日曜日の夜、風の音が少し強くなった。
 サエは窓を閉めたまま机に向かい、開いた手帳の白いページを見ていた。前のページまでぎっしり並んでいる文字たちが、今夜だけは沈黙している。

 呼吸の列も、中心点も書かない。
 今日はまだ、始まりを決められなかった。

 机の上の瓶の水は金色ではなく、普通の透明に戻っていた。
 乾いた花が小さな影を落としている。
 黒い石を指先で転がすと、冷たさが皮膚の奥に吸い込まれていく。

 「明日、学校……」
 声に出すと、空気が震えた。
 トモのことを思い出すと、胸が少し重くなる。でも、その重さは苦しさじゃない。そこに“いる”感覚だった。

 ――君は行っていいよ。
 ルウガの声が遠くで言った。
 「……うん」

     *

 月曜の朝。
 空は晴れていた。風が少し冷たく、太陽の光はまだ弱い。
 サエは玄関の靴をそっと揃え、靴紐を結び直した。鏡に映る自分の顔は少しだけ柔らかい。

 学校の門をくぐると、空気の密度が上がった。生徒たちの声が重なり、笑い声と足音が混ざる。
 でも、以前ほど痛くない。
 角と角のあいだを歩くように進めば、刃は薄まる。

 教室のドアを開けた瞬間、同じ班の女子が振り返った。
 「おはよう、サエ」
 「……おはよう」
 「聞いた? 文化祭の写真、掲示板に貼り出されたんだって」
 「うん」

 机に鞄を置き、席に座る。黒板の端には、あの日作った矢印ポスターがまだ残っていた。角が少し丸くなっている。
 サエはそれを見て、小さく笑った。
 あのとき、トモが「矢印の尾を丸くしよう」と言った声が思い出される。

     *

 昼休み。
 廊下の隅のベンチに、ひとりの男子がうずくまっていた。顔は伏せていて、膝に腕を乗せている。
 サエは立ち止まり、胸の奥に小さな波を感じた。
 その姿が、昔の自分と少し重なった。

 「……大丈夫?」
 男子は顔を上げない。肩が小さく震えている。
 近くの教室から笑い声が漏れてくる。
 サエは一歩だけ近づいた。
 「ここ、うるさいよね」
 男子の指が動いた。けれど、返事はない。

 サエは鞄から小さなメモ帳を取り出し、ページの端を破った。
 そこに鉛筆で矢印を描く。尾の先に、丸。
 「これ、見てると、少し落ち着くかも」

 紙を差し出すと、男子はためらいながら受け取った。
 視線が紙に落ち、呼吸のリズムが少し整う。
 「……ありがと」
 声は小さかったけれど、確かに届いた。

 ――いいね。今度は君が“矢印”を置いた。
 ルウガの声が静かに笑う。
 サエは何も答えず、ただその場を離れた。
 角をひとつ曲がると、胸の奥が少し温かかった。

     *

 放課後。
 教室の窓から見える空は、淡い橙だった。
 サエは帰り支度をしながら、鞄の中の瓶を確かめた。今日は持ってきていた。透明な水だけが入っている。

 「それ、まだ持ってるんだ」
 声をかけたのは隣の女子、瑞希だった。
 「うん。なんか、置いておくと落ち着く」
 「いいね。私も何か置こうかな」
 「瓶?」
 「ううん、違うけど……サエが言ってた“光でも影でもない時間”、ちょっと見たくて」
 「え?」
 「昨日の夕方、窓から見た空。あれがそうかなって思った。灰色の真ん中の色」

 サエは少し驚いた。
 瑞希がそんなふうに言葉を拾ってくれたのは初めてだった。
 「うん、それだと思う」
 「今度、一緒に見ようよ」
 「……うん」

 そのとき、心の中で小さな音が鳴った。
 それは、風の音でも水の音でもない。
 誰かと“同じ方向を見ている”音だった。

     *

 帰り道、空の色はすぐに変わった。
 灰色から群青へ、そして夜。
 サエは橋の上で立ち止まり、ポケットから黒い石を取り出した。
 金の粒はもう見えない。それでも、冷たさの奥に微かな温度がある。

 川沿いのベンチに座ってスマートフォンを取り出す。
 画面の中のメッセージは、まだ“既読”のままだ。
 トモからの返信はない。
 けれど、サエは焦らなかった。
 もしかしたら、次に会うのはもう違う場所かもしれない。

 「ねえ、ルウガ。トモは、まだ生きてるよね」
 ――もちろん。生きてる。
 「でも、もし……」
 ――いなくなっても、声は残る。君が聞く限り。

 サエはうなずき、手帳を開いた。
 今日の行を書き始める。

 昼の矢印。廊下の角。灰色の空。ありがとう。大丈夫。また。

 ペン先が止まる。
 最後の行に小さく足した。
 ――声を返せた日。

     *

 その夜、夢を見た。
 静かな病院の待合室。
 トモが、窓のそばに座っている。
 瓶を両手で抱えて、こちらを見ていた。
 「来たね」
 「うん」
 「声、出してる?」
 「少しずつ」
 「いいじゃん」

 トモは立ち上がり、瓶の蓋を開けた。
 中の水が光る。白と金のあいだの光。
 「これ、君の声だよ」
 「え?」
 「君が人に返した声。僕の中にも届いた」

 サエは息を呑んだ。
 光が部屋いっぱいに広がる。
 眩しくはない。
 ただ、胸の奥が温かくて、涙が溢れた。

 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」

 トモが微笑む。
 その声が遠ざかる。
 ルウガの声が重なる。
 ――夢の中でも、君はちゃんと返してる。

     *

 目が覚めたとき、朝日が差していた。
 部屋の空気は澄んでいて、瓶の水が少し揺れている。
 花は完全に乾いていたけれど、光を反射していた。
 黒い石は透明に近くなり、金の粒が浮かんでいるように見えた。

 サエは立ち上がり、窓を開けた。
 風が部屋に流れ込み、カーテンを揺らす。
 遠くで小さな子どもの声がした。
 その声に刃はなかった。
 音が丸く、世界の輪郭に馴染んでいた。

 ――ほら、今日も声がある。
 「うん」

     *

 放課後、サエと瑞希は川沿いにいた。
 空は薄い灰。光でも影でもない時間。
 「この色、好きかも」
 「うん」
 「トモって、どんな人だったの?」
 「……静かな人。声が低くて、でも優しい」
 「へえ、なんか似てるね、サエに」
 「似てる?」
 「うん。話すとき、間があるでしょ。でも、それが落ち着く」

 風が吹いて、二人の髪が揺れる。
 橋の下の水がきらめき、鳥の影が通り過ぎた。
 サエはポケットの中の黒い石を握った。
 中の金の粒が、夕陽を受けて光る。

 ――君の声、届いてるよ。
 ルウガの声がやさしく響く。
 サエは静かに頷いた。

 「ねえ、瑞希」
 「なに?」
「“また”って、好きな言葉」
 「どうして?」
 「終わりじゃない感じがする」
 「うん、わかる」

 風が通り抜け、世界の音が少しだけ混ざった。
 灰色の光の中で、サエの声が、確かに響いた。

     *

 夜。
 机の上に、手帳と黒い石と瓶。
 サエはページを開き、ペンを走らせる。

 街。学校。矢印。廊下。瑞希。トモ。
 ありがとう。大丈夫。また。

 そして、最後に書き足した。

 ――声を返す日。世界の呼吸が、やっと重なった。

 ペンを置いた瞬間、風がまた吹いた。
 カーテンの向こうで、街の灯が揺れる。
 サエは目を閉じ、静かに息を整えた。

 その胸の奥で、確かに聞こえた。

 トモの低い声。
 ルウガのやさしい声。
 そして、自分自身の声。

 それらが重なって、ひとつの和音になった。

 もう刃ではない。
 もう影でも光でもない。
 ただ、世界の音。

 そして、その真ん中に、サエの声があった。