朝の光は、昨日よりわずかに黄色かった。
洗いたてのカーテンが窓際で揺れ、瓶の水に小さな道を作る。黒い石はまだ冷たく、サエの指先で位置を少し変えた。石の下に薄い輪ができる。夜の間に動いた光の跡だ。
学校へ向かう道は乾いていた。雨の匂いは消えて、代わりにパン屋の甘い匂いが角を曲がるたびに現れては消える。横断歩道の白は、朝のうちは太い。刃にならない。サエは白だけ踏んで渡り、橋の上で立ち止まった。川の面が風で細く切られ、矢印みたいに光る。目を閉じるまでもなく、胸の左のほうで「方角」が開くのがわかった。
――今日は、なにを受け取る?
「日常のほうから来るもの。合図じゃなくて、いつもの動き」
――いいね。合図のいらない“また”。
*
教室では、体育館用の上履きのゴムが誰かの指に弾かれ、小さな音がいくつか飛んだ。痛くない音。席につく前に、瑞希が机の上で手を振る。
「今日、掃除終わったら商店街行かない? 夏祭りの準備、もう始まってるって」
「行く」
「屋台のリハがあるらしいよ。音、うるさいかな」
「角、探せば平気」
「心強い」
ホームルームで担任が話を終えると、掲示板の前に人だかりができた。合唱祭の写真の新しい組が貼られている。サエと瑞希が並んで写った一枚は、最後の「無言のまた」の場面だった。口の形だけ揃っていて、音は映っていない。それでも、見ていると胸の奥に温度が戻る。
「これ、うちのクラスの宝にしようよ」と誰かが言う。「静かなのに、なんか伝わる」
伝わっているのは、音ではない。置いておいた「間」だ。
昼休み、サエは一年の廊下で立ち止まった。踊り場の少年が友達と一緒にコンビニの袋を広げている。袋から、角の丸い飴の包みがこぼれ落ちた。少年はそれを拾い、袋の口を静かに閉める。動きに慌てがない。昨日まで残っていた、肩のこわばりは薄い。
「その飴、角ないね」
「うん。舐めてると落ち着く。先生がくれた」
「いい先生だ」
少年はうなずいて、ポケットから小さな紙を出した。丸だけが描かれている。「中心点」。誰に見せるでもなく、机の隅に置いた。その置き方が、少しだけ大人に見えた。
*
放課後。掃除当番の時間が終わると、瑞希が鞄を背負い直して「商店街へ」と指で小さな矢印を作った。二人で校門を出る。空は明るいが、光の温度は上がりすぎない。風の向きも一定だ。
商店街は、いつもより賑やかだった。提灯が吊られ、まだ灯っていない赤が軒先で揺れる。スピーカーから流れるテスト音のメロディは高いが短く、小さく切られる。角を探すのは簡単だった。果物屋の木箱の端、魚屋の氷のケースの角、文房具店の棚の端、どれも人の手で触れて丸くすれている。そこへ視線を置くと、音の層が一段薄くなる。
「いい匂い」
「焼きそば」
「かき氷」
「綿あめ」
瑞希が指を折っていく。名前を言うたびに、匂いの刃がやわらぐ。「名前」は刃を丸くする。
商店街の突き当たりに、ささやかなステージが組まれていた。明日の夕方の催しのリハーサルらしい。マイクテストはまだ続いていない。代わりに、地元の太鼓サークルが皮の張り具合を確かめている。低い音が腹のほうに落ちて、床板が少しだけ鳴る。太鼓は低音を隠さない。低い音は友達だ。
ステージの横で、案内の手伝いをしている人がサエに気づいた。「あ、君。去年、矢印のポスター作ってた子だよね」と声をかける。店主たちの間で、小さく言葉が回る。
「角の落とし方、教えてくれた」
「列、崩れにくくなった」
「この子、礼儀が静かで安心」
サエは「大げさだよ」と笑ったが、胸の奥が少し温かかった。瑞希は横で頷き、誰にも見えないくらい小さな拍手をした。
*
夕暮れ。光でも影でもない時間がゆっくり降りてくる。ステージで、急ごしらえの音響テストが始まった。マイクの「ツー、ツー」が空に混ざり、背中を刺しそうになる、その手前で止まる。音響の人が手慣れた動きでつまみを回す。刃が落ちる。
「すごいね」と瑞希が感心する。
「刃の落とし方、知ってる人」
「サエと同じ」
そのとき、小さなトラブルが起きた。ステージ下の電源タップのひとつが濡れてしまったらしい。誰かが慌てて布で拭き、別のタップに差し替える。照明係が「一回ぜんぶ落とします」と言う。商店街の提灯の線がつながり、その全てのスイッチが試されることになった。
「三、二、一」
声に合わせて、通り全体の明かりが一度だけすっと消えた。
音は残った。足音、笑い声、氷を砕く小さな音、遠くの電車。全部が闇の中で薄く残って、やがて、灯りが戻る。提灯の赤が一斉に灯って、商店街がふわっと息をする。
拍手が起きた。短い拍手。瑞希がサエの腕を小突き、「ほら」と言った。
「“合図”」
「受け取った」
「ね。日常のテストのふりをした、街の合唱」
サエは胸の内側で「ありがとう」をひとつ落とし、「大丈夫」をひとつ置いてから、口の形だけで「また」と言った。返事はいらない。日常が返事だ。
*
屋台の準備が終わるころ、商店街の端から音楽が流れてきた。太鼓サークルの子たちが輪になり、小さな拍で合わせる。低い音が地面を回り、店の金属の棚がかすかに震える。サエは人の輪の外側で、その震え方を見ていた。
太鼓の音の隙間に、誰かの口笛が混じる。高いが短い。店主が手の合図でテンポをいじる。音の層が変わり、角のある笑い声が一度だけ刺さりかけて、その前で溶けた。
日常の中に、いくつも小さな「奇跡」が紛れている。角が落ちる瞬間。音が丸くなる瞬間。誰も気づかないうちに、小さな「また」が往復する瞬間。
背後で、紙袋の擦れる音がして、振り返ると一年の少年が立っていた。朝の子だ。彼は両手で小さな紙コップを持ち、視線を少し下げたままサエに近づく。
「これ、余ったから。氷、いりますかって」
「もらう」
「冷たいから、気をつけて」
氷を受け取らない距離で傾け、視線だけで「ありがとう」を返す。少年は小さくうなずき、太鼓の輪に目を向けた。
「音、低いと、怖くないんだね」
「うん。地面に落ちるから」
「地面」
少年はその言葉を口の中で転がして、ポケットから丸だけ描かれた紙を取り出した。輪の外に、それをそっと置く。置くだけで、何もしない。その置き方が、きれいだった。
「いい置き方」とサエが言うと、少年は耳まで赤くして「また」とだけ言って走っていった。
*
夜。店が半分シャッターを降ろし、赤い提灯の列が短くなる。風の向きが少し曲がって、通り抜ける音が低くなる。サエと瑞希は商店街の出口のベンチに座り、氷のカップを二人で傾けた。
「今日さ」と瑞希が言う。「特別なこと、なんにもないのに、すごく静かで楽しかった」
「特別、あったよ」
「どこ?」
「灯りが落ちたとき、みんな笑った」
「それは特別だね」
瑞希は笑い、紙スプーンで氷を砕いた。高い音。でも短い。刃にならない。
「トモくん、さ」と瑞希が続ける。「今どこにいるんだろ」
「……病院、だと思う」
「会いに行けたらいいのに」
「行かなくていいように、録ってる」
「録ってる?」
「日常。重なる音。合図のない“また”。それを送る」
「うん。じゃあ私も、送る」
瑞希はポケットからスマートフォンを出し、シャッター音のしないカメラで提灯の列を撮る。音のない記録。
「送るね、“音のない写真”」
「いい名だ」
*
帰り道、橋の上で立ち止まる。川面に提灯の赤が映り、風で四角になったり丸になったりする。サエは黒い石を指で弾いた。石が小さく鳴り、胸の奥の線が太くなる。それは誰のためでもなく、自分の今日の終わり線を描く音だった。
家に着くと、部屋は暗かった。スタンドライトだけ点ける。瓶の水は透明のまま、わずかに光を受けている。花はもう完全に紙の質感だ。
レコーダーを机に置いて、部屋の音を一分だけ録った。冷蔵庫の低い唸り、風の弱い音、スタンドライトが出すほんのわずかな電子の気配。何も起きていない音。
録音を止め、スマートフォンを開く。送信先の欄に、名前のないアカウントがひとつ。メッセージを書かず、音声だけ送る。音の中に文字が入っている。
ありがとう。
大丈夫。
また。
文字がないのに、確かにそこにある。音の並べ方は、言葉の並べ方と同じだから。
送信を押したあと、胸の奥で小さく三つを並べる。
ありがとう。
大丈夫。
また。
返事は来ない。来なくていい。送ることと、受け取ることは、別の場所で成り立つ。
*
翌朝、学校の掲示板に小さな紙が増えていた。誰かが作った「街の静かな場所マップ」。手書きの矢印と丸。角の落ちたベンチ、木陰の列、階段の踊り場の壁。サエはすぐに、あの一年の字だとわかった。字の角が少し丸い。
「これ、いい」と瑞希が言う。「ふるえる日でも外に出られそう」
「ふるえる日」
「あるじゃん。何でもないのに、理由なく刺さる日」
「うん。角の少ない地図は、持ってて損ない」
「貼っておこうよ、図書室にも」
「許可もらおう」
誰かの“合図”がひとつ増える。返事を待てる合図は、街を少しずつ変えていく。
四時間目の終わりに、放送で図書委員が呼ばれた。図書室の片隅に新しいコーナーができたらしい。「静かな読む場所」。椅子の高さが低く、照明が黄色い。壁の角は布でくるまれている。カウンターに「ありがとう」「大丈夫」「また」の文字が小さく印刷されたカードが置かれていた。
カードの下には小さな行があった。
読む前にひとつ。読み終わってからひとつ。どちらも無言で。
名前はない。でも、書いたのはわかる。
日常の中に、静かな仕掛けが増えていく。奇跡という名前をつけると大げさだけれど、起きているのは確かだ。
*
夕方、練習のない音楽室に、数人の部員が集まっていた。明日のホームルームで「声の置き方」の話をするための準備だという。顧問が「声」の分析を板書する。
声は大きさではない。
声は高さだけでもない。
声は向きと置き場所だ。
サエは黒板の斜めの線を見ながら、喉の奥の「戻る矢印」が今日も太いことを確認した。
「サエ、最後にひと言話す?」と顧問が言う。
「長くは話せないけど」
「長くなくていい。君の“低い声”で、置いておいてほしい」
廊下で足音が一度弾み、音楽室の扉の前で止まった。のぞき込んだ一年の少年が、紙袋を握っている。「商店街の人がくれた」と言って、紙袋から角の丸い飴を一つだけ取り出し、誰にも差し出さない距離で傾けた。
「持ってるよ」とサエが笑うと、少年は紙をひとつ置いた。「また」とだけ書かれている。
「また」
合唱のない音楽室でも、和音はできる。
*
夜。
窓の外で、風が一度だけ強くなった。信号機の鎖が鳴り、犬が二回吠えて、すぐ静かになる。スタンドライトを消すと、瓶の水は闇の中で形だけになった。
ベッドに横たわる前に、黒い石を掌で包む。冷たさの向こうで、微かなぬくもりが残っている。長いあいだ触れてきた石の温度は、皮膚からだけでなく、心の中の「線」からも伝わるようになっていた。
――ねえ、サエ。
「なに」
――“奇跡”って言われると照れるけど、今日あったのは、間違いなく奇跡だよ。
「どれ?」
――電気が落ちて、笑いが起きた。
「うん。あれは不思議だった」
――あれ、街が「また」って言ったんだよ。
「……そうかもしれない」
――明日は、もっと小さいのが起きる。気づかれないくらいのやつ。
「気づくよ」
――君が気づくから、世界は“また”を覚える。
目を閉じると、今日の場面が順番に浮かんだ。提灯の赤、太鼓の低い輪、飴の角、図書室の黄色い光、広告スピーカーの短い音、橋の上の風。そして、誰かが置いていった「中心点」の紙。
全部が日常のままだった。誰も泣かず、誰も叫ばない。誰かが誰かを抱きしめもしない。そのかわりに、合図が無言で往復し、声が無音で重なった。
奇跡は、大きいほど遠くなる。小さいほど近い。触れられるくらい近いものは、“また”と同じ形をしている。
サエは喉の奥で小さく言った。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
返事はない。
でも、胸の左の方角が確かに開いた。風がほとんどない部屋の空気が、気持ちだけ動く。瓶の水面が一回だけ震え、石の輪がわずかに広がる。
それが「日常のまま起きること」だった。
*
翌朝、掲示板の地図に赤いペンの丸がひとつ増えていた。誰かが書いた「静かな角」。場所は商店街のベンチの端。紙には丸い字で、短い言葉が添えられている。
ありがとう。
大丈夫。
また。
その字は、確かに「誰か」のやわらかさを持っていた。名前はなくていい。受け渡しは、ここまで来ればもう完了している。
ホームルームで顧問の授業が少しだけ伸び、最後にサエが前に立った。人前で話すのは得意ではない。でも、話すことに“戦い”はいらない。置けばいい。置いて、待てばいい。
「声って、向きなんだと思います。大きさでも高さでもなくて。置く場所で、届くところが変わる。だから、困ったときは“角”を探して、そこで“また”って小さく言ってください。無言でもいい。待てます」
それだけ言って、礼をした。教室の空気が少しだけ丸くなる。拍手は短いが、厚みがあった。瑞希が目で合図する。聴こえてる。重なってる。
窓の外、空の白は薄く青に変わった。風は弱い。
サエは席に戻りながら、胸の奥で小さな行をひとつ書いた。
――今日も、等間隔の上を歩ける。
その行のあとに、もうひとつ足した。
――そして、いつでも「また」と言える。
日常は続く。
けれど、その中で小さな奇跡は確かに起きている。
それは誰にも気づかれないほど静かで、
けれど、街の形を少しずつ変えていく。
合図を待てる場所が増え、返事のいらない「ありがとう」が増え、根拠のいらない「大丈夫」が増え、いつでも言える「また」が増える。
サエは黒板の白い線を、ただの白として見た。
刃ではない。
道だった。
そして、その道の真ん中に、低い声をひとつ置いた。
音にならないほど短く、
けれど確かに、誰かと重なる声を。
洗いたてのカーテンが窓際で揺れ、瓶の水に小さな道を作る。黒い石はまだ冷たく、サエの指先で位置を少し変えた。石の下に薄い輪ができる。夜の間に動いた光の跡だ。
学校へ向かう道は乾いていた。雨の匂いは消えて、代わりにパン屋の甘い匂いが角を曲がるたびに現れては消える。横断歩道の白は、朝のうちは太い。刃にならない。サエは白だけ踏んで渡り、橋の上で立ち止まった。川の面が風で細く切られ、矢印みたいに光る。目を閉じるまでもなく、胸の左のほうで「方角」が開くのがわかった。
――今日は、なにを受け取る?
「日常のほうから来るもの。合図じゃなくて、いつもの動き」
――いいね。合図のいらない“また”。
*
教室では、体育館用の上履きのゴムが誰かの指に弾かれ、小さな音がいくつか飛んだ。痛くない音。席につく前に、瑞希が机の上で手を振る。
「今日、掃除終わったら商店街行かない? 夏祭りの準備、もう始まってるって」
「行く」
「屋台のリハがあるらしいよ。音、うるさいかな」
「角、探せば平気」
「心強い」
ホームルームで担任が話を終えると、掲示板の前に人だかりができた。合唱祭の写真の新しい組が貼られている。サエと瑞希が並んで写った一枚は、最後の「無言のまた」の場面だった。口の形だけ揃っていて、音は映っていない。それでも、見ていると胸の奥に温度が戻る。
「これ、うちのクラスの宝にしようよ」と誰かが言う。「静かなのに、なんか伝わる」
伝わっているのは、音ではない。置いておいた「間」だ。
昼休み、サエは一年の廊下で立ち止まった。踊り場の少年が友達と一緒にコンビニの袋を広げている。袋から、角の丸い飴の包みがこぼれ落ちた。少年はそれを拾い、袋の口を静かに閉める。動きに慌てがない。昨日まで残っていた、肩のこわばりは薄い。
「その飴、角ないね」
「うん。舐めてると落ち着く。先生がくれた」
「いい先生だ」
少年はうなずいて、ポケットから小さな紙を出した。丸だけが描かれている。「中心点」。誰に見せるでもなく、机の隅に置いた。その置き方が、少しだけ大人に見えた。
*
放課後。掃除当番の時間が終わると、瑞希が鞄を背負い直して「商店街へ」と指で小さな矢印を作った。二人で校門を出る。空は明るいが、光の温度は上がりすぎない。風の向きも一定だ。
商店街は、いつもより賑やかだった。提灯が吊られ、まだ灯っていない赤が軒先で揺れる。スピーカーから流れるテスト音のメロディは高いが短く、小さく切られる。角を探すのは簡単だった。果物屋の木箱の端、魚屋の氷のケースの角、文房具店の棚の端、どれも人の手で触れて丸くすれている。そこへ視線を置くと、音の層が一段薄くなる。
「いい匂い」
「焼きそば」
「かき氷」
「綿あめ」
瑞希が指を折っていく。名前を言うたびに、匂いの刃がやわらぐ。「名前」は刃を丸くする。
商店街の突き当たりに、ささやかなステージが組まれていた。明日の夕方の催しのリハーサルらしい。マイクテストはまだ続いていない。代わりに、地元の太鼓サークルが皮の張り具合を確かめている。低い音が腹のほうに落ちて、床板が少しだけ鳴る。太鼓は低音を隠さない。低い音は友達だ。
ステージの横で、案内の手伝いをしている人がサエに気づいた。「あ、君。去年、矢印のポスター作ってた子だよね」と声をかける。店主たちの間で、小さく言葉が回る。
「角の落とし方、教えてくれた」
「列、崩れにくくなった」
「この子、礼儀が静かで安心」
サエは「大げさだよ」と笑ったが、胸の奥が少し温かかった。瑞希は横で頷き、誰にも見えないくらい小さな拍手をした。
*
夕暮れ。光でも影でもない時間がゆっくり降りてくる。ステージで、急ごしらえの音響テストが始まった。マイクの「ツー、ツー」が空に混ざり、背中を刺しそうになる、その手前で止まる。音響の人が手慣れた動きでつまみを回す。刃が落ちる。
「すごいね」と瑞希が感心する。
「刃の落とし方、知ってる人」
「サエと同じ」
そのとき、小さなトラブルが起きた。ステージ下の電源タップのひとつが濡れてしまったらしい。誰かが慌てて布で拭き、別のタップに差し替える。照明係が「一回ぜんぶ落とします」と言う。商店街の提灯の線がつながり、その全てのスイッチが試されることになった。
「三、二、一」
声に合わせて、通り全体の明かりが一度だけすっと消えた。
音は残った。足音、笑い声、氷を砕く小さな音、遠くの電車。全部が闇の中で薄く残って、やがて、灯りが戻る。提灯の赤が一斉に灯って、商店街がふわっと息をする。
拍手が起きた。短い拍手。瑞希がサエの腕を小突き、「ほら」と言った。
「“合図”」
「受け取った」
「ね。日常のテストのふりをした、街の合唱」
サエは胸の内側で「ありがとう」をひとつ落とし、「大丈夫」をひとつ置いてから、口の形だけで「また」と言った。返事はいらない。日常が返事だ。
*
屋台の準備が終わるころ、商店街の端から音楽が流れてきた。太鼓サークルの子たちが輪になり、小さな拍で合わせる。低い音が地面を回り、店の金属の棚がかすかに震える。サエは人の輪の外側で、その震え方を見ていた。
太鼓の音の隙間に、誰かの口笛が混じる。高いが短い。店主が手の合図でテンポをいじる。音の層が変わり、角のある笑い声が一度だけ刺さりかけて、その前で溶けた。
日常の中に、いくつも小さな「奇跡」が紛れている。角が落ちる瞬間。音が丸くなる瞬間。誰も気づかないうちに、小さな「また」が往復する瞬間。
背後で、紙袋の擦れる音がして、振り返ると一年の少年が立っていた。朝の子だ。彼は両手で小さな紙コップを持ち、視線を少し下げたままサエに近づく。
「これ、余ったから。氷、いりますかって」
「もらう」
「冷たいから、気をつけて」
氷を受け取らない距離で傾け、視線だけで「ありがとう」を返す。少年は小さくうなずき、太鼓の輪に目を向けた。
「音、低いと、怖くないんだね」
「うん。地面に落ちるから」
「地面」
少年はその言葉を口の中で転がして、ポケットから丸だけ描かれた紙を取り出した。輪の外に、それをそっと置く。置くだけで、何もしない。その置き方が、きれいだった。
「いい置き方」とサエが言うと、少年は耳まで赤くして「また」とだけ言って走っていった。
*
夜。店が半分シャッターを降ろし、赤い提灯の列が短くなる。風の向きが少し曲がって、通り抜ける音が低くなる。サエと瑞希は商店街の出口のベンチに座り、氷のカップを二人で傾けた。
「今日さ」と瑞希が言う。「特別なこと、なんにもないのに、すごく静かで楽しかった」
「特別、あったよ」
「どこ?」
「灯りが落ちたとき、みんな笑った」
「それは特別だね」
瑞希は笑い、紙スプーンで氷を砕いた。高い音。でも短い。刃にならない。
「トモくん、さ」と瑞希が続ける。「今どこにいるんだろ」
「……病院、だと思う」
「会いに行けたらいいのに」
「行かなくていいように、録ってる」
「録ってる?」
「日常。重なる音。合図のない“また”。それを送る」
「うん。じゃあ私も、送る」
瑞希はポケットからスマートフォンを出し、シャッター音のしないカメラで提灯の列を撮る。音のない記録。
「送るね、“音のない写真”」
「いい名だ」
*
帰り道、橋の上で立ち止まる。川面に提灯の赤が映り、風で四角になったり丸になったりする。サエは黒い石を指で弾いた。石が小さく鳴り、胸の奥の線が太くなる。それは誰のためでもなく、自分の今日の終わり線を描く音だった。
家に着くと、部屋は暗かった。スタンドライトだけ点ける。瓶の水は透明のまま、わずかに光を受けている。花はもう完全に紙の質感だ。
レコーダーを机に置いて、部屋の音を一分だけ録った。冷蔵庫の低い唸り、風の弱い音、スタンドライトが出すほんのわずかな電子の気配。何も起きていない音。
録音を止め、スマートフォンを開く。送信先の欄に、名前のないアカウントがひとつ。メッセージを書かず、音声だけ送る。音の中に文字が入っている。
ありがとう。
大丈夫。
また。
文字がないのに、確かにそこにある。音の並べ方は、言葉の並べ方と同じだから。
送信を押したあと、胸の奥で小さく三つを並べる。
ありがとう。
大丈夫。
また。
返事は来ない。来なくていい。送ることと、受け取ることは、別の場所で成り立つ。
*
翌朝、学校の掲示板に小さな紙が増えていた。誰かが作った「街の静かな場所マップ」。手書きの矢印と丸。角の落ちたベンチ、木陰の列、階段の踊り場の壁。サエはすぐに、あの一年の字だとわかった。字の角が少し丸い。
「これ、いい」と瑞希が言う。「ふるえる日でも外に出られそう」
「ふるえる日」
「あるじゃん。何でもないのに、理由なく刺さる日」
「うん。角の少ない地図は、持ってて損ない」
「貼っておこうよ、図書室にも」
「許可もらおう」
誰かの“合図”がひとつ増える。返事を待てる合図は、街を少しずつ変えていく。
四時間目の終わりに、放送で図書委員が呼ばれた。図書室の片隅に新しいコーナーができたらしい。「静かな読む場所」。椅子の高さが低く、照明が黄色い。壁の角は布でくるまれている。カウンターに「ありがとう」「大丈夫」「また」の文字が小さく印刷されたカードが置かれていた。
カードの下には小さな行があった。
読む前にひとつ。読み終わってからひとつ。どちらも無言で。
名前はない。でも、書いたのはわかる。
日常の中に、静かな仕掛けが増えていく。奇跡という名前をつけると大げさだけれど、起きているのは確かだ。
*
夕方、練習のない音楽室に、数人の部員が集まっていた。明日のホームルームで「声の置き方」の話をするための準備だという。顧問が「声」の分析を板書する。
声は大きさではない。
声は高さだけでもない。
声は向きと置き場所だ。
サエは黒板の斜めの線を見ながら、喉の奥の「戻る矢印」が今日も太いことを確認した。
「サエ、最後にひと言話す?」と顧問が言う。
「長くは話せないけど」
「長くなくていい。君の“低い声”で、置いておいてほしい」
廊下で足音が一度弾み、音楽室の扉の前で止まった。のぞき込んだ一年の少年が、紙袋を握っている。「商店街の人がくれた」と言って、紙袋から角の丸い飴を一つだけ取り出し、誰にも差し出さない距離で傾けた。
「持ってるよ」とサエが笑うと、少年は紙をひとつ置いた。「また」とだけ書かれている。
「また」
合唱のない音楽室でも、和音はできる。
*
夜。
窓の外で、風が一度だけ強くなった。信号機の鎖が鳴り、犬が二回吠えて、すぐ静かになる。スタンドライトを消すと、瓶の水は闇の中で形だけになった。
ベッドに横たわる前に、黒い石を掌で包む。冷たさの向こうで、微かなぬくもりが残っている。長いあいだ触れてきた石の温度は、皮膚からだけでなく、心の中の「線」からも伝わるようになっていた。
――ねえ、サエ。
「なに」
――“奇跡”って言われると照れるけど、今日あったのは、間違いなく奇跡だよ。
「どれ?」
――電気が落ちて、笑いが起きた。
「うん。あれは不思議だった」
――あれ、街が「また」って言ったんだよ。
「……そうかもしれない」
――明日は、もっと小さいのが起きる。気づかれないくらいのやつ。
「気づくよ」
――君が気づくから、世界は“また”を覚える。
目を閉じると、今日の場面が順番に浮かんだ。提灯の赤、太鼓の低い輪、飴の角、図書室の黄色い光、広告スピーカーの短い音、橋の上の風。そして、誰かが置いていった「中心点」の紙。
全部が日常のままだった。誰も泣かず、誰も叫ばない。誰かが誰かを抱きしめもしない。そのかわりに、合図が無言で往復し、声が無音で重なった。
奇跡は、大きいほど遠くなる。小さいほど近い。触れられるくらい近いものは、“また”と同じ形をしている。
サエは喉の奥で小さく言った。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
返事はない。
でも、胸の左の方角が確かに開いた。風がほとんどない部屋の空気が、気持ちだけ動く。瓶の水面が一回だけ震え、石の輪がわずかに広がる。
それが「日常のまま起きること」だった。
*
翌朝、掲示板の地図に赤いペンの丸がひとつ増えていた。誰かが書いた「静かな角」。場所は商店街のベンチの端。紙には丸い字で、短い言葉が添えられている。
ありがとう。
大丈夫。
また。
その字は、確かに「誰か」のやわらかさを持っていた。名前はなくていい。受け渡しは、ここまで来ればもう完了している。
ホームルームで顧問の授業が少しだけ伸び、最後にサエが前に立った。人前で話すのは得意ではない。でも、話すことに“戦い”はいらない。置けばいい。置いて、待てばいい。
「声って、向きなんだと思います。大きさでも高さでもなくて。置く場所で、届くところが変わる。だから、困ったときは“角”を探して、そこで“また”って小さく言ってください。無言でもいい。待てます」
それだけ言って、礼をした。教室の空気が少しだけ丸くなる。拍手は短いが、厚みがあった。瑞希が目で合図する。聴こえてる。重なってる。
窓の外、空の白は薄く青に変わった。風は弱い。
サエは席に戻りながら、胸の奥で小さな行をひとつ書いた。
――今日も、等間隔の上を歩ける。
その行のあとに、もうひとつ足した。
――そして、いつでも「また」と言える。
日常は続く。
けれど、その中で小さな奇跡は確かに起きている。
それは誰にも気づかれないほど静かで、
けれど、街の形を少しずつ変えていく。
合図を待てる場所が増え、返事のいらない「ありがとう」が増え、根拠のいらない「大丈夫」が増え、いつでも言える「また」が増える。
サエは黒板の白い線を、ただの白として見た。
刃ではない。
道だった。
そして、その道の真ん中に、低い声をひとつ置いた。
音にならないほど短く、
けれど確かに、誰かと重なる声を。



