昼の太陽は、雲の向こうで形をなくしていた。
 放課後の気配がまだ残る昼休み。
 校舎の廊下には誰かの笑い声と、教室からの小さな拍手がこだましている。

 サエは放送室のドアの前に立っていた。
 手の中には、黒いレコーダー。
 胸の奥に、まだ灯がある。

 瑞希がドアの向こうから顔を出した。
 「おそいよ」
 「ごめん、機材借りるのにちょっと」
 「あと三分で昼放送はじまる。校内放送部、昼ニュースお休み。わたしたちの番」
 「うん」
 瑞希の手にはメモ帳。表紙には小さく「置き声実験」と書かれていた。

 放送室の中は薄暗く、窓のカーテンが半分閉まっている。
 壁には“ON AIR”の赤いランプ。
 その光がサエの顔を淡く照らした。

 「準備、いい?」
 「うん。無音のトラック、流すだけ」
 「流すだけなのに、緊張するね」
 「音がないほうが怖いからね」
 「でも、あのときよりは怖くないでしょ」
 「うん。トモの声を聴いたあの日より、ずっと平気」

     *

 時計が昼の一二時を指す。
 ベルの音が校内に鳴り響く。
 昼放送の時間。

 瑞希がスイッチを押す。
 赤いランプが点いた。

 サエはレコーダーを差し込み、無音のトラックを再生した。
 再生ボタンが青く光る。
 音は流れない。
 けれど、確かに何かが動いていた。

 廊下のざわめきが少しずつ静かになっていく。
 教室の声が止む。
 誰かが息をひそめる。
 空気が、音を聴こうとする。

 ――音のない音。
 サエは目を閉じた。
 耳の奥で、自分の心臓の音が聴こえる。
 遠くの教室から、椅子を引く音がひとつ。
 その音が世界の真ん中に落ちる。

 「瑞希」
 「うん」
 「今、みんな聴いてるよ」
 「聴いてるね。無音の中で」
 「これが“また”の音だと思う」
 「うん」

 窓の外の光が、カーテンの隙間を抜けて床を照らす。
 埃の粒が浮かび、ゆっくりと沈む。
 それも音のように見えた。

     *

 校内のすべてのスピーカーが、同じ“無音”を流していた。
 職員室の時計、体育館の高窓、図書室のスピーカー。
 音のない音が、校舎全体を包む。

 それは、静けさではなかった。
 “聴く”という動作そのものが、校内を一つにした。

 グラウンドの隅で遊んでいた生徒が立ち止まり、
 給食室の職員が手を止め、
 通りを歩く人が、ふと空を見上げた。

 どこか遠くで、風が吹いた。
 その風がマイクの端をかすめる。
 ほんの一瞬、世界が呼吸をした。

 瑞希が小さく息を吸い込む。
 サエはそれを見て、うなずいた。
 「今だね」
 「うん」
 瑞希がスイッチを切り替える。

 サエの声が、校内に流れた。

 「こんにちは。読書委員の斎宮です」
 「今日は、“声を置く”練習をします」
 「聞こえない人も、聞こえる人も、聴こうとするだけでいいです」
 「音は、残響になります。
  残響は、誰かの“また”になります。
  “また”は、再会の言葉ではなく、継続の言葉です」

 少し息を置く。
 サエの声は、昼の光と一緒に校内を流れていく。
 「この放送が終わったら、
  教室でも、廊下でも、図書室でもいいから、
  どこか静かな場所で、自分の声を置いてみてください。
  “ありがとう”でも、“大丈夫”でも、“また”でも」

 放送室のスピーカーから、微かなノイズが流れた。
 瑞希が頷き、音量を上げる。
 そのノイズは風の音になり、やがて呼吸のように変わっていった。

 「わたしの声は、ここに置いていきます」
 「聴いてくれて、ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」

 最後の言葉が流れた瞬間、放送室の灯が一瞬だけ揺れた。

     *

 数秒後、校内放送は終わった。
 赤いランプが消える。
 部屋の中に、余韻だけが残った。

 瑞希は深呼吸をした。
 「終わったね」
「うん」
「泣いてない?」
「泣いてない」
「でも、目が赤い」
「泣いてないってば」
瑞希が笑った。サエも笑った。

 廊下の向こうから、ざわめきが戻ってくる。
 けれど、いつもの騒がしさではなかった。
 人の声が重なっても、どこかやわらかい。

 サエがドアを開けると、昇降口の方から風が吹き込んできた。
 それと同時に、階段の踊り場に立っていた一年の少年が顔を上げた。
 「今の、聞いたよ」
 「どうだった?」
 「怖くなかった」
 「それなら、成功」
 少年は笑ってうなずいた。
 その笑顔を見て、サエは思った。――もう大丈夫だ。

     *

 夕方。
 帰り道の橋の上。
 空は白から金に変わり、街の灯が順番に点いていく。
 風が吹くたび、川面がゆっくり揺れる。

 サエは手帳を開き、今日のページに短く書いた。
 〈昼の放送 “また”の音〉

 瑞希がとなりでポケットからスマートフォンを取り出す。
 「もう届いてるよ」
 「なにが?」
 「昼放送の録音。病院の人がSNSに上げてた。
  “校内の静寂、街まで届いた”って」
 サエは目を見開いた。
 「……届いたんだ」
 「うん。トモくん、喜んでるね」
 「そうだね」

 橋の上に立ち、風の中で目を閉じる。
 光の粒が頬を撫でる。
 遠くで誰かの声が重なった気がした。
 “ありがとう”
 “大丈夫”
 “また”

 その三つの声が、風に乗って街に溶けていく。

     *

 夜。
 部屋の窓を開けると、街の灯が遠くまで続いていた。
 瓶の中の水はもうほとんどなく、底に沈んだ金の粒だけがかすかに光っている。
 黒い石の上には、薄い水の膜。
 そこに、自分の顔がぼんやり映る。

 「ねえ、ルウガ」
 ――なに。
 「音がなくても、届くんだね」
 ――届く。音は形じゃなくて意図だから。
 「意図」
 ――誰かを想うってこと。声の前にある。
 「トモも、今それを聴いてる?」
 ――たぶん、どこかで笑ってる。
 「そう思う」

 窓の外を見上げると、星がひとつだけ光っていた。
 その光が、まるで声の残響のように揺れている。

 サエは喉の奥に力を入れず、小さく言った。
 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」

 風が頬を撫で、瓶の中の金の粒が微かに揺れた。
 その光は、静かな夜の中で消えずに残っていた。

     *

 翌朝。
 登校途中の橋の上で、サエは足を止めた。
 川面が陽の光を反射して、小さな波紋をつくっている。
 通学路を歩く生徒たちは、昨日の放送の話をしていた。
 「昨日、音なかったのに泣きそうになった」
 「無音なのに、聞こえた感じ」
 「“また”って、言ってたよね」

 誰かの言葉が風に混ざる。
 そのたびに、街の空気がやわらかくなる。

 瑞希が隣に立った。
 「ねえ、次、どうする?」
 「うん」
 「終わりにする?」
 サエは少し考えて、首を横に振った。
 「まだ続くと思う。音があるかぎり」
 「いいね、それ」

 川の流れが早くなった。
 風が二人の髪を揺らす。
 瑞希が笑いながら言った。
 「じゃあ、もう一度“置き声”やろうか。今度は外で」
 「どこで?」
 「街全体で」

 サエは頷いた。
 空の青が濃くなり、遠くでチャイムが鳴った。
 音が、また戻ってきた。

 ――次の声を、置くために。