土曜日。空は昼のあいだじゅう薄い白で、夕方が近づくにつれて街の輪郭に透明な縁取りが現れた。
 商店街の提灯には早めに灯が入る。紙の赤がやわらかく膨らむたび、風が通りの奥まで形を整えていく。太鼓サークルの子どもたちは皮の張り具合を確かめ、金属のフレームが低く鳴る。音は地面に落ち、落ちたところから輪になって広がった。

 サエは橋の手前で立ち止まり、手帳の右上に点を打った。短い矢印を伸ばし、先端に小さく「渡る」と書く。渡るといっても、どこか遠くへ行くわけではない。夜に入るための、ひと目ぶんの歩幅だ。
 胸の左の方角が静かに開く。喉の奥の戻る矢印は、今日も太い。黒い石は指先で確かめれば冷たく、その奥がぬるく温かい。

 「今日は“公開・読む時間・夜版”だよ」
 メッセージを送ると、すぐに瑞希から返ってきた。
 〈了解。司会は無言で八割、言葉で二割〉
 〈多い〉
 〈じゃあ九対一〉
 〈好き〉
 絵文字を使わなくても笑えるのは、等間隔の上を歩いているからだと、サエは思った。

     *

 夜の病院は、昼よりも声が少ない。廊下の照明は低く、足音は静かに馴染む。談話室の片隅には、今日だけの小さな会場が用意されていた。椅子は低く、灯りは黄色。机の上に置かれたスピーカーは、息をするみたいにランプを点滅させている。
 入口の掲示に貼られた紙には、短い注意書きがあった。

 一つ、ありがとう。
 一つ、大丈夫。
 一つ、また。
 どれも無言で置いてください。

 瑞希が胸元で拳をほどく。合図。サエはうなずき、マイクのない位置に腰を下ろした。今日は生の声だけでいく。紙は二枚。詩と、小さな手紙。
 看護師がうしろで頷く。胸ポケットには丸い矢印のスタンプ。あの一年の少年は最前列の端に座り、膝の上で紙を丸めないように指を揃えていた。

 息を落とす。
 置く。
 「夜は、ものを低くする」
 「声は、ものと同じ高さまで降りていく」
 「だから、夜に読むのは、やさしい」

 声は短く、低く、置かれるたびに部屋の空気が薄く震え、その震えが壁に当たって丸くなって戻ってくる。瑞希は間を拾い、目だけで客席と通話を続けている。謝意、肯定、再会。それぞれが無言で往復し、空気が温度を持った。

 途中で窓の外がざっと暗くなった。雲の層が一段厚くなったのだろう。談話室の灯りは変わらないのに、外の色が落ちたぶん、室内の声は輪郭をはっきりさせる。
 詩の最後の行を読み、サエは手紙に移った。差出人のない、短い手紙。
 「橋のまんなかで足を止めて、わたしは川に『また』と言いました。返事はありません。けれど、水面が一度だけ震えました。あれで十分でした」

 読み終わった瞬間、部屋にうすい沈黙が降りる。拍手はない。代わりに、椅子のきしみが一度だけ低く鳴って、すっと消えた。
 看護師が入口で小さく指を丸くしてみせる。合図。届いた。瑞希が拳をほどく。無言の「また」。サエは喉の奥に同じ形を置いた。

     *

 終演後、談話室の片隅で紙コップの水を分け合っていると、少年が近づいてきた。
 「今日のも、録っていいですか」
 「もちろん」
 「僕、たまに怖くなって声が出なくなるけど、夜は少し出ます」
「夜は低いから、落ち着く」
 「低い」
 少年はその言葉を口の中で一度転がし、ポケットから丸い紙を取り出して机の端に置いた。真ん中に鉛筆の点。中心点。置く、だけ。
 瑞希が少年の肩を軽く叩いた。「よく来たね。帰り、一緒に角を集めながら歩こう」
 少年はうれしそうにうなずいた。声は出さない。十分だった。

 外へ出ると、病院の前の空は群青に沈んでいた。ビルの窓に散らばる灯が、街の呼吸に合わせて瞬く。
 そのとき、遠くから低いサイレンのような音が聞こえた。非常時ではない。市の広報車だ。珍しく夜の放送をしている。
 「本日二十一時より十分間、街の灯りを一部落として“静かな夜”の実験を行います。外にいる人は安全に。家の中の灯りは各自の判断で……」
 瑞希が目を丸くする。「ね、これ……」
 「街の“また”だ」
 「だよね」
 看護師が小さく笑って、「さあ、どの角で受け取る?」と尋ねた。
 「橋」
 サエと瑞希と少年は顔を見合わせ、自然と頷いた。

     *

 橋は、街の真ん中にあるのに外に近い場所だ。音が丁寧にほどけ、風が線で渡ってくる。欄干の上を走る風の粒が、灯りを小さく揺らす。
 二十一時。ゆっくりと、街の灯が落ちていく。大通りから一本奥の通り、さらに細い路地へと順番に暗さが伸びる。完全な闇にはならない。点は残る。
 人の声が高く上がる気配はあるのに、刺さらない。空気の密度が落ち、代わりに足音が地面へまっすぐ落ちていく。
 瑞希が「合図」と口だけで言う。サエは小さくうなずき、喉の奥の戻る矢印を太くする。少年は欄干の端の丸い錆を指でなぞり、視線を橋脚の影に置いた。

 「ありがとう」
 サエは低く言った。
 「大丈夫」
 風が欄干を撫でた。
「また」
 川面が、一度だけ、確かに震えた。

 その一瞬、まわりの灯が同じリズムで短く瞬き、どこかで笑い声が起きてすぐに落ちる。知らない誰かの無言の返事が、橋の上にいくつも置かれていくのが分かった。
 瑞希が肩を寄せる。少年が少し背伸びをする。三人の等間隔は壊れない。
 「ねえ、サエ」
 「うん」
 「今日のこれは、トモくんの“また”に似てる?」
 「うん。でも、きっともっと大きい。“みんなのまた”」
 「いいね」
 瑞希は笑い、少年は欄干の向こうの暗さを見つめた。暗さは怖くない。暗さは低い。声は低いほど、置きやすい。

     *

 灯が戻る前に、橋のたもとで一度、短い風が起きた。街のどこかで、誰かがひとつ、低い声で「ありがとう」と言った気がした。
 サエは黒い石を掌で包んだ。石は冷たく、しかし表面の金の粒は明滅のリズムをつかんでいる。
 明かりがゆっくり戻る。提灯の列が遠くで再点灯する。アナウンスはない。戻り方にも合図はいらないのだろう。戻る矢印は、街の喉の奥でじゅうぶん太くなっていた。

 病院の方向へ歩く途中、道の端で年配の女性がしゃがみ込んでいた。紙袋から落ちた缶詰が転がり、道路の真ん中で止まっている。車の列は遅く、クラクションは鳴らない。
 サエは走らない。歩幅は変えない。等間隔の上をそのまま進み、缶詰の手前でしゃがむ。拾う。女性と目を合わせない。缶を差し出さない距離で傾ける。視線だけで、置く。「どうぞ」という低い形。
 女性はうなずかず、しかし受け取る。
 「ありがとう」
 その声は低く、短く、地面に落ちた。十分だった。
 少年がそれを見て、ポケットの丸い紙を小さく折りたたみ、胸ポケットに入れ直した。置く場所が増えた、と言うように。

     *

 帰宅すると、部屋はまだ夜の中にいた。スタンドライトの黄色だけが机の上に小さな島をつくる。瓶はほとんど空で、底に残った薄い水が金の粒を受け止めている。
 レコーダーを取り出し、橋の上で録った短いざわめきの無音部分と、川の低い息を繋いだ。タイトルは「夜を渡る音」。
 添える文字は少なくていい。
 ここに置きます。
 受け取れる人が、受け取るときに。
 送信ボタンを押す。矢印は紙の外に飛ぶ。戻らなくていい矢印もある、とサエは知っている。

 ――ねえ、サエ。
 「なに」
 ――今日は、どのくらい残った?
 「ほとんど残った。消えたものは、外に行っただけ」
 ――外は、広い。
 「戻る矢印、太さは十分」
 ――じゃあ、もう一つ行ける。
 「どこへ」
 ――街の“交差点”。声の交差点。

     *

 日曜日の昼、図書室で臨時の集まりがあった。名札はない。呼び名もない。椅子は低くて同じ。
 看護師が貸し出しカウンターの側で頷き、瑞希が司会を九対一の割合で務め、サエは端の席から順番に「置く」を見届けた。
 それは発表会ではなく、交換会でもない。
 誰かの「ありがとう」が無言で置かれ、誰かの「大丈夫」がうなずきになり、誰かの「また」が視線の角度で返った。
 少年は最初の合図から二巡後に口を開いた。
 「ぼく、夜より昼のほうが怖いけど、今は大丈夫です」
 言えた。喉の奥の戻る矢印が太くなっているのを、言った本人が確かめるように目を閉じた。拍手はしない。空気が息で丸くなる。十分だった。

 終わったあと、図書室のドアの内側に一枚の白紙が貼られた。真ん中にだけ点。中心点。下に小さく、瑞希の字。
 ここから先は白紙です。
 あなたの矢印を書いてください。
 句読点は自由。
 無言ならなお良し。
 その紙の前に、人が並んだ。ペンは一本。急がない。誰も焦らない。白紙は縮まない。

     *

 夕方、サエは一人で川べりのベンチに座った。祭りの片づけが半分残り、遠くの太鼓が皮の余韻だけを吐き出している。
 スマートフォンが一度だけ震えた。
 〈夜の音、受け取りました〉
 〈今度は、こちらから〉
 添付された音は短かった。病室の窓の内側で鳴る、ごく低い空調の音と、ガラスに当たる風の匂いだけ。
 そこに、誰かの息が重なる。
 形のない「ありがとう」が、確かにあった。
 サエは目を閉じ、返事をしないで胸の左に置いた。置いたものは、刃にならない。輪になる。輪は、次の誰かの「また」を受け取る皿になる。

 「ねえ、ルウガ」
 ――なに。
 「最終回に、何を置けばいいんだろう」
 ――置かなくても、残るものがある。
 「それは、声?」
――それも。
「灯?」
――それも。
「じゃあ、何」
――歩幅。
「歩幅」
――君の歩幅で、君の道をいく。それを読んで、置いて、渡して、また。
 サエは笑った。声は出さない。笑いは空気の上で丸くなる。

     *

 夜。
 街は、昨日よりも少しだけ静かだった。実験のせいかもしれないし、風の向きかもしれない。
 橋の上を、もう一度渡る。欄干の錆に指をあて、視線を橋脚の影に置く。
 ありがとう。
 大丈夫。
 また。
 低く、短く、置く。
 川面は、昨日よりもゆっくり震えた。返事は遅れてきても、同じ重さを持っていた。

 スマートフォンに、瑞希から短い連絡。
 〈明日、放送室を借りられるよ。昼休み、校内向けに“置き声”流さない?〉
 〈いいね。三語だけ〉
 〈あと、一曲分の無音〉
 〈最高〉
 校内放送で無音を流す。おそらく反対はある。理由を尋ねられるかもしれない。
 でも、理由はいらない。無音は音だ。置けば分かる人に届く。分からない人にも害にならない。角のない説明は、説明のいらない場所に置けばいい。

 帰り道、パン屋の前を通ると、明日の仕込みの香りが低く漂った。甘い匂いは高くなりがちだが、この店の香りはいつも地面に近いところでほどける。
 店のガラスに自分の影が映る。背は伸びていない。顔も変わらない。
 でも、喉の奥の戻る矢印は確かに太くなっている。胸の左の方角は、簡単に開く。
 黒い石を掌で包むと、金の粒が一度だけ明滅した。
 行ける。渡れる。置ける。
 そう思えた。根拠はいらない。歩幅は、もう自分のものだ。

     *

 深夜、窓を開けて部屋の灯を消す。外の灯がひとつずつ遠くへ下がり、風が机の上を撫でる。瓶の底で金の粒が淡く光り、やがて見えなくなる。
 サエはベッドに横たわり、息をゆっくり落とした。
 トモの声は、もう音としては現れない。
 けれど、残響は日中より夜のほうが近い。
 「また」と言う口の形だけで、胸の奥が応える。
 誰かの声が夜を渡ってゆく。
 その声に、自分の声が重なる。
 重なったまま、眠りに落ちる。
 明日の昼、“置き声”を校内へ。明日の夜、もう一度、街へ。
 その先で、最終回に何を置くかは、最終回の手前で決めればいい。
 今夜は、ただ渡る。
 夜を、静かに。
 声の灯のある方へ。

 夜は低く、やわらかかった。
 風が、ゆっくりとページをめくる音を立てた。
 ページの先は白紙で、真ん中にだけ点。
 中心点は、呼吸と同じリズムで、
 小さく、確かに、灯っていた。