昼下がりの教室。
 チャイムが鳴っても、しばらく誰も席を立たなかった。
 窓の外のグラウンドでは、運動部の掛け声が遠くに混ざっている。砂の上でボールが転がる音が、風に乗って届いた。

 サエは机の上の手帳を開いていた。
 ページの端に描いた丸と矢印は、もう毎日のように増えていく。
 今日は、ひとつの矢印の先に「重なる」と書いた。
 言葉は小さくて、まだ定義がない。でも、それでいい。

 瑞希が後ろから覗き込み、「それ、今日のキーワード?」と笑った。
 「うん。たぶん」
 「また難しいこと考えてる」
 「難しくないよ。ただ、“音”のこと」
 瑞希はペンを回しながら首を傾げる。
 「音?」
 「ひとりの声と、もうひとりの声が、重なる瞬間」
 「ハモるみたいな?」
 「うん。でも、それだけじゃなくて、息とか、間とか、同じ方向を見てるときの音」

 瑞希は笑って、「詩人みたい」と言った。
 その声が、少しだけ弾む。
 サエは笑い返した。

     *

 放課後、校舎の階段を降りると、空の色が灰と金のあいだで揺れていた。
 光でも影でもない時間。
 風が廊下を抜けると、誰かの笑い声と一緒に音が跳ねる。

 昇降口を出たところで、廊下の角に紙が一枚落ちていた。
 拾い上げると、それは音楽部のチラシだった。
 〈合唱祭特別ステージ出演者募集〉
 裏面に鉛筆の跡で、「男声パート不足」と書かれている。

 サエは一度それを見て、胸の奥がざわついた。
 トモの声を思い出す。
 低くて、静かで、でも真ん中に重みがあった。
 ――君の声、重なるとき、世界が少し丸くなる。
 夢の中でトモが言っていた言葉を思い出した。

 瑞希が肩越しに覗き、「出てみれば?」と言う。
 「……僕が?」
 「うん。トモくんの代わりとかじゃなくてさ。サエの声、優しいから」
 「優しくても、合唱は……」
 「練習だけでもいいんじゃない?」

 サエはチラシを折りたたみ、ポケットに入れた。
 胸の奥の蛇口は静かだった。少しだけ動こうとしている。

     *

 翌日、音楽室は放課後の光に満たされていた。
 窓のカーテンが半分閉じられ、ピアノの黒が光を吸い込んでいる。
 サエは扉の前で一度立ち止まった。
 中から、低い声と高い声が混ざって聞こえる。
 声と声の間に空白があり、そこにピアノの伴奏が流れる。
 その空白が美しいと思った。

 扉を開けると、音が一度止まった。
 部員の数人がこちらを振り返る。
 瑞希が中央のピアノの前から手を振った。
 「来た!」
 「……見学、してもいい?」
 「もちろん」

 椅子の端に座る。
 ピアノが再び鳴り、合唱が始まる。
 曲は知らない。けれど、音の中に規則がある。
 高音が空を描き、低音が地面を支える。
 トモの声は、この低音に近い。
 サエは胸の奥でその音を重ねた。

 ――声を出してもいい。
 ルウガが囁いた。
 「……ここで?」
 ――心の中でも、外でも。重なる場所は、もう見つけたでしょ。

 サエは喉を開く。
 最初は息だけ。
 でも、それが音になっていく。
 自分でも驚くほど、低く、柔らかい音。
 ピアノの低音と混ざり、ほんの一瞬、和音が生まれた。

 そのとき、瑞希が振り返って笑った。
 声は出さない。ただ、目で「今、聴こえたよ」と言っていた。

     *

 帰り道、校門を出たところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
 画面を見ると、知らない番号。
 メッセージが一件届いていた。

 〈録音の続きがある〉
 〈次は、風のない夜に聞いて〉

 文の最後に、小さな丸が打たれていた。
 それはトモの癖だった。
 サエは立ち止まり、空を見上げた。
 風はまだ吹いている。だから、今夜ではない。

     *

 その夜。
 風が止んだのは、日付が変わるころだった。
 窓を開けても、カーテンは揺れない。
 部屋の中の音がすべて静止する。時計の針の音すら、どこか遠くにある。

 サエは机の上にレコーダーを置き、再生ボタンを押した。

 最初の数秒、何も聞こえなかった。
 やがて、トモの低い声が流れた。

 「こんばんは」
 「今日も、聞こえるかな」
 「僕は今、病院の屋上にいる。夜の風、冷たいけど、空が広い」

 声が、途切れながら続く。
 「僕ね、音を集めてる。人の声じゃなくて、呼吸の音とか、足音とか。
  それを重ねると、たまに世界が丸くなる気がする」

 レコーダーから、風のない夜の音が流れる。
 遠くの車の走行音が細く混ざり、それもすぐ消えた。

 「サエ。君は“重なる音”を探せた?」
 「……うん」
 サエは小さく答えた。声は届かないけれど、言葉を出すことで胸があたたまる。

 「もし見つけたなら、教えて。君の声と、僕の声を重ねて、
  最後の“曲”を完成させたい」

 そこで録音は一度止まった。
 サエは息を詰めてレコーダーを見つめた。
 再生ボタンが自動で二度、点滅する。続きがある。

 次の瞬間、トモの声が少し近くなった。
 「これは、病室のマイクで録った。もしかしたら、もう外に出られないかもしれないけど……」
 「でも、君の“ありがとう”は届いたよ。僕の胸の左の方角に」
 「だから、今度は僕が返す番」

 録音の中のトモの呼吸が少し乱れる。
 その隙間を、夜の静寂が埋める。
 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」

 その三つの言葉が、ひとつずつ、ゆっくり落ちる。
 声が消えたあと、遠くで風鈴の音が一度だけ鳴った。

 再生が止まる。

 サエは何も言えなかった。
 胸の奥が痛い。でも、苦しくはない。
 痛みの中に、確かに“音”がある。
 それは、悲しみではなく、生きている証みたいな振動だった。

 「トモ……聞こえたよ」

 言葉を出すと、空気が震えた。
 瓶の水面が揺れる。花の影が壁に伸びる。
 黒い石が淡く光を返した。

     *

 翌朝。
 窓の外の空は、薄い白に染まっていた。
 サエはカーテンを開け、光を受け止める。
 世界が静かに呼吸している。
 その呼吸のリズムに合わせて、自分の胸も上下する。

 机の上の手帳に、新しい行を書いた。

 ありがとう。
 大丈夫。
 また。
 ――音の重なる場所。

 その行の下に、初めて書いた。

 〈トモへ〉

 書き終えたペン先が、少し震えた。
 でも、止まらない。
 ページの向こう側から、低い声が重なった気がした。

 「……聞こえたよ」

 声は幻かもしれない。
 でも、確かに重なった。
 サエの胸の奥で、二つの声が同じ方角を向いていた。

     *

 夕方。
 学校の屋上。合唱祭の練習で、音楽部が集まっている。
 サエもその端に立っていた。
 夕陽が西の空を染め、空気がオレンジと灰のあいだで溶けている。

 指揮者が手を上げた。
 ピアノの伴奏が流れ、声が空に重なっていく。
 低音と高音のあいだに、確かに“トモの声”の隙間がある気がした。
 サエは胸の奥で言葉を並べる。

 ありがとう。
 大丈夫。
 また。

 その三つのリズムが、声になり、音になり、空に溶けていく。
 屋上の風が、音を運ぶ。
 空の向こうで誰かがそれを受け取る。

 そして、その誰かが、小さく返してくる。
 ――また。

 サエは微笑んだ。
 涙は出なかった。
 代わりに、胸の中の音が優しく響いていた。

     *

 夜。
 窓の外の街灯が、瓶の水に反射して光る。
 黒い石は、金でも銀でもない光を放っていた。
 サエはそれを手に取り、窓辺に置く。

 「これでいい。これで、重なった」

 ルウガの声が小さく笑う。
 ――もう、君の声は世界の音になった。
 「うん。聞こえるよ。あの声も」

 サエは目を閉じた。
 外の風が、静かに吹く。
 その風の中で、トモの声が、確かに重なった。

 それは、もう悲しみの音ではなく、
 “生きている音”だった。