朝の空はやけに静かだった。
鳥の声も遠く、風の音さえ聞こえない。
サエはカーテンを開けて、街を見た。
車が動いているのに、音がなかった。
世界が、ミュートになったみたいだった。
最初に気づいたのは時計の秒針だった。
動いているのに、音がしない。
それを見てから、サエはようやく「世界の音」が消えていることを理解した。
「……ルウガ」
――聞こえるよ。
「音、どこ行ったの?」
――たぶん、みんなの“外”が疲れたんだ。
「外?」
――音は外側の呼吸だから。外が息を止めたら、音は止まる。
サエは深呼吸をした。
息の音は、ちゃんと聞こえる。
自分の中だけがまだ“生きている”。
*
登校途中、誰も話していなかった。
自転車のベルも鳴らない。
でも、不安そうな顔をする人は少なかった。
皆、「そういう日もある」と思っているようだった。
学校の門をくぐると、放送機が無音のまま点滅していた。
黒板のチョークが動くけれど、擦れる音がない。
担任が口を開いて何かを言っているけれど、声は出ない。
瑞希が隣の席からメモを差し出した。
〈これ、怖いね。でも、不思議と静かで落ち着く〉
サエは頷いて、返した。
〈世界が息をしてる音が消えただけ。戻るよ〉
瑞希は笑って、「信じてる」と口だけ動かした。
*
昼休み。
校舎の裏で風が木の枝を揺らしている。
けれど、その揺れにも音はない。
音が消えると、色が濃く見えることをサエは知った。
光が“響く”ように見える。
そこへ、一年の少年がやってきた。
彼は手帳を開いて、文字を見せた。
〈音、いつ戻る?〉
サエは答えるように書いた。
〈音は“待ってる”。誰かの声が先に出るのを〉
〈誰の?〉
〈きっと、君とか、わたしとか〉
少年は少し考えて、ペンを動かした。
〈じゃあ、声を出してみる〉
口を開き、何かを言った。
声は出なかった。
でも、その瞬間、サエの胸の奥で小さな「響き」が生まれた。
まるで遠くの鐘の音のような、微かな震え。
――誰かが“呼んだ”んだ。
*
放課後、空の色は青から灰に変わっていた。
校舎の屋上に上がると、風が強く吹いているのに音がない。
街全体が、夢の中に閉じ込められたようだった。
サエは手帳を開き、昨日のページを見た。
〈“また”とは、響きの続き〉
その文字が、今日だけ特別に光って見えた。
ルウガの声が聞こえた。
――サエ、今なら届く。
「どこに?」
――全部の“外”。世界の外。
「そんな場所、あるの?」
――ある。君が声を出すときだけ、そこに繋がる。
サエは目を閉じた。
胸の中で息を整える。
声を出すのは、怖くなかった。
喉の奥から、低い声が出た。
最初は空気の震えだけだった。
けれど、それが少しずつ形になっていく。
「ありがとう」
屋上の空が、ゆっくりと明るくなった。
「大丈夫」
風が再び音を取り戻す。
「また」
遠くの教室で誰かが息を呑む音がした。
その瞬間、街全体が小さく震えた。
*
翌朝。
目を覚ますと、鳥の声が戻っていた。
時計の秒針が音を刻んでいる。
外の車の音、人の話し声、風の音――すべてが戻っていた。
けれど、それは昨日と少し違っていた。
音が柔らかい。
角がなく、すべての音がどこかで“誰かの声”と重なっていた。
学校に行くと、廊下の掲示板に貼り紙があった。
〈昨日の“音の消失”は気象による一時的な現象です〉
とだけ書かれていた。
けれど、その下に小さく誰かの字で添えられていた。
〈でも、声が戻ったのは、誰かが呼んだから〉
瑞希がサエを見て笑った。
「ねえ、呼んだの、サエでしょ?」
「さあ、どうだろう」
「ずるい言い方」
「そういう日が、あっていい」
*
放課後。
空はやわらかなオレンジに染まっていた。
瑞希と一年の少年、それに何人かの生徒が屋上に集まっていた。
合唱祭のあとにできた“声を置く会”。
誰が名づけたのかは分からない。
けれど、みんながその時間を気に入っていた。
ピアノも、マイクも、音響もない。
ただ、口を開き、それぞれの言葉を出す。
音が風に混ざっていく。
ルールはない。ただ“置いていく”。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
声が重なり、風が光を連れてくる。
それはまるで“トモの声の続き”のようだった。
瑞希が振り向き、笑う。
「ねえ、サエ。今の時間、なんか懐かしい」
「うん。たぶん、あの人が聞いてる」
「トモくん?」
「うん。世界のどこかで、まだ響いてる」
風が吹き抜けた。
誰かの声が遠くで重なる。
サエはそれが幻ではないと分かっていた。
*
夜。
部屋の窓を開けると、外の空気が静かに流れ込んできた。
瓶の水はもうほとんど残っていない。
黒い石の表面に、金の粒がひとつだけ光っていた。
サエは手帳を開いて、ゆっくりと書いた。
――音が消えた日、世界は静かに生まれ変わった。
――声は戻った。でも、もう違う。
――これは“誰かの声”じゃなく、“みんなの響き”だ。
ペンを置く。
窓の外では、虫の声が夜の中を渡っていた。
それが昨日より少し柔らかく聞こえるのは、たぶん気のせいではない。
ルウガの声が最後に響いた。
――ねえ、サエ。
「なに?」
――君の声、もう外にある。
「外に?」
――うん。もう君の中だけの音じゃない。誰かの世界で鳴ってる。
「それなら、もう大丈夫だね」
――そうだね。
サエは笑った。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
風が頬を撫でた。
その風の音が、もう一度、世界の中に戻っていった。
*
次の日の朝。
サエは窓の外の光を見ながら、耳を澄ませた。
世界は相変わらずざわざわしていた。
でも、そのざわめきの中に確かに「声」があった。
トモの声。
瑞希の声。
少年の声。
そして、自分の声。
全部が重なって、世界を包んでいた。
サエはそっと言葉を落とした。
「今日も、等間隔の上を歩こう」
黒い石が小さく光る。
瓶の底に、微かな金の粒が沈んでいた。
世界は、まだ響いていた。
鳥の声も遠く、風の音さえ聞こえない。
サエはカーテンを開けて、街を見た。
車が動いているのに、音がなかった。
世界が、ミュートになったみたいだった。
最初に気づいたのは時計の秒針だった。
動いているのに、音がしない。
それを見てから、サエはようやく「世界の音」が消えていることを理解した。
「……ルウガ」
――聞こえるよ。
「音、どこ行ったの?」
――たぶん、みんなの“外”が疲れたんだ。
「外?」
――音は外側の呼吸だから。外が息を止めたら、音は止まる。
サエは深呼吸をした。
息の音は、ちゃんと聞こえる。
自分の中だけがまだ“生きている”。
*
登校途中、誰も話していなかった。
自転車のベルも鳴らない。
でも、不安そうな顔をする人は少なかった。
皆、「そういう日もある」と思っているようだった。
学校の門をくぐると、放送機が無音のまま点滅していた。
黒板のチョークが動くけれど、擦れる音がない。
担任が口を開いて何かを言っているけれど、声は出ない。
瑞希が隣の席からメモを差し出した。
〈これ、怖いね。でも、不思議と静かで落ち着く〉
サエは頷いて、返した。
〈世界が息をしてる音が消えただけ。戻るよ〉
瑞希は笑って、「信じてる」と口だけ動かした。
*
昼休み。
校舎の裏で風が木の枝を揺らしている。
けれど、その揺れにも音はない。
音が消えると、色が濃く見えることをサエは知った。
光が“響く”ように見える。
そこへ、一年の少年がやってきた。
彼は手帳を開いて、文字を見せた。
〈音、いつ戻る?〉
サエは答えるように書いた。
〈音は“待ってる”。誰かの声が先に出るのを〉
〈誰の?〉
〈きっと、君とか、わたしとか〉
少年は少し考えて、ペンを動かした。
〈じゃあ、声を出してみる〉
口を開き、何かを言った。
声は出なかった。
でも、その瞬間、サエの胸の奥で小さな「響き」が生まれた。
まるで遠くの鐘の音のような、微かな震え。
――誰かが“呼んだ”んだ。
*
放課後、空の色は青から灰に変わっていた。
校舎の屋上に上がると、風が強く吹いているのに音がない。
街全体が、夢の中に閉じ込められたようだった。
サエは手帳を開き、昨日のページを見た。
〈“また”とは、響きの続き〉
その文字が、今日だけ特別に光って見えた。
ルウガの声が聞こえた。
――サエ、今なら届く。
「どこに?」
――全部の“外”。世界の外。
「そんな場所、あるの?」
――ある。君が声を出すときだけ、そこに繋がる。
サエは目を閉じた。
胸の中で息を整える。
声を出すのは、怖くなかった。
喉の奥から、低い声が出た。
最初は空気の震えだけだった。
けれど、それが少しずつ形になっていく。
「ありがとう」
屋上の空が、ゆっくりと明るくなった。
「大丈夫」
風が再び音を取り戻す。
「また」
遠くの教室で誰かが息を呑む音がした。
その瞬間、街全体が小さく震えた。
*
翌朝。
目を覚ますと、鳥の声が戻っていた。
時計の秒針が音を刻んでいる。
外の車の音、人の話し声、風の音――すべてが戻っていた。
けれど、それは昨日と少し違っていた。
音が柔らかい。
角がなく、すべての音がどこかで“誰かの声”と重なっていた。
学校に行くと、廊下の掲示板に貼り紙があった。
〈昨日の“音の消失”は気象による一時的な現象です〉
とだけ書かれていた。
けれど、その下に小さく誰かの字で添えられていた。
〈でも、声が戻ったのは、誰かが呼んだから〉
瑞希がサエを見て笑った。
「ねえ、呼んだの、サエでしょ?」
「さあ、どうだろう」
「ずるい言い方」
「そういう日が、あっていい」
*
放課後。
空はやわらかなオレンジに染まっていた。
瑞希と一年の少年、それに何人かの生徒が屋上に集まっていた。
合唱祭のあとにできた“声を置く会”。
誰が名づけたのかは分からない。
けれど、みんながその時間を気に入っていた。
ピアノも、マイクも、音響もない。
ただ、口を開き、それぞれの言葉を出す。
音が風に混ざっていく。
ルールはない。ただ“置いていく”。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
声が重なり、風が光を連れてくる。
それはまるで“トモの声の続き”のようだった。
瑞希が振り向き、笑う。
「ねえ、サエ。今の時間、なんか懐かしい」
「うん。たぶん、あの人が聞いてる」
「トモくん?」
「うん。世界のどこかで、まだ響いてる」
風が吹き抜けた。
誰かの声が遠くで重なる。
サエはそれが幻ではないと分かっていた。
*
夜。
部屋の窓を開けると、外の空気が静かに流れ込んできた。
瓶の水はもうほとんど残っていない。
黒い石の表面に、金の粒がひとつだけ光っていた。
サエは手帳を開いて、ゆっくりと書いた。
――音が消えた日、世界は静かに生まれ変わった。
――声は戻った。でも、もう違う。
――これは“誰かの声”じゃなく、“みんなの響き”だ。
ペンを置く。
窓の外では、虫の声が夜の中を渡っていた。
それが昨日より少し柔らかく聞こえるのは、たぶん気のせいではない。
ルウガの声が最後に響いた。
――ねえ、サエ。
「なに?」
――君の声、もう外にある。
「外に?」
――うん。もう君の中だけの音じゃない。誰かの世界で鳴ってる。
「それなら、もう大丈夫だね」
――そうだね。
サエは笑った。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
風が頬を撫でた。
その風の音が、もう一度、世界の中に戻っていった。
*
次の日の朝。
サエは窓の外の光を見ながら、耳を澄ませた。
世界は相変わらずざわざわしていた。
でも、そのざわめきの中に確かに「声」があった。
トモの声。
瑞希の声。
少年の声。
そして、自分の声。
全部が重なって、世界を包んでいた。
サエはそっと言葉を落とした。
「今日も、等間隔の上を歩こう」
黒い石が小さく光る。
瓶の底に、微かな金の粒が沈んでいた。
世界は、まだ響いていた。



