土曜の朝、街は少しだけ遅れて動き始めていた。
サエは窓を開け、乾いた風を吸い込んだ。昨夜の夢の余韻は薄く、胸の中に静かな温度だけが残っている。机の上の瓶は空に近い。水は金色に濁ったまま、光をわずかに返していた。枯れた花は小さく縮んで、倒れないで立っている。
――今日は街に出てみよう。
ルウガの声は穏やかだった。
「人が多い」
――うん。でも、君には地図がある。角、矢印、終わりの線。
「黒い石もある」
――そう。君の中の“記録”も。
サエは黒い石をポケットに入れ、片耳用の耳栓と布張りのメモ帳、角を落とした小さな矢印カードを鞄にしまった。鏡の前で襟のタグの角度を調整する。布の縫い目が皮膚に当たらない。うなずいて、靴紐を結ぶ。等間隔。
*
駅は、いつもより明るかった。自動改札の音、発車ベル、アナウンス。角のない音も、角のある音も、混ざっていた。サエは視線を床から二十センチ上に置き、柱の影をたどる。券売機横の壁、ホームのベンチ背もたれの角、エレベーターの枠。角には名前がついていないのに、いつも決まった“落ち着き”を返してくれる。
ホームの端に、小さな男の子が母親の袖を強くつかんで立っていた。顔は赤く、目は濡れている。アナウンスが大きくなるたび、肩が跳ねた。母親は困った顔で周囲を見渡している。サエは立ち止まり、胸の中で数える。四つ吸って、六つ吐く。ポケットから矢印カードを取り出し、角を指で撫でる。
――無理に近づかなくていい。
「うん」
サエは少し離れた柱の影に矢印カードを貼った。矢印の先は、壁の角に向けた。戻る尾は、ベンチの端に向けて描いてある。誰にも触れず、誰にも命じず、ただ“道”だけを置く。母親がそれに気づき、視線を矢印の先へ滑らせた。男の子の手を軽く引く。男の子はカードを一瞬見たあと、壁の角に目を落とし、しゃくり上げが少し伸びた。三歩だけ移動して、ベンチの端に座る。呼吸が整う速さは遅い。でも、遅いは壊れにくい。
電車が入ってくる。風がホームを押す。サエは胸の中で小さく言う。
「ありがとう」
誰に向けた言葉かわからない。母親にも、男の子にも、矢印にも、角にも。たぶん全部に。電車の扉が開く。車内の光は蛍光で白い。刃の気配がある。サエは耳栓を右の耳にだけ入れ、黒い石を掌で包んだ。冷たさが皮膚を通り、蛇口の向こうに落ちていく。座席の端に腰を下ろし、視線を窓枠の角に置く。動く窓の景色は刃になりやすい。角に紐づけておけば、視界は崩れにくい。
隣の車両で、小さく笑い声が上がった。高い。けれど距離がある。距離がある笑いは刃にならない。停車駅のアナウンスが流れ、扉が開くたびに空気が入れ替わる。サエは胸の奥を観察する。蛇口は静か。等間隔の呼吸は維持できている。黒い石に、トモの低い声の残響が薄く触れる。
――いる。
「うん」
*
街の中心は、看板の色が多かった。白と赤と青が折り重なる。地上の音は線路より複雑だ。広告のスピーカー、横断歩道のメロディ、建物に反射して増える靴音。サエは大きな交差点の手前で立ち止まり、矢印カードを鞄の中に戻した。代わりに、手帳の端に小さな点を打つ。中心点。横断歩道の白と黒は等間隔だ。信号が青に変わる。人の波が動く。サエは白の上だけを踏むと決めて、視線を二十センチ上に固定した。白の長方形は刃にならない。列に沿って歩けば、衝突しにくい。
広場に出ると、ストリートピアノがあった。若い女性が座って、静かな曲を弾いている。周囲のノイズが、みるみる薄れた。ピアノの音は低い位置に落ち、刃を丸める。サエは少し離れた柱の影に立って、耳栓を少しだけ緩めた。外の音が一段近づく。だが痛くない。鍵盤の打鍵が、心臓の鼓動とゆっくり重なる。
――音のない約束の、音がする。
ルウガが小さく言う。
「わかる」
――ねえ、試してみよう。
「何を?」
――“君の声”を置く練習。
サエは喉を温めるように唇を閉じ、息を少しだけ出し入れした。ピアノの終止で周囲の拍手がわっと広がる。高い音。でも短い。短い音は刃になりにくい。女性が立ち上がり、頭を下げる。入れ替わるように、小柄な男の子が座った。鍵盤に手を置くと、ぎこちない和音が鳴る。失敗の音は高く、細い。サエの胸の奥の蛇口が、ほんの少しだけ動く。
――角を探して。
「柱の影」
――そう。そこで、君の“低い声”を。
サエは男の子のほうを向かず、柱の影に向かって、誰にも届かない音量で言った。
「大丈夫」
自分の声が思ったよりも落ち着いていた。低く、底がある。ピアノの音は不思議と崩れず、ゆっくり和音に戻った。男の子は最後まで弾ききり、軽くお辞儀をした。拍手。サエは笑って、声は出さない。
――今の、よかったね。
「届いた?」
――君自身に、まず届いた。だから周囲の音の角が落ちた。
*
昼を少し過ぎ、街の匂いが変わる。揚げ物の油、甘い生地、コーヒー。匂いは音ではないが、鋭くなると刃に似る。サエは角の丸い喫茶店を探した。看板が木でできていて、窓越しの光が黄色い。ドアの鈴は高いけれど短い。入る。席は窓際を避けて、壁の角が見える二人席を選んだ。注文は水と、砂糖の入っていない紅茶。氷の音が低く、落ち着く。
ポケットから黒い石を取り出し、コースターの上に置く。店の人が不思議そうに見たが、何も言わない。テーブルの上に小さな山ができる。光を吸う。サエは手帳を開き、朝の中心点の下に文字を置いた。
街。交差点。ピアノ。低い声。ありがとう。
書くと、胸の奥の錘が一段下りる。書くことは、終わりの線に近い。線が見えれば、途中で止まっていい。紅茶が運ばれてくる。湯気の白は刃ではない。カップの縁を指でなぞる。指の腹の感触が、頭の中の音を静かに並べる。
店の奥の席で、誰かが落としたスプーンが床を打った。金属音は高い。胸の中の蛇口が一瞬だけ動く前に、サエは石に触れた。冷たさが一拍、心臓を遅らせる。遅いは壊れにくい。大丈夫、と小さく言う。声は自分に向けるときがいちばん効く。
――ねえ、午後、図書館に行こう。
「街の図書館?」
――うん。光がやわらかい。音の角が、紙の匂いで落ちる。
*
図書館の自動ドアは低い唸りしか出さなかった。受付の人の動きは等間隔で、カウンターの木が丸い。サエは案内板の矢印ではなく、柱の影の列をたどって奥に進んだ。窓辺の席は光が強いので避ける。壁の角と棚の端に挟まれた、狭い席に腰を下ろす。耳栓を半分だけ緩め、周囲の紙の音を受け入れる。
棚から取り出したのは、地図の本だった。街の過去の地図。道路の名前が違い、川の流れが今より曲がっている。矢印も、終わりの線も、誰かが引いたものだ。ページの角は丸くすり減っている。たくさんの指がこの角に触れたのだと思う。角は記録だ。
ページをめくると、街の真ん中に、かつて小さな公園が描かれているのが見えた。今はビルだ。地図の紙に残った公園は、もう現実の音を返さない。でも、紙の上では永遠に“静かな場所”のままだ。胸の中で温度が上がる。
――地図は、なくなった場所にも角を残す。
「トモの声みたいに?」
――うん。君が見てるかぎり、そこにある。
視界の端で、誰かが静かに席を立った。椅子の脚が床をこする音は低く、短い。サエは鉛筆を取り出し、手帳に小さな公園のマークを描いた。中心点の横に、丸。戻る矢印を重ねる。書くうちに、呼吸が深くなる。深いは安定だ。
それから、図書館の奥のガラス越しに小さな展示スペースがあることに気づいた。子どもたちが作った工作が並んでいる。紙で作られた矢印や、丸い石。ふと、黒い紙に白い鉛筆で書かれた言葉が目に入った。
「大丈夫は、いっしょに言うと強くなる」
書いたのは誰だろう。知らない誰かの低い声が、紙の上からこちらに届く。サエは小さく笑い、うなずいた。
*
図書館を出る頃には、空の色が薄く変わっていた。昼と夕方の境目。光でも影でもない時間に近い。大きな交差点をもう一度渡る。白と黒の等間隔が、短く見える。歩道橋の下で、路上ライブが始まった。ギターの音は少し鋭い。人が集まり、ざわめきが層になる。
サエは角を探す。ビルの出入り口の枠、階段の横のコンクリートの端。そこに視線を置き、黒い石に触れる。蛇口は静か。耳栓は右だけ。列は保たれている。
そのとき、人の波から一歩、外れて立つ男の子が目に入った。中学生くらい。イヤホンをして、俯いている。背中が固い。ギターの高い音が近づくと、肩が強く跳ねる。誰かがぶつかり、男の子の手からスマートフォンが落ちた。硬い音。彼の息が乱れる。周囲は気づかない。ざわめきに吸われていく。
――どうする?
ルウガが問う。
サエは迷わず、矢印カードを取り出した。カードをその場に置くことはできない。人が踏む。代わりに、自分の靴先で等間隔を作る。白線の上に立ち、男の子から二歩分の距離を取る。目は合わせない。低い声を自分の胸のほうに向けて、落とす。
「大丈夫」
男の子は顔を上げない。だけど、肩の跳ねが少し小さくなる。サエは壁の角を一瞬指で示し、何も言わずその角を見る。男の子は視線の先を追い、角に目を置く。息の乱れが長くなる。耳栓を右耳から外そうとして、やめる。外さなくていい。自分の列を崩さない。
やがて、ギターの音が一段下がった。歌い手がMCを始める。声は低い。人の波が緩む。男の子は落としたスマートフォンを拾い、ポケットに戻す。サエは何も言わず、黒い石を指先で一度だけ弾いた。カチ、と小さな音がして、それで場面はほどけた。
――君の声、届いている。
「うん」
*
夕方から夜に変わる前、サエは川沿いに出た。駅より人が少なく、風が通る。水面が灰色で、そこに街灯の光が点々と落ちる。ベンチに座り、石を掌に置く。胸の中で列を確認する。四つ吸って、六つ吐く。角は、橋の下の梁の影。終わりの線は、足元の白いペンキの切れ端。そして、戻る矢印は、胸の中に。
「トモ」
サエは小さく呼んだ。声は空気の奥で吸われ、川のほうへ落ちる。答えは風の音の中に混ざっていた。言葉ではない。でも、いる。記録は、減らない。
ポケットが震えた。スマートフォン。画面には短いメッセージ。
〈検査、終わった。しばらく、来られない。〉
〈でも、大丈夫。〉
〈君がいるから、僕もいる。〉
送り主の名前は表示されない。だけど、サエはわかった。言葉の置き方がまっすぐで、角が丸い。最後に、見慣れた三つの単語。
〈ありがとう。大丈夫。また。〉
サエは胸の中で、同じ三つを等間隔で並べた。返信は、しない。いまは、声で返す。
「ありがとう。大丈夫。また」
世界が少しだけ頷いた気がした。川面の光が一つ、強く揺れた。
*
夜の駅は、朝より静かに思えた。照明は同じなのに、光の温度が下がっている。ホームの端に立ち、線路を見ない。線路は刃だ。代わりに、柱の影に視線を置く。向かいのホームに、昼間の男の子がいた。イヤホンは外し、ポケットに手を入れている。顔はまだ硬いが、肩は上下していない。サエは何も言わず、軽く会釈だけした。彼は気づかない。気づかなくていい。届くことと、届いたことを知ることは、別の問題だ。届いていればいい。
電車が来る。風が押す。扉が開く。乗り込む。座席の端。耳栓は右だけ。黒い石はポケットに戻した。窓に映る自分の輪郭は薄い。薄い輪郭は、刃にならない。胸の中でルウガが言う。
――今日は、ずいぶん遠くまで来たね。
「街の中でも、息ができた」
――うん。君の“低い声”が地図になってる。
電車がトンネルに入る。光が一瞬だけ強く白くなり、蛍光灯が肩を刺す。サエは視線を窓枠の角に戻し、鼻から四つ吸って、六つ吐いた。蛇口は動かない。等間隔。大丈夫。
*
家に着くと、部屋の空気が少しだけ甘く感じた。外の音が薄くなり、スタンドライトを点ける。黄色い光が机の上に落ちる。瓶の水は金色で、今日は朝より透明に見えた。花は完全に乾いて、紙みたいな手触りになっている。
手帳を開く。中心点。交差点。ピアノ。図書館。川。メッセージ。三つの言葉。サエはペンを走らせ、ひとつずつ並べる。書く行は増え、ページの端が少し波打つ。最後に、小さく一行。
音のない街にも、低い声は届く。
ペンを置き、耳栓をケースに戻す。ポケットから黒い石を出し、瓶の隣に置く。石の黒と、水の金。対になる色が、光をやわらげる。窓を細く開け、夜の空気をほんの少し入れる。遠くで車の音。低い。低い音は味方だ。
――ねえ、サエ。
ルウガの声がやわらかい。
――もし、明日、もっと騒がしい場所に行くことになっても、今日のやり方で大丈夫。
「角、矢印、終わりの線。黒い石。耳栓。低い声」
――それから、君自身。
「僕自身?」
――うん。君が君に向けて言う“ありがとう、大丈夫、また”。いちばん強い。
サエはうなずき、喉の奥でその三つを並べた。声は出さない。でも、出たのと同じくらい胸の中が温かくなった。窓の外で風が一度だけ吹き、カーテンが小さく揺れる。瓶の水面も揺れ、金の光が部屋の壁に短く跳ねる。跳ねた光は刃にならない。むしろ、角を丸くする。
ベッドに横になり、スタンドライトを落とす。暗さは深くない。闇の中で、黒い石の位置を指先で確かめる。そこにある。なくならない。目を閉じ、息を合わせる。四つ吸って、六つ吐く。呼吸は、今日と同じ場所へ戻る。戻る矢印は、もう外に貼らなくても胸の中に引ける。
「また」
小さく言った。誰に向けてもいない。けれど、届いた気がした。街にも、川にも、トモにも、そして自分にも。答えは風みたいに遅れて来る。今は、それで十分だ。
*
日曜。午前。
公園で、町内の防災訓練があった。サエは母に頼まれて、会場の案内を手伝うことになった。人は多い。拡声器の音は高い。消防車のサイレンはテストでも鋭い。刃の気配が近い。サエは胸の中の列を確認し、あらかじめ終わりの線を作った。テントの角、休憩用ベンチの端、飲料の配布所の横。紙の矢印を三枚、角を落として貼る。戻る矢印は自分の靴先で作り、必要な人に口で命じず、目で示す。
スタート直後、広場の真ん中で一人の青年が立ち尽くしていた。耳に手を当て、呼吸が乱れている。周囲の人々は気づかない。流れは止まらない。サエは近づかず、彼と同じ高さの視線を作る。二十センチの線。低い声を、自分の胸に向けて落とす。
「大丈夫」
青年はほんの少し顔を上げ、サエの右肩越しの角に目を置いた。サエは鼻から四つ吸い、六つ吐く。青年の肩が一拍遅れて下がる。サイレンの音がまだ高い。スタッフの誰かがボリュームを下げる。音の角が落ちる。青年はベンチの方向に少し歩き、座る。水を受け取り、口に含む。喉の動きが戻る。
スタッフの女性がサエに気づき、小さく頭を下げた。言葉はない。その代わりに、テントの影が一段深くなる。影の温度は、ちょうどいい。
――君の街は、君の声を覚え始めている。
ルウガが、おかしそうに笑う。
「大げさ」
――でも、そうだよ。角や矢印や低い声は、街の言語だ。
訓練の最後、消防士が放水デモを行い、空に白いアーチがかかった。子どもたちが歓声を上げる。高い声。でも長くない。短い高音は祝福に聞こえる。水の匂いが風に乗って広場を洗う。サエは目を細め、指先で黒い石をなぞった。冷たさは、日なたで少し弱まっていた。
母がやって来て、紙コップを差し出さずに傾ける。サエはうなずき、受け取らず、視線だけで“ありがとう”を返した。母は「おつかれ」と短く言い、笑った。角の丸い笑い方。サエは胸の中で返事をした。
「おつかれ」
*
夕方、川沿いのベンチでサエは手帳を開いた。今日の行を書き込む。駅。交差点。ピアノ。図書館。路上ライブ。訓練のサイレン。放水の白。三つの言葉。低い声。黒い石。ページはいっぱいになり、次のページの端に中心点を打った。
――ねえ。
ルウガが、少しだけ真面目な声になる。
――君がここまで来たなら、次は“聞かれる”練習もできる。
「聞かれる?」
――誰かが君に向けて“低い声”を置いてきたとき、それを受け取る練習。
「受け取るのは……むずかしい」
――大丈夫。ありがとう、また、は受け取りの言葉でもある。
川の上を風が渡る。街灯がひとつ、二つと灯る。水面に点が増える。サエはポケットの中のスマートフォンを見た。昼のメッセージは画面の中で静かに光っている。返信欄は空白だ。空白も、言葉の一部。今日のところは、何も送らない。代わりに、声で受け取る。
「受け取ったよ」
世界は答えない。でも、川の流れがわずかに変わった。足元の白いペンキの切れ端が、静かに地面に馴染む。戻る矢印は、胸の中で光らないけれど、そこにある。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
サエは等間隔で三つを並べ、ベンチから立ち上がった。空は群青で、街はまだうるさくない。音のない街で、低い声だけが、確かに地図を描いていた。
サエは窓を開け、乾いた風を吸い込んだ。昨夜の夢の余韻は薄く、胸の中に静かな温度だけが残っている。机の上の瓶は空に近い。水は金色に濁ったまま、光をわずかに返していた。枯れた花は小さく縮んで、倒れないで立っている。
――今日は街に出てみよう。
ルウガの声は穏やかだった。
「人が多い」
――うん。でも、君には地図がある。角、矢印、終わりの線。
「黒い石もある」
――そう。君の中の“記録”も。
サエは黒い石をポケットに入れ、片耳用の耳栓と布張りのメモ帳、角を落とした小さな矢印カードを鞄にしまった。鏡の前で襟のタグの角度を調整する。布の縫い目が皮膚に当たらない。うなずいて、靴紐を結ぶ。等間隔。
*
駅は、いつもより明るかった。自動改札の音、発車ベル、アナウンス。角のない音も、角のある音も、混ざっていた。サエは視線を床から二十センチ上に置き、柱の影をたどる。券売機横の壁、ホームのベンチ背もたれの角、エレベーターの枠。角には名前がついていないのに、いつも決まった“落ち着き”を返してくれる。
ホームの端に、小さな男の子が母親の袖を強くつかんで立っていた。顔は赤く、目は濡れている。アナウンスが大きくなるたび、肩が跳ねた。母親は困った顔で周囲を見渡している。サエは立ち止まり、胸の中で数える。四つ吸って、六つ吐く。ポケットから矢印カードを取り出し、角を指で撫でる。
――無理に近づかなくていい。
「うん」
サエは少し離れた柱の影に矢印カードを貼った。矢印の先は、壁の角に向けた。戻る尾は、ベンチの端に向けて描いてある。誰にも触れず、誰にも命じず、ただ“道”だけを置く。母親がそれに気づき、視線を矢印の先へ滑らせた。男の子の手を軽く引く。男の子はカードを一瞬見たあと、壁の角に目を落とし、しゃくり上げが少し伸びた。三歩だけ移動して、ベンチの端に座る。呼吸が整う速さは遅い。でも、遅いは壊れにくい。
電車が入ってくる。風がホームを押す。サエは胸の中で小さく言う。
「ありがとう」
誰に向けた言葉かわからない。母親にも、男の子にも、矢印にも、角にも。たぶん全部に。電車の扉が開く。車内の光は蛍光で白い。刃の気配がある。サエは耳栓を右の耳にだけ入れ、黒い石を掌で包んだ。冷たさが皮膚を通り、蛇口の向こうに落ちていく。座席の端に腰を下ろし、視線を窓枠の角に置く。動く窓の景色は刃になりやすい。角に紐づけておけば、視界は崩れにくい。
隣の車両で、小さく笑い声が上がった。高い。けれど距離がある。距離がある笑いは刃にならない。停車駅のアナウンスが流れ、扉が開くたびに空気が入れ替わる。サエは胸の奥を観察する。蛇口は静か。等間隔の呼吸は維持できている。黒い石に、トモの低い声の残響が薄く触れる。
――いる。
「うん」
*
街の中心は、看板の色が多かった。白と赤と青が折り重なる。地上の音は線路より複雑だ。広告のスピーカー、横断歩道のメロディ、建物に反射して増える靴音。サエは大きな交差点の手前で立ち止まり、矢印カードを鞄の中に戻した。代わりに、手帳の端に小さな点を打つ。中心点。横断歩道の白と黒は等間隔だ。信号が青に変わる。人の波が動く。サエは白の上だけを踏むと決めて、視線を二十センチ上に固定した。白の長方形は刃にならない。列に沿って歩けば、衝突しにくい。
広場に出ると、ストリートピアノがあった。若い女性が座って、静かな曲を弾いている。周囲のノイズが、みるみる薄れた。ピアノの音は低い位置に落ち、刃を丸める。サエは少し離れた柱の影に立って、耳栓を少しだけ緩めた。外の音が一段近づく。だが痛くない。鍵盤の打鍵が、心臓の鼓動とゆっくり重なる。
――音のない約束の、音がする。
ルウガが小さく言う。
「わかる」
――ねえ、試してみよう。
「何を?」
――“君の声”を置く練習。
サエは喉を温めるように唇を閉じ、息を少しだけ出し入れした。ピアノの終止で周囲の拍手がわっと広がる。高い音。でも短い。短い音は刃になりにくい。女性が立ち上がり、頭を下げる。入れ替わるように、小柄な男の子が座った。鍵盤に手を置くと、ぎこちない和音が鳴る。失敗の音は高く、細い。サエの胸の奥の蛇口が、ほんの少しだけ動く。
――角を探して。
「柱の影」
――そう。そこで、君の“低い声”を。
サエは男の子のほうを向かず、柱の影に向かって、誰にも届かない音量で言った。
「大丈夫」
自分の声が思ったよりも落ち着いていた。低く、底がある。ピアノの音は不思議と崩れず、ゆっくり和音に戻った。男の子は最後まで弾ききり、軽くお辞儀をした。拍手。サエは笑って、声は出さない。
――今の、よかったね。
「届いた?」
――君自身に、まず届いた。だから周囲の音の角が落ちた。
*
昼を少し過ぎ、街の匂いが変わる。揚げ物の油、甘い生地、コーヒー。匂いは音ではないが、鋭くなると刃に似る。サエは角の丸い喫茶店を探した。看板が木でできていて、窓越しの光が黄色い。ドアの鈴は高いけれど短い。入る。席は窓際を避けて、壁の角が見える二人席を選んだ。注文は水と、砂糖の入っていない紅茶。氷の音が低く、落ち着く。
ポケットから黒い石を取り出し、コースターの上に置く。店の人が不思議そうに見たが、何も言わない。テーブルの上に小さな山ができる。光を吸う。サエは手帳を開き、朝の中心点の下に文字を置いた。
街。交差点。ピアノ。低い声。ありがとう。
書くと、胸の奥の錘が一段下りる。書くことは、終わりの線に近い。線が見えれば、途中で止まっていい。紅茶が運ばれてくる。湯気の白は刃ではない。カップの縁を指でなぞる。指の腹の感触が、頭の中の音を静かに並べる。
店の奥の席で、誰かが落としたスプーンが床を打った。金属音は高い。胸の中の蛇口が一瞬だけ動く前に、サエは石に触れた。冷たさが一拍、心臓を遅らせる。遅いは壊れにくい。大丈夫、と小さく言う。声は自分に向けるときがいちばん効く。
――ねえ、午後、図書館に行こう。
「街の図書館?」
――うん。光がやわらかい。音の角が、紙の匂いで落ちる。
*
図書館の自動ドアは低い唸りしか出さなかった。受付の人の動きは等間隔で、カウンターの木が丸い。サエは案内板の矢印ではなく、柱の影の列をたどって奥に進んだ。窓辺の席は光が強いので避ける。壁の角と棚の端に挟まれた、狭い席に腰を下ろす。耳栓を半分だけ緩め、周囲の紙の音を受け入れる。
棚から取り出したのは、地図の本だった。街の過去の地図。道路の名前が違い、川の流れが今より曲がっている。矢印も、終わりの線も、誰かが引いたものだ。ページの角は丸くすり減っている。たくさんの指がこの角に触れたのだと思う。角は記録だ。
ページをめくると、街の真ん中に、かつて小さな公園が描かれているのが見えた。今はビルだ。地図の紙に残った公園は、もう現実の音を返さない。でも、紙の上では永遠に“静かな場所”のままだ。胸の中で温度が上がる。
――地図は、なくなった場所にも角を残す。
「トモの声みたいに?」
――うん。君が見てるかぎり、そこにある。
視界の端で、誰かが静かに席を立った。椅子の脚が床をこする音は低く、短い。サエは鉛筆を取り出し、手帳に小さな公園のマークを描いた。中心点の横に、丸。戻る矢印を重ねる。書くうちに、呼吸が深くなる。深いは安定だ。
それから、図書館の奥のガラス越しに小さな展示スペースがあることに気づいた。子どもたちが作った工作が並んでいる。紙で作られた矢印や、丸い石。ふと、黒い紙に白い鉛筆で書かれた言葉が目に入った。
「大丈夫は、いっしょに言うと強くなる」
書いたのは誰だろう。知らない誰かの低い声が、紙の上からこちらに届く。サエは小さく笑い、うなずいた。
*
図書館を出る頃には、空の色が薄く変わっていた。昼と夕方の境目。光でも影でもない時間に近い。大きな交差点をもう一度渡る。白と黒の等間隔が、短く見える。歩道橋の下で、路上ライブが始まった。ギターの音は少し鋭い。人が集まり、ざわめきが層になる。
サエは角を探す。ビルの出入り口の枠、階段の横のコンクリートの端。そこに視線を置き、黒い石に触れる。蛇口は静か。耳栓は右だけ。列は保たれている。
そのとき、人の波から一歩、外れて立つ男の子が目に入った。中学生くらい。イヤホンをして、俯いている。背中が固い。ギターの高い音が近づくと、肩が強く跳ねる。誰かがぶつかり、男の子の手からスマートフォンが落ちた。硬い音。彼の息が乱れる。周囲は気づかない。ざわめきに吸われていく。
――どうする?
ルウガが問う。
サエは迷わず、矢印カードを取り出した。カードをその場に置くことはできない。人が踏む。代わりに、自分の靴先で等間隔を作る。白線の上に立ち、男の子から二歩分の距離を取る。目は合わせない。低い声を自分の胸のほうに向けて、落とす。
「大丈夫」
男の子は顔を上げない。だけど、肩の跳ねが少し小さくなる。サエは壁の角を一瞬指で示し、何も言わずその角を見る。男の子は視線の先を追い、角に目を置く。息の乱れが長くなる。耳栓を右耳から外そうとして、やめる。外さなくていい。自分の列を崩さない。
やがて、ギターの音が一段下がった。歌い手がMCを始める。声は低い。人の波が緩む。男の子は落としたスマートフォンを拾い、ポケットに戻す。サエは何も言わず、黒い石を指先で一度だけ弾いた。カチ、と小さな音がして、それで場面はほどけた。
――君の声、届いている。
「うん」
*
夕方から夜に変わる前、サエは川沿いに出た。駅より人が少なく、風が通る。水面が灰色で、そこに街灯の光が点々と落ちる。ベンチに座り、石を掌に置く。胸の中で列を確認する。四つ吸って、六つ吐く。角は、橋の下の梁の影。終わりの線は、足元の白いペンキの切れ端。そして、戻る矢印は、胸の中に。
「トモ」
サエは小さく呼んだ。声は空気の奥で吸われ、川のほうへ落ちる。答えは風の音の中に混ざっていた。言葉ではない。でも、いる。記録は、減らない。
ポケットが震えた。スマートフォン。画面には短いメッセージ。
〈検査、終わった。しばらく、来られない。〉
〈でも、大丈夫。〉
〈君がいるから、僕もいる。〉
送り主の名前は表示されない。だけど、サエはわかった。言葉の置き方がまっすぐで、角が丸い。最後に、見慣れた三つの単語。
〈ありがとう。大丈夫。また。〉
サエは胸の中で、同じ三つを等間隔で並べた。返信は、しない。いまは、声で返す。
「ありがとう。大丈夫。また」
世界が少しだけ頷いた気がした。川面の光が一つ、強く揺れた。
*
夜の駅は、朝より静かに思えた。照明は同じなのに、光の温度が下がっている。ホームの端に立ち、線路を見ない。線路は刃だ。代わりに、柱の影に視線を置く。向かいのホームに、昼間の男の子がいた。イヤホンは外し、ポケットに手を入れている。顔はまだ硬いが、肩は上下していない。サエは何も言わず、軽く会釈だけした。彼は気づかない。気づかなくていい。届くことと、届いたことを知ることは、別の問題だ。届いていればいい。
電車が来る。風が押す。扉が開く。乗り込む。座席の端。耳栓は右だけ。黒い石はポケットに戻した。窓に映る自分の輪郭は薄い。薄い輪郭は、刃にならない。胸の中でルウガが言う。
――今日は、ずいぶん遠くまで来たね。
「街の中でも、息ができた」
――うん。君の“低い声”が地図になってる。
電車がトンネルに入る。光が一瞬だけ強く白くなり、蛍光灯が肩を刺す。サエは視線を窓枠の角に戻し、鼻から四つ吸って、六つ吐いた。蛇口は動かない。等間隔。大丈夫。
*
家に着くと、部屋の空気が少しだけ甘く感じた。外の音が薄くなり、スタンドライトを点ける。黄色い光が机の上に落ちる。瓶の水は金色で、今日は朝より透明に見えた。花は完全に乾いて、紙みたいな手触りになっている。
手帳を開く。中心点。交差点。ピアノ。図書館。川。メッセージ。三つの言葉。サエはペンを走らせ、ひとつずつ並べる。書く行は増え、ページの端が少し波打つ。最後に、小さく一行。
音のない街にも、低い声は届く。
ペンを置き、耳栓をケースに戻す。ポケットから黒い石を出し、瓶の隣に置く。石の黒と、水の金。対になる色が、光をやわらげる。窓を細く開け、夜の空気をほんの少し入れる。遠くで車の音。低い。低い音は味方だ。
――ねえ、サエ。
ルウガの声がやわらかい。
――もし、明日、もっと騒がしい場所に行くことになっても、今日のやり方で大丈夫。
「角、矢印、終わりの線。黒い石。耳栓。低い声」
――それから、君自身。
「僕自身?」
――うん。君が君に向けて言う“ありがとう、大丈夫、また”。いちばん強い。
サエはうなずき、喉の奥でその三つを並べた。声は出さない。でも、出たのと同じくらい胸の中が温かくなった。窓の外で風が一度だけ吹き、カーテンが小さく揺れる。瓶の水面も揺れ、金の光が部屋の壁に短く跳ねる。跳ねた光は刃にならない。むしろ、角を丸くする。
ベッドに横になり、スタンドライトを落とす。暗さは深くない。闇の中で、黒い石の位置を指先で確かめる。そこにある。なくならない。目を閉じ、息を合わせる。四つ吸って、六つ吐く。呼吸は、今日と同じ場所へ戻る。戻る矢印は、もう外に貼らなくても胸の中に引ける。
「また」
小さく言った。誰に向けてもいない。けれど、届いた気がした。街にも、川にも、トモにも、そして自分にも。答えは風みたいに遅れて来る。今は、それで十分だ。
*
日曜。午前。
公園で、町内の防災訓練があった。サエは母に頼まれて、会場の案内を手伝うことになった。人は多い。拡声器の音は高い。消防車のサイレンはテストでも鋭い。刃の気配が近い。サエは胸の中の列を確認し、あらかじめ終わりの線を作った。テントの角、休憩用ベンチの端、飲料の配布所の横。紙の矢印を三枚、角を落として貼る。戻る矢印は自分の靴先で作り、必要な人に口で命じず、目で示す。
スタート直後、広場の真ん中で一人の青年が立ち尽くしていた。耳に手を当て、呼吸が乱れている。周囲の人々は気づかない。流れは止まらない。サエは近づかず、彼と同じ高さの視線を作る。二十センチの線。低い声を、自分の胸に向けて落とす。
「大丈夫」
青年はほんの少し顔を上げ、サエの右肩越しの角に目を置いた。サエは鼻から四つ吸い、六つ吐く。青年の肩が一拍遅れて下がる。サイレンの音がまだ高い。スタッフの誰かがボリュームを下げる。音の角が落ちる。青年はベンチの方向に少し歩き、座る。水を受け取り、口に含む。喉の動きが戻る。
スタッフの女性がサエに気づき、小さく頭を下げた。言葉はない。その代わりに、テントの影が一段深くなる。影の温度は、ちょうどいい。
――君の街は、君の声を覚え始めている。
ルウガが、おかしそうに笑う。
「大げさ」
――でも、そうだよ。角や矢印や低い声は、街の言語だ。
訓練の最後、消防士が放水デモを行い、空に白いアーチがかかった。子どもたちが歓声を上げる。高い声。でも長くない。短い高音は祝福に聞こえる。水の匂いが風に乗って広場を洗う。サエは目を細め、指先で黒い石をなぞった。冷たさは、日なたで少し弱まっていた。
母がやって来て、紙コップを差し出さずに傾ける。サエはうなずき、受け取らず、視線だけで“ありがとう”を返した。母は「おつかれ」と短く言い、笑った。角の丸い笑い方。サエは胸の中で返事をした。
「おつかれ」
*
夕方、川沿いのベンチでサエは手帳を開いた。今日の行を書き込む。駅。交差点。ピアノ。図書館。路上ライブ。訓練のサイレン。放水の白。三つの言葉。低い声。黒い石。ページはいっぱいになり、次のページの端に中心点を打った。
――ねえ。
ルウガが、少しだけ真面目な声になる。
――君がここまで来たなら、次は“聞かれる”練習もできる。
「聞かれる?」
――誰かが君に向けて“低い声”を置いてきたとき、それを受け取る練習。
「受け取るのは……むずかしい」
――大丈夫。ありがとう、また、は受け取りの言葉でもある。
川の上を風が渡る。街灯がひとつ、二つと灯る。水面に点が増える。サエはポケットの中のスマートフォンを見た。昼のメッセージは画面の中で静かに光っている。返信欄は空白だ。空白も、言葉の一部。今日のところは、何も送らない。代わりに、声で受け取る。
「受け取ったよ」
世界は答えない。でも、川の流れがわずかに変わった。足元の白いペンキの切れ端が、静かに地面に馴染む。戻る矢印は、胸の中で光らないけれど、そこにある。
「ありがとう」
「大丈夫」
「また」
サエは等間隔で三つを並べ、ベンチから立ち上がった。空は群青で、街はまだうるさくない。音のない街で、低い声だけが、確かに地図を描いていた。



