雨は夜のうちに止んでいた。
朝の光は白く、まだ眠っているみたいに静かだった。
サエは窓を少し開けた。外の空気は冷たく、少しだけ金属の匂いがした。昨日の雨が鉄の手すりを洗い、空気の底に残していった味だった。
机の上の瓶には、もう光がなかった。
花弁は乾き、灰色に透けていた。それでも形は崩れていない。まるで中にまだ呼吸が残っているように、静かに立っている。
サエはそれを見ながら、トモの言葉を思い出していた。
「君が見てるなら、僕はいる」
昨日、彼がそう言ったとき、胸の奥が痛くなった。けれど、同時にあたたかかった。
その痛みとあたたかさが、まだ体の中に残っている。
ルウガの声は今朝、何も言わなかった。静かにしている。たぶん、サエの代わりに息を整えているのだと思った。
*
学校の門をくぐると、空が低かった。
空気が重く、音が遠い。教室のドアを開けると、クラスメイトの声がいくつも重なっていた。
その中に、かすかにトモの笑い声が混ざっている気がした。
思わず振り返る。でも、そこには誰もいなかった。
机に座り、ノートを開く。
右上に、いつもの点を打つ。中心点。
その下に書く文字を迷った。
「また」でもなく、「ありがとう」でもなく。
ペン先が空白の上で止まる。
そのとき、隣の席の女の子が話しかけてきた。
「ねえ、サエ。昨日、川のほう行ってたでしょ?」
「うん」
「誰かといた?」
「……友達」
「そっか。昨日の夕方、すごくきれいだったよね。空」
サエはうなずいた。
「灰色の光」
「へえ、詩人みたい」
そう言って、彼女は笑った。
それだけのことなのに、胸の奥で何かが溶けた。人と話すことが、少しだけ怖くなくなった。
――声は、戻る場所を覚えてるんだよ。
ルウガの声が、やわらかく囁いた。
*
放課後。
サエはノートを閉じ、鞄を肩にかけて立ち上がった。
川沿いの道に向かう途中、空がまた曇ってきた。
雨は降らない。でも、風が冷たかった。
ベンチの上に、昨日と同じ瓶を置く。中にはもう何も光っていない。
「ここが、終わりの場所……じゃない」
小さく呟いて、立ち上がる。
橋の方へ歩くと、川の上を渡る風の中に、小さな声が混ざっていた。
――見える?
「……トモ?」
――違う。音だよ。
風の中に音がある。
低い、柔らかい音。昨日の雨の音と似ているけれど、どこか違う。
それは、聞こえるというより、感じる音だった。
胸の中で、誰かが呼んでいる。
サエは足を止め、深く息を吸った。
冷たい空気が肺に入って、胸を満たす。
そして、ゆっくりと吐く。
声が出た。
「……いるよ」
風が返事をしたように、川面が揺れた。
波の音が、まるで笑うように響く。
*
病院の待合室。
受付の照明が少し暗い。時計の針がゆっくり進む音が、いつもより大きく感じた。
トモの姿はなかった。
でも、椅子の上に、白い紙が一枚置かれていた。
それは、サエの矢印カードだった。角が少し丸く、裏に鉛筆の線が見える。
裏には、文字があった。
〈声が聞こえなくても、君が息をしてる限り、僕はいる〉
サエは指先でその文字をなぞった。
トモの字。少し不器用で、でもまっすぐな線。
涙が出そうになったけれど、出なかった。代わりに、喉の奥が温かくなった。
ルウガの声が、遠くで響く。
――泣くことも、声なんだよ。
「泣かない。今は……息があるから」
――それでいい。
*
帰り道、空に月が出ていた。
薄い雲の向こうで、ぼやけた光が滲んでいる。
サエは立ち止まり、ポケットから黒い石を取り出した。
トモからもらった二つ目の石。
光を吸っているように見えて、実際は微かに反射していた。
「ねえ、ルウガ。これ、まだ生きてる?」
――生きてる。石は記録するんだよ。君の声を。
「じゃあ、話してもいい?」
――もちろん。
サエは月を見上げた。
白くもなく、青くもない、淡い光。
声を出す。
「トモ。ありがとう。君の音、まだここにあるよ。僕、たぶん、もう怖くない」
風が吹く。
雲が動き、月が一瞬だけはっきり見えた。
光が、石の表面をかすかに照らす。
その瞬間、サエの胸の奥で何かが鳴った。
鼓動じゃない。
声だった。
トモの声。
「……よかった」
小さく、確かに聞こえた。
サエは涙を拭かずに笑った。
空気の中に、彼の声がまだ残っている。
それは、消えることのない“呼吸の灯”だった。
*
夜、部屋に戻ると、花の色がほんの少しだけ変わっていた。
完全に灰だった花弁が、端に薄い金を取り戻している。
瓶の水が、光を反射して揺れていた。
机に手帳を開き、サエは今日の行を書いた。
声のある静寂。風の中の呼吸。ありがとう。大丈夫。また。
ペンを置き、窓の外を見る。
月が静かに浮かんでいる。
ルウガの声が、今度は優しく響いた。
――ねえ、サエ。
「なに?」
――“声”って、君が世界を信じることなんだよ。
「……世界を、信じる?」
――うん。誰かがいなくなっても、世界が君を見てくれる。だから、君も声を出していい。
サエはゆっくりうなずいた。
「ありがとう、ルウガ」
胸の奥が温かくなる。
世界が静かに呼吸している。
それはもう、痛みではなかった。
花の光がわずかに強くなる。
窓の外の風がやさしく吹く。
サエは小さく微笑み、言った。
「また、明日」
世界が静かに頷いた気がした。
*
その夜、夢を見た。
白い空。風のない川。
向こう岸にトモが立っていた。
笑っていた。
手には、黒い石。
サエも同じ石を握っていた。
トモが口を開く。声は聞こえなかった。
でも、わかった。
「大丈夫」と言っている。
サエはうなずいた。
石の中の金の粒が光り、空の色が変わっていく。
光でも影でもない色。
世界がその色に染まる。
そして、夢の中でサエは初めて、自分の声を笑いながら出した。
泣き声でも、呼吸でもなく、確かな“声”だった。
*
朝。
カーテンの隙間から光が差し込む。
花は完全に枯れていた。
でも、瓶の中の水は金色に濁っていた。
ルウガの声が、最後に小さく囁いた。
――君の声が、世界の音になった。
サエは頷き、笑った。
今日も、呼吸がある。
そして、声もある。
朝の光は白く、まだ眠っているみたいに静かだった。
サエは窓を少し開けた。外の空気は冷たく、少しだけ金属の匂いがした。昨日の雨が鉄の手すりを洗い、空気の底に残していった味だった。
机の上の瓶には、もう光がなかった。
花弁は乾き、灰色に透けていた。それでも形は崩れていない。まるで中にまだ呼吸が残っているように、静かに立っている。
サエはそれを見ながら、トモの言葉を思い出していた。
「君が見てるなら、僕はいる」
昨日、彼がそう言ったとき、胸の奥が痛くなった。けれど、同時にあたたかかった。
その痛みとあたたかさが、まだ体の中に残っている。
ルウガの声は今朝、何も言わなかった。静かにしている。たぶん、サエの代わりに息を整えているのだと思った。
*
学校の門をくぐると、空が低かった。
空気が重く、音が遠い。教室のドアを開けると、クラスメイトの声がいくつも重なっていた。
その中に、かすかにトモの笑い声が混ざっている気がした。
思わず振り返る。でも、そこには誰もいなかった。
机に座り、ノートを開く。
右上に、いつもの点を打つ。中心点。
その下に書く文字を迷った。
「また」でもなく、「ありがとう」でもなく。
ペン先が空白の上で止まる。
そのとき、隣の席の女の子が話しかけてきた。
「ねえ、サエ。昨日、川のほう行ってたでしょ?」
「うん」
「誰かといた?」
「……友達」
「そっか。昨日の夕方、すごくきれいだったよね。空」
サエはうなずいた。
「灰色の光」
「へえ、詩人みたい」
そう言って、彼女は笑った。
それだけのことなのに、胸の奥で何かが溶けた。人と話すことが、少しだけ怖くなくなった。
――声は、戻る場所を覚えてるんだよ。
ルウガの声が、やわらかく囁いた。
*
放課後。
サエはノートを閉じ、鞄を肩にかけて立ち上がった。
川沿いの道に向かう途中、空がまた曇ってきた。
雨は降らない。でも、風が冷たかった。
ベンチの上に、昨日と同じ瓶を置く。中にはもう何も光っていない。
「ここが、終わりの場所……じゃない」
小さく呟いて、立ち上がる。
橋の方へ歩くと、川の上を渡る風の中に、小さな声が混ざっていた。
――見える?
「……トモ?」
――違う。音だよ。
風の中に音がある。
低い、柔らかい音。昨日の雨の音と似ているけれど、どこか違う。
それは、聞こえるというより、感じる音だった。
胸の中で、誰かが呼んでいる。
サエは足を止め、深く息を吸った。
冷たい空気が肺に入って、胸を満たす。
そして、ゆっくりと吐く。
声が出た。
「……いるよ」
風が返事をしたように、川面が揺れた。
波の音が、まるで笑うように響く。
*
病院の待合室。
受付の照明が少し暗い。時計の針がゆっくり進む音が、いつもより大きく感じた。
トモの姿はなかった。
でも、椅子の上に、白い紙が一枚置かれていた。
それは、サエの矢印カードだった。角が少し丸く、裏に鉛筆の線が見える。
裏には、文字があった。
〈声が聞こえなくても、君が息をしてる限り、僕はいる〉
サエは指先でその文字をなぞった。
トモの字。少し不器用で、でもまっすぐな線。
涙が出そうになったけれど、出なかった。代わりに、喉の奥が温かくなった。
ルウガの声が、遠くで響く。
――泣くことも、声なんだよ。
「泣かない。今は……息があるから」
――それでいい。
*
帰り道、空に月が出ていた。
薄い雲の向こうで、ぼやけた光が滲んでいる。
サエは立ち止まり、ポケットから黒い石を取り出した。
トモからもらった二つ目の石。
光を吸っているように見えて、実際は微かに反射していた。
「ねえ、ルウガ。これ、まだ生きてる?」
――生きてる。石は記録するんだよ。君の声を。
「じゃあ、話してもいい?」
――もちろん。
サエは月を見上げた。
白くもなく、青くもない、淡い光。
声を出す。
「トモ。ありがとう。君の音、まだここにあるよ。僕、たぶん、もう怖くない」
風が吹く。
雲が動き、月が一瞬だけはっきり見えた。
光が、石の表面をかすかに照らす。
その瞬間、サエの胸の奥で何かが鳴った。
鼓動じゃない。
声だった。
トモの声。
「……よかった」
小さく、確かに聞こえた。
サエは涙を拭かずに笑った。
空気の中に、彼の声がまだ残っている。
それは、消えることのない“呼吸の灯”だった。
*
夜、部屋に戻ると、花の色がほんの少しだけ変わっていた。
完全に灰だった花弁が、端に薄い金を取り戻している。
瓶の水が、光を反射して揺れていた。
机に手帳を開き、サエは今日の行を書いた。
声のある静寂。風の中の呼吸。ありがとう。大丈夫。また。
ペンを置き、窓の外を見る。
月が静かに浮かんでいる。
ルウガの声が、今度は優しく響いた。
――ねえ、サエ。
「なに?」
――“声”って、君が世界を信じることなんだよ。
「……世界を、信じる?」
――うん。誰かがいなくなっても、世界が君を見てくれる。だから、君も声を出していい。
サエはゆっくりうなずいた。
「ありがとう、ルウガ」
胸の奥が温かくなる。
世界が静かに呼吸している。
それはもう、痛みではなかった。
花の光がわずかに強くなる。
窓の外の風がやさしく吹く。
サエは小さく微笑み、言った。
「また、明日」
世界が静かに頷いた気がした。
*
その夜、夢を見た。
白い空。風のない川。
向こう岸にトモが立っていた。
笑っていた。
手には、黒い石。
サエも同じ石を握っていた。
トモが口を開く。声は聞こえなかった。
でも、わかった。
「大丈夫」と言っている。
サエはうなずいた。
石の中の金の粒が光り、空の色が変わっていく。
光でも影でもない色。
世界がその色に染まる。
そして、夢の中でサエは初めて、自分の声を笑いながら出した。
泣き声でも、呼吸でもなく、確かな“声”だった。
*
朝。
カーテンの隙間から光が差し込む。
花は完全に枯れていた。
でも、瓶の中の水は金色に濁っていた。
ルウガの声が、最後に小さく囁いた。
――君の声が、世界の音になった。
サエは頷き、笑った。
今日も、呼吸がある。
そして、声もある。



