夜明け前。
 サエは目を開けた。部屋の中はまだ闇に沈んでいるのに、何かがうっすらと光っている気がした。
 瓶の花だった。
 花弁が、青と灰のあいだのような色に滲んでいる。光源はない。それなのに、確かにそこに“見える”光があった。

 ――行こう。今日は約束の日だよ。
 ルウガの声が、静かに、でも芯を持って響いた。

 「光でも影でもない時間」

 そう口に出すと、胸の奥のどこかが微かに震えた。
 蛇口は動かない。ただ、その震えだけが生きていた。

     *

 外は曇り。
 空は白いのに、どこか暗い。
 雨が降るわけでもなく、風もない。
 音のない世界が、今日の始まりを包んでいた。

 学校へは行かない日。
 今日は、ただ“見る”ための日。
 トモとの約束がある。

 手帳を鞄に入れ、黒い石をポケットに入れる。
 瓶の花は机の上に置いたままにした。
 「戻る場所」として。

     *

 午後。
 待ち合わせ場所は、川沿いの公園。
 曇り空の下、灰色の水が流れている。
 トモはベンチに座り、両手で紙の地図を持っていた。
 地図の上には、等間隔の矢印と、小さな丸。

 「君が言ってた、“光でも影でもない時間”、ここで見られる気がして」
 「どうして?」
 「西の空の反射が、この時間だけ曖昧になるんだ。明るくもなく、暗くもない。光の輪郭がぼやける」

 風が吹いて、地図の端がめくれる。
 その下には鉛筆の薄い線があった。
 矢印が二つ、互いに向かい合っている。
 トモは指先でそこを押さえた。

 「この間に立って、呼吸を合わせよう」

 サエはうなずく。
 二人はベンチを離れ、並んで立つ。
 川の上を渡る風が頬を撫でた。

 「四つ吸って、六つ吐く」
 「うん」

 声が重なった。
 吸うたびに光が胸に入り、吐くたびに影がゆっくり抜けていく。
 空はまだ白い。
 でも、白の奥に、淡い群青が見えた。

 「……来る」
 トモの声が低く響いた。

 その瞬間、雲の隙間が開いた。
 太陽の光が差すでもなく、ただ空全体がほんの少しだけ明るくなった。
 光の粒子が空気の中に浮かび、形を持たない明滅を作る。
 それは、光なのに光じゃなかった。

 サエは息を呑んだ。
 音が消えた。
 風も止んだ。
 世界の輪郭だけが、ゆっくりと透けていく。

 ――これが、光のない光。

 ルウガの声が胸の奥で溶けた。

 サエは視線を前に向ける。
 トモがそこにいる。
 目は合わない。けれど、世界の“中心”を共有している感覚があった。

 「見える?」
 「うん」
 「光でも影でもない、真ん中」
 「ここに、いる」

 ふたりの呼吸が重なる。
 その瞬間、時間がゆっくりと伸びた。
 光の粒が空中で震え、トモの肩とサエの肩の間で柔らかく揺れる。

 「これが、“呼吸の形”?」
 「うん。君と僕の音が混ざって、光になってる」

 胸の奥で、ルウガが小さく笑った。
 ――もう、僕が導かなくても大丈夫。君は自分で見つけられる。

 「ルウガが……」
 「うん、聞こえる」
 「君にも?」
 「今日は、聞こえる」

 ルウガの声は、もうひとつの“低い声”として二人の間に流れた。
 風が戻る。空が少しだけ明るくなる。
 太陽の位置は見えないけれど、光が再び世界を包み始めた。

 「終わりの線、引こうか」
 サエはポケットから黒い石を取り出した。
 トモも同じものを持っている。
 ふたりは川の石垣の上に、並べて置いた。

 「これが今日の“終わり”」
 「そして、戻る矢印」
 トモが小さな木の枝で砂の上に矢印を描く。
 サエはその先に丸を足した。
 丸の中心点を指で押さえる。

 「ありがとう」
 「大丈夫」
 「また」

 言葉が等間隔で並び、風がそれを拾う。
 風の中に、遠くの街のざわめきが薄く混ざる。
 それはもう刃ではなかった。

     *

 帰り道、二人は言葉を少しずつ減らして歩いた。
 交差点の信号が変わり、白と黒の等間隔が足元に流れる。
 夕方でも夜でもない。
 世界は灰色に溶けている。

 「光、消えたね」
 「でも、見える」
 「うん。消えても、残る」

 トモが小さく笑う。
 「それ、すごく君っぽい」
 サエは首をかしげて、少し笑い返す。
 「光のない光、ね」
 「そう。君みたいな」

 交差点を渡り終える頃、風がまた吹いた。
 街灯が一つ灯る。
 光は小さく揺れ、ふたりの影を長く伸ばした。
 重なった影の中で、ルウガの声が小さく言う。

 ――今日、君たちは“世界の音”を変えたよ。

 サエは立ち止まり、胸の奥でその言葉を噛みしめた。

 「ねえ、トモ」
 「うん」
 「この光、名前つけようか」
 「どんな?」
 サエは考えて、少し笑った。
 「“呼吸の灯(ともしび)”」
 「いい名前」

 信号が赤に変わる。
 世界が一瞬だけ止まり、また動き出す。

     *

 夜。
 部屋に戻ると、瓶の中の花が完全に色を変えていた。
 白ではなく、淡い灰の中に光を宿したような色。
 花弁の先に小さな金の粒が見える。

 サエは手帳を開き、今日の行を書く。

 光のない光。呼吸の灯。ありがとう。大丈夫。また。

 ペン先を止め、声に出さずに繰り返す。
 ――ありがとう。
 ――大丈夫。
 ――また。

 瓶の花がわずかに揺れ、部屋の光を受けて淡く光った。
 ルウガの声が静かに響く。

 ――君の中の光と影、今は同じ温度になったね。

 「うん。どっちも、痛くない」

 窓の外の空は暗く、それでも遠くに街の灯が点々と続いていた。
 サエは胸の奥に手を当てて、静かに言った。

 「ありがとう、ルウガ。ありがとう、トモ」

 ――おやすみ。

 ルウガの声が消える。
 静けさの中に、瓶の花の淡い光だけが残った。
 それは光でもなく、影でもなく――
 世界の呼吸そのもののように、やさしく脈打っていた。