朝、目覚ましの音が鳴る前に目が覚めた。窓のカーテンは半分だけ開けてあって、曇った空の明るさが薄く部屋に入っている。静かだ。静かなはずなのに、耳の奥では、誰もいない教室のざわめきが小さく鳴っている気がした。起き上がって、枕元の水を一口飲む。味がしない水は、今日の基準だ。ここからずれていけば、どこで戻ればいいかがわかる。
洗面台で顔を洗っていると、鏡の端に、自分の手が少し震えているのが映った。震えは小さい。小さくても、気づくと広がる。胸の奥で固くなる前に、数を数える。四つ吸って、四つ吐く。繰り返すと、手の震えは止まった。止まったのを確認して、制服の襟を整える。布の角が首筋に触れる感触は、昔から苦手だが、角度を少し変えると我慢できる。
家を出ると、空は薄い灰色で、雲は低い。風は弱く、街の色が少しだけ柔らかい。バス停までの道で、僕は人と肩が触れないように歩く練習をする。歩幅を揃える。目線を地面から二十センチ上に置く。二十センチのあたりには、誰の目もない。そこは、僕の安全地帯だ。
バスの中では、窓際の席に座る。二人掛けのもう片方が空いているのを確認して、肩を背もたれに軽く預ける。車内の蛍光灯は、病院のより黄色く、音が柔らかい。柔らかい音の下で、町の風景が同じ速度で流れる。流れるものの中で、僕の中だけが固まっていないことを確かめるように、膝の上で手を組む。指先が冷たい。冷たい指先の感覚は、胸の中の火事を少しだけ小さくしてくれる。
学校に着くころ、空から細かい雨が降り始めた。傘を差すほどではないが、湿った匂いが鼻の奥に残る。この匂いは、塾帰りの夜と、古い廊下と、雨宿りのベンチを思い出させる。思い出はときどき、刃物だ。刃物のほうへ歩かないように、足を教室の後ろの席へ運ぶ。
一時間目のチャイムが鳴る。先生の声はいつもより落ち着いていて、板書のスピードもゆっくりだ。黒板を引っかくチョークの音が薄い。薄いから、耐えられる。前の席のやつが振り向いて、何か話しかけてきた。僕は首だけで軽く返事をして、目は合わさない。合わさないと、傷が増えない。合わさないまま、先生の声に戻る。声は低めで、角が丸い。丸い角は、当たっても痛くない。
昼休み、廊下で、上級生の笑い声が響いた。大きくて、高い。高い声は、頭の内側の膜を震わせる。震えが広がる前に、窓を少し開けて外気を入れる。冷たい空気は、熱を落ち着かせる。外を見れば、雨は細く続いている。等間隔だ。等間隔の落下は、心拍と重ねやすい。四つ吸って、四つ吐く。窓を閉め、午後の授業へ戻る。
放課後。傘に当たる雨音が、街の音を薄く覆っていた。僕は、教室の出口で足を止める。病院へ行く予定は、今日もない。ないけれど、昨日も、同じ場所へ行ってしまった。行ってしまった、ではなく、行った、でいいのかもしれない。昨日の「また」を、僕は守りたいのだと思う。守りたい気持ちは、熱に似ている。熱は扱いに注意がいる。注意しながら、足を病院のほうへ向ける。
自動ドアが開く。控えめな低い音が、胸の奥に落ちる。受付の人と短く目を合わせ、目で挨拶をする。椅子の列はいつもと同じ配列で、角の丸い背もたれが並んでいる。隅の席に、黒い髪が見えた。昨日と同じ人。サエ。文庫本の背を撫でる指先。耳たぶに触れて呼吸を整える仕草。見慣れないのに、見覚えがある動き。動きのリズムが、昨日の位置と重なる。
僕はウォーターサーバーで紙コップに水を入れる。レバーを押す指の力を調整し、太すぎない水の流れで、音を立てないようにする。戻る。座る。紙コップを両手で持ち、縁を親指で軽くなぞる。昨日と同じ手順。手順は僕の味方だ。手順に沿っている間、余計な記憶は動かない。
サエは顔を上げない。上げないけれど、こちらへ気配を向ける。視線が合わない距離に、空気の楕円が置かれる。楕円の内側に入るのは、昨日より少し楽だった。僕は、少しだけ声を整える。低く、焦らず、角を落とす。
「こんばんは」
サエはまばたきを一度だけして、文庫の栞を挟み直した。まぶたの動きはゆっくりで、やわらかい。やわらかい動きは、僕の肩の力を抜く。
「こんばんは」
声は小さく、途中で切れない。切れない声は、最後まで届く。届いた声の重みが、膝の上で薄く響く。響きは、僕の中のいくつかの鍵穴を通り過ぎ、開けずに去っていく。開けないで通り過ぎるから、安心する。
沈黙を少し置く。置いた沈黙の上で、僕は紙コップを少し持ち上げる。差し出すには近すぎない角度で、距離を保つ。約束の形だ。すぐに触れなくてもいい、という約束。
「今日、黒板の音、大丈夫だったって」
昨日、聞いた言葉の続きから始める。続きから始めると、音が増えない。サエは小さくうなずいた。うなずきの角度が、目に入る。角度は数字に置き換えられる。三十度。昨日より、少し深い。
「雨が助けてくれた。等間隔の音は、味方だから」
味方、という語が、また胸に落ちる。落ちたところで、温度だけが残る。温度の残り方は、昨日と同じだ。同じ、が重なると、柱が一本立つ。柱に寄りかかると、背骨の音がひとつになる。
待合室の奥で、幼い子が泣き出した。高い声。反射的に、僕の肩が強張る。強張るのは、身体の記憶だ。記憶は、意志より速い。速いものに勝とうとしない。勝たずに通り過ぎさせる。そのために、僕は低い声を出す準備だけをする。必要なら、渡すために。
サエの耳の奥の膜が震えているのが、視線を向けずにわかった。指が耳たぶの上で止まる。止まった指先の温度が少し下がる。僕は息をひとつ整えた。声を、落とす。
「大丈夫」
短い言葉の底に、帰る場所の気配を入れる。言い切りにしない。言い切りは、時々、命令になる。命令は刃になる。刃にしないために、ゆっくり置く。置いた声が、サエの胸の窪みに落ちるのを想像する。落ちるように、願う。願うこと自体が、少し熱かった。
サエは、同じ言葉を返した。返す速度は速かった。速いけれど、慌ててはいない。慌てない速さは、練習の結果だ。練習に救われる夜がある。
泣き声はやがて、しゃくり上げに変わって、親の低い声が合間に挟まる。低い声は網だ。網の隙目が小さいほど、落ちたものは傷つかない。そういう声を持つ大人の近くで育った子と、そうでない子の違いを、僕は知っている。知っていることは、痛い。痛みを数える夜は、長い。長い夜を短くする方法を、僕はまだすべては持っていないけれど、今日ここにいることは、その一つだと思う。
「俺、トモっていう」
昨日、名乗った。今日、もう一度、同じ名前を自分の口から確認する。口に出すたび、名前は少しずつ、外に慣れていく。外の空気に慣れた名前は、掴まれにくくなる。掴まれにくいものは、折れない。
「サエ」
短い名を、サエはもう一度くれた。くれたという言い方が、自分の中で自然だった。名は、渡されるものだ。奪うものじゃない。
受付の時計が五分進む。秒針の音が薄く重なり、待合室全体の空気が少し柔らかくなる。柔らかくなったところで、サエが口を開いた。
「……トモは、いつから、触れられないの」
問われて、喉の奥の蛇口が少し閉まる。閉まり過ぎないように、肩を緩める。答えは短く。短い答えは、嘘を入れない。
「前。家で。合図が、刃だったことがある」
サエは、目を上げない。上げないまま、耳たぶに触れていた指先を離した。離した指先の行き先がわからないまま、膝の上で静かに止まる。止まった指の形が、僕の視界の端で、少し救いに似て見えた。
「こっちも。音が刃のときが、多かった」
似ている、と言うのは簡単だ。簡単な言葉は、時々、雑になる。けれど今のサエの言い方は雑じゃない。蓋を少しだけ開けて、中を見せて、すぐに閉じる。その一連の動きが丁寧だから、見せられた側の僕も、開けずに受け取れる。
「でも、水は渡せる。言葉も、置ける」
僕が言うと、サエはうなずいた。うなずきの角度は昨日より深く、速度は遅い。遅い動きは、壊れにくい。壊れにくい動きのそばにいると、僕の呼吸もゆっくりになる。
そのとき、受付からサエの名前が呼ばれた。呼ばれる声は、待合室の白い壁に反射して柔らかくなる。柔らかい声の上で、サエが立ち上がる準備をする。立つ前に、僕のほうに半歩だけ気配を向ける。その気配の角度の正確さが、妙に胸に残った。
「また」
昨日と同じ言葉。今日の形は、少し丸い。僕は、同じ角度でうなずく。
診察室に消えていく背中を見送ってから、僕は紙コップの底をのぞき込んだ。水はまだ少し残っている。残っているものは、捨てなくていい。捨てないで、持っていく。持っていって、次に足が止まったときに、口を湿らせる。湿った口で、言葉をひとつ作る。その繰り返しで、今日を越える。
扉が開き、サエが戻ってくる。目は伏せたまま、隅の席へ座る前に、僕へ薄く視線を向けた。視線というより、気配の向き。向きを受け取って、僕は短く言う。
「おつかれ」
サエも、同じ言葉を返した。返す声は小さい。小さいけれど、最初より少しだけ明るい。明るさは、音ではなく温度でわかる。温度が、昨日より半度高い。
帰り道、雨は細くなっていた。バス停までの角を曲がるとき、サエと足音が重なる。重なった一秒で、僕は傘の角度を少し変える。骨が触れないように。触れないように、という配慮が、相手の皮膚を傷つけない夜を作ることを、昨日と今日で学んだ。
バスが来て、僕は乗り込み、振り返る。顔は上げない。上げないまま、声だけをまっすぐに渡す。
「また」
今日、三度目の同じ言葉。三度目で、やっと、楕円だった輪郭が丸に近づいた気がした。丸は転がる。転がる先は、わからない。わからないものは怖い。怖いけれど、丸は止まらない。止まらないものを、僕は嫌いじゃない。嫌いじゃないと気づいて、少し笑う。笑いは声にならない。ならないままで、胸の中に長く残る。
家に戻って、玄関の鍵を二度回す。二度回すのは、念のため。靴を揃え、台所で水を飲み、自室の机に向かう。引き出しの奥の手帳を出し、数行だけ書く。待合室。等間隔。低い声。泣き声の上を渡った二つの呼吸。三度目のまた。最後の行に、小さく書き足す。
サエという名前を、口の中で転がした。転がした音が、傷にならなかった。
ペンを置く。置いた先で、胸の奥の蛇口が自然に閉まる。閉まった蛇口の向こうで、息が静かに往復する。往復のリズムに合わせて、目を閉じる。閉じたまぶたの向こうで、病院の蛍光灯は橙色に薄く見える。薄い橙は、音が少ない。
眠りに落ちる前、僕は小さな約束をする。明日も、誰かに触れなくても、言葉は置ける。軽いものからでいい。紙コップでいい。低い声でいい。等間隔でいい。その全部が揃わなくても、半分で十分だ。十分は、完璧の手前で許す合図だ。合図が刃だった頃を越えて、別の合図で生き直す。
そうやって、僕の二章は終わり、次の「また」へ続いていく。
木曜は苦手だ。時間割の並びが悪い。三時間目と四時間目の間に、廊下がいちばん混む。全員が同じタイミングで教室を出て、同じタイミングで曲がって、同じタイミングで階段に溜まる。流れが詰まると、肩と肩がぶつかる。ぶつからないように身を縦にして、壁際を滑る技は覚えたけれど、今日は小さな油断が生まれた。前のやつが急に振り向いたのだ。視線の刃をまとった顔が、至近距離に来る。刃を避ける前に、肩が硬くなる。硬くなった肩に、今度は別の誰かの肘が当たる。二打目で、胸の内側の扉が鳴った。
だめだ、と分かった。扉の向こうの部屋に、湿った空気が溜まっている。溜まりすぎると、合図が刃に変わる。変わる前に、階段を降りず、反対へ戻る。保健室の札は開室になっていた。ドアの窓をこつんと指で叩く。中から返事。扉を開ける音が、できるだけ小さくなるように、肘で支える。静かな部屋の匂いは、消毒と糊。細い布団の匂い。ベッドの縁に座ると、先生が視線を顔に向けず、肩の高さに落としてくれた。
「どうしたの」
声は低く、角がない。低い声に合わせて、息を四つ吸って、四つ吐く。言葉を短く選ぶ。
「混むのが、重くて。ぶつかるのがだめで、ちょっと、早めに」
「ここで休んでいきなさい」
先生は必要なことだけ言って、それ以上は聞かない。聞かれないと、扉は開かない。開けずに済む。ベッドに横になり、天井の白を眺める。照明は蛍光灯だけれど、カバーが厚く、音が薄い。薄い音は耐えられる。耳の膜が静かになるのを待つ間、昨日の待合室の等間隔を思い出す。雨の間隔と秒針の間隔。同じ速度で重なってくれたあの短い時間。重なったところにだけ、僕は座っていられる。
十分ほどで息が戻る。戻った息の長さを確かめ、保健室を出る。廊下はすでに空いていた。空いた廊下は色が薄い。色が薄いと、視線の刃は減る。教室に戻ると、昼の前の静かな時間が残っていた。席に着き、筆箱のチャックを開ける。金属の歯が噛み合う音が、低く整っている。整った音で、胸の錘が半歩だけ落ちる。
午後は、ましだった。まし、の言い方で自分を許す。完全でなくても、十分であること。十分であることは、過去への反抗ではなく、現在の選択だと先生が言っていた。選択は毎回やり直せる。やり直せるなら、失敗は致命じゃない。そう言い聞かせると、足が前に出る。
放課後。雨はやみかけ、雲の切れ間から薄い光が覗いていた。バス停まで歩く道すがら、角の電柱に貼られたチラシが一枚、風でめくれて音を立てる。ぱた、と鳴るたび、昔の部屋の合図の音に一瞬だけ重なりそうになる。重なりそうになったら、重ならないものを探す。目の横で揺れる街路樹の葉。葉に残った雨粒が落ちる落下音。等間隔ではない、不規則な、でも柔らかい連なり。柔らかい不規則も、悪くない。そう思い直してから、僕は病院のほうへ曲がった。
自動ドアの低い唸りが、今日も胸の空洞に落ちる。受付の人が軽く顎を上げる。目で挨拶を返す。椅子の列は、昨日までと同じ配列だ。隅の席の黒は、まだいなかった。定位置の近くに腰を下ろし、手順を落ち着かせる。紙コップ。レバー。太すぎない水の流れ。戻る歩幅。等間隔。やがてドアが開き、外の光の四角が床を滑る。そこを、見慣れた黒が横切った。サエだ。文庫の背の色で確信する。座る位置は昨日と同じだが、背の沈み方は昨日より少し深い。深い分だけ、背中の筋肉が椅子に重さを預けている。
「こんばんは」
少し早い時間なのに、思わずそう言った。サエは顔を上げず、まぶたを一度だけ閉じて開く。ゆっくりの合図。
「こんばんは」
いつもより声が細い。細い声が途中で切れないのは、練習の結果だと分かる。切れないことを、まず胸の内で祝う。それから、紙コップの縁を親指でなぞる。なぞる動作に気づいたサエの指が、耳たぶから外れて膝の上に戻る。戻った指は落ち着かず、文庫の背を撫でた。撫でる速度は、昨日より少し速い。速いは、揺れている合図だ。揺れている夜には、音の密度を下げたほうがいい。
「今日は、混んでた?」
「廊下が。ちょっと」
返事は短い。短い中に、必要なだけの意味を入れて渡してくれる。受け取りやすい重さ。受け取ったことを示すために、僕は紙コップを少し持ち上げ、差し出しはしない距離で止める。約束の角度。サエが小さくうなずく。うなずきが二段階で、二度目の角度が少し深い。深い、は底の合図だ。底があると、落ち過ぎない。
「僕、今日、保健室に逃げた」
言わなくてもいいことは、たくさんある。けれど、言えることは、言えるうちに置いておくと、次回の自分の手がかりになる。サエがほんの少し顔を傾けた。視線は合わない。合わないのに、耳の向きが僕のほうへと寄る。
「混むところは、僕もしんどい」
短い言葉に、共有の道が一本通った気がした。道は細い。細い道に、無理に二人並ぼうとすると、肩が触れる。触れないまま、同じ方向に歩く距離を増やせばいい。増やすことだけを考える。増やす、その動詞は、焦燥より優しい。
診察室の扉が開き、小さな子と母親が出てきた。母親の低い声が、網のように子を包む。包まれている声の隙目を見て、サエの呼吸が少し長くなる。長くなった呼吸に合わせて、僕の声を低く整える。
「息、合ってる」
サエは一瞬だけ目を上げかけ、すぐに戻した。上げかけた目の縁は赤くなく、涙の蛇口は閉まっている。閉まっている状態を、誰にも邪魔されたくない者だけが持つ静けさだ。静けさの中で、サエが言った。
「今日、教室の蛍光灯、ちょっと変で。点滅が、目に刺さって。見えない音が増えて、字がばらばらに」
「分かる。点滅は、音が一緒に来る。音と光が重なると、刃になる」
僕が言うと、サエが小さく笑った。笑いは声にならない種類で、見逃すと消えてしまう薄い線だ。僕は目を合わせないまま、その線の存在だけを胸にしまう。しまうと、音がひとつ減る。
受付の人が、机の上の小さなスタンドライトを点けた。日が短くなって、窓の外の光が急に弱くなったからだ。スタンドライトの光は白よりも少し黄色く、蛍光灯ほど硬くない。硬くない光が、サエの横顔の影を浅くする。その浅さを見ていると、胸の中の糸の張りが少し緩む。緩みすぎる前に、僕は口を開いた。
「もし、眩しいなら、位置を変えようか」
サエは首を横に振る。振り方は小さく、でも確かだ。
「大丈夫。ここは、まし」
まし、の言い方に、昨日の約束が薄く重なった。十分、の手前にいる言い方。手前にいるのは、臆病の証拠じゃなく、慎重の結果。結果が正しく出る夜は、少ない。少ないから、貴重だ。
やがて受付から、サエの名前が呼ばれた。サエは立ち上がる前に、耳たぶから手を離し、僕のほうへ半歩だけ気配を向けた。半歩の距離は、言葉ひとつで埋められる。
「また」
「また」
いつも通りの交換なのに、その音が胸の中で二重に鳴った。二重の和音は、一人では作れない。作れない音が鳴った事実を、僕は小さく数える。数えたものは、落としにくい。
サエが診察室に消えると、待合室の空気は少し軽くなった。軽い空気は流れやすい。流れの中で、僕は紙コップの底に残った少量の水を唇に流し込む。喉を湿らせ、肩の位置を整える。自分の順番はまだ先だ。まだ先の時間を、今日は手帳に使うことにした。鞄の内ポケットから小さなメモ帳を取り出し、短い行をいくつか書く。蛍光の点滅。スタンドライトの黄。等間隔の雨。保健室の布団の匂い。サエの笑いの線。線、とだけ書く。書くことで、線は消えにくくなる。
小さな咳払いがして、顔を上げた。受付の奥にいる看護師さんが、空になった紙コップ用のゴミ箱を指先で示す。合図は視線の角度だけで、音がない。音がないやりとりで世界が回るのなら、僕はそこに住める。住める世界の一角が、今日もここにある。そう思うだけで胸が少し広がる。
順番が来て、診察室へ入った。先生は相変わらず白い。白の上に、ペン先だけが黒く点になる。話す内容は昨日と重なる。重なる内容は心拍を増やさない。今日は保健室に逃げたことを短く言い、廊下の混雑を避ける新しい導線を先生と地図にする。地図にしておけば、迷いが減る。減った迷いの分だけ、声が出る。声が出ると、返ってくる声の温度で、今夜の眠りの深さを予想できる。
診察室を出ると、待合室は少し空いていた。帰り支度の人の気配が増える。外は、雨が上がっていたらしい。床に落ちる光の四角が、薄い金の縁を持っている。サエが隅の席で立ち上がり、鞄の紐を肩にかけ直しているのが見えた。肩にかける動作は、ゆっくりで、角が丸い。
「おつかれ」
僕が言う。言えたこと自体が、今日の収穫だ。サエは目を上げず、うなずきの二段階で応える。
「おつかれ」
言葉が往復する間、胸骨の内側で小さなクリックが鳴る。クリックの音程は昨日と変わらない。変わらない音で、安定の座標を確認する。座標があると、次の場所まで歩ける。
自動ドアをくぐると、雨上がりの匂いが濃かった。アスファルトの熱と濡れた土の匂い。遠くで夕飯の醤油の香り。鼻の奥で混ざり合う匂いに、昔の記憶が勝手に貼り付こうとする瞬間、僕は呼吸の長さを調整する。四つ吸って、四つ吐く。等間隔。等間隔まで戻れば、匂いは刃にならない。
交差点で信号が変わるのを待ちながら、サエが小さく言った。
「トモ、いつ、休み」
突然の質問に胸の蛇口が一瞬だけ硬くなったが、回す手順を覚えている。回して、少しずつ冷やす。
「日曜。午前は、まし」
「じゃあ、日曜、午前、ここ、いる」
短い文が、胸に柔らかく刺さる。刺さる、という言い方が変だとすぐに気づく。刺さらない角で、胸に入ってきたのだと思い直す。入ってくる言葉が痛くない夜は、少ない。少ない夜を、数えたい。
「分かった。俺も、来る」
信号が青に変わり、二人で渡る。横断歩道の白と黒が、等間隔に足元を流れていく。等間隔の上なら、歩ける。歩けるなら、約束は大げさじゃない。
日曜までの二日、僕は自分の部屋の灯りを少し変えた。蛍光灯の白い音が増える夜があると分かったから、電球色の小さなスタンドを机に置いた。スイッチのクリックは低い。低い音は胸の空洞に落ちる。落ちた音は刃にならない。机の角に、手帳を開いて置く。ページの端に、二日分の短い行を書く。混雑の導線。保健室の布団。雨上がりの匂い。日曜午前。約束。約束という語が、昔は刃にしか見えなかったのに、今は丸に近い。近いだけで、まだ完全ではない。その手前で許すのが、十分だ。
土曜の夜、窓を薄く開けると、遠くで祭りの太鼓がかすかに聞こえた。同じリズムが繰り返され、やがて少しずつ速くなる。速くなりすぎないところで戻り、また繰り返す。繰り返しに体温が移る。昔、家の中の合図が刃に変わった頃、外の祭りの音は継続の証拠だった。世界のどこかで止まらずに続く音がある。それは、救いの材料になった。材料だけでは形にならないが、材料がないと形は作れない。太鼓が遠ざかり、代わりに虫の鳴き声が近づく。虫の声は低い。低い音で、目を閉じる。
日曜の朝は、晴れに近い曇り。湿気は軽く、風は弱い。バスは空いていた。同じ速度で窓の外の景色が流れ、同じ位置に体を置いていられた。病院の自動ドアの低い唸りが、いつもと同じ質で胸に落ちる。受付の人と目で挨拶を交わし、隅の席を見やる。サエは、もう座っていた。いつもより少し早い。約束と呼ぶには小さすぎる配置だけれど、配置の重なりは約束の一種だ。
「おはよう」
声が自然に出た。サエはまぶたを一度閉じてから、顔を上げる。上げる角度は浅く、けれど確か。
「おはよう」
文庫の背の色が変わっていた。昨日の緑から、今日は灰色。灰色のカバーは、光を均等に吸って、眼の奥に刺さらない。刺さらない色は、長く見ていられる。長く見ていられる色の上で、サエが少し迷ってから口を開いた。
「今日、少し、試したいことがある」
試す、という言葉に、胸の蛇口が微かに硬くなる。硬くなりすぎないように、肩を下げる。
「何を」
「光。ちょっと、席、移動」
サエはスタンドライトと蛍光灯の位置関係を顎で示した。今いる位置は、二つの光が交差して、影が硬くなる。影が硬いと、輪郭が鋭く見える。鋭く見えるものは刃になりやすい。サエは壁際の、柱の影が落ちている席を指した。そこなら、蛍光灯の直下を避けられる。
「一緒に移る?」
サエが尋ねてから、はっとしたように言い直す。
「違う。無理なら、僕だけ」
慌てて否定しない。慌てると、相手の言葉を刃に変えてしまうと知っている。代わりに、僕は紙コップを持って立ち、歩幅を揃えてから、柱の影の席へ移動した。座ってみると、光の振る舞いが確かに違った。天井の明滅が直接視界に入らない。影の輪郭は柔らかい。柔らかい輪郭は、目の奥を刺さない。
「どう」
「まし」
サエは耳たぶではなく、今度は指先を膝の上で軽く組んだ。組む動作の速度は遅い。遅いは、壊れにくい。壊れにくい動きのそばで、僕は息をひとつ長く吐く。吐いた息の温度が、胸の窪みに残る。
ふと、サエがポケットから小さなメモ帳を取り出した。表紙は柔らかい布張りで、角が丸い。丸い角は、見るだけで肩の力が抜ける。サエは迷いながらも一枚だけ破って、そこに鉛筆で短い列を書いた。挟むように、僕へ差し出す。差し出す角度は浅く、距離は少し長い。すぐに触れなくてもいい約束の形。
「これ、音が多いときの、戻り方。僕のやり方。合うか分からないけど」
紙の端が、僕の指先に触れる直前で止まる。僕は受け取り、読み上げずに目で追う。鼻から四つ。吐くときは六つ。視線は床から二十センチ上。手の内側を重ねる。壁の角を探す。等間隔の音を一つ。等間隔がないときは、言葉で作る。ありがとう。大丈夫。また。短い単語を等間隔で胸に置く。置く、という動詞に丸がついている。丸い単語だけが列にある。
「ありがとう」
自然に出た。小さい声でも、途中で切れない。切れずに届いた声を、サエが目の周りの空気で受け止める。受け止めた先に、薄い笑いが滲む。滲む笑いは、紙に染みる水の跡みたいに、形を持たないのに確かだ。
「トモのほうは、触れられないときの、戻り方、ある」
問われて、胸の蛇口が硬くなる。回す手順を早くする。硬さが一段下がったところで、言葉を短く揃える。
「先に言う。合図を自分で作る。終わりの合図。自分で決めておく。例えば、ここで紙コップを机の右端に置いたら、もう触らない、とか。置いて、終わる」
サエが目を伏せ、短くうなずく。うなずきの角度は深い。深いところで止まる。止まるのが上手い人だ。止まるのが下手だった頃の自分を思い出し、長く息を吐く。吐いた息が薄く震える。震えに気づいて、サエが低く言う。
「大丈夫」
今度は僕が言われる番だった。低い声が胸の窪みに落ちる。落ちる音が、過去の合図の刃を鈍らせる。鈍った刃は、簡単には刺さらない。刺さらないところで、僕は唇の内側を舌で押さえ、蛇口を閉める。閉まる音は聞こえない。聞こえないことが、良い。
そのとき、入り口のほうで、小さな騒ぎが起きた。年配の男性が足元をふらつかせ、杖が床を鳴らした。高く、硬い音。サエの肩が跳ねる。跳ねた肩を、僕は視線で触れずに支える。支える、という言葉が正しいのか分からない。ただ、声は準備していた。
「ここ、影。音、薄い。いまは大丈夫」
言葉を落とす。落ちた先で、サエが息を四つ吸って、六つで吐く。列のとおりに。列があるのは強い。強さが、静かに戻る。戻る途中で、サエが小さく笑う。
「メモ、役に立った」
「すぐ役に立って、よかった」
言ってから、言葉の角が立たないように、声の底を丸くする。丸い底は、落ちる音を受け止める。
日曜の午前は、静かに流れた。流れの中で、僕たちは声を少しずつ置いた。置かない時間も長く置いた。置かない沈黙は、薄く軽い。軽い沈黙は宙で丸くなり、少しの風で形を変える。その変わる形を見るのが、嫌いではない。飽きる前に、受付の時計が一段進む。進む音で、僕は紙コップを机の右端に置いた。置いた位置で、終わりの合図。サエがそれに気づいて、小さくうなずく。終わりを自分で作れることは、救いだ。
帰り際、サエが言った。
「もし、良ければ、これ」
メモ帳からもう一枚、破る。今度は、短い単語が三つだけ書いてある。ありがとう。大丈夫。また。三つの間隔は、鉛筆の薄い線で等間隔に区切られていた。等間隔の上に置くための土台。僕はそれを受け取り、胸ポケットにしまう。しまうと、胸の中のクリックが一度鳴る。クリックは約束の音で、刃に変わらない種類のものだ。
外は薄曇りで、風は弱い。サエと並んで角を曲がり、交差点まで歩く。歩いているあいだ、何も話さない。話さないことが負担にならない距離。負担にならない距離は、いつでも確保できるわけではない。今日、確保できた。できた事実だけで十分だ。
翌日から、週はふつうに進んだ。ふつうの中に、いくつかの小さな変化が混ざっていた。廊下でぶつからない位置取りが、前より上手になった。保健室に行く前に、教室の隅の影で息を整えることを覚えた。帰り道のバス停で、傘の骨が触れない角度を先に作れるようになった。夜、電球色のスタンドの下で、手帳に書く行が一行増えた。増えた行は、刃ではない。紙コップの縁に触れた指先の温度や、スタンドライトの黄や、待合室の椅子の丸い背もたれの曲線のこと。役に立たないものに見えるのに、役に立つ。役に立つと知る前から、僕はそれが好きだったのかもしれない。
金曜の夕方、雨が強く降った。雨音が窓を叩く。強い音は、合図に似る。似た音が続くと、昔の部屋の空気が勝手に戻ろうとする。戻りそうになった手前で、僕は胸ポケットからサエのメモを取り出した。ありがとう。大丈夫。また。三つの単語の間に薄い線。線を指でなぞる。なぞると、線は音にならず、触覚だけが残る。残った触覚が、合図の刃の角を丸める。丸まったところで、雨音は雨音に戻る。戻った雨音を、等間隔で数える。四つ吸って、六つで吐く。吐く間に、窓の外を横切る車のライトが一つ、二つ。ライトは音を持たない。持たない光を見ている時間は、呼吸の練習に似ている。
土曜、午前の病院は珍しく混んでいた。受付前の床の四角い光が人の影で割れ、椅子の列のいくつかが埋まっている。隅の席は空いていない。影の柔らかさが薄い場所しか残っていない。僕は入口付近の柱の影の端を選び、腰を下ろした。サエは少し遅れて来た。近づいて来る足音は等間隔で、踏む位置も正確だ。正確な足音は、床を怒らせない。
空きがないことに気づいたサエが歩みを止め、耳たぶに触れる。触れた指の速度が速い。速いのは揺れている合図。合図の手前で、僕は立ち上がった。自分の席を示す。示しながら、別の角の壁が作る薄い影を顎で示す。そこなら僕は座れる。僕のほうが揺れの幅が小さいから、移るのは容易だ。サエは、短く迷ってから、うなずいた。うなずきが二段階で、二度目の角度は深い。深い返事は、誠実の形に見える。
席を交換して座る。座った途端、サエの肩から力が一段落ちたのが分かった。分かったけれど、言わない。言葉は時々、観察を刃に変える。変えないために、紙コップの縁を親指でなぞる。なぞる動作で合図する。ここは大丈夫。大丈夫の合図は、言葉でなくてもいい。
「ありがとう」
サエが先に言った。先に言われる「ありがとう」は、胸にそのまま落ちる。落ちた音が、昔の合図の上に重なり、音程を少し下げる。下がった音程は、刃になりにくい。刃になりにくい場所なら、少し長く座っていられる。
そのとき、待合室の隅で、小学生くらいの男の子が大きな声を上げた。ゲームの画面に向かって叫ぶ声。高くて、突き刺さる。空気がぴり、と鳴る。サエの指が耳へ戻りかけ、途中で止まる。止まることができた。止まれたなら、戻れる。戻り方はメモにある。鼻から四つ。吐くときは六つ。等間隔がないときは、言葉で作る。ありがとう。大丈夫。また。サエの唇が動いた。声は出さない。出さない声で、単語が胸の中に落ちていく。落ちた先で、鼓動がゆっくり揺れる。揺れが整ったのを見て、僕は息を長く吐いた。吐いた息が、サエの吐息と細く重なる。重なった呼吸の上に、未知の薄い輪がひとつ置かれた気がした。
「俺、明日、午前は来れない。家の用事で」
言いづらいことは先に置く。先に置くと、音が増えない。サエが顔を上げずにうなずく。うなずきの角度は浅いけれど、動きははっきりしている。浅いけれど確かな返事は、刃にならない。
「じゃあ、次は火曜。放課後。もし、無理なら、無理って」
無理、という言葉に、丸がついているように見えた。丸のついた無理は、命令じゃない。命令じゃない言葉のそばなら、僕は座っていられる。
火曜は晴れだった。晴れの光は時に刃になるが、角度を選べばやわらぐ。病院の自動ドアの前で、僕は一度だけ深呼吸をする。呼吸はいつも自分の側に残っている。残っているものを使えばいい、と先生が言った。使うことに対して罪悪感を覚える夜もあるが、今日は少ない。
待合室は空いていた。椅子の配列はいつも通りで、隅の席に黒が座っている。サエだ。文庫の背は青。青は冷たい。冷たい色は、火事を鎮める。鎮める色の上で、サエが顔を上げる。
「こんばんは」
「こんばんは」
僕は紙コップを取りに立ち、戻ろうとして、ふと足を止めた。受付の壁に貼られた掲示物が一枚、目に入ったからだ。光の眩しさがつらい人へ、というタイトル。照明を避ける座り方、明るさの調整の相談窓口、耳栓やサングラスを過剰に否定しないこと。簡単な言葉で書かれている。僕はそれを読み、短くうなずいた。うなずきは、自分への返事でもある。できることをひとつ増やす。その繰り返しで、今日を越える。
席に戻ると、サエがメモ帳を開いたまま僕を見ないで言った。
「僕、いつか、トモに、ルウガの話、ちゃんとする」
突然に聞こえるけれど、突然ではなかった。ずっとサエの言葉の縁にいた名前だ。僕は、返事を一段遅らせる。遅らせると、声の角が丸くなる。
「聞く。無理のないときに。無理なら、無理って言って」
サエが、ほんの一瞬だけ笑う。笑いの線が薄く伸びて、すぐ消える。消える前に、胸の中で捕まえる。捕まえるのは所有ではない。留めた温度を自分の呼吸で温め直すだけだ。
僕は胸ポケットから、あの日のメモを取り出した。ありがとう。大丈夫。また。三つの単語。間を区切る薄い鉛筆の線。線の上に、今日の約束を心の中で置く。聞く。無理なら、無理と言う。言えたら、ありがとうと言う。言えなかったら、大丈夫を置く。そして、また。等間隔の上を歩く準備ができた。準備ができたから、今夜は眠れるだろう。眠りの前に、僕はほんの少しだけ未来を想像した。病院の光の黄。紙コップの縁。息の等間隔。ルウガという名の、サエの中の観察者の声。その声の話を、刃ではない夜に聞く。聞いても、僕は触れない。触れずに、隣で座る距離を守る。守ることが、僕の差し出せるものだ。
受付の時計が、分を一つ進めた。進む音の薄い合図で、僕たちはほぼ同時に息を吐く。吐いた息が重なる。重なった瞬間、胸骨の内側で、あの小さなクリックが二重に鳴った。和音になった約束の音が、壁に残る。目には見えない印が、また一つ増えた。
その印が増え続ければ、いつか、廊下の混雑の中でも、僕は刃の合図に負けずに済む。サエは蛍光の点滅の中でも、自分の列で戻れる。そういう未来を、今夜は信じていい。信じることを許すのも、十分という言葉の仕事だと思う。
帰り道、雨の切れ間に星が少しだけ見えた。街の光が空を薄く曇らせ、それでも二つ三つ、白い点が滲んでいる。にじむ光は音を持たない。持たない光を、僕は好きだ。好きと言える夜は、多くない。多くないうちの一つが、今夜だ。
自室に戻り、スタンドを点ける。黄色い光の下で、手帳を開く。短い行をいくつか書く。混雑の導線。壁の影。紙コップの縁。ありがとう。大丈夫。また。そして、小さく書き足す。
聞く準備ができた。無理なら無理と言う練習もできた。
ペン先が止まる。止まったペンの先で、胸の中の蛇口がゆっくり閉まる。閉まった向こうで、呼吸が等間隔で往復する。往復のリズムを数え、目を閉じる。閉じたまぶたの裏で、病院のスタンドの黄が、薄く残っている。薄い黄は、音が少ない。音が少ないところで、眠りは静かに降りる。
眠りの縁で、僕はもう一度、あの三つを並べた。ありがとう。大丈夫。また。間の等間隔は、今夜はもう数えなくていい。数えなくても、身体が覚えている。覚えた身体が、明日の混雑の中で勝手に手順を選ぶ。選べるようになるまで、僕は何度でも練習する。練習は裏切らない。裏切らないものだけで世界を作るのは難しいが、練習と、低い声と、紙コップと、等間隔なら、柱は立つ。
柱が一本でも立っていれば、僕は倒れない。倒れなければ、隣で座る誰かの肩が硬くなる前に、低い声で合図を出せる。
大丈夫。
その言葉は、刃ではない。刃でない合図で、僕は生き直す。明日の朝も、等間隔から始める。窓の外で、わずかな風が葉を揺らす音がした。音は低く、薄い。薄い音に寄りかかるようにして、僕は眠った。
洗面台で顔を洗っていると、鏡の端に、自分の手が少し震えているのが映った。震えは小さい。小さくても、気づくと広がる。胸の奥で固くなる前に、数を数える。四つ吸って、四つ吐く。繰り返すと、手の震えは止まった。止まったのを確認して、制服の襟を整える。布の角が首筋に触れる感触は、昔から苦手だが、角度を少し変えると我慢できる。
家を出ると、空は薄い灰色で、雲は低い。風は弱く、街の色が少しだけ柔らかい。バス停までの道で、僕は人と肩が触れないように歩く練習をする。歩幅を揃える。目線を地面から二十センチ上に置く。二十センチのあたりには、誰の目もない。そこは、僕の安全地帯だ。
バスの中では、窓際の席に座る。二人掛けのもう片方が空いているのを確認して、肩を背もたれに軽く預ける。車内の蛍光灯は、病院のより黄色く、音が柔らかい。柔らかい音の下で、町の風景が同じ速度で流れる。流れるものの中で、僕の中だけが固まっていないことを確かめるように、膝の上で手を組む。指先が冷たい。冷たい指先の感覚は、胸の中の火事を少しだけ小さくしてくれる。
学校に着くころ、空から細かい雨が降り始めた。傘を差すほどではないが、湿った匂いが鼻の奥に残る。この匂いは、塾帰りの夜と、古い廊下と、雨宿りのベンチを思い出させる。思い出はときどき、刃物だ。刃物のほうへ歩かないように、足を教室の後ろの席へ運ぶ。
一時間目のチャイムが鳴る。先生の声はいつもより落ち着いていて、板書のスピードもゆっくりだ。黒板を引っかくチョークの音が薄い。薄いから、耐えられる。前の席のやつが振り向いて、何か話しかけてきた。僕は首だけで軽く返事をして、目は合わさない。合わさないと、傷が増えない。合わさないまま、先生の声に戻る。声は低めで、角が丸い。丸い角は、当たっても痛くない。
昼休み、廊下で、上級生の笑い声が響いた。大きくて、高い。高い声は、頭の内側の膜を震わせる。震えが広がる前に、窓を少し開けて外気を入れる。冷たい空気は、熱を落ち着かせる。外を見れば、雨は細く続いている。等間隔だ。等間隔の落下は、心拍と重ねやすい。四つ吸って、四つ吐く。窓を閉め、午後の授業へ戻る。
放課後。傘に当たる雨音が、街の音を薄く覆っていた。僕は、教室の出口で足を止める。病院へ行く予定は、今日もない。ないけれど、昨日も、同じ場所へ行ってしまった。行ってしまった、ではなく、行った、でいいのかもしれない。昨日の「また」を、僕は守りたいのだと思う。守りたい気持ちは、熱に似ている。熱は扱いに注意がいる。注意しながら、足を病院のほうへ向ける。
自動ドアが開く。控えめな低い音が、胸の奥に落ちる。受付の人と短く目を合わせ、目で挨拶をする。椅子の列はいつもと同じ配列で、角の丸い背もたれが並んでいる。隅の席に、黒い髪が見えた。昨日と同じ人。サエ。文庫本の背を撫でる指先。耳たぶに触れて呼吸を整える仕草。見慣れないのに、見覚えがある動き。動きのリズムが、昨日の位置と重なる。
僕はウォーターサーバーで紙コップに水を入れる。レバーを押す指の力を調整し、太すぎない水の流れで、音を立てないようにする。戻る。座る。紙コップを両手で持ち、縁を親指で軽くなぞる。昨日と同じ手順。手順は僕の味方だ。手順に沿っている間、余計な記憶は動かない。
サエは顔を上げない。上げないけれど、こちらへ気配を向ける。視線が合わない距離に、空気の楕円が置かれる。楕円の内側に入るのは、昨日より少し楽だった。僕は、少しだけ声を整える。低く、焦らず、角を落とす。
「こんばんは」
サエはまばたきを一度だけして、文庫の栞を挟み直した。まぶたの動きはゆっくりで、やわらかい。やわらかい動きは、僕の肩の力を抜く。
「こんばんは」
声は小さく、途中で切れない。切れない声は、最後まで届く。届いた声の重みが、膝の上で薄く響く。響きは、僕の中のいくつかの鍵穴を通り過ぎ、開けずに去っていく。開けないで通り過ぎるから、安心する。
沈黙を少し置く。置いた沈黙の上で、僕は紙コップを少し持ち上げる。差し出すには近すぎない角度で、距離を保つ。約束の形だ。すぐに触れなくてもいい、という約束。
「今日、黒板の音、大丈夫だったって」
昨日、聞いた言葉の続きから始める。続きから始めると、音が増えない。サエは小さくうなずいた。うなずきの角度が、目に入る。角度は数字に置き換えられる。三十度。昨日より、少し深い。
「雨が助けてくれた。等間隔の音は、味方だから」
味方、という語が、また胸に落ちる。落ちたところで、温度だけが残る。温度の残り方は、昨日と同じだ。同じ、が重なると、柱が一本立つ。柱に寄りかかると、背骨の音がひとつになる。
待合室の奥で、幼い子が泣き出した。高い声。反射的に、僕の肩が強張る。強張るのは、身体の記憶だ。記憶は、意志より速い。速いものに勝とうとしない。勝たずに通り過ぎさせる。そのために、僕は低い声を出す準備だけをする。必要なら、渡すために。
サエの耳の奥の膜が震えているのが、視線を向けずにわかった。指が耳たぶの上で止まる。止まった指先の温度が少し下がる。僕は息をひとつ整えた。声を、落とす。
「大丈夫」
短い言葉の底に、帰る場所の気配を入れる。言い切りにしない。言い切りは、時々、命令になる。命令は刃になる。刃にしないために、ゆっくり置く。置いた声が、サエの胸の窪みに落ちるのを想像する。落ちるように、願う。願うこと自体が、少し熱かった。
サエは、同じ言葉を返した。返す速度は速かった。速いけれど、慌ててはいない。慌てない速さは、練習の結果だ。練習に救われる夜がある。
泣き声はやがて、しゃくり上げに変わって、親の低い声が合間に挟まる。低い声は網だ。網の隙目が小さいほど、落ちたものは傷つかない。そういう声を持つ大人の近くで育った子と、そうでない子の違いを、僕は知っている。知っていることは、痛い。痛みを数える夜は、長い。長い夜を短くする方法を、僕はまだすべては持っていないけれど、今日ここにいることは、その一つだと思う。
「俺、トモっていう」
昨日、名乗った。今日、もう一度、同じ名前を自分の口から確認する。口に出すたび、名前は少しずつ、外に慣れていく。外の空気に慣れた名前は、掴まれにくくなる。掴まれにくいものは、折れない。
「サエ」
短い名を、サエはもう一度くれた。くれたという言い方が、自分の中で自然だった。名は、渡されるものだ。奪うものじゃない。
受付の時計が五分進む。秒針の音が薄く重なり、待合室全体の空気が少し柔らかくなる。柔らかくなったところで、サエが口を開いた。
「……トモは、いつから、触れられないの」
問われて、喉の奥の蛇口が少し閉まる。閉まり過ぎないように、肩を緩める。答えは短く。短い答えは、嘘を入れない。
「前。家で。合図が、刃だったことがある」
サエは、目を上げない。上げないまま、耳たぶに触れていた指先を離した。離した指先の行き先がわからないまま、膝の上で静かに止まる。止まった指の形が、僕の視界の端で、少し救いに似て見えた。
「こっちも。音が刃のときが、多かった」
似ている、と言うのは簡単だ。簡単な言葉は、時々、雑になる。けれど今のサエの言い方は雑じゃない。蓋を少しだけ開けて、中を見せて、すぐに閉じる。その一連の動きが丁寧だから、見せられた側の僕も、開けずに受け取れる。
「でも、水は渡せる。言葉も、置ける」
僕が言うと、サエはうなずいた。うなずきの角度は昨日より深く、速度は遅い。遅い動きは、壊れにくい。壊れにくい動きのそばにいると、僕の呼吸もゆっくりになる。
そのとき、受付からサエの名前が呼ばれた。呼ばれる声は、待合室の白い壁に反射して柔らかくなる。柔らかい声の上で、サエが立ち上がる準備をする。立つ前に、僕のほうに半歩だけ気配を向ける。その気配の角度の正確さが、妙に胸に残った。
「また」
昨日と同じ言葉。今日の形は、少し丸い。僕は、同じ角度でうなずく。
診察室に消えていく背中を見送ってから、僕は紙コップの底をのぞき込んだ。水はまだ少し残っている。残っているものは、捨てなくていい。捨てないで、持っていく。持っていって、次に足が止まったときに、口を湿らせる。湿った口で、言葉をひとつ作る。その繰り返しで、今日を越える。
扉が開き、サエが戻ってくる。目は伏せたまま、隅の席へ座る前に、僕へ薄く視線を向けた。視線というより、気配の向き。向きを受け取って、僕は短く言う。
「おつかれ」
サエも、同じ言葉を返した。返す声は小さい。小さいけれど、最初より少しだけ明るい。明るさは、音ではなく温度でわかる。温度が、昨日より半度高い。
帰り道、雨は細くなっていた。バス停までの角を曲がるとき、サエと足音が重なる。重なった一秒で、僕は傘の角度を少し変える。骨が触れないように。触れないように、という配慮が、相手の皮膚を傷つけない夜を作ることを、昨日と今日で学んだ。
バスが来て、僕は乗り込み、振り返る。顔は上げない。上げないまま、声だけをまっすぐに渡す。
「また」
今日、三度目の同じ言葉。三度目で、やっと、楕円だった輪郭が丸に近づいた気がした。丸は転がる。転がる先は、わからない。わからないものは怖い。怖いけれど、丸は止まらない。止まらないものを、僕は嫌いじゃない。嫌いじゃないと気づいて、少し笑う。笑いは声にならない。ならないままで、胸の中に長く残る。
家に戻って、玄関の鍵を二度回す。二度回すのは、念のため。靴を揃え、台所で水を飲み、自室の机に向かう。引き出しの奥の手帳を出し、数行だけ書く。待合室。等間隔。低い声。泣き声の上を渡った二つの呼吸。三度目のまた。最後の行に、小さく書き足す。
サエという名前を、口の中で転がした。転がした音が、傷にならなかった。
ペンを置く。置いた先で、胸の奥の蛇口が自然に閉まる。閉まった蛇口の向こうで、息が静かに往復する。往復のリズムに合わせて、目を閉じる。閉じたまぶたの向こうで、病院の蛍光灯は橙色に薄く見える。薄い橙は、音が少ない。
眠りに落ちる前、僕は小さな約束をする。明日も、誰かに触れなくても、言葉は置ける。軽いものからでいい。紙コップでいい。低い声でいい。等間隔でいい。その全部が揃わなくても、半分で十分だ。十分は、完璧の手前で許す合図だ。合図が刃だった頃を越えて、別の合図で生き直す。
そうやって、僕の二章は終わり、次の「また」へ続いていく。
木曜は苦手だ。時間割の並びが悪い。三時間目と四時間目の間に、廊下がいちばん混む。全員が同じタイミングで教室を出て、同じタイミングで曲がって、同じタイミングで階段に溜まる。流れが詰まると、肩と肩がぶつかる。ぶつからないように身を縦にして、壁際を滑る技は覚えたけれど、今日は小さな油断が生まれた。前のやつが急に振り向いたのだ。視線の刃をまとった顔が、至近距離に来る。刃を避ける前に、肩が硬くなる。硬くなった肩に、今度は別の誰かの肘が当たる。二打目で、胸の内側の扉が鳴った。
だめだ、と分かった。扉の向こうの部屋に、湿った空気が溜まっている。溜まりすぎると、合図が刃に変わる。変わる前に、階段を降りず、反対へ戻る。保健室の札は開室になっていた。ドアの窓をこつんと指で叩く。中から返事。扉を開ける音が、できるだけ小さくなるように、肘で支える。静かな部屋の匂いは、消毒と糊。細い布団の匂い。ベッドの縁に座ると、先生が視線を顔に向けず、肩の高さに落としてくれた。
「どうしたの」
声は低く、角がない。低い声に合わせて、息を四つ吸って、四つ吐く。言葉を短く選ぶ。
「混むのが、重くて。ぶつかるのがだめで、ちょっと、早めに」
「ここで休んでいきなさい」
先生は必要なことだけ言って、それ以上は聞かない。聞かれないと、扉は開かない。開けずに済む。ベッドに横になり、天井の白を眺める。照明は蛍光灯だけれど、カバーが厚く、音が薄い。薄い音は耐えられる。耳の膜が静かになるのを待つ間、昨日の待合室の等間隔を思い出す。雨の間隔と秒針の間隔。同じ速度で重なってくれたあの短い時間。重なったところにだけ、僕は座っていられる。
十分ほどで息が戻る。戻った息の長さを確かめ、保健室を出る。廊下はすでに空いていた。空いた廊下は色が薄い。色が薄いと、視線の刃は減る。教室に戻ると、昼の前の静かな時間が残っていた。席に着き、筆箱のチャックを開ける。金属の歯が噛み合う音が、低く整っている。整った音で、胸の錘が半歩だけ落ちる。
午後は、ましだった。まし、の言い方で自分を許す。完全でなくても、十分であること。十分であることは、過去への反抗ではなく、現在の選択だと先生が言っていた。選択は毎回やり直せる。やり直せるなら、失敗は致命じゃない。そう言い聞かせると、足が前に出る。
放課後。雨はやみかけ、雲の切れ間から薄い光が覗いていた。バス停まで歩く道すがら、角の電柱に貼られたチラシが一枚、風でめくれて音を立てる。ぱた、と鳴るたび、昔の部屋の合図の音に一瞬だけ重なりそうになる。重なりそうになったら、重ならないものを探す。目の横で揺れる街路樹の葉。葉に残った雨粒が落ちる落下音。等間隔ではない、不規則な、でも柔らかい連なり。柔らかい不規則も、悪くない。そう思い直してから、僕は病院のほうへ曲がった。
自動ドアの低い唸りが、今日も胸の空洞に落ちる。受付の人が軽く顎を上げる。目で挨拶を返す。椅子の列は、昨日までと同じ配列だ。隅の席の黒は、まだいなかった。定位置の近くに腰を下ろし、手順を落ち着かせる。紙コップ。レバー。太すぎない水の流れ。戻る歩幅。等間隔。やがてドアが開き、外の光の四角が床を滑る。そこを、見慣れた黒が横切った。サエだ。文庫の背の色で確信する。座る位置は昨日と同じだが、背の沈み方は昨日より少し深い。深い分だけ、背中の筋肉が椅子に重さを預けている。
「こんばんは」
少し早い時間なのに、思わずそう言った。サエは顔を上げず、まぶたを一度だけ閉じて開く。ゆっくりの合図。
「こんばんは」
いつもより声が細い。細い声が途中で切れないのは、練習の結果だと分かる。切れないことを、まず胸の内で祝う。それから、紙コップの縁を親指でなぞる。なぞる動作に気づいたサエの指が、耳たぶから外れて膝の上に戻る。戻った指は落ち着かず、文庫の背を撫でた。撫でる速度は、昨日より少し速い。速いは、揺れている合図だ。揺れている夜には、音の密度を下げたほうがいい。
「今日は、混んでた?」
「廊下が。ちょっと」
返事は短い。短い中に、必要なだけの意味を入れて渡してくれる。受け取りやすい重さ。受け取ったことを示すために、僕は紙コップを少し持ち上げ、差し出しはしない距離で止める。約束の角度。サエが小さくうなずく。うなずきが二段階で、二度目の角度が少し深い。深い、は底の合図だ。底があると、落ち過ぎない。
「僕、今日、保健室に逃げた」
言わなくてもいいことは、たくさんある。けれど、言えることは、言えるうちに置いておくと、次回の自分の手がかりになる。サエがほんの少し顔を傾けた。視線は合わない。合わないのに、耳の向きが僕のほうへと寄る。
「混むところは、僕もしんどい」
短い言葉に、共有の道が一本通った気がした。道は細い。細い道に、無理に二人並ぼうとすると、肩が触れる。触れないまま、同じ方向に歩く距離を増やせばいい。増やすことだけを考える。増やす、その動詞は、焦燥より優しい。
診察室の扉が開き、小さな子と母親が出てきた。母親の低い声が、網のように子を包む。包まれている声の隙目を見て、サエの呼吸が少し長くなる。長くなった呼吸に合わせて、僕の声を低く整える。
「息、合ってる」
サエは一瞬だけ目を上げかけ、すぐに戻した。上げかけた目の縁は赤くなく、涙の蛇口は閉まっている。閉まっている状態を、誰にも邪魔されたくない者だけが持つ静けさだ。静けさの中で、サエが言った。
「今日、教室の蛍光灯、ちょっと変で。点滅が、目に刺さって。見えない音が増えて、字がばらばらに」
「分かる。点滅は、音が一緒に来る。音と光が重なると、刃になる」
僕が言うと、サエが小さく笑った。笑いは声にならない種類で、見逃すと消えてしまう薄い線だ。僕は目を合わせないまま、その線の存在だけを胸にしまう。しまうと、音がひとつ減る。
受付の人が、机の上の小さなスタンドライトを点けた。日が短くなって、窓の外の光が急に弱くなったからだ。スタンドライトの光は白よりも少し黄色く、蛍光灯ほど硬くない。硬くない光が、サエの横顔の影を浅くする。その浅さを見ていると、胸の中の糸の張りが少し緩む。緩みすぎる前に、僕は口を開いた。
「もし、眩しいなら、位置を変えようか」
サエは首を横に振る。振り方は小さく、でも確かだ。
「大丈夫。ここは、まし」
まし、の言い方に、昨日の約束が薄く重なった。十分、の手前にいる言い方。手前にいるのは、臆病の証拠じゃなく、慎重の結果。結果が正しく出る夜は、少ない。少ないから、貴重だ。
やがて受付から、サエの名前が呼ばれた。サエは立ち上がる前に、耳たぶから手を離し、僕のほうへ半歩だけ気配を向けた。半歩の距離は、言葉ひとつで埋められる。
「また」
「また」
いつも通りの交換なのに、その音が胸の中で二重に鳴った。二重の和音は、一人では作れない。作れない音が鳴った事実を、僕は小さく数える。数えたものは、落としにくい。
サエが診察室に消えると、待合室の空気は少し軽くなった。軽い空気は流れやすい。流れの中で、僕は紙コップの底に残った少量の水を唇に流し込む。喉を湿らせ、肩の位置を整える。自分の順番はまだ先だ。まだ先の時間を、今日は手帳に使うことにした。鞄の内ポケットから小さなメモ帳を取り出し、短い行をいくつか書く。蛍光の点滅。スタンドライトの黄。等間隔の雨。保健室の布団の匂い。サエの笑いの線。線、とだけ書く。書くことで、線は消えにくくなる。
小さな咳払いがして、顔を上げた。受付の奥にいる看護師さんが、空になった紙コップ用のゴミ箱を指先で示す。合図は視線の角度だけで、音がない。音がないやりとりで世界が回るのなら、僕はそこに住める。住める世界の一角が、今日もここにある。そう思うだけで胸が少し広がる。
順番が来て、診察室へ入った。先生は相変わらず白い。白の上に、ペン先だけが黒く点になる。話す内容は昨日と重なる。重なる内容は心拍を増やさない。今日は保健室に逃げたことを短く言い、廊下の混雑を避ける新しい導線を先生と地図にする。地図にしておけば、迷いが減る。減った迷いの分だけ、声が出る。声が出ると、返ってくる声の温度で、今夜の眠りの深さを予想できる。
診察室を出ると、待合室は少し空いていた。帰り支度の人の気配が増える。外は、雨が上がっていたらしい。床に落ちる光の四角が、薄い金の縁を持っている。サエが隅の席で立ち上がり、鞄の紐を肩にかけ直しているのが見えた。肩にかける動作は、ゆっくりで、角が丸い。
「おつかれ」
僕が言う。言えたこと自体が、今日の収穫だ。サエは目を上げず、うなずきの二段階で応える。
「おつかれ」
言葉が往復する間、胸骨の内側で小さなクリックが鳴る。クリックの音程は昨日と変わらない。変わらない音で、安定の座標を確認する。座標があると、次の場所まで歩ける。
自動ドアをくぐると、雨上がりの匂いが濃かった。アスファルトの熱と濡れた土の匂い。遠くで夕飯の醤油の香り。鼻の奥で混ざり合う匂いに、昔の記憶が勝手に貼り付こうとする瞬間、僕は呼吸の長さを調整する。四つ吸って、四つ吐く。等間隔。等間隔まで戻れば、匂いは刃にならない。
交差点で信号が変わるのを待ちながら、サエが小さく言った。
「トモ、いつ、休み」
突然の質問に胸の蛇口が一瞬だけ硬くなったが、回す手順を覚えている。回して、少しずつ冷やす。
「日曜。午前は、まし」
「じゃあ、日曜、午前、ここ、いる」
短い文が、胸に柔らかく刺さる。刺さる、という言い方が変だとすぐに気づく。刺さらない角で、胸に入ってきたのだと思い直す。入ってくる言葉が痛くない夜は、少ない。少ない夜を、数えたい。
「分かった。俺も、来る」
信号が青に変わり、二人で渡る。横断歩道の白と黒が、等間隔に足元を流れていく。等間隔の上なら、歩ける。歩けるなら、約束は大げさじゃない。
日曜までの二日、僕は自分の部屋の灯りを少し変えた。蛍光灯の白い音が増える夜があると分かったから、電球色の小さなスタンドを机に置いた。スイッチのクリックは低い。低い音は胸の空洞に落ちる。落ちた音は刃にならない。机の角に、手帳を開いて置く。ページの端に、二日分の短い行を書く。混雑の導線。保健室の布団。雨上がりの匂い。日曜午前。約束。約束という語が、昔は刃にしか見えなかったのに、今は丸に近い。近いだけで、まだ完全ではない。その手前で許すのが、十分だ。
土曜の夜、窓を薄く開けると、遠くで祭りの太鼓がかすかに聞こえた。同じリズムが繰り返され、やがて少しずつ速くなる。速くなりすぎないところで戻り、また繰り返す。繰り返しに体温が移る。昔、家の中の合図が刃に変わった頃、外の祭りの音は継続の証拠だった。世界のどこかで止まらずに続く音がある。それは、救いの材料になった。材料だけでは形にならないが、材料がないと形は作れない。太鼓が遠ざかり、代わりに虫の鳴き声が近づく。虫の声は低い。低い音で、目を閉じる。
日曜の朝は、晴れに近い曇り。湿気は軽く、風は弱い。バスは空いていた。同じ速度で窓の外の景色が流れ、同じ位置に体を置いていられた。病院の自動ドアの低い唸りが、いつもと同じ質で胸に落ちる。受付の人と目で挨拶を交わし、隅の席を見やる。サエは、もう座っていた。いつもより少し早い。約束と呼ぶには小さすぎる配置だけれど、配置の重なりは約束の一種だ。
「おはよう」
声が自然に出た。サエはまぶたを一度閉じてから、顔を上げる。上げる角度は浅く、けれど確か。
「おはよう」
文庫の背の色が変わっていた。昨日の緑から、今日は灰色。灰色のカバーは、光を均等に吸って、眼の奥に刺さらない。刺さらない色は、長く見ていられる。長く見ていられる色の上で、サエが少し迷ってから口を開いた。
「今日、少し、試したいことがある」
試す、という言葉に、胸の蛇口が微かに硬くなる。硬くなりすぎないように、肩を下げる。
「何を」
「光。ちょっと、席、移動」
サエはスタンドライトと蛍光灯の位置関係を顎で示した。今いる位置は、二つの光が交差して、影が硬くなる。影が硬いと、輪郭が鋭く見える。鋭く見えるものは刃になりやすい。サエは壁際の、柱の影が落ちている席を指した。そこなら、蛍光灯の直下を避けられる。
「一緒に移る?」
サエが尋ねてから、はっとしたように言い直す。
「違う。無理なら、僕だけ」
慌てて否定しない。慌てると、相手の言葉を刃に変えてしまうと知っている。代わりに、僕は紙コップを持って立ち、歩幅を揃えてから、柱の影の席へ移動した。座ってみると、光の振る舞いが確かに違った。天井の明滅が直接視界に入らない。影の輪郭は柔らかい。柔らかい輪郭は、目の奥を刺さない。
「どう」
「まし」
サエは耳たぶではなく、今度は指先を膝の上で軽く組んだ。組む動作の速度は遅い。遅いは、壊れにくい。壊れにくい動きのそばで、僕は息をひとつ長く吐く。吐いた息の温度が、胸の窪みに残る。
ふと、サエがポケットから小さなメモ帳を取り出した。表紙は柔らかい布張りで、角が丸い。丸い角は、見るだけで肩の力が抜ける。サエは迷いながらも一枚だけ破って、そこに鉛筆で短い列を書いた。挟むように、僕へ差し出す。差し出す角度は浅く、距離は少し長い。すぐに触れなくてもいい約束の形。
「これ、音が多いときの、戻り方。僕のやり方。合うか分からないけど」
紙の端が、僕の指先に触れる直前で止まる。僕は受け取り、読み上げずに目で追う。鼻から四つ。吐くときは六つ。視線は床から二十センチ上。手の内側を重ねる。壁の角を探す。等間隔の音を一つ。等間隔がないときは、言葉で作る。ありがとう。大丈夫。また。短い単語を等間隔で胸に置く。置く、という動詞に丸がついている。丸い単語だけが列にある。
「ありがとう」
自然に出た。小さい声でも、途中で切れない。切れずに届いた声を、サエが目の周りの空気で受け止める。受け止めた先に、薄い笑いが滲む。滲む笑いは、紙に染みる水の跡みたいに、形を持たないのに確かだ。
「トモのほうは、触れられないときの、戻り方、ある」
問われて、胸の蛇口が硬くなる。回す手順を早くする。硬さが一段下がったところで、言葉を短く揃える。
「先に言う。合図を自分で作る。終わりの合図。自分で決めておく。例えば、ここで紙コップを机の右端に置いたら、もう触らない、とか。置いて、終わる」
サエが目を伏せ、短くうなずく。うなずきの角度は深い。深いところで止まる。止まるのが上手い人だ。止まるのが下手だった頃の自分を思い出し、長く息を吐く。吐いた息が薄く震える。震えに気づいて、サエが低く言う。
「大丈夫」
今度は僕が言われる番だった。低い声が胸の窪みに落ちる。落ちる音が、過去の合図の刃を鈍らせる。鈍った刃は、簡単には刺さらない。刺さらないところで、僕は唇の内側を舌で押さえ、蛇口を閉める。閉まる音は聞こえない。聞こえないことが、良い。
そのとき、入り口のほうで、小さな騒ぎが起きた。年配の男性が足元をふらつかせ、杖が床を鳴らした。高く、硬い音。サエの肩が跳ねる。跳ねた肩を、僕は視線で触れずに支える。支える、という言葉が正しいのか分からない。ただ、声は準備していた。
「ここ、影。音、薄い。いまは大丈夫」
言葉を落とす。落ちた先で、サエが息を四つ吸って、六つで吐く。列のとおりに。列があるのは強い。強さが、静かに戻る。戻る途中で、サエが小さく笑う。
「メモ、役に立った」
「すぐ役に立って、よかった」
言ってから、言葉の角が立たないように、声の底を丸くする。丸い底は、落ちる音を受け止める。
日曜の午前は、静かに流れた。流れの中で、僕たちは声を少しずつ置いた。置かない時間も長く置いた。置かない沈黙は、薄く軽い。軽い沈黙は宙で丸くなり、少しの風で形を変える。その変わる形を見るのが、嫌いではない。飽きる前に、受付の時計が一段進む。進む音で、僕は紙コップを机の右端に置いた。置いた位置で、終わりの合図。サエがそれに気づいて、小さくうなずく。終わりを自分で作れることは、救いだ。
帰り際、サエが言った。
「もし、良ければ、これ」
メモ帳からもう一枚、破る。今度は、短い単語が三つだけ書いてある。ありがとう。大丈夫。また。三つの間隔は、鉛筆の薄い線で等間隔に区切られていた。等間隔の上に置くための土台。僕はそれを受け取り、胸ポケットにしまう。しまうと、胸の中のクリックが一度鳴る。クリックは約束の音で、刃に変わらない種類のものだ。
外は薄曇りで、風は弱い。サエと並んで角を曲がり、交差点まで歩く。歩いているあいだ、何も話さない。話さないことが負担にならない距離。負担にならない距離は、いつでも確保できるわけではない。今日、確保できた。できた事実だけで十分だ。
翌日から、週はふつうに進んだ。ふつうの中に、いくつかの小さな変化が混ざっていた。廊下でぶつからない位置取りが、前より上手になった。保健室に行く前に、教室の隅の影で息を整えることを覚えた。帰り道のバス停で、傘の骨が触れない角度を先に作れるようになった。夜、電球色のスタンドの下で、手帳に書く行が一行増えた。増えた行は、刃ではない。紙コップの縁に触れた指先の温度や、スタンドライトの黄や、待合室の椅子の丸い背もたれの曲線のこと。役に立たないものに見えるのに、役に立つ。役に立つと知る前から、僕はそれが好きだったのかもしれない。
金曜の夕方、雨が強く降った。雨音が窓を叩く。強い音は、合図に似る。似た音が続くと、昔の部屋の空気が勝手に戻ろうとする。戻りそうになった手前で、僕は胸ポケットからサエのメモを取り出した。ありがとう。大丈夫。また。三つの単語の間に薄い線。線を指でなぞる。なぞると、線は音にならず、触覚だけが残る。残った触覚が、合図の刃の角を丸める。丸まったところで、雨音は雨音に戻る。戻った雨音を、等間隔で数える。四つ吸って、六つで吐く。吐く間に、窓の外を横切る車のライトが一つ、二つ。ライトは音を持たない。持たない光を見ている時間は、呼吸の練習に似ている。
土曜、午前の病院は珍しく混んでいた。受付前の床の四角い光が人の影で割れ、椅子の列のいくつかが埋まっている。隅の席は空いていない。影の柔らかさが薄い場所しか残っていない。僕は入口付近の柱の影の端を選び、腰を下ろした。サエは少し遅れて来た。近づいて来る足音は等間隔で、踏む位置も正確だ。正確な足音は、床を怒らせない。
空きがないことに気づいたサエが歩みを止め、耳たぶに触れる。触れた指の速度が速い。速いのは揺れている合図。合図の手前で、僕は立ち上がった。自分の席を示す。示しながら、別の角の壁が作る薄い影を顎で示す。そこなら僕は座れる。僕のほうが揺れの幅が小さいから、移るのは容易だ。サエは、短く迷ってから、うなずいた。うなずきが二段階で、二度目の角度は深い。深い返事は、誠実の形に見える。
席を交換して座る。座った途端、サエの肩から力が一段落ちたのが分かった。分かったけれど、言わない。言葉は時々、観察を刃に変える。変えないために、紙コップの縁を親指でなぞる。なぞる動作で合図する。ここは大丈夫。大丈夫の合図は、言葉でなくてもいい。
「ありがとう」
サエが先に言った。先に言われる「ありがとう」は、胸にそのまま落ちる。落ちた音が、昔の合図の上に重なり、音程を少し下げる。下がった音程は、刃になりにくい。刃になりにくい場所なら、少し長く座っていられる。
そのとき、待合室の隅で、小学生くらいの男の子が大きな声を上げた。ゲームの画面に向かって叫ぶ声。高くて、突き刺さる。空気がぴり、と鳴る。サエの指が耳へ戻りかけ、途中で止まる。止まることができた。止まれたなら、戻れる。戻り方はメモにある。鼻から四つ。吐くときは六つ。等間隔がないときは、言葉で作る。ありがとう。大丈夫。また。サエの唇が動いた。声は出さない。出さない声で、単語が胸の中に落ちていく。落ちた先で、鼓動がゆっくり揺れる。揺れが整ったのを見て、僕は息を長く吐いた。吐いた息が、サエの吐息と細く重なる。重なった呼吸の上に、未知の薄い輪がひとつ置かれた気がした。
「俺、明日、午前は来れない。家の用事で」
言いづらいことは先に置く。先に置くと、音が増えない。サエが顔を上げずにうなずく。うなずきの角度は浅いけれど、動きははっきりしている。浅いけれど確かな返事は、刃にならない。
「じゃあ、次は火曜。放課後。もし、無理なら、無理って」
無理、という言葉に、丸がついているように見えた。丸のついた無理は、命令じゃない。命令じゃない言葉のそばなら、僕は座っていられる。
火曜は晴れだった。晴れの光は時に刃になるが、角度を選べばやわらぐ。病院の自動ドアの前で、僕は一度だけ深呼吸をする。呼吸はいつも自分の側に残っている。残っているものを使えばいい、と先生が言った。使うことに対して罪悪感を覚える夜もあるが、今日は少ない。
待合室は空いていた。椅子の配列はいつも通りで、隅の席に黒が座っている。サエだ。文庫の背は青。青は冷たい。冷たい色は、火事を鎮める。鎮める色の上で、サエが顔を上げる。
「こんばんは」
「こんばんは」
僕は紙コップを取りに立ち、戻ろうとして、ふと足を止めた。受付の壁に貼られた掲示物が一枚、目に入ったからだ。光の眩しさがつらい人へ、というタイトル。照明を避ける座り方、明るさの調整の相談窓口、耳栓やサングラスを過剰に否定しないこと。簡単な言葉で書かれている。僕はそれを読み、短くうなずいた。うなずきは、自分への返事でもある。できることをひとつ増やす。その繰り返しで、今日を越える。
席に戻ると、サエがメモ帳を開いたまま僕を見ないで言った。
「僕、いつか、トモに、ルウガの話、ちゃんとする」
突然に聞こえるけれど、突然ではなかった。ずっとサエの言葉の縁にいた名前だ。僕は、返事を一段遅らせる。遅らせると、声の角が丸くなる。
「聞く。無理のないときに。無理なら、無理って言って」
サエが、ほんの一瞬だけ笑う。笑いの線が薄く伸びて、すぐ消える。消える前に、胸の中で捕まえる。捕まえるのは所有ではない。留めた温度を自分の呼吸で温め直すだけだ。
僕は胸ポケットから、あの日のメモを取り出した。ありがとう。大丈夫。また。三つの単語。間を区切る薄い鉛筆の線。線の上に、今日の約束を心の中で置く。聞く。無理なら、無理と言う。言えたら、ありがとうと言う。言えなかったら、大丈夫を置く。そして、また。等間隔の上を歩く準備ができた。準備ができたから、今夜は眠れるだろう。眠りの前に、僕はほんの少しだけ未来を想像した。病院の光の黄。紙コップの縁。息の等間隔。ルウガという名の、サエの中の観察者の声。その声の話を、刃ではない夜に聞く。聞いても、僕は触れない。触れずに、隣で座る距離を守る。守ることが、僕の差し出せるものだ。
受付の時計が、分を一つ進めた。進む音の薄い合図で、僕たちはほぼ同時に息を吐く。吐いた息が重なる。重なった瞬間、胸骨の内側で、あの小さなクリックが二重に鳴った。和音になった約束の音が、壁に残る。目には見えない印が、また一つ増えた。
その印が増え続ければ、いつか、廊下の混雑の中でも、僕は刃の合図に負けずに済む。サエは蛍光の点滅の中でも、自分の列で戻れる。そういう未来を、今夜は信じていい。信じることを許すのも、十分という言葉の仕事だと思う。
帰り道、雨の切れ間に星が少しだけ見えた。街の光が空を薄く曇らせ、それでも二つ三つ、白い点が滲んでいる。にじむ光は音を持たない。持たない光を、僕は好きだ。好きと言える夜は、多くない。多くないうちの一つが、今夜だ。
自室に戻り、スタンドを点ける。黄色い光の下で、手帳を開く。短い行をいくつか書く。混雑の導線。壁の影。紙コップの縁。ありがとう。大丈夫。また。そして、小さく書き足す。
聞く準備ができた。無理なら無理と言う練習もできた。
ペン先が止まる。止まったペンの先で、胸の中の蛇口がゆっくり閉まる。閉まった向こうで、呼吸が等間隔で往復する。往復のリズムを数え、目を閉じる。閉じたまぶたの裏で、病院のスタンドの黄が、薄く残っている。薄い黄は、音が少ない。音が少ないところで、眠りは静かに降りる。
眠りの縁で、僕はもう一度、あの三つを並べた。ありがとう。大丈夫。また。間の等間隔は、今夜はもう数えなくていい。数えなくても、身体が覚えている。覚えた身体が、明日の混雑の中で勝手に手順を選ぶ。選べるようになるまで、僕は何度でも練習する。練習は裏切らない。裏切らないものだけで世界を作るのは難しいが、練習と、低い声と、紙コップと、等間隔なら、柱は立つ。
柱が一本でも立っていれば、僕は倒れない。倒れなければ、隣で座る誰かの肩が硬くなる前に、低い声で合図を出せる。
大丈夫。
その言葉は、刃ではない。刃でない合図で、僕は生き直す。明日の朝も、等間隔から始める。窓の外で、わずかな風が葉を揺らす音がした。音は低く、薄い。薄い音に寄りかかるようにして、僕は眠った。



