朝、窓を開けたら、風は昨日より乾いていた。
 遠くで工事の音がして、金属を打つ高い音が一度だけ届く。そこで止まる。長くは響かない。
 サエは瓶の水を見た。透明。花は小さく、紙のように折りたたまれたまま立っている。黒い石を指先で触ると、冷たさの奥に薄いぬくもりがある。
 ――今日は“受け取る”ほうの練習だよ。
 「受け取る?」
 ――うん。君が返した声は、必ずどこかから戻ってくる。方角を決めておくと、刃にならない。
 方角、と言われてもすぐには形にならない。サエは首を傾げ、机の端に手帳を置いた。右上に小さな点。中心点。その横に短い矢印。矢印の先を、今日だけは空欄にしておく。決めつけない。来る方向に合わせる。
     *
 学校の正門を入ったところで、掲示板の前がざわついていた。文化祭の写真が貼り出され、紙の端が少し波打っている。
 写真の中に、腕章を付けた自分と、視線を外したまま矢印を貼っているトモが写っていた。顔は半分だけ。ピントは矢印に合っていて、二人は背景みたいに見えた。
 瑞希が隣で立ち止まり、指を差す。
 「これ、サエでしょ。隣の、背の高い人がトモ?」
 「うん」
 「矢印、きれいだね。角が丸い」
 「痛くないから」
 瑞希は「いいなあ」と言って、笑った。それだけのことが、胸の内側の空気をやわらかくした。
 午前の授業は滑るように過ぎ、昼休みのチャイムのあと、廊下の端で短い放送があった。
 「午後、地震避難訓練を行います」
 声は少し高い。けれど文が短く、角が立たない。放課後は病院に寄るつもりだった。避難訓練なら、人が多くて音も多い。方角を決めておいたほうがいい。サエは窓枠の角に視線を置いた。
     *
 午後二時。
 放送の合図と同時に、机の下にもぐる音が波のように広がった。誰かの笑い声が混ざる。高い声は刺さりやすい。だが、短い。先生の号令が低く、波の角を落とす。
 校庭へ移動する途中、踊り場で立ち止まっている一年生がいた。耳を覆い、呼吸が浅い。人の流れは待ってくれない。ぶつからないよう避けて通る足音が層になる。
 サエは無理に近づかず、踊り場の壁に背をつけて、視線を床から二十センチ上――手すりの根元の角に固定した。指先で小さく合図を作る。
 「角」
 声は出さない。口の形だけ。
 少年の目が手すりの根元に移り、肩が一度、深く下がった。列が流れなおす。通り過ぎざま、サエは少年に矢印カードを見せるだけ見せ、渡さなかった。受け取る準備ができるまでは、無理に渡さない。
 校庭に出ると、太陽が白く地面を照らしていた。スピーカーから注意事項が流れる。高い。だが、風が音をちぎるので、刃にはなりにくい。列の最前列で、教頭が拡声器を手に立っていた。
 「……はい、静かに。では、解散のあとは各教室に戻り、訓練の感想を――」
 そのとき、校舎の向こうからサイレンが響いた。消防車のテスト。音は本物に近い。刃だ。空気の輪郭が硬くなる。校庭のあちこちで肩がすくむ。
 サエの喉の奥で蛇口が動いた。動く前に、石。指先で黒い石を握る。冷たさが皮膚を抜け、胸の奥の蛇口の手前に留まる。視線を旗の竿の根本――地面の白線が少し欠けている場所に置く。欠けた白は、終わりの線の手触りに似ている。息が戻る。
 耳の端で、別の声がした。
 ――大丈夫。
 トモの声に似ていた。風のほうから届いた。方角が決まる。胸の奥の「受け取り口」が、そこに開く。
 訓練が終わり、列が解散になると、一年の踊り場で立ち止まっていた少年が校庭の端にしゃがみ込んでいた。両手で耳をおさえ、靴のつま先を見ている。周りの友達は心配そうに立っているけれど、どう声をかけていいかわからない顔だ。
 「ここ、日陰。風が通る」
 サエは地面を指でなぞる。白線の欠けの端から、砂のうえに丸を作り、そこに点を打つ。丸い影ができるように、自分の体で日陰を作る。
 少年の視線が丸に落ちる。耳から手が離れ、呼吸の間隔が伸びた。周りにいた友達のうち一人が、水筒を差し出さずに、少し離して見せた。受け渡しは、刃にならない。
 「ありがとう」
 少年の口がそう動いた。声は聞こえなかったが、形は十分だった。
     *
 放課後。
 病院の待合室は、いつもより空いていた。蛍光灯は白いが、今日は刃じゃない。座ると、受付の人がこちらを見て小さく会釈した。
 ほどなくして、背の高い看護師がサエのほうへ歩いてくる。胸ポケットに薄い封筒が見えた。
 「斎宮くん。これ、預かっています」
 封筒には、丸いスタンプ。矢印の尾が添えてある。見覚えのある線。トモの癖。
 「……トモから?」
 「うん。しばらく来られないから、渡してほしいって」
 看護師の声は低く、言葉を区切らない。封筒は差し出されず、机の上に置かれた。受け取るのにちょうどいい距離。
 サエはうなずき、両手で封筒を包んだ。紙越しに冷たさはない。胸の奥のあたたかさだけが強くなる。
 封を切るのは、すぐではなく、少し後にした。
 待合室の角、いつもの席に座り、視線を床から二十センチ上に置く。紙の音が層になって、空調の低い唸りと混ざる。刃はない。封筒を開く。
 中から出てきたのは、小さなメモと、薄いICレコーダーだった。メモには短く書いてある。
 〈受け取るほうの練習〉
 〈外で〉
 〈角の見える場所で〉
 ルウガが胸の奥で小さく笑う。
 ――方角、決まったね。
 サエはうなずき、レコーダーを握った。
     *
 病院を出ると、風が東から吹いていた。日が傾き、光でも影でもない時間がまた来ている。道路の反射は弱く、空の色は灰と群青のあいだ。
 レコーダーの再生ボタンを押す前に、場所を選んだ。病院のすぐ横にある、小さな公開空地。植え込みとベンチと、ビルの壁。壁の角がよく見える。ベンチの端に座り、黒い石を膝に置いた。
 再生。
 無音が数秒続く。やがて、低い声が落ちた。
 「こんばんは」
 トモの声だった。少し掠れている。近すぎない。
 「ここまで、来てくれてありがとう」
 声はゆっくり進む。音を置く間。待ってくれる間。サエは自分の呼吸を、声の進む速度に合わせた。合わせようとすると速くなるので、合わせずに聞き、聞いた結果として遅くなる。石に触れる。冷たさが一拍、胸を遅らせる。
 「練習。受け取るほう」
 笑う気配。
「僕、しばらく行けない。ごめん。でも、君に受け取ってほしいものがある」
 風の音が混ざる。マイクに当たっていない。遠い葉擦れ。病院の庭かもしれない。
 「ありがとう。大丈夫。また。この三つ。君が自分に言うのを、僕がもう一回、受け取る。それで往復が完成する」
 短い沈黙。
 「だから、今、君の『ありがとう』を、僕に向けて言ってほしい」
 サエは口を開いた。声は出ない。ここは街の外。人も通る。けれど、言わなければ練習にならない。
 「ありがとう」
 小さく、胸の奥にだけ届く音量で。風の方角に向けて。
 レコーダーの向こうで、トモが「受け取った」と言う。
 「次。『大丈夫』。根拠はいらない。今は、形」
 「大丈夫」
 言葉を出すと、喉の奥の蛇口がほんの少し軋んで、すぐに止まった。
 「最後。『また』。これがいちばん、むずかしい。でも、いちばん、やさしい」
 サエはベンチの端で、壁の角を見ながら言った。
 「また」
 レコーダーの向こうで、トモの息がふっと落ちるのがわかった。
 「ありがとう。大丈夫。また。君の言い方、やっぱり好き」
 笑う気配が近づき、すぐ戻る。
 「今度は、僕の番。君は受け取るだけ。合図は出さない」
 声が短く整えられるのを、空気の温度で感じる。
 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」
 たった三語なのに、受け取る側に回ると、胸の中が忙しい。温度が少し上がり、次に背骨のほうへ引いて、そこからじわじわ広がる。方角がある。東から西へ。風の道筋と同じ線だ。サエは石に触れ、視線を角に置いたまま、声をそのまま胸に降ろした。刃にはならない。降りて、残る。
 「君は受け取りが上手い」
 短い言葉に、ふと笑いそうになる。
 「練習、続きはまた今度。次は場所を増やそう。君の街の中に、受け取る角を増やす。僕の声がなくても、受け取れるように」
 録音は、そこで止まった。
 空地の空が、少し白く明るんでいた。街灯がひとつ灯る。光は弱いが、鋭くない。サエはレコーダーを握り直し、ポケットに戻した。黒い石を手の中で転がす。
 ――受け取ったね。
 ルウガの声が静かに降りてくる。
 「うん。方角がわかった」
 ――どこ?
 「風の線。東から、胸の左」
 ――いいね。明日、別の方角も探そう。
     *
 帰りの駅で、照明が一瞬だけ落ちた。瞬断。周りがざわめく。子どもの泣き声。高い。でも、すぐ復帰するかもしれない。サエは柱の影の位置を確認し、視線をそこに置く。
 復帰。蛍光の白が戻る。
 泣いていた子はまだ泣いている。母親が抱き上げているが、うまくいかない。子は照明の点滅に怯えたらしい。ここで「ありがとう」「大丈夫」「また」を外に出せば、母親に不意の刃になる可能性がある。代わりに、少し離れた位置で、自分に向けて三つを並べる。低く、短く。
 「ありがとう」
 「大丈夫」
「また」
 自分に向けた三語の余韻が、周囲の音に薄く混ざる。母親の声が落ち、子どもの泣きがしゃくり上げに変わる。駅の空気の角が丸くなった。
 ホームの端に、昼間の踊り場の少年がいた。こちらに気づくと、二秒だけ目が合い、すぐ離れる。その二秒のあいだに、少年はポケットから小さな紙切れを出し、角を丸めた矢印をこちらに見せた。渡さない。見せるだけ。
 サエはうなずき、ベンチの木口に視線を落とした。そこに、方角のうちのひとつが、もう刻まれている。
     *
 家に着くと、玄関の灯りは黄色かった。冷蔵庫の音が低い。部屋に入ってスタンドライトを点ける。瓶の水に光が落ちる。
 机にレコーダーを置き、手帳を開く。
 今日は、受け取った言葉から書き始めた。
 ありがとう。大丈夫。また。
 東から胸の左。
 角。ベンチの端。空地の壁。
 行を重ねるうち、胸骨の内側の錘が一段下りる。最後に、小さな行。
 ――受け取った声は、地図に残る。
 書き終えたとき、スマートフォンが短く震えた。画面に通知。差出人の名前は出ない。開く。
 〈録音、届いた?〉
 〈外で聞いた?〉
 〈方角、見つかった?〉
 短い三行。角の丸い文。
 サエは、返信を打った。
 〈届いた〉
 〈外で〉
 〈東から〉
 〈ありがとう〉
 〈大丈夫〉
 〈また〉
 送信してから、窓を少しだけ開けた。夜風が入る。金属の匂いはない。乾いた紙の匂い。遠くで犬が一度だけ鳴き、それきり静かになる。
 黒い石を瓶の隣に置き、スタンドライトを落とす。暗さは刃ではない。闇は角を包む。
 ベッドに横になり、目をつぶる。胸の内側で、さきほど受け取った三語が、順番通りに並びなおす。間が決まる。等間隔。
 ――ねえ、サエ。
 ルウガがささやく。
 ――“受け取る方角”を覚えた君は、もう一人で遠くまで行ける。
 「行きすぎたら、戻れる?」
 ――戻る矢印は、君の喉の奥にある。
 「どんな形?」
――『また』って言うたびに、太くなる線。
 喉の奥で、見えない線が確かに太くなるのを感じた。
 目を閉じたまま、小さく言う。
 「また」
 世界は答えない。けれど、風がゆっくり向きを変えた。東から西へ。今日、受け取った方角と同じ道すじ。
 眠りの手前で、サエは思った。
 地図は紙だけでなく、胸の内側にも描ける。角と角、丸と丸、線と線。そこに声が重なる。
 それが、世界と自分をつなぐ“方角”になる。
     *
 翌日。
 朝の廊下で、瑞希が走ってきた。
 「昨日さ、駅で一瞬真っ暗になったよね。怖かった」
 「うん」
 「でも、近くにいた子、泣き止んでた。なんかね、空気がふっと落ち着いた瞬間があった」
 「……そう」
 「サエ?」
 瑞希は立ち止まり、こちらをのぞき込む。
 「サエって、さ。ときどき、空気の角を丸くするよね」
 「角?」
 「うん。棘というか。刺さらなくなる」
 瑞希は笑って、手を振る。
 「変なこと言ってごめん。今日、帰り、一駅歩こう。夕方の色、見たい」
 「見よう」
 歩き出してから、サエは胸の奥で小さく言った。
 ありがとう。
 大丈夫。
 また。
 その三つは、もう自分ひとりのためだけではなかった。
 受け取る方角が増えれば増えるほど、返す声は静かに強くなる。
 街の音は今日も多い。けれど、方角がある。
 刃の向きも、角の位置も、戻る矢印の太さも、胸の中で確かめられる。
 そして、そのすべての中心に――
 トモの低い声と、ルウガのやさしい囁きと、サエ自身の声が、和音になって置かれていた。
 世界はまだ騒がしく、少し不安定だ。
 でも、方角がある。
 それだけで、人混みの中でも、息ができる。
 息ができるなら、声を返せる。
 声を返せるなら、いつでももう一度、受け取れる。
 今日も、等間隔の上を、歩ける。
 そして、いつでも――
 「また」と言える。