朝、雨がやんだばかりの道を歩く。
 空気が冷たくて、靴底が水を弾くたびに、小さな音が残った。
 空はまだ白く、太陽の輪郭は雲の裏に隠れている。

 サエは傘をたたみながら、学校の門をくぐった。
 制服の袖は少し濡れている。
 ポケットの中の黒い石が冷たく、けれどそれが「生きてる」印のように思えた。

 昇降口で靴を履き替えていると、一年の生徒が傘をうまく畳めずに困っていた。
 金具が引っかかって、布がねじれている。
 彼は焦ったように指先を動かすけれど、直らない。

 「貸して」
 サエは声をかけた。
 少年は驚いた顔をしたが、傘を差し出した。
 金具を少し戻し、布を正しい方向に回す。小さな音がして、閉じる。

 「ありがとう」
 少年の声は震えていた。
 サエは笑って、「どういたしまして」と言った。
 それだけのやり取りだったのに、胸の奥が温かくなった。

 ――“声を出す”って、思っていたよりも簡単なんだ。
 ルウガの声が微かに響く。
 「うん。でも、勇気がいる」
 ――勇気は、声のかたち。

     *

 教室に入ると、窓際の席に瑞希がいた。
 彼女は窓の外を見ていたが、サエの足音に気づいて振り返る。
 「ねえ、ニュース見た? 昨日の夜、また一瞬だけ停電したって」
 「うん」
 「サエの“合図”が、まだ街に残ってるんじゃない?」
 「そんなわけ」
 「あると思う」
 瑞希は笑って、机の上の音楽ノートを叩いた。
 「今日、最後の練習で録音するんでしょ?」
 「うん。トモに送るやつ」
 「じゃあ、さ。わたしも一緒に“ありがとう”言わせて」
 「いいの?」
 「むしろ、言いたい」

 教室のざわめきが広がる。
 廊下の向こうから放送のチャイムが鳴った。
 音は柔らかい。刃にはならない。

     *

 放課後の音楽室。
 外は再び雨が降り出していた。
 窓を打つ水の音が、ピアノの低音と重なる。

 サエはレコーダーを机に置いた。
 「今日は、“重なる音”を録る日だよ」
 瑞希は笑ってうなずく。
 他の部員たちもそれぞれに準備を始めた。

 指揮者が静かに手を上げる。
 ピアノが鳴る。
 低い音が床を伝い、声が空へ伸びていく。

 サエの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
 昨日よりも少し太い。
 息の流れが一定で、音の角が丸い。
 瑞希の高い声が重なる。
 そしてその二つの間に、確かに“間”があった。

 ルウガの声が微かに囁く。
 ――その“間”が、世界の呼吸だよ。

 最後の無言の「また」で、サエは喉の奥に力を残した。
 終わった瞬間、静寂が音よりも濃くなった。
 ピアノの蓋が閉じる音。誰かの小さな息。
 全部が、録音の中に残った。

     *

 夜。
 部屋の灯りを落とし、サエはレコーダーを再生した。
 声が流れる。瑞希の声、合唱の声、自分の声。
 最後に無音の「また」。

 そこに――別の声が重なった。

 「……届いたよ」

 息を呑む。
 トモの声だった。
 遠くから、風を割って届くような声。

 「これで最後の録音。僕は、たぶんもう病院を出られない。
  でも、君たちの“音”は、ちゃんと届いた。
  この街の灯りが落ちても、声の線が残ってる。
  それがあれば、大丈夫だよ」

 声が途切れた。
 無音の後、トモの笑う気配だけが続いた。

 サエは目を閉じ、耳を澄ませた。
 涙は出なかった。
 代わりに胸の中がゆっくり膨らんでいく。

 ――ありがとう。
 喉の奥で言った。
 それで十分だった。

     *

 翌日。
 雨は上がり、街全体が少しだけ光っていた。
 道路の水たまりが鏡のように空を映している。

 学校へ向かう途中、電柱の影の下で、昨日の一年生がしゃがんでいた。
 地面に落ちた紙を拾おうとしている。
 近づくと、それは小さな矢印カードだった。
 濡れたせいで文字は消えかけている。

 「これ、落とした?」
 「うん……」
 「まだ使えるよ」
 サエはカードの端を押さえ、空気で乾かすように手を振った。
 「ありがとう」
 少年の声は昨日よりも強かった。

 「トモって人、知ってる?」とサエは聞いた。
 「知らない」
 「そっか。でも、きっと君のこともどこかで聞いてると思う」
 「え?」
 「いや、なんでもない」

 歩き出すと、背後から少年の声がした。
 「また!」
 サエは振り返らず、片手だけ上げた。

     *

 その夜。
 サエは瓶の前に座っていた。
 中の水はもう金色ではない。
 透明なまま、ただ静かに光を受けている。

 スマートフォンの画面に、メッセージが届く。

 〈ありがとう〉
 〈大丈夫〉
 〈また〉

 トモのアカウント。
 既読はつかない。
 でも、そこにある文字が、確かに“生きている”ように見えた。

 「……こっちは、ちゃんと届いてるよ」

 声に出すと、瓶の水がわずかに揺れた。
 ルウガの声が小さく笑う。
 ――もう、世界が君の声を覚えてる。
 「ほんとに?」
 ――ほら、外。

 サエは窓を開けた。
 街の灯りが雨の後の空気を照らしている。
 その光が、風に揺れて小さく瞬いた。

 遠くで誰かの声が重なる。
 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」

 見えない合唱のように、街全体が呼吸している。
 その声が、どこかでトモに届く気がした。

     *

 翌朝。
 空は晴れていた。
 青が眩しい。雲の輪郭がくっきりしている。

 サエは登校途中、橋の上で立ち止まった。
 川の水が光を反射して、無数の矢印を描いている。
 その一つひとつが、昨日までの音を運んでいるようだった。

 「ねえ、ルウガ」
 ――なに?
 「これ、終わりなのかな」
 ――終わりじゃない。音は続く。君が歩く限り。
 「そうか」

 サエは深呼吸をした。
 息が胸の奥まで届く。
 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」

 その三つの言葉が、風に乗って街へ広がる。
 遠くで誰かが小さく笑った気がした。

     *

 放課後。
 音楽室の鍵を閉めるとき、瑞希が言った。
 「ねえ、トモくんの声、もう聞こえないんだね」
 「うん。でも、残ってる」
 「どこに?」
 サエは自分の胸を指さした。
 「ここ。方角の真ん中」
 瑞希は少し考えてから頷いた。
 「じゃあ、忘れないね」
 「忘れなくていい。けど、止まらなくてもいい」

 窓の外で、夕陽が傾く。
 空が光と影のあいだで揺れていた。
 その光の中に、サエはトモの声の残りを感じた。

 そして静かに呟いた。
 「ありがとう。大丈夫。また」

 風が吹いた。
 瓶の水が光を返した。
 サエは微笑んで歩き出した。

 ――それが、世界が動き出す音だった。