朝の空は、白に近い青だった。
風は冷たくなく、空気が薄く透明だ。
サエは歩きながら、息が遠くまで届く気がした。
それだけで、胸の奥が少し広くなる。
通学路の途中にある花屋の前で足を止める。
ガラスの中で、新しい花が並んでいた。薄紫の小さな花。名札に「アゲラタム」と書かれている。
店主が水を換えている最中だった。
「この花、音がしそうだね」
サエが言うと、店主は笑った。
「“静かな音”がするんだ。風が吹くと、目にだけ聞こえる」
「目に?」
「そう。見ていると、揺れ方が声みたいに違うんだ」
店主の手が水を注ぐたびに、花が小さく揺れた。
風ではなく、水の重さで動く。
サエはその揺れを見ながら思う。
――あの人の声も、目に見えていた気がする。
*
教室では、文化祭の準備が始まっていた。
黒板に紙を貼る音、ガムテープの引き剥がす音、笑い声。
音の層が厚い。
けれど、刺さらない。
以前なら刃のように感じた音が、今日はすべて丸い。
音の中に“隙間”がある。そこを歩ける。
「サエ、看板文字どうする?」
瑞希が聞く。
「黒だと強いから、灰色がいい」
「地味じゃない?」
「光の当たり方で変わる」
「……そういうとこ、詩人だよね」
「詩人っていうより、ただの観察」
瑞希は笑って、「どっちでもいいけど、似合ってる」と言った。
教室の隅では、一年の少年が手伝いに来ていた。
彼が紙を押さえると、貼る音がやわらかい。
音の中で、呼吸が混ざる。
「いい音だね」とサエが言うと、少年は少し照れた。
「強く押すと破れるから」
「その力加減、覚えた?」
「昨日、練習した」
「えらい」
少年は笑ってうなずいた。その笑い声は低く、安定していた。
少し前まで震えていた声が、今は地面に立っている。
*
放課後、瑞希が言った。
「今日、図書室で“音の展示”があるらしいよ」
「展示?」
「誰かが録音した“街の音”を流すんだって。文化部の企画」
「……行ってみたい」
図書室の中は、照明が落とされていた。
机の上に小さなスピーカーがいくつも並んでいる。
スピーカーの前には短いメモ。
〈交差点・午前7時〉
〈屋上・放課後〉
〈商店街・夕暮れ〉
〈教室・昼休み〉
スピーカーの音が順番に流れる。
人の話し声、風、足音、鳥の鳴き声。
全部、知っている音。
でも、耳で聞くと違う。
「音って、風景に似てるね」と瑞希が言った。
「似てる。形がないけど、確かにそこにある」
サエは一つのスピーカーの前で止まった。
〈病院・夜〉と書かれた札。
再生ボタンを押すと、遠くの風の音が流れる。
その中に――声。
「……聞こえる?」
低くて、懐かしい声。
トモの声だった。
「この音は、たぶん最後の夜。
風が止まって、瓶の水が光ってた。
その中で、君の声を思い出した」
瑞希が振り返る。
「サエ?」
「……うん」
トモの声が続く。
「音は消えるけど、響きは残る。
残響っていうんだって。
だから、もし僕の声が消えても、残響は君の中に残る。
それでいい。
それが“また”の正体」
音が途切れた。
スピーカーの光がゆっくり消える。
サエは立ち尽くしていた。
目の奥が熱い。
けれど涙は出ない。
代わりに、呼吸が深くなった。
「……瑞希」
「うん」
「今、世界の音がぜんぶ“返事”してる気がする」
「それ、すごくいいね」
「たぶん、そういう奇跡」
*
夜、外に出ると雨が降り始めていた。
細かい雨。
アスファルトを叩く音が一定のリズムを作っている。
その音が、まるでトモの声の呼吸のように感じた。
傘をささず、サエは歩いた。
光の反射が街の中に散っている。
信号の赤、コンビニの白、ネオンの青。
それぞれの光が、まるで音符のように街を流れていく。
「ありがとう」
呟くと、電線が雨粒を落とした。
「大丈夫」
ビルのガラスに水滴が滑る。
「また」
足元の水たまりが、わずかに波打つ。
まるで世界が、返事をしているみたいだった。
*
家に戻ると、瓶の水が少し減っていた。
サエはそれを不思議に思わなかった。
水は減るものだ。
でも、それは消えたのではない。
どこかで雨になって、空に戻っただけ。
「ねえ、ルウガ」
――なに。
「トモの声、まだ残ってる?」
――残響として。
「どのくらい残る?」
――君が“聞こうとする限り”。
サエは小さく笑った。
「じゃあ、ずっとだね」
――そうだね。
机に向かい、手帳を開く。
今日は書くことが多かった。
花屋、教室、図書室、雨、光、音。
そして、残響。
最後の行に書いた。
――“また”とは、終わりじゃなく、響きの続き。
*
翌朝。
空は晴れていた。
昨日の雨が、道の上で細かい光を散らしている。
サエは橋の上に立ち、風を感じた。
川の水が流れる音が、まるで声のように聞こえる。
それはトモの声ではない。
でも、確かに同じ方角を向いていた。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
声を出すと、風が答えた。
その瞬間、胸の中で何かが重なった。
もう、悲しみじゃない。
もう、孤独じゃない。
世界の音と、自分の声が、ひとつになっていた。
*
学校に着くと、昇降口の壁に新しい掲示物が貼られていた。
「街の静かな場所マップ」が拡張されている。
新しい丸のひとつに、手書きの文字。
〈図書室のスピーカー前〉
〈聞こえない声が聞こえる場所〉
その横に、小さく添えられた言葉。
――“残響を聴くときは、静かに笑ってください”。
誰が書いたのかは分からない。
でも、その字の角の取り方に見覚えがあった。
あの一年の少年の筆跡。
サエは小さくうなずき、掲示物の前に立って目を閉じた。
静けさの中で、ほんの一瞬、トモの声がした気がした。
「おはよう」
「うん、おはよう」
声に出して返した。
もう誰も、気づかないくらい自然に。
*
放課後。
空の色は少しだけ夕方に近い。
光でも影でもない時間。
サエは手帳を閉じ、深く息を吸った。
その呼吸の音が、今日の最後の記録になる。
胸の中で、トモの残響が静かに薄れていく。
けれど、それは“消える”のではない。
薄くなって、空気に混ざっていく。
その方が自然だ。
その方が、きっと生きている。
窓の外、街の灯が一つずつ灯る。
その灯が全部、誰かの声に見えた。
そしてサエは思った。
――この世界は、まだちゃんと響いている。
風は冷たくなく、空気が薄く透明だ。
サエは歩きながら、息が遠くまで届く気がした。
それだけで、胸の奥が少し広くなる。
通学路の途中にある花屋の前で足を止める。
ガラスの中で、新しい花が並んでいた。薄紫の小さな花。名札に「アゲラタム」と書かれている。
店主が水を換えている最中だった。
「この花、音がしそうだね」
サエが言うと、店主は笑った。
「“静かな音”がするんだ。風が吹くと、目にだけ聞こえる」
「目に?」
「そう。見ていると、揺れ方が声みたいに違うんだ」
店主の手が水を注ぐたびに、花が小さく揺れた。
風ではなく、水の重さで動く。
サエはその揺れを見ながら思う。
――あの人の声も、目に見えていた気がする。
*
教室では、文化祭の準備が始まっていた。
黒板に紙を貼る音、ガムテープの引き剥がす音、笑い声。
音の層が厚い。
けれど、刺さらない。
以前なら刃のように感じた音が、今日はすべて丸い。
音の中に“隙間”がある。そこを歩ける。
「サエ、看板文字どうする?」
瑞希が聞く。
「黒だと強いから、灰色がいい」
「地味じゃない?」
「光の当たり方で変わる」
「……そういうとこ、詩人だよね」
「詩人っていうより、ただの観察」
瑞希は笑って、「どっちでもいいけど、似合ってる」と言った。
教室の隅では、一年の少年が手伝いに来ていた。
彼が紙を押さえると、貼る音がやわらかい。
音の中で、呼吸が混ざる。
「いい音だね」とサエが言うと、少年は少し照れた。
「強く押すと破れるから」
「その力加減、覚えた?」
「昨日、練習した」
「えらい」
少年は笑ってうなずいた。その笑い声は低く、安定していた。
少し前まで震えていた声が、今は地面に立っている。
*
放課後、瑞希が言った。
「今日、図書室で“音の展示”があるらしいよ」
「展示?」
「誰かが録音した“街の音”を流すんだって。文化部の企画」
「……行ってみたい」
図書室の中は、照明が落とされていた。
机の上に小さなスピーカーがいくつも並んでいる。
スピーカーの前には短いメモ。
〈交差点・午前7時〉
〈屋上・放課後〉
〈商店街・夕暮れ〉
〈教室・昼休み〉
スピーカーの音が順番に流れる。
人の話し声、風、足音、鳥の鳴き声。
全部、知っている音。
でも、耳で聞くと違う。
「音って、風景に似てるね」と瑞希が言った。
「似てる。形がないけど、確かにそこにある」
サエは一つのスピーカーの前で止まった。
〈病院・夜〉と書かれた札。
再生ボタンを押すと、遠くの風の音が流れる。
その中に――声。
「……聞こえる?」
低くて、懐かしい声。
トモの声だった。
「この音は、たぶん最後の夜。
風が止まって、瓶の水が光ってた。
その中で、君の声を思い出した」
瑞希が振り返る。
「サエ?」
「……うん」
トモの声が続く。
「音は消えるけど、響きは残る。
残響っていうんだって。
だから、もし僕の声が消えても、残響は君の中に残る。
それでいい。
それが“また”の正体」
音が途切れた。
スピーカーの光がゆっくり消える。
サエは立ち尽くしていた。
目の奥が熱い。
けれど涙は出ない。
代わりに、呼吸が深くなった。
「……瑞希」
「うん」
「今、世界の音がぜんぶ“返事”してる気がする」
「それ、すごくいいね」
「たぶん、そういう奇跡」
*
夜、外に出ると雨が降り始めていた。
細かい雨。
アスファルトを叩く音が一定のリズムを作っている。
その音が、まるでトモの声の呼吸のように感じた。
傘をささず、サエは歩いた。
光の反射が街の中に散っている。
信号の赤、コンビニの白、ネオンの青。
それぞれの光が、まるで音符のように街を流れていく。
「ありがとう」
呟くと、電線が雨粒を落とした。
「大丈夫」
ビルのガラスに水滴が滑る。
「また」
足元の水たまりが、わずかに波打つ。
まるで世界が、返事をしているみたいだった。
*
家に戻ると、瓶の水が少し減っていた。
サエはそれを不思議に思わなかった。
水は減るものだ。
でも、それは消えたのではない。
どこかで雨になって、空に戻っただけ。
「ねえ、ルウガ」
――なに。
「トモの声、まだ残ってる?」
――残響として。
「どのくらい残る?」
――君が“聞こうとする限り”。
サエは小さく笑った。
「じゃあ、ずっとだね」
――そうだね。
机に向かい、手帳を開く。
今日は書くことが多かった。
花屋、教室、図書室、雨、光、音。
そして、残響。
最後の行に書いた。
――“また”とは、終わりじゃなく、響きの続き。
*
翌朝。
空は晴れていた。
昨日の雨が、道の上で細かい光を散らしている。
サエは橋の上に立ち、風を感じた。
川の水が流れる音が、まるで声のように聞こえる。
それはトモの声ではない。
でも、確かに同じ方角を向いていた。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
声を出すと、風が答えた。
その瞬間、胸の中で何かが重なった。
もう、悲しみじゃない。
もう、孤独じゃない。
世界の音と、自分の声が、ひとつになっていた。
*
学校に着くと、昇降口の壁に新しい掲示物が貼られていた。
「街の静かな場所マップ」が拡張されている。
新しい丸のひとつに、手書きの文字。
〈図書室のスピーカー前〉
〈聞こえない声が聞こえる場所〉
その横に、小さく添えられた言葉。
――“残響を聴くときは、静かに笑ってください”。
誰が書いたのかは分からない。
でも、その字の角の取り方に見覚えがあった。
あの一年の少年の筆跡。
サエは小さくうなずき、掲示物の前に立って目を閉じた。
静けさの中で、ほんの一瞬、トモの声がした気がした。
「おはよう」
「うん、おはよう」
声に出して返した。
もう誰も、気づかないくらい自然に。
*
放課後。
空の色は少しだけ夕方に近い。
光でも影でもない時間。
サエは手帳を閉じ、深く息を吸った。
その呼吸の音が、今日の最後の記録になる。
胸の中で、トモの残響が静かに薄れていく。
けれど、それは“消える”のではない。
薄くなって、空気に混ざっていく。
その方が自然だ。
その方が、きっと生きている。
窓の外、街の灯が一つずつ灯る。
その灯が全部、誰かの声に見えた。
そしてサエは思った。
――この世界は、まだちゃんと響いている。



