声の向こうで、君を見ていた

 金曜の午後、空はゆっくりと灰色に沈んでいった。
 放課後のチャイムが鳴るころ、教室にはもう準備の音がなく、静かな空気が残っていた。
 瑞希が黒板の前に立ち、色チョークを並べ直している。灰色、白、薄桃。どれも淡い。
 「今日、本番だね」
 「うん」
 「緊張してる?」
 「少し。息が短くなるのは、まだ癖」
 「いい癖じゃん」
 「どうして?」
 「息が短いと、声が優しく聞こえる」
 瑞希は笑って、サエの肩を軽く叩いた。その手の感触が、前よりもずっと軽い。

 サエは机の上の荷物をまとめた。手帳、マイク、レコーダー。
 今日は、病院での“読む時間”の本番だ。
 「来る?」
 「うん、約束したでしょ。合図を置きに行く」
 「じゃあ、角で」
 「角」
 「はい」

     *

 バスの車窓に、街がゆっくりと流れていく。
 信号の音、店のシャッター、歩行者の靴音。
 以前よりも全部が柔らかい。世界の音が、“誰かの声”の続きを演じているように感じた。

 病院のロビーには淡い音楽が流れていた。
 ピアノの低音が、空気を溶かすように響く。
 受付のカウンターの上に、小さな紙が貼られている。
 〈本日「読む時間」17:30より〉
 〈朗読:斎宮サエ〉
 〈司会:瑞希〉

 案内の文字を見つめているうちに、背中から小さな声が聞こえた。
 「……サエ?」
 振り返ると、あの一年の少年が立っていた。
 制服の裾を整え、手には折りたたまれた紙。
 「来てくれたんだ」
 「聴いてみたくて」
 「ありがとう」
 「今日の、どんな話?」
 「歩く話。誰かとすれ違っても、止まらずに歩く話」
 少年は頷き、椅子に腰かけた。

 談話室の照明は少し暗くされていた。
 窓の外は夕暮れ。
 サエはマイクの前に座り、息を整えた。
 手元の紙には、短い詩が印刷されている。
 声を出す。

 「歩く音を、聴いている」
 「靴の底が、同じリズムで地面を叩く」
 「誰かと並んでも、ひとりでも、その音は変わらない」

 喉の奥が軽く震えた。
 空気の中に円が広がり、それが壁で反射して、また戻ってくる。
 瑞希が横でページをめくる。
 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」
 その三つの言葉を、合間に瑞希が口の動きだけで置く。
 誰も声に出さないのに、会場の空気がひとつにまとまっていくのが分かる。

 ルウガが囁く。
 ――今、この部屋の音は全部“声”になってる。
 「……わかる」
 ――怖い?
 「ううん。気持ちいい」

 最後の一文を読んだとき、部屋の時計が17時半を少し過ぎていた。
 音が止まる。
 しかし、その“止まり”が温かい。
 拍手はなかった。
 代わりに、小さな息の音が何度か重なった。
 誰かが泣いているようにも、笑っているようにも聞こえる。
 それで、十分だった。

     *

 朗読が終わったあと、サエは控え室の椅子に座り、手を膝に置いた。
 瑞希が紙コップの水を渡してくれる。
 「緊張した?」
 「少し。でも、もう戻れないほど怖くはなかった」
 「戻らなくていいよ。外に行くときは、わたしも行く」
 「外?」
 「“紙の外”。この前言ってたじゃん」
 サエは笑って、「覚えてたんだ」と言った。
 瑞希は唇を尖らせて、「当たり前でしょ」と返した。

 ドアの外から、小さな声がした。
 「……サエさん」
 さっきの少年だった。
 手には折りたたまれた紙。
 「これ、読んでほしい」
 「君が書いたの?」
 「はい。今日、初めて書いた」
 紙には、小さな文字でこう書かれていた。

 〈ひとりでも歩けるようになったけど、
  ときどき一緒に歩きたい。〉

 サエは紙を見て、ゆっくりと頷いた。
 「いい詩だね」
 「変じゃない?」
 「まっすぐで、ちゃんと歩いてる言葉」
 少年は照れたようにうつむき、「ありがとう」と言った。
 その声の低さが、トモを思い出させた。

 瑞希がそのやりとりを見ながら、静かに言った。
 「ねえ、サエ」
 「うん?」
「この子さ、トモくんの“また”なんじゃない?」
 サエは驚いて瑞希を見た。
 「それ、どういう意味?」
 「“また”って、声が途切れないための合図でしょ?
  だったら、この子が聞いて、書いて、ここに来た時点で、
  トモくんの“また”が続いてるんだよ」

 その言葉に、サエは少しだけ目を閉じた。
 ――そうかもしれない。
 トモの声は残響として街に残った。
 そして、それを拾って言葉にしたこの少年が、次の響き。
 まるで線が連なっていくようだった。

     *

 帰り道。
 空はもうすっかり夜になっていた。
 街灯の光が雨上がりの道に反射して、薄い金色の輪を作っている。
 遠くでバスのエンジン音、店のシャッター、風の唸り。
 どの音も、どこか優しい。

 瑞希と並んで歩く。
 「ねえ」
 「うん」
 「“また”って、いつまで続くんだろうね」
 「終わらないんじゃない?」
 「終わらない?」
 「うん。終わらないから、終わりが美しいんだと思う」
 「……それ、トモくんが言いそう」
 「たぶん、ルウガが先に言ってる」
 瑞希は笑って、「じゃあ私の次はルウガか」と肩を並べた。

 風が吹いて、街の明かりが少し揺れる。
 その光がまるで音符のように並び、夜の空を飾っていた。

     *

 家に帰ると、机の上の瓶がほとんど空になっていた。
 水は透明な薄い層を残すだけ。
 そこに、黒い石がひとつ沈んでいる。
 その上で、金の粒がゆっくりと光を放っていた。

 「ねえ、ルウガ」
 ――なに。
 「今日、誰かの声を読んだら、わたしの声が軽くなった」
 ――声は重ねると軽くなる。音は、響かせると減るんじゃなくて“分ける”。
 「分ける」
 ――分けたぶん、誰かの喉に届く。それが、灯。
 「声の灯」
 ――そう。君の声は、灯になった。

 窓を開けると、風が部屋に流れ込む。
 街の明かりが遠くに滲んでいる。
 それぞれの光が、まるで小さな“声”みたいに瞬いていた。

 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」

 サエは小さく声を出した。
 喉の奥が温かい。
 その声は、部屋の中で反響して、ゆっくりと消えていった。
 けれど、“消えた”というより、“外へ出た”感じがした。

     *

 夜更け。
 スマートフォンが一度だけ震えた。
 新しいメッセージ。送り主の名前はない。

 〈声の灯、届きました〉
 〈聴こえたよ〉

 文字の下に、小さな写真が添付されていた。
 病院の窓辺。そこに、小さな灯が一つ。
 瓶の中に光が入っている。まるで、サエの瓶と同じ。

 胸の奥が熱くなった。
 もう涙は出なかった。
 ただ、呼吸が深くなっていく。

 「……届いた」
 ――うん、灯のある方へ。
 「行っていいのかな」
 ――行って。君の声の道は、まだ続いてる。

 サエはレコーダーを手に取った。
 新しいトラックを作成し、録音ボタンを押す。
 息を整えて、短く話す。

 「ここは、まだ灯のある場所です」
 「あなたの声も、きっとこの中にあります」

 再生ボタンを押す。
 部屋の中に、自分の声が流れる。
 そして、その声の後ろで、トモの低い笑い声が重なった気がした。

 ――“また”って、いい言葉だね。

 サエは笑って、うなずいた。
 外の灯が、ゆっくりと瞬いた。

 その光は、確かに“声の灯”のある方角だった。