月曜の放課後、空は薄く乾いていた。
グラウンドの砂が風で細く走り、校舎の壁に沿って白い線を描く。教室の窓から差し込む光は弱く、それでも机の上にひとつの道を作っていた。
サエは手帳の右上に点を打ち、そこから短い矢印を描いた。矢印の先に小さく「合図」と書く。定義はない。ただ、誰かに届く手前のかすかな身振り。その程度の意味でいい。
瑞希が前の席をくるりと回って覗き込む。
「今日は“合図”?」
「うん。返事を待てる合図」
「ふむ。告白みたいだね」
「それは大きすぎる」
「じゃあ、挨拶の手前」
「そのくらい」
瑞希は笑って頷いた。笑いは短く、刃にならない。
チャイムが鳴り、ざわめきが立ち上がる。合唱祭の練習は今日も夕方からだ。サエは手帳を閉じ、鞄の中の黒い石を指先で確かめた。冷たいが、深いところは温かい。
*
音楽室の窓は半分だけ開いている。外の風は弱く、カーテンが少し揺れる。ピアノの上に置かれた譜面の端が、息をするみたいに上下した。
部員たちの輪の少し外、サエは立っていた。指揮者が手を上げる。瑞希が前列で口を開く。伴奏の和音がひとつ、床に落ちるように響き、声が重なった。高音と低音の間の空白。その隙間に、サエは自分の低い声を薄く載せる。無理に出さない。置くだけ。置いたものが、誰かの声と触れて丸くなる瞬間を待つ。
ふと、扉が開いた。昼休みに踊り場で会った一年の少年が、顔をのぞかせる。肩が固い。けれど逃げる気配はない。顧問の先生が気づき、顎で合図した。入ってきなさい。少年は音の波を乱さないよう、壁際の椅子に腰を下ろした。彼が視線を置いたのは、ピアノの脚の影だった。角に似た、静かな場所。サエは胸の奥でうなずいた。
曲が終わる。拍手は小さく、空気の表面だけを撫でる。
「……今の、合ってた?」
サエが小声で言うと、瑞希が顔だけ振り返って、目で答えた。聴こえてるよ。重なってる。サエは喉の奥に戻る矢印が太くなるのを感じた。
休憩に入り、紙コップの水が回ってくる。受け取らない距離で差し出され、視線だけで「ありがとう」を返す。少年が近づいてきて、小さく頭を下げた。
「……さっきの、よかった」
「どこが?」
「低いとこ。地面みたいで」
「君は?」
「まだ、聴いてるだけ」
少年の指は膝の上で丸くなっている。サエは手帳から小さな矢印カードを一枚破り、角を落として渡さずに見せた。少年はうなずき、ポケットに同じ形の紙があることを示すように軽く叩いた。合図。受け渡しはそれだけで十分だった。
*
練習の帰り、校門を出ると、空は灰の中に少し金を含んでいた。光でも影でもない時間。歩道の白線が短く見え、交差点のざわめきは刃にならない程度に崩れている。
駅前の広場で、スピーカーからの宣伝音が一度だけ高く跳ねた。子どもが驚いて手を放し、紙の風船が空へ転がる。追いかけた母親が足を止め、空を見上げ、諦めた笑いを浮かべる。サエは見上げない。代わりに、母親と子のあいだを流れる目に見えない線を探す。丸の中心点を想像し、その中央に「また」を置く。口には出さない。置くだけ。風船は街灯に当たって割れ、音は低かった。子は泣かず、母は肩をすくめて笑った。風は弱く、合図は受け取られた。
スマートフォンが震える。画面には短い通知。
〈明日、録音の更新。屋上、二十時〉
番号は表示されず、文の終わりに小さな丸。サエは返さない。返事は明日、屋上で。
*
翌日の放課後は、空が少しざわついた。遠くの地平のあたりだけ暗く、風の向きが何度か変わる。校内放送で注意が流れた。
「夜、短時間の停電があるかもしれません。帰宅時は注意してください」
声はやや高いが、文が短い。刃は落ちる。
瑞希が鞄を肩にかけながら言う。
「屋上、行くの?」
「うん。二十時」
「私も行っていい?」
「……いいよ」
「静かにする。邪魔しない」
「一緒に、上を見るだけ」
「それがいちばん難しいんだよね」
瑞希は笑って指で小さな丸を作る。ふたりの合図は、もう定義のいらない形になっていた。
*
夜。二十時。
屋上のドアは重く、金属の音が低く鳴った。空は雲の層の下で平らに広がり、街の灯りがうっすら滲む。風はほとんどない。
屋上の端、フェンスの近くにサエは立った。瑞希は数歩離れ、何も言わず空を見ている。レコーダーを取り出し、再生ボタンを押す。
静けさが、まず流れた。
次に、トモの息が入る。深くはないが、波打つようなリズム。
「こんばんは。屋上、覚えてる? 君が一度、空に『また』って言った場所」
声は近すぎず、遠すぎない。
「今日はね、街の音をひとつだけ重ねる。停電の前の音。止まる手前の音」
サエは視線をフェンスの角に置いた。角は風のない夜に形を増す。胸の左に方角が開く。
レコーダーの向こうで、トモが笑う気配が小さく動いた。
「君はきっと、誰かの“合図”に気づける。だから、聞こえたら、受け取って。返さなくてもいい。今日は受け取る日」
短い沈黙。
「合図が届いたら、街の灯りが落ちる。いちど暗くなって、それから、また」
そのとき、街全体がふっと沈んだ。
遠くのビルの輪郭が消え、屋上の足元の白線が見えなくなる。空気の温度は変わらないのに、色だけが引かれていく。不安に跳ねる声がどこかで上がる。高い。けれど、短い。
瑞希が息を呑み、すぐに吐く。サエは黒い石に指を当てる。冷たさが胸の蛇口の手前に留まる。
闇の中で、誰かが階段を上ってくる音がした。打つ音は一段おきに短く、合図のようだった。ドアが開き、顧問の先生が懐中電灯を手に現れる。光は地面だけを照らし、誰の顔も照らさない。
「大丈夫か」
低い声が置かれる。角が取れ、風の代わりになる。
やがて、街のどこかから先に灯りが戻る。線が点になる。点が連なる。屋上の非常灯が遅れて点き、白い。刃になりやすい白だ。サエは視線をフェンスの角へ戻す。角に視線がのる。瑞希の肩の力が抜ける。顧問は何も言わず、懐中電灯を消した。闇は深くない。ほどよい。
レコーダーの中で、トモが静かに言った。
「受け取ったね」
たぶん、こちらの呼吸の変化に合わせて録音した言葉なのだろう。タイミングが重なる。
「ありがとう。……大丈夫。……また」
間を空け、三語が落ちる。先に言われる側になっても、胸の奥が忙しくならない。方角が整っている。
瑞希が小さく囁いた。
「今の、合図?」
「うん」
「返さないの?」
「今日は、受け取る日だから」
瑞希は「そっか」と言って、星のない空を見上げた。
「サエ、いつか……歌ってるとこ、ちゃんと聴きたいな」
「今は、重ねてるだけ」
「うん。重ねるの、好きだよ」
*
翌日、学校は停電の話題で少しだけ騒がしかった。放送で校長が落ち着いた声を置き、「冷静な対応に感謝します」と言った。短い言葉は、角を丸くする。
昼休み、サエは一年の廊下を歩いた。踊り場で会った少年が、友達二人と並んで座っている。彼の足元には、小さな紙の丸が置かれていた。中心点だけの丸。誰が置いたかはわからない。もしかしたら彼自身かもしれない。サエは近づかず、遠くでうなずいた。それで十分だった。
教室に戻ると、瑞希がメモをひらひらさせながら近づいてくる。
「合唱祭、曲、決まった。最後のフレーズ、無言の“また”だって」
「無言?」
「うん。指揮だけで、誰も歌わない。空に向けて口の形で言うんだって」
「……いいと思う」
「でしょ。こういうの、サエが好きそう」
「好き」
瑞希が笑い、サエも笑った。笑い声は短く、空気の表面で弾けて消える。
*
放課後、音楽室での練習は、最後の無言のフレーズを確かめるところから始まった。指揮者が手を止め、拳をほどくようにゆっくり開く。各自が口の形で「また」と言う。音は出ない。けれど、空気が動く。
サエは胸の奥の矢印が一段太くなるのを感じた。返すためではない。置いておくための太さだ。
休憩時間、譜面棚の影で一年の少年が立っていた。サエに気づくと、ためらいがちに近づく。
「さ……」
彼の声は細い。でも刃ではない。
「昨日、暗いとき、ベンチで『大丈夫』って言った?」
言っていない。屋上にいた。けれど、言葉の向きは関係ない。
「言ってない。でも、君が『大丈夫』を受け取ったんなら、それは君の場所で鳴った声だよ」
少年はうなずいた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「また」
「また」
短い。だが、十分だった。
*
帰り道、空が不意に開けた。雲の切れ目に夕陽が差し、川の水が金でも銀でもない光を返す。歩道の端で、年配の男性が立ち止まり、信号を待っている。足取りはゆっくりで、手に小さな紙袋。向こう側に孫らしい子どもが笑って手を振っている。
信号が変わる。白と黒の等間隔の上を、サエは白だけ選んで渡る。男性は躊躇する。車の流れが気になったのだろう。サエは歩みを止めない。止めずに、男性と車列の間に“間”を作る。目は合わせない。低い声を胸に落とす。
「どうぞ」
男性は頷かない。けれど、歩き出す。白の上だけ選んで渡る。孫が駆け寄り、手を握る。紙袋が軽く揺れて、角のない音を立てた。
橋の上で立ち止まり、サエは黒い石を取り出した。今日の色は深い。指の腹でなぞると、冷たさが薄く変わる。スマートフォンが短く光り、通知が一つ。
〈屋上、聴いた。ありがと〉
〈合唱、見に行けないけど、録音して〉
〈重なる音、送って〉
丸のついた短文。サエは返す。
〈録る〉
〈重ねる〉
〈また〉
*
帰宅してスタンドライトを点けると、瓶の水が薄く揺れた。枯れた花はもう影だけだが、その影にも角がある。机にレコーダーを置き、空のトラックをひとつ用意する。合唱祭の最後の無言のフレーズを録る場所。トモが聞けるように。
手帳を開き、今日の行を書く。
屋上の闇。戻る灯り。受け取る日。
一年の丸。白線。橋の間。
ありがとう。大丈夫。また。
最後に小さく足す。
――合図は、返事を待てる形。
ペンを置いたとき、窓の外で風が一度だけ鳴った。高くない。短い。合図。
ルウガが胸の奥で微笑む。
――ねえ、サエ。
「なに?」
――君の“合図”、街が学び始めてる。
「大げさ」
――でも、そう。角が丸くなった場所が増えるほど、合図は通りやすくなる。
サエは目を閉じ、喉の奥で「また」をひとつ、太くした。返事は要らない。要らないけれど、いつでも受け取れる準備だけはしておく。方角は胸の左。風は今夜、東から。
*
合唱祭の当日。
体育館は光の反射が強く、天井の蛍光が白い刃になりやすい。サエは客席に入る前、入口わきの壁の角に視線を置き、黒い石に触れた。蛇口は動かない。等間隔は保てる。瑞希が舞台袖から顔を出し、手を振る。
「録音、頼んだ」
「任せて」
「最後、無言、忘れないでね」
「忘れない」
発表が始まる。低学年の明るい声が空を走り、次の団体の厚い和音が地面を受け止める。サエは自分たちの番を待ちながら、レコーダーの電源を入れた。マイクの向きは上。天井ではなく、空へ。
いよいよ出番。並ぶ。指揮者が手を上げる。瑞希が小さく息を吸う。ピアノ。最初の和音は少し揺れたが、すぐに整う。サエは低い音を置く。押し出さない。置いた音が、隣の声に触れて丸くなるのを待つ。触れた。重なった。体育館の空気が、ほんの少しだけやわらかくなる。
最後の小節。ピアノが静かに消え、指揮者が拳をほどく。無言の「また」。
サエも口だけで、しっかり形を作る。レコーダーは無音を記録する。だが、その無音には空気の重さが含まれている。客席のどこかで、誰かが受け取る。遠くの病室で、トモが受け取る。サエはそれを信じた。
拍手。高いが、長くない。サエは一度、胸に手を当ててから礼をした。
*
夕方、川沿いのベンチでレコーダーのデータを確認する。最後の無音は長すぎず、短すぎない。ちょうど「また」と言う長さ。
スマートフォンに転送する。送信のボタンを押す前、胸の左の方角を開く。
〈重なる音。受け取って〉
メッセージに音声を添付して送る。光でも影でもない時間が、川面に広がっていく。
風が頬を撫で、遠くで鳥が一度だけ鳴いた。短い。
黒い石を指で弾くと、かすかな音がして、胸の中の線が太くなった。
トモからの返信は、すぐには来ない。
来なくていい。受け取られた音は、もう向こうの地図に乗っている。
サエは手帳を開き、最後の行を書いた。
――街に灯る合図。返事は、無言でいい。
書き終えた瞬間、スマートフォンが短く震える。
〈届いた。重なった〉
〈三つ〉
〈ありがとう。大丈夫。また〉
丸のついた三行。
サエは画面を閉じ、ポケットに戻した。
川風は低く、光はやわらかい。
街はまだ騒がしいけれど、角が丸い場所は確実に増えている。
合図は通る。返事は待てる。方角は、胸の左。戻る矢印は喉の奥。
そして、世界の真ん中で、サエの低い声が静かに鳴った。
それは歌にもならない短い音だったけれど、
確かに、誰かの声と重なっていた。
グラウンドの砂が風で細く走り、校舎の壁に沿って白い線を描く。教室の窓から差し込む光は弱く、それでも机の上にひとつの道を作っていた。
サエは手帳の右上に点を打ち、そこから短い矢印を描いた。矢印の先に小さく「合図」と書く。定義はない。ただ、誰かに届く手前のかすかな身振り。その程度の意味でいい。
瑞希が前の席をくるりと回って覗き込む。
「今日は“合図”?」
「うん。返事を待てる合図」
「ふむ。告白みたいだね」
「それは大きすぎる」
「じゃあ、挨拶の手前」
「そのくらい」
瑞希は笑って頷いた。笑いは短く、刃にならない。
チャイムが鳴り、ざわめきが立ち上がる。合唱祭の練習は今日も夕方からだ。サエは手帳を閉じ、鞄の中の黒い石を指先で確かめた。冷たいが、深いところは温かい。
*
音楽室の窓は半分だけ開いている。外の風は弱く、カーテンが少し揺れる。ピアノの上に置かれた譜面の端が、息をするみたいに上下した。
部員たちの輪の少し外、サエは立っていた。指揮者が手を上げる。瑞希が前列で口を開く。伴奏の和音がひとつ、床に落ちるように響き、声が重なった。高音と低音の間の空白。その隙間に、サエは自分の低い声を薄く載せる。無理に出さない。置くだけ。置いたものが、誰かの声と触れて丸くなる瞬間を待つ。
ふと、扉が開いた。昼休みに踊り場で会った一年の少年が、顔をのぞかせる。肩が固い。けれど逃げる気配はない。顧問の先生が気づき、顎で合図した。入ってきなさい。少年は音の波を乱さないよう、壁際の椅子に腰を下ろした。彼が視線を置いたのは、ピアノの脚の影だった。角に似た、静かな場所。サエは胸の奥でうなずいた。
曲が終わる。拍手は小さく、空気の表面だけを撫でる。
「……今の、合ってた?」
サエが小声で言うと、瑞希が顔だけ振り返って、目で答えた。聴こえてるよ。重なってる。サエは喉の奥に戻る矢印が太くなるのを感じた。
休憩に入り、紙コップの水が回ってくる。受け取らない距離で差し出され、視線だけで「ありがとう」を返す。少年が近づいてきて、小さく頭を下げた。
「……さっきの、よかった」
「どこが?」
「低いとこ。地面みたいで」
「君は?」
「まだ、聴いてるだけ」
少年の指は膝の上で丸くなっている。サエは手帳から小さな矢印カードを一枚破り、角を落として渡さずに見せた。少年はうなずき、ポケットに同じ形の紙があることを示すように軽く叩いた。合図。受け渡しはそれだけで十分だった。
*
練習の帰り、校門を出ると、空は灰の中に少し金を含んでいた。光でも影でもない時間。歩道の白線が短く見え、交差点のざわめきは刃にならない程度に崩れている。
駅前の広場で、スピーカーからの宣伝音が一度だけ高く跳ねた。子どもが驚いて手を放し、紙の風船が空へ転がる。追いかけた母親が足を止め、空を見上げ、諦めた笑いを浮かべる。サエは見上げない。代わりに、母親と子のあいだを流れる目に見えない線を探す。丸の中心点を想像し、その中央に「また」を置く。口には出さない。置くだけ。風船は街灯に当たって割れ、音は低かった。子は泣かず、母は肩をすくめて笑った。風は弱く、合図は受け取られた。
スマートフォンが震える。画面には短い通知。
〈明日、録音の更新。屋上、二十時〉
番号は表示されず、文の終わりに小さな丸。サエは返さない。返事は明日、屋上で。
*
翌日の放課後は、空が少しざわついた。遠くの地平のあたりだけ暗く、風の向きが何度か変わる。校内放送で注意が流れた。
「夜、短時間の停電があるかもしれません。帰宅時は注意してください」
声はやや高いが、文が短い。刃は落ちる。
瑞希が鞄を肩にかけながら言う。
「屋上、行くの?」
「うん。二十時」
「私も行っていい?」
「……いいよ」
「静かにする。邪魔しない」
「一緒に、上を見るだけ」
「それがいちばん難しいんだよね」
瑞希は笑って指で小さな丸を作る。ふたりの合図は、もう定義のいらない形になっていた。
*
夜。二十時。
屋上のドアは重く、金属の音が低く鳴った。空は雲の層の下で平らに広がり、街の灯りがうっすら滲む。風はほとんどない。
屋上の端、フェンスの近くにサエは立った。瑞希は数歩離れ、何も言わず空を見ている。レコーダーを取り出し、再生ボタンを押す。
静けさが、まず流れた。
次に、トモの息が入る。深くはないが、波打つようなリズム。
「こんばんは。屋上、覚えてる? 君が一度、空に『また』って言った場所」
声は近すぎず、遠すぎない。
「今日はね、街の音をひとつだけ重ねる。停電の前の音。止まる手前の音」
サエは視線をフェンスの角に置いた。角は風のない夜に形を増す。胸の左に方角が開く。
レコーダーの向こうで、トモが笑う気配が小さく動いた。
「君はきっと、誰かの“合図”に気づける。だから、聞こえたら、受け取って。返さなくてもいい。今日は受け取る日」
短い沈黙。
「合図が届いたら、街の灯りが落ちる。いちど暗くなって、それから、また」
そのとき、街全体がふっと沈んだ。
遠くのビルの輪郭が消え、屋上の足元の白線が見えなくなる。空気の温度は変わらないのに、色だけが引かれていく。不安に跳ねる声がどこかで上がる。高い。けれど、短い。
瑞希が息を呑み、すぐに吐く。サエは黒い石に指を当てる。冷たさが胸の蛇口の手前に留まる。
闇の中で、誰かが階段を上ってくる音がした。打つ音は一段おきに短く、合図のようだった。ドアが開き、顧問の先生が懐中電灯を手に現れる。光は地面だけを照らし、誰の顔も照らさない。
「大丈夫か」
低い声が置かれる。角が取れ、風の代わりになる。
やがて、街のどこかから先に灯りが戻る。線が点になる。点が連なる。屋上の非常灯が遅れて点き、白い。刃になりやすい白だ。サエは視線をフェンスの角へ戻す。角に視線がのる。瑞希の肩の力が抜ける。顧問は何も言わず、懐中電灯を消した。闇は深くない。ほどよい。
レコーダーの中で、トモが静かに言った。
「受け取ったね」
たぶん、こちらの呼吸の変化に合わせて録音した言葉なのだろう。タイミングが重なる。
「ありがとう。……大丈夫。……また」
間を空け、三語が落ちる。先に言われる側になっても、胸の奥が忙しくならない。方角が整っている。
瑞希が小さく囁いた。
「今の、合図?」
「うん」
「返さないの?」
「今日は、受け取る日だから」
瑞希は「そっか」と言って、星のない空を見上げた。
「サエ、いつか……歌ってるとこ、ちゃんと聴きたいな」
「今は、重ねてるだけ」
「うん。重ねるの、好きだよ」
*
翌日、学校は停電の話題で少しだけ騒がしかった。放送で校長が落ち着いた声を置き、「冷静な対応に感謝します」と言った。短い言葉は、角を丸くする。
昼休み、サエは一年の廊下を歩いた。踊り場で会った少年が、友達二人と並んで座っている。彼の足元には、小さな紙の丸が置かれていた。中心点だけの丸。誰が置いたかはわからない。もしかしたら彼自身かもしれない。サエは近づかず、遠くでうなずいた。それで十分だった。
教室に戻ると、瑞希がメモをひらひらさせながら近づいてくる。
「合唱祭、曲、決まった。最後のフレーズ、無言の“また”だって」
「無言?」
「うん。指揮だけで、誰も歌わない。空に向けて口の形で言うんだって」
「……いいと思う」
「でしょ。こういうの、サエが好きそう」
「好き」
瑞希が笑い、サエも笑った。笑い声は短く、空気の表面で弾けて消える。
*
放課後、音楽室での練習は、最後の無言のフレーズを確かめるところから始まった。指揮者が手を止め、拳をほどくようにゆっくり開く。各自が口の形で「また」と言う。音は出ない。けれど、空気が動く。
サエは胸の奥の矢印が一段太くなるのを感じた。返すためではない。置いておくための太さだ。
休憩時間、譜面棚の影で一年の少年が立っていた。サエに気づくと、ためらいがちに近づく。
「さ……」
彼の声は細い。でも刃ではない。
「昨日、暗いとき、ベンチで『大丈夫』って言った?」
言っていない。屋上にいた。けれど、言葉の向きは関係ない。
「言ってない。でも、君が『大丈夫』を受け取ったんなら、それは君の場所で鳴った声だよ」
少年はうなずいた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「また」
「また」
短い。だが、十分だった。
*
帰り道、空が不意に開けた。雲の切れ目に夕陽が差し、川の水が金でも銀でもない光を返す。歩道の端で、年配の男性が立ち止まり、信号を待っている。足取りはゆっくりで、手に小さな紙袋。向こう側に孫らしい子どもが笑って手を振っている。
信号が変わる。白と黒の等間隔の上を、サエは白だけ選んで渡る。男性は躊躇する。車の流れが気になったのだろう。サエは歩みを止めない。止めずに、男性と車列の間に“間”を作る。目は合わせない。低い声を胸に落とす。
「どうぞ」
男性は頷かない。けれど、歩き出す。白の上だけ選んで渡る。孫が駆け寄り、手を握る。紙袋が軽く揺れて、角のない音を立てた。
橋の上で立ち止まり、サエは黒い石を取り出した。今日の色は深い。指の腹でなぞると、冷たさが薄く変わる。スマートフォンが短く光り、通知が一つ。
〈屋上、聴いた。ありがと〉
〈合唱、見に行けないけど、録音して〉
〈重なる音、送って〉
丸のついた短文。サエは返す。
〈録る〉
〈重ねる〉
〈また〉
*
帰宅してスタンドライトを点けると、瓶の水が薄く揺れた。枯れた花はもう影だけだが、その影にも角がある。机にレコーダーを置き、空のトラックをひとつ用意する。合唱祭の最後の無言のフレーズを録る場所。トモが聞けるように。
手帳を開き、今日の行を書く。
屋上の闇。戻る灯り。受け取る日。
一年の丸。白線。橋の間。
ありがとう。大丈夫。また。
最後に小さく足す。
――合図は、返事を待てる形。
ペンを置いたとき、窓の外で風が一度だけ鳴った。高くない。短い。合図。
ルウガが胸の奥で微笑む。
――ねえ、サエ。
「なに?」
――君の“合図”、街が学び始めてる。
「大げさ」
――でも、そう。角が丸くなった場所が増えるほど、合図は通りやすくなる。
サエは目を閉じ、喉の奥で「また」をひとつ、太くした。返事は要らない。要らないけれど、いつでも受け取れる準備だけはしておく。方角は胸の左。風は今夜、東から。
*
合唱祭の当日。
体育館は光の反射が強く、天井の蛍光が白い刃になりやすい。サエは客席に入る前、入口わきの壁の角に視線を置き、黒い石に触れた。蛇口は動かない。等間隔は保てる。瑞希が舞台袖から顔を出し、手を振る。
「録音、頼んだ」
「任せて」
「最後、無言、忘れないでね」
「忘れない」
発表が始まる。低学年の明るい声が空を走り、次の団体の厚い和音が地面を受け止める。サエは自分たちの番を待ちながら、レコーダーの電源を入れた。マイクの向きは上。天井ではなく、空へ。
いよいよ出番。並ぶ。指揮者が手を上げる。瑞希が小さく息を吸う。ピアノ。最初の和音は少し揺れたが、すぐに整う。サエは低い音を置く。押し出さない。置いた音が、隣の声に触れて丸くなるのを待つ。触れた。重なった。体育館の空気が、ほんの少しだけやわらかくなる。
最後の小節。ピアノが静かに消え、指揮者が拳をほどく。無言の「また」。
サエも口だけで、しっかり形を作る。レコーダーは無音を記録する。だが、その無音には空気の重さが含まれている。客席のどこかで、誰かが受け取る。遠くの病室で、トモが受け取る。サエはそれを信じた。
拍手。高いが、長くない。サエは一度、胸に手を当ててから礼をした。
*
夕方、川沿いのベンチでレコーダーのデータを確認する。最後の無音は長すぎず、短すぎない。ちょうど「また」と言う長さ。
スマートフォンに転送する。送信のボタンを押す前、胸の左の方角を開く。
〈重なる音。受け取って〉
メッセージに音声を添付して送る。光でも影でもない時間が、川面に広がっていく。
風が頬を撫で、遠くで鳥が一度だけ鳴いた。短い。
黒い石を指で弾くと、かすかな音がして、胸の中の線が太くなった。
トモからの返信は、すぐには来ない。
来なくていい。受け取られた音は、もう向こうの地図に乗っている。
サエは手帳を開き、最後の行を書いた。
――街に灯る合図。返事は、無言でいい。
書き終えた瞬間、スマートフォンが短く震える。
〈届いた。重なった〉
〈三つ〉
〈ありがとう。大丈夫。また〉
丸のついた三行。
サエは画面を閉じ、ポケットに戻した。
川風は低く、光はやわらかい。
街はまだ騒がしいけれど、角が丸い場所は確実に増えている。
合図は通る。返事は待てる。方角は、胸の左。戻る矢印は喉の奥。
そして、世界の真ん中で、サエの低い声が静かに鳴った。
それは歌にもならない短い音だったけれど、
確かに、誰かの声と重なっていた。



