夜が深くなるほど、瓶の花は静かに光を失っていった。
 サエはベッドの中で目を開けたまま、それを見つめていた。
 光が消える瞬間の“音”を聞きたかったのに、何も聞こえない。
 代わりに、心臓の鼓動だけが部屋の中に残っている。
 ――ねえ、サエ。
 ルウガの声が低く、夢の底から響く。
 ――光が消えるのは、壊れることじゃないよ。
 「わかってる。でも、寂しい」
 ――寂しさも呼吸のひとつ。吸って、吐けば、形を変える。
 サエは布団を出て、瓶のそばに座った。
 花弁の端が乾いている。色はまだ灰と金のあいだに揺れていた。
 「明日、トモに見せよう」
 そう呟く声は、自分のものとは思えなかった。
 音が遅れて届くような、遠い距離感があった。
     *
 翌朝。
 窓の外は薄い霧に包まれていた。
 音が吸い取られたように、世界が静かだ。
 カーテンを開けると、ガラスの外に曇りの粒が並んでいた。
 呼吸を合わせる。四つ吸って、六つ吐く。
 それでも、胸の奥の蛇口が少し軋んだ。
 ――今日は、音の“反対側”を見に行く日だよ。
 「反対側?」
 ――光が消えて、音も消えた場所。そこに“残る”ものがある。
 サエは瓶を手に取り、鞄に入れた。
 花が揺れて、金の粒がかすかに光る。
     *
 学校は早退した。
 午後の川沿い。風が止まり、灰色の空が流れていた。
 トモはベンチにいなかった。
 いつもなら先に来ているはずの時間。
 サエはベンチの端に瓶を置き、辺りを見渡した。
 川の水面が、鏡のように静かに光を返している。
 ――待つことは、呼吸の延長線だよ。
 「うん……でも、息が長くなる」
 ――いいこと。息が長いほど、心は深く潜れる。
 十五分ほど経った。
 トモがゆっくりと現れた。
 傘も持たず、制服の袖が少し濡れている。
 顔には薄い疲れの色。
 「ごめん。遅れた」
 「大丈夫」
 「病院で、少し……話してて」
 トモの声は低かった。でも、その低さの中に波があった。
 何かがゆらいでいる。
 「花、持ってきた」
 サエは瓶を差し出した。
 トモは受け取らず、ただ見つめた。
 「……きれいだね」
 「昨日より、光が減った」
「うん。減ってるのに、まだ温かい」
 二人のあいだに沈黙が降りる。
 風が、花弁を一枚だけ揺らした。
 「僕ね」
 トモがぽつりと言った。
 「先生に言われた。そろそろ、“終わりの場所”を決めましょうって」
 サエの胸の奥で何かが止まった。
 「終わり?」
 「うん。治療が終わるんだって。……つまり、通院も」
 瓶の中の花が、静かに震えた。
 光が少しだけ滲み、金の粒がひとつ沈んだ。
 「それって、もう来ないってこと?」
 「……わからない。でも、たぶん、そう」
 サエは息を吸った。
 四つで吸って、六つで吐こうとしたのに、途中で切れた。
 喉の奥の蛇口が、久しぶりに動いた。
 胸の奥で、古い痛みが鳴る。
 「じゃあ、今日が最後の“呼吸の灯”?」
 「かもしれない。でも、君が教えてくれたでしょ」
 トモは微笑んだ。
 「光でも影でもないところに、戻る場所があるって」
 風が吹いた。
 瓶の花が揺れる。
 花弁がひとつ、空気の中に舞い上がった。
 ――掴まなくていい。風に乗せて。
 ルウガの声が静かに響いた。
 サエは手を伸ばさなかった。
 花弁はゆっくりと上昇し、川の方へ流れていった。
 「トモ」
 「うん」
 「また、来ていい?」
 「もちろん」
 「でも、もう君はいないかも」
 「君が見てるなら、僕はいる」
 その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
 でも、胸の中でその音だけがやわらかく響いた。
 ――“いる”という音は、形を持たなくても、在り続ける。
     *
 日が沈みはじめる。
 光でも影でもない時間。
 空が灰と藍のあいだで揺れている。
 トモは立ち上がり、ポケットから黒い石を取り出した。
 「これ、君に」
 「前にくれたよ」
「もうひとつ。二つ目の“呼吸”。」
 サエは受け取り、両手で包んだ。
 冷たい石が、掌の中でほんの少しだけ温かくなる。
 「これが、今日の音?」
 「うん。君の中で響かせて」
 風が止まる。
 世界が呼吸をやめたように静かだった。
 ふたりの間にある空気だけが、わずかに震えていた。
 ――音が消えるとき、約束が始まる。
 ルウガの声が、胸の奥でほどけた。
 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」
 サエの声が、風の代わりに世界を撫でた。
 トモは何も言わず、静かに笑った。
 その笑顔は、光のない光のように淡く、確かだった。
     *
 夜。
 部屋の瓶の花は、完全に光を失っていた。
 けれど、サエの胸の中ではまだ金の粒が瞬いていた。
 手帳を開く。
 呼吸の灯。終わりの場所。ありがとう。大丈夫。また。
 そして最後に、今日の一行を書いた。
 ――光が消えても、声は残る。
 ペンを置いた瞬間、窓の外で雨が降り始めた。
 その音は、まるで誰かの低い声のように優しかった。
 サエは目を閉じ、ルウガの囁きを聞いた。
 ――まだ、終わりじゃないよ。
 ――声は、君の中で生き続ける。
 胸の奥が小さく鳴った。
 それは、確かに“呼吸の灯”の音だった。