開くのは扉でも本でもなく、今日は街――そして、声の居場所だ。
文化祭の準備で騒がしいはずの校舎は、奇妙に落ち着いていた。昨日の「昼の放送」の余韻が残っている。
掲示板には新しい紙が貼られ、「街の静かな場所マップ」の隣に真っ白な紙。真ん中に小さな点。ペンが一本、紐で吊られている。
瑞希がその前で立ち、紙の余白に短い線を足した。
「本日の“置き声”――校内と病院と商店街で同時にやる。名前は出さない。順番も決めない。各自の“中心点”から」
「合図係は?」
「わたしと看護師さん。それから、あの子」
あの子――一年の少年は、胸ポケットに折りたたんだ紙を入れて立っていた。紙の端から覗くのは丸い印。中心点。
「こわくなったら、逃げていい」とサエが言う。
少年は首を横に振った。
「こわかったら、“ありがとう”って小さく言います」
「いい合図だ」
*
午前の終わり、放送室では瑞希が係の先生に簡単な説明をしていた。
「昼休み、三分だけ“置き声”。無音と短い声。苦手な人は耳をふさいでください、で終わりです」
「内容は?」
「“ありがとう”“大丈夫”“また”。それだけ」
先生は笑いをこらえるように頷いた。「いいな。短くて、覚えやすい」
昼。チャイムが鳴り、赤いランプが灯る。
無音が流れ、その無音が校内の空気をやわらかくする。
サエはマイクを使わない。放送室の窓を二センチだけ開けて、そこへ声を置く。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
その三つの声は風に混ざって廊下に出て、階段を降り、昇降口のガラスに当たって丸くなる。体育館の高窓を通り抜け、図書室の低い椅子に落ち、黒板の白に溶けて消える。
消えると言っても、完全には消えない。残響として、誰かの喉の奥に薄い輪を置いていく。
同じころ、病院の談話室では看護師が無言で拳をほどき、合図を送っていた。瑞希のメッセージが震え、少年の「行きます」が二文字だけ届く。
病室の窓際に置かれた小さなスピーカーからは、音楽のない音が流れ、呼吸の隙間が大きくなっていく。
誰も泣かず、誰も叫ばない。
それでも、部屋にいた人はみな、それぞれの形で頷いた。
*
放課後。
商店街の提灯には早めに灯りが入り、紙の赤が薄い夕焼けに重なる。果物屋の木箱、文房具店の棚、魚屋の氷の箱。角の丸い場所に小さな丸い紙が一枚ずつ貼られて、真ん中に鉛筆の点。
“置き声”の会場はどこでもよかった。今日は街全体が会場だ。
橋のたもとに集まったのは、サエと瑞希、少年、それから放課後の寄り道で足を止めた何人か。
「ここで締める?」と瑞希。
「締めない。置くだけ」
「そうだね」
看護師が少し遅れて走ってきて、胸ポケットの丸いスタンプを指先で指した。「準備、いい?」
少年が頷き、欄干の丸い錆に視線を置く。
合図は簡単だった。
風がひとつ渡る。
提灯が一度だけ大きく揺れる。
サエが喉の奥の戻る矢印を太くする。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
声は短く、低く、置かれる。
橋脚の影がゆっくり動き、川面に薄い輪が重なっていく。
遠くで誰かが咳払いをし、その音も輪に吸い込まれる。
少年が口を開く。
「ぼくは、昼より夜が好きです。低いから」
それは詩でも演説でもない、ただの文。けれどよかった。輪になって残った。
瑞希は目で「ありがとう」と言い、看護師は胸の前で小さく丸を作った。
*
人の流れが自然と細くなり、橋の上は広くなる。
その広さに、サエは次の声を置いた。
「歩幅の話をします。わたしの歩幅は長くありません。けれど、この街の等間隔の上なら、同じ場所を何度通っても大丈夫です」
風が髪を揺らす。誰かが笑う。
「もし、もう一度“無音の放送”ができるなら、今度は街ぜんぶでやりたい」
「今日、もうやってる」と瑞希が笑う。「見て。提灯、いっせいに落ちたら、それ合図ね」
店主たちが顔を見合わせ、通りの端から端まで短い挨拶が往復する。
金属の鎖がわずかに鳴り、太鼓の皮がひとつ鳴る。
電球が一瞬だけ曇り、街は呼吸を合わせた。
無音の放送が、はじまる。
音が消えたわけじゃない。
聴こうとする動作で、音の角が落ちる。
サエは橋の真ん中に立ち、無言で三語を口の形だけで並べた。
ありがとう。
大丈夫。
また。
返事はない。いらない。
欄干の鉄が温度を持ち、川面の小さな皺がゆっくり広がる。
*
夜になってから、病院の窓辺で灯がひとつ灯った写真が届いた。
〈“昼の放送”のお返しです。灯のある方へ〉
差出人はない。それで十分だ。
サエは写真を閉じ、レコーダーに短いトラックを作る。
「ここは、まだ灯のある場所です」
「あなたの声も、たぶんこの中にあります」
声は低く、短く、置かれた。
「ねえ、ルウガ」
――なに。
「この話、ここで終わっていい?」
――“話”なら、ね。
「物語は」
――歩幅の続くかぎり、終わらない。
「じゃあ、終わり方だけ決める」
――どうする?
「別れない。別れないで、“今日を歩く”」
――いい終わり方。始まりでもある。
*
翌日。
文化祭の朝は、早い。
校門にはまだ人が少なく、空は白から青へ移る途中だった。
教室の後方にはクラスの出し物の看板。灰色に塗った文字は、予想どおり光の角度で表情を変える。
瑞希が腕まくりをして、黒板の端に短い言葉を書く。
〈声を置く場所はこちら〉
矢印の先に、低い椅子と黄色いスタンドライト。
図書室の“静かな読む場所”から借りてきた椅子の高さは、やっぱりちょうどいい。
人の流れが増え、廊下のざわめきが厚くなる。
けれど刺さらない。
等間隔の上を歩く人が増えただけだ。
少年が手伝いに来て、案内の紙を静かに配る。紙の端は角が落ち、真ん中に点。
「今日は、ぼく、読んでもいい?」
「読む?」
「短いやつ」
サエは頷いた。「最初と最後、合図する」
少年は目を丸くして、「ありがとう」と言った。
午前の終わり、教室の片隅で小さな朗読の輪ができる。
少年が一歩前に出て、紙を開く。
「ぼくは、昼より夜が好きです。低いから。
でも、昼の低さも見つけました。
“ありがとう”って言ったら、昼でも低くなりました」
拍手は起きない。代わりに、笑いと息が混ざった音が短く重なり、床に落ちる。
瑞希が目で「合図」を送り、サエが無言で三語を口にする。輪はふたたび広がる。
*
夕方。
祭りの片づけが始まり、提灯の列が少しずつ短くなる。
橋の上の風は弱く、川面は鏡みたいに街の灯を返している。
サエは欄干に指を置き、胸の左の方角を静かに開いた。
蛇口は動かない。
戻る矢印は太い。
黒い石の上の金の粒は、呼吸のリズムで明滅している。
「ねえ、サエ」
瑞希が隣に立った。
「うん」
「わたしたち、十分やった?」
「足りないくらいが、いい」
「だよね」
「“また”が言える」
「言える」
彼女は笑って、額の汗を手の甲で拭った。夏の手前の夜は、やさしい。
看護師が通りの向こうから手を振って、胸ポケットの丸いスタンプを指先で弾いた。
少年は欄干の端に寄って、丸い錆をそっと撫でる。
「今日の終わり、どうする?」と瑞希。
「置いて、歩く」
「了解」
サエは喉の奥で短く声をつくり、低く置いた。
ありがとう。
大丈夫。
また。
三つが風に混ざり、水に落ち、街のどこかで輪になる。
目に見えない拍手が、たしかに一度、橋の下で鳴った。
*
夜更け。
部屋の灯を落とし、窓を開ける。
瓶は空になっていた。薄い水膜も、もうない。
黒い石だけが、そこに残っている。
表面の金の粒は、いままででいちばん明るく、そして、いちばん短く光った。
サエは石を掌で包み、胸の前に持ってくる。
重さは変わらない。けれど、冷たさの奥にある温度だけが、かつてより近い。
手帳を開き、今日の点から矢印を引く。
紙の端を越えて、さらにもう少し。
そこに小さく「つづく」と書く。
終わりのない言葉。
物語を終わらせ、生活を続けるための印。
「ねえ、ルウガ」
――なに。
「トモに、なんて言う?」
――なにも言わなくていい。
「でも、言いたい」
――じゃあ、三語で。
サエはうなずき、窓の外に視線を置く。
街の灯は遠く、風は低い。
口を開く。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
返事はない。
けれど、胸の左の方角が、確かにひらいた。
世界は、静かに重なった。
*
朝。
薄い水色の空に、白い雲がゆっくりと形を変える。
橋の上で、通学路の足音が等間隔に並ぶ。
果物屋の木箱には新しい季節の色、文房具店の棚には未開封のノートの匂い。病院の窓辺には、昨日の写真と同じ灯がひとつ。
“話”は、ここで終わる。
けれど、声は終わらない。
歩幅があるかぎり、残響は続く。
誰かが置いた「また」は、次の誰かの中心点に灯る。
サエは手帳を閉じ、黒い石をポケットに入れた。
等間隔の上を歩く準備はできている。
今日も、ひらく。
今日も、置く。
今日も、渡る。
そして、何度でも――
また、あしたの音で。



