蛍光灯はただ光っているだけのはずなのに、僕の目には光が音を連れてくる。ぱちぱちと乾いた火花が弾けるような微かな揺れが、天井の奥で絶えず続いていて、その波が白い天井板に反射しては、眼球の裏側を細い紙やすりでこするみたいにじりじりと削っていく。目を閉じれば暗くなるはずなのに、まぶたの内側が薄橙に発光していて、血管の模様が海図みたいに浮かび上がる。音の形を見てしまう時がある。今日がまさにそれだ。光が鳴って、音が光って、境界が曖昧になっていく。僕の中の世界は、いつだってそういう混線から始まる。

 耳たぶを指先でなぞる。柔らかい皮膚の温度と、自分の脈の淡い跳ねが伝わって、音の洪水からほんの少しだけ距離を取れる。親指の腹と人差し指の爪の縁を合わせて、耳たぶの端を薄い紙のように摘んで、数を数える。いち、にい、さん。数字は静かだ。数字の並びは、線路みたいに続いて、僕を安全な駅へ運んでくれる。十までいったら、また一にもどる。規則は僕の味方だ。規則は裏切らない。

 待合室の空気は冷房の風で均等に撫でられていて、肌に触れる冷たさも角が丸い。壁は白、床はワックスで光る灰色、椅子は海藻みたいな緑で、角がすべて丸く設計されているのがわかる。丸いものは安心する。四角の角は目に刺さるから、丸い縁は目の表面を撫でただけで通り過ぎてくれる。受付の奥では紙の束が入った引き出しが静かに閉まる。その密やかな音で、ここがまだ現実だと確認できる。病院の音は、多くが手順の音だ。決められた動きからしか生まれない音は暴れない。だから放課後になると、僕は教室よりもここを選ぶ。教室の笑い声は、笑っていない僕の皮膚にも刺さるから。

 受付の人は僕のことを知っていて、知っているふりを越えて、知っているように扱ってくれる。名前を呼ぶ声は僕の音域に合わせて少し低い。高い声は天井の蛍光の音と重なってビリつくから、低めに落としてくれるのだと思う。今日も来たの、とだけ目で聞かれて、僕もうなずきで答える。言葉を使わないやり取りは、音のない会話だ。彼女は手元のメモに小さな丸をつける。丸。角がない。それで僕の肩が少し落ちる。この場では、僕の不器用を誰も矯正しない。矯正は直すための力で、力は音を出す。だから、ここでは矯正がない。

 隅の席を選ぶ。隅は二辺が壁で守られているから、背中と左側の守りを任せられる。残った正面と右側は見えるから、見えるのは怖いけど、見えないよりは怖くない。膝の上には文庫本。表紙は使い込みで角が白く剥け、紙の匂いは教科書よりも薄く甘い。今日はまだ一ページも読めていない。文字という形の列は心を落ち着かせるけれど、音が多いと文字の列と音の線が絡んでしまって、意味がほどけてしまう。だから今日は表紙を撫でるだけ。カバーのざらつきは指紋の渦に似ている。似ていると思うこと自体が、僕には救いだ。似ているものを見つけると、知らないものがひとつ減る。

 自動ドアが開閉するたび、薄い風が出入りする。外の明るさが短く差し込み、床の灰色の中にしずかな四角が描かれて、すぐまた消える。自動ドアのモーターの低い唸りは、遠いところで海がひたひたと岸を洗う音に似ている。海は見たことより少ないけど、テレビの中で音を聞いた。低い音は安心する。胸の骨の空洞が、低音を受け止めるふくらみとして設計されている気がする。人間がそういう構造をしているのなら、僕が低音で落ち着くのは間違っていない。

 廊下を通る靴音は、誰かの生活の節を刻んでいる。硬い踵が三回、柔らかいゴム底が四回、とがったピンヒールは一度だけ。音は人を連れてくる。音は形を隠したまま先にやって来るから、僕は先に身を固くする。来たるものを受け止める準備をする。身を固めると、筋肉が震える。その震えもまた音になるから、完全な静けさは永遠に来ない。永遠に来ないことを知っているのは大事だ。期待を小さくすれば、裏切りも小さい。

 ページをめくるふりをして、視界の端を開く。端から入るものは直撃しない。中心は刺さる。端は撫でる。撫でられるくらいなら、まだ耐えられる。視界の端に、制服の紺が揺れるのが見えた。紺の色は深い水みたいで、僕の目にはやさしい。やわらかい髪の黒。肩に落ちる影。影の輪郭はぼけていて、輪郭がぼけているものは攻撃してこない。輪郭が鋭いものは切れるから怖い。

 その人は、僕の隣に座った。すぐには音がしなかった。座るときの音を消そうとしている座り方だった。膝が角度を見つけてから、そっと体重を移す。布がわずかに擦れる音。布の音は好きだ。布は人にくっついて温度を持って、温度を持ったものは容易に刃物にならない。

 紙コップを持っている。白い紙の表面には薄く細い凹凸があるはずで、指の腹に小さな波打ちが配列として触れてくる。持つ人の指の形、その配置、力の分配。それらはみんな無駄がなく、音が少ない。音が少ない動きは、動作の中で一番やさしい。やさしさは、誰かに注ぐために先に自分の中で渦を作る。その渦が見えた気がした。渦の中心に静けさがあって、そこから薄い輪が広がっていく。輪はすぐに空気にほどけて消える。消えるものは、追いかける必要がない。

 喉が乾いている。乾いていることに気づくのに時間がかかったのは、乾きが音ではないからかもしれない。乾きは、音の下で静かに広がる砂漠みたいに、肌の内側をさらさらさせる。唇の内側が紙の裏みたいになって、舌がそこに触れると微かな紙粉が舌先に付いてくる。自分の唾液の味が少し金属っぽい。血の味がするわけではないけれど、鉄で出来た階段の手すりを舐めた後みたいな記憶の味がする。記憶の味は本当の味じゃないのに、身体はだまされる。身体がだまされると、野生に戻る。野生に戻ると、逃げる準備をする。逃げる準備は筋肉の音を増やす。

 取りに行けば、そこにあるウォーターサーバーは僕の喉の砂漠に薄い雨を降らせてくれる。でも立ち上がると音が立つ。椅子の脚が床を擦る音、空気が押しのけられる音、僕の呼吸が一段大きくなる音。音の積み重ねは、他人の視線を呼び寄せる。視線は音より鋭い。視線の刃は皮膚を越えて筋肉を切ろうとする。だから立たない。座って乾きの砂を指で描く。描いて消えない砂紋の上に、一本の影が落ちた。

 影の主が、低い声で言った。

 「飲む?」

 その二文字は、ひっかき傷みたいに短いのに、すぐに沁み込む。低い、というより深い。深さは底があることを知らせる。底があると、人は落ちすぎなくて済む。はじめ、僕はその声の方向を確かめることができなかった。幻聴の類いかと身構えて、耳を閉じるふりに力を入れる。でもすぐに、横から差し出された紙コップが視界の端を通って中心へ入ってくる。中心は刺さる。けれど、紙コップは刺さらなかった。白い円筒の滑らかな面と、縁に溜まった薄い光と、揺れない水面。水面には待合室の照明が反転して、縦長の白い棒が二本、細く震えて立っている。その震えがおさまるのを待っていると、コップを持つ指先の節がわずかに呼吸と同じ速さでふくらんだりしぼんだりするのが見えた。生きているものは、見えない音を持っている。

 「……あ」

 喉から出たのは、言葉というより音の欠片で、欠片はすぐ乾いてしまったけれど、差し出している手は引っ込まなかった。手の甲の皮膚が薄くて、血管の青が透けている。僕は青いものに安心する。青は冷たい湖の色で、冷たい湖は火事を消す。火事は僕の頭の中でいつも燃えていて、燃えているせいで音が増幅する。冷たいものが必要なんだ、と考えて、考えたことに従って指を伸ばす。指が触れる一瞬前、僕の中の別の声が静かに立ち上がった。

 ――待って。大丈夫。その人は刃物じゃない。

 それはルウガの声だ。僕の中で、僕のすぐ隣に座っているもう一人の僕。名前をつけたのは昔で、名前をつけたら存在が輪郭を持った。輪郭を持ったものは、怖いけれど、怖さの形がわかる。形がわかると付き合い方もわかる。ルウガはいつも、僕より先に周りを見て、僕より先に匂いを嗅ぎ、僕より先に音の谷と山を地図にしてくれる。地図があれば、道を外れないで済む。

 指先が触れた。電気が走る、という表現はたぶん本当で、ただし僕の場合、その電気は鋭い痛みだけではなく、薄い温度の膜を連れてくる。膜は水の表面張力に似ていて、破れそうで破れない。触れた瞬間、彼の指は少し硬かった。硬さは恐怖の残り香だと知っている。硬いのは僕も同じだから、硬さを見ると鏡を見た気持ちになる。鏡を見るのは疲れるけれど、鏡の向こうの僕も疲れているのを知ると、疲れが半分だけ軽くなる。半分が軽くなるだけでも、息の吸い込みが一段深くなる。

 「ありがとう」

 声にして、声が破けないのを確かめる。僕の声は小さくて、呼気の端でほつれるけれど、彼はそれを拾い上げるみたいに、短くうなずいた。うなずきは首の角度で会話するやり方で、角度は数字に置き換えられる。三十度くらい。規則と数は、やっぱり僕の味方だ。

 紙コップの縁に唇を当てる。縁は薄くて、そこに触れる皮膚の柔らかさが逆に目立ってしまう。水は冷たくない。冷たすぎない水は喉の内側の紙粉を静かに絡め取って、背骨の手前をするりと落ちていく。背骨の手前は、僕の体の中でいちばん静かな通路だ。そこを通るものは、たいてい僕の敵じゃない。二口目で、肩の緊張がほどける感覚がした。ほどける音は聞こえない。けれど、耳の奥の膜の張りが少しゆるむ。ゆるみは危険だ。ゆるむと涙腺もゆるむから、僕は泣かないように舌の先を上前歯の根元に押しつけた。そこは涙の蛇口から一番遠い場所で、蛇口に届くまでにいくつも角を曲がらないといけないと信じている。

 「ここ、よく来るの?」

 問いは、驚くほど普通だった。普通の言葉は、僕を普通に戻すための橋になりうる。橋は柔らかいアーチでできていて、足音が響かない素材でできているといい。彼の声は低い。低いけれど、暗くない。暗い声は穴に落ちる。低くて明るい声は、洞窟の口で外の光が差し込んでいるところの空気だ。僕はそこなら座っていられる。

 「うん。落ち着くから」

 答えて、自分の声が返ってきた壁を確かめる。返ってくる音は、相手の存在で形が変わる。彼の前に、僕の音は破片にならずに、ひとつの線として戻ってきた。線で戻ると、線の先に手が伸ばせる。線は導線になる。導かれる先には、誰かがいる。

 「学校、苦手?」

 彼が重ねる。二つ目の質問は、最初の質問より少し柔らかい。最初の質問で硬さを確かめて、次で撫でる。手順がある。手順がある人は、僕にとって安全だ。

 「うん。音が多くて」

 やっと言えた言葉は短く、短い言葉は嘘が入る余地がないから信頼できる。彼はうなずく。うなずきの角度はさっきより浅い。浅いのは、同意というより共鳴のサインだと知っている。彼の目の色は黒で、黒の中に小さな光の粒がいくつか浮かんでいる。暗い水面に投げ込んだ白い石の小片みたいに、きら、とかすかに光る。彼は目を伏せず、でも見つめすぎもしない。目を合わせるのが苦手な僕の顔から、視線の位置を少しずらす。耳の下のあたり。視界の端で彼のまなざしが泳ぐのがわかる。泳ぎを覚えたての人みたいに、水を静かにかいて、音を立てないで進む泳ぎ方だ。

 「俺も、人が多いと無理。触れられるのも苦手でさ」

 触れられる、という言葉が、彼の口から出た。口の端の筋肉が一瞬だけ固くなる。固さは記憶の扉の合図だ。扉の前に守衛が立っていて、通行証がないものは入れない。守るための固さ。僕はその固さを警報と受け取らないようにする。僕の中の警報は、ほんの少しの誤解でも最大音量で鳴るから。

 「……触れたくないのに、触れられること、あるよね」

 言ってから、空気の温度が半度上がった気がした。空気の温度は誰にも測れないのに、いまだけは測れる。彼の呼吸のリズムが、ほんの少しだけ変わる。吸うが浅く、吐くが深い。深い吐息は、胸の空洞の形を正直に映す。正直さは痛いときがある。でも、痛みの正体がわかると痛みの輪郭は鈍る。

 「わかる。そういうの、疲れるよな」

 彼が言う。彼の「わかる」は簡単に使われる類いの安い共感ではなく、遠回りしてから戻ってきた人だけが使える言い方だった。遠回りの足跡は靴の裏についた泥に残る。泥が乾いて、筋になって、そこに新しい泥が重なって、層になる。層は歴史で、歴史は人を重くして、重みは沈みを生む。沈んでいないと見える人が深い声で話すとき、その深さは沈みの経験から来ている。

 時計の秒針が一つ進む音が、妙にはっきり聞こえた。秒針は時間の最小単位を示す剣で、壁の中央で円を刻み続けている。円。丸。さっき受付の人が書いた丸を思い出す。丸は確認であり、許可であり、承認だ。承認の気配が待合室に薄く降ってくる。承認は誰かの見えない手だ。見えない手は触れないのに、触れられた気がするから不思議だ。

 ――サエ。いまの君は、音に飲まれていないよ。

 ルウガが言う。声は僕の内側の、喉と胸の間の空洞の裏側に沿って流れてくる。内側で響く声は、外の音と違って僕の膜を破らない。僕は返事をしない。返事は要らない。ルウガは返事の有無にかかわらず、僕の次の一歩を半歩だけ先で受け止めるクッションを置いてくれる。クッションの位置が見えるから、足を出せる。

 看護師さんがカルテの束を胸に抱えて出てきて、呼び出しの名をいくつか続けた。僕の苗字が呼ばれる前の、同じ学年くらいの子の名が通り過ぎる。彼はまだ呼ばれない。僕は紙コップを持ったまま、椅子の縁から腰を一センチ浮かせる。立つ準備を先に済ませておくと、立つときの音が減る。音が減ると、僕の中の警戒も減る。そうやって手順を刻んでいると、視界の端で彼の肩がわずかに上下した。深呼吸。深呼吸は自分を連れ戻す綱だ。綱を手繰る動作は、見ているだけで落ち着く。

 「じゃあ、また」

 先に言われた。先に言われる「また」は、出会いの証拠になる。証拠があると、疑いは小さくなる。疑いが小さくなると、僕は笑える。笑いは音になる。頬の皮膚が持ち上がると、目の周りの筋肉がちり、と細く鳴る。その音を僕自身が聞いた。自分の笑いの音は初めてに近い。初めてに近い音は怖いけれど、怖さより先に、少しだけ温かい。

 うまく返せず、僕はうなずきを二段階に分けて行う。最初に小さく、次に少し大きく。二段階にすると、一回の失敗が全部にならない。二回目で修正できる。見ていた彼が口元だけで笑った。声は出さない。出さない笑いは、出された笑いより長く残る。残像は音より長く残ることがある。僕はその残像を胸にしまって、看護師さんの後ろについて診察室の扉に向かう。

 扉の取っ手は銀色で、誰かの手の跡が薄く曇りとして残っている。曇りは触れた時間の記録で、記録は消えない。消えないものが苦手な僕でも、こういう曇りは嫌いじゃない。曇りは曖昧で、曖昧は鋭くない。取っ手を握る前に、指先の温度を確かめる。冷たい。冷たい指先で冷たい金属を握ると、冷たさが二重になって、逆に痛みが小さくなることがある。重ねた冷たさは、火の側に置くための氷袋みたいなものだ。僕は氷袋を持って扉を押す。丁番が油でよく整えられているのか、音はほとんどしない。音がしないことに感謝する。感謝は言葉にしない。言葉にすると、出た音が自分の耳に返ってきて、そこからまた世界が大きくなってしまうから。

 中に入る前、背中のほうで小さな咳払いがした。短い、喉の前を軽く掃くような咳。彼の音だとわかった。さっきの低い声の底の質と同じ材質で、咳も作られている。人の音は材料が似ている。材料が似ている音は、家族みたいに聞こえる。家族という言葉を思い出した瞬間、胸のどこかがきゅっと縮んだ。家は必ずしも静かではない。静かであってほしい場所が静かじゃないとき、僕の耳は逃げ場をなくす。そのときの記憶の破片が、咳の音でふいに返ってきたので、僕は慌てて扉の向こうへ身を滑らせた。滑らせる、という言葉どおり、音を残さないように。

 診察室の白は、待合室の白より明るい。明るい白は音も強い。机の上の金属製のペン立てに光が集まり、反射して僕の目に細い線を引く。先生の白衣は洗い立ての匂いがして、その匂いは僕の記憶にある日曜の午後のシーツの匂いに近い。近い、というだけで、まったく同じではない。まったく同じでないものの中に、安心の入口が隠れていることがある。入口を探していると、先生が椅子を少し引く控えめな音がして、それが合図になって、僕は椅子に座った。座る前に、座面の端に指を触れて布の質感を確かめる。布の目が細かい。細かい目は音を吸う。吸う布に座ると、僕の重さが吸い込まれて、床に落ちる音が小さくなる。

 先生が何かを尋ねた。僕はそれに答えた。言葉はここで少しずつ形になって、記録という四角い箱に丁寧にしまわれていく。四角の箱の角は丸く加工されている。先生の言葉の角も丸い。丸い角に触れると、皮膚が傷つかない。傷が増えない場所で言葉を出し入れするのは、練習になる。練習はできる。僕は練習が得意だ。努力が得意なわけではないけれど、手順を繰り返すことはできる。繰り返すうちに、僕の中の音の読み方がわずかに変わる。変わったあとで振り返ると、さっきより世界が半音だけ低く鳴っているのがわかる。低い世界は、僕の胸の空洞に合う。

 話しているあいだも、耳のどこかは待合室の音を探していた。探すことをやめると、急に大きな音が入ってきたときに転ぶから。転ばないために、少し探し続ける。探していると、さっきの咳の記憶がまた、喉の奥で軽く触れた。触れられるのが怖くない記憶に触れられたのは、ひさしぶりだった。怖くない触れられは、静かに僕の骨の側に座る。座って、何もしないで一緒に時間を削る。ただそれだけで、僕の中の何かが少し育つ。育つ音は、とても小さくて、でも確かにある。植物の茎が一晩で一ミリ伸びるみたいな音だ。聞こえないはずなのに、確かに聞こえる。

 ――ねえ、サエ。君、さっきのを“いい音”って分類したよ。

 ルウガが言う。分類は僕の安全装置だ。危険/注意/無害/やさしい。四つの箱のラベルは色分けされていて、やさしいの色は薄い青。薄い青は、さっき見た指の血管の色に近い。近いものは寄り添う。寄り添うもの同士は音をぶつけない。ぶつからない音だけで構成された場を、僕はほしいと思う。ほしいと思うこと自体が、欲という音を生む。欲の音はざらざらしていて、ときに喉を傷つける。でも、いまは傷つかない。いまだけは、先生の丸い角と、布の細かい目と、外で並んでいる椅子の海藻みたいな緑と、廊下を通る靴音の規則と、さっきの低い声の底とが、全部で大きな毛布になって、僕の周りにふわりと落ちている。

 診察が終わるころ、扉の外の気配が少し変わった。夕方に近づいて、外光の色が薄い金に傾く。待合室の床に描かれる四角の光の色も、朝とは違って温度を帯びる。温度のある光はやさしいけれど、長く当たると熱になる。熱は音を動かす。動く音は走る。走るものは追いかけてくるから、僕はその前に立ち上がる準備をした。準備を先にすれば、驚かない。驚かないのは、僕が自分にしてあげられる最大の配慮だ。

 先生に短く会釈して、扉を開ける。廊下の空気は診察室より湿っている。湿りは音を丸くする。丸くなった空気を吸い込むと、肺の中の皺が伸びて、そこにさっきの低い声の振動の記憶が薄く重なった。重なる記憶は透明で、重なっても色が濁らない。濁らないものは、たぶん、良い。

 待合室に戻ると、席はさっきと同じ配列で、配列が変わっていないことに安堵する。変わらないことは、変わることの逆で、逆があると世界が二枚になる。二枚のうちのどちらかが破れても、もう一枚が残る。残るものがひとつでもあると、人は倒れずにいられる。彼はまだいた。さっきの席より半分だけずれた場所に、同じ角度で座っている。角度を守る人だ。角度を守る人は手順を守る。手順を守る人は、僕を壊さない。

 目が合った。合ったというより、目の周りの空気が接続した。視線の線は細くて、強く引っ張ると切れるけれど、そっと置けば橋になる。橋になった先で、彼の口元が少しだけ上がる。その上がり方は、笑っていると呼ぶにはあまりに静かで、でも呼ばないと消えてしまいそうな微かな高低差だった。僕はそれに合わせて、さっきみたいに二段階で頷いた。頷きは会話の一種で、会話は音だけのものじゃない。会話は、空気の比重のやり取りでもある。僕が少し軽くなる分、彼が少し重くなってくれるなら、その重さを彼はちゃんと足の裏で受け止められる人のはずだ。そう信じられるくらいには、彼の座り方が安定していた。

 僕は再び隅の席に戻り、さっきより深く座面に沈む。沈むと背中が支えられて、支えられると骨が音を吸う。骨が音を吸うと、耳の仕事が減る。耳の仕事が減ると、頭の中の作業台が空く。空いた作業台に、さっきの「また」という音を置いて、観察する。観察のやり方はルウガが教えてくれた。角度を変えて、距離を変えて、明るさを変えて、それでも同じ形に見えるなら、その形は本物に近い。何度見ても、「また」は同じ形だった。薄い楕円で、縁が少し温かい。触れると、指が沈む。沈むのに、指は濡れない。濡れない柔らかさ。柔らかさは、怖くない。

 ――サエ。君、笑ってたよ。

 ルウガの声が、海の底の砂をひとつまみすくうみたいに静かに置かれる。僕はその砂を見たふりをして、視線を床の模様に落とす。床の模様は人工の石で、斑点がランダムに散らばっている。ランダムは怖い。けれど、斑点の密度は範囲内で揃っている。揃いが見えれば、ランダムはほどける。ほどけたランダムは、ただの模様になる。模様に目を置いているうちに、僕の喉の奥の蛇口は閉じた。閉じる音はしない。閉じたという事実だけが、静かに残る。

 受付の人が、僕の次の予約のことを目で尋ねた。僕は手で丸を作る。丸は、僕が覚えた最初の言語だったのかもしれない。幼い頃、言葉がその場の音に負けてしまう夜に、布団の端を指で丸めていた。丸めた布団の角は丸くなり、丸い角は目に刺さらない。刺さらない夜が、ひとつだけあった。その夜の匂いを、僕はまだ覚えている。洗い立てのシーツと、雨上がりの廊下と、遠いテレビの青い光。青い光は、僕の味方だ。

 僕は鞄の中の文庫本の背を撫でる。撫でる動作は、手の内側を静かに温め、温かさは皮膚の表面で丸く広がる。広がって、広がりすぎず、止まる。止められるのは練習の成果だ。練習を続けられたのは、避難所があったからだ。避難所がある生活とない生活は、別の物語だ。僕は避難所のある物語に、なんとか僕自身を置くことができている。置けていると、他の登場人物を招く余裕が生まれる。登場人物は、僕以外の誰かだ。さっきここに座って、紙コップを差し出した人。低い声。深い底。触れないことの固さと、触れないことを言葉にできる柔らかさの両方を持っている人。

 廊下の奥で、救急のチャイムが一度だけ鳴った。遠いから、鋭さは届かない。それでも音の姿勢が変わるのがわかる。待合室の空気が一瞬だけ背筋を伸ばす。伸びた背筋はすぐに戻り、椅子の海藻の群れがゆらゆらと揺れる。揺れは眠気を連れてくる。眠気は、眠りよりも手前で優しい。眠りに落ちるには警戒が強すぎる場所でも、眠気だけなら受け取れる。眠気の縁に座って目を細くすると、彼の横顔の輪郭線が少し柔らかくなって、頬の影が淡く伸びる。影の濃淡は時間の角度で変わる。時間は回る。回るものの中心に、自分のいまの位置を置く。置くことができれば、僕は世界と喧嘩しないで済む。喧嘩の音は大きいから嫌いだ。

 気づけば、僕は息を長く吐いていた。吐く音は、紙の端を撫でるように薄い。紙コップの底に残った少しの水が、揺れの最後のさざ波を作って、それが消える。消える瞬間は、音がいちばんやさしい。やさしい音を胸の中にそっと畳んで、僕は目を閉じる。まぶたの向こうで、白い棒の光はもう揺れていない。揺れが止まったのではなく、僕の中の揺れが外の揺れと同じ振幅になったのだと思う。同じになると、打ち消し合う。打ち消し合う静けさは、とても短い。短いけれど、確かにある。

 その短さを、僕は覚えておく。覚えておけば、次に迷ったときに取り出せる。取り出したときに形を保っている記憶は、道具になる。僕の生活の多くは、そういう道具で編まれている。とがっていない道具。音の小さい道具。やわらかい鉛筆と、角の丸い消しゴム。やわらかい声と、角の丸い言葉。低い音。深い底。紙コップ。白。青。沈黙。沈黙の中で交わされる「また」。それらを並べると、僕の一日は、思っていたよりも少しだけ美しい。

 目を開けると、彼は立ち上がるところだった。腰の筋肉が音を出さないように注意深く働いて、椅子の脚が床から離れる瞬間の摩擦音がぎりぎりまで小さく抑えられている。抑えられた音は、僕にはよく聞こえるけれど、嫌な音ではない。誰かが誰かのために音を小さくした音は、やさしい種類の音だから。彼は受付の方へ二歩進む。歩幅は均等。均等な歩幅は規則で、規則は僕の味方だ。受付の人と、ごく短い言葉をやり取りして、彼は出口に向かう。自動ドアの前で一瞬だけ振り返る。目は合わない。合わないけれど、たしかにこちらの方向に薄い意識を向けてから、彼は外の光へ出た。外の光は強い。強い光の中で、彼の影が一瞬だけ濃く伸びる。その伸びた影が、床の四角に重なって、形が二重になり、すぐに消えた。

 消えたあとに残るものが、本当のものだと先生が言ったことがある。僕はそれを信じたり、信じられなかったりする。今日の僕は、すこし信じられる。残ったのは、低い声の底の余韻と、紙コップの縁の薄さの記憶と、触れた瞬間の硬さと、そこに混ざっていた温度と、そして「また」の楕円。楕円は丸より少し不安定だけど、丸に向かおうとする形だ。向かおうとする形は、未来の意志に似ている。

 僕はカバンのチャックを閉める。金属の歯が噛み合う音が低く続き、終わり際に小さなクリックが鳴る。終わりのクリックは、今日の一行を閉じる句点だ。句点を打つのは怖くない。怖くないと気づいたこと自体が、今日の収穫だ。収穫の音は、乾いた麦束を抱えたときのかさり、という薄い音に似ている。僕はその音を胸の中で聞いて、立ち上がる。椅子の脚を床から離すとき、音をできるだけ小さくする。僕も誰かのために、音を小さくできるかもしれない。誰か、は、いつかの僕か、さっきの彼か、まだ会っていない誰かか。

 待合室を出る前、受付の人が目で挨拶してくれる。僕も目で返す。目で返すだけの挨拶は、言葉を使うよりも長く残ることがある。残るものを、今日は受け取って帰る。帰り道の交差点は音の交差点でもあって、そこを通る時は耳を半分閉じる方法を使う。半分閉じると、半分だけ安全になる。半分だけでも充分な日がある。今日は充分だ。充分という言葉を、僕は心の中で何度も繰り返す。繰り返すと、言葉は丸くなる。丸くなった言葉は、ポケットの中で転がって、指先に触れて、僕を笑わせる。

 自動ドアが静かに開いて、外の光が僕をひと呼吸分だけ包む。包む光の匂いは、アスファルトの熱と排気の薄い苦さと、どこかの家の夕飯の醤油の甘い香りが混じっている。混じった匂いは複雑だけれど、今日の僕には耐えられる。耐えられるとわかったら、少し楽になる。楽になった肩に、カバンの重みがいつもよりちゃんと乗る。重みが乗る位置が合うと、歩幅がそろう。そろった歩幅で、僕は角を曲がる。曲がる先が、次の「また」につながっているといい。つながっていなかったら、そのとき考えればいい。考えるための道具は、今日、ひとつ増えたから。

 胸のなかで、ルウガが小さく息をついた。僕も同じタイミングで息をつく。息の長さがそろう。そろった呼吸は、僕と僕の間の距離を縮める。縮まった距離の真ん中に、さっきの低い声が置かれている。置かれた声は動かない。動かないものは、僕を急がせない。急がないで歩ける夕方は、世界の中でもっともましな時間帯だ。まし、という言い方が気に入っている。最高ではなく、最悪でもない。真ん中より少し良い。真ん中より少し良い場所で、生きていく練習を続ける。練習を続けるための静かな場所を、僕は今日も見つけた。そこに、もうひとつの声が触れた。だから、今日は充分だ。


 病院の自動ドアが閉まるときの低い唸りは、海の底で聞く潮の音に似ている。深くて、途切れない。トモはそれが好きだった。好きと口に出すほど得意ではないが、嫌いではない音の筆頭、と言い換えてもいい。嫌いではない音は、身体の端で受け止められる。端で受け止めたものは、中心に刺さらない。
 受付脇のプリント台には新しいお知らせが増えている。紙の角が揃えて切られていて、端の一枚だけがわずかにずれ、そこに差し込まれたホチキスの銀色が斜めに光る。銀色の小さな光は、トモの視界を刺さない。刺さらないものは安心だ。刺さらないものだけで構成された場所に、いつか住めたらと思うけれど、それはたぶん現実ではない。現実のほうが先にこちらへ歩いてくるから、トモはいつも、先回りで身構える。
 今日は少しだけ早く着いた。いつもより三つ早いバスに乗れたからだ。乗り込む直前、運転手と目が合い、帽子の庇が上がって挨拶の形になった。挨拶は短く、音も小さかった。小さな挨拶は、知らない人同士が譲り合える最低限の契約みたいなものだと思う。契約があると、トモは呼吸が落ち着く。
 待合室の椅子の列は、海藻の群れのように並んでいる。角の丸い背もたれに、腰をゆっくり預け、膝の角度を合わせてから、呼吸を整える。呼吸は、いつでも自分の側に残る数少ない動作だ。外がどうでも、中に等間隔で戻ってくる。戻ってくるものに合わせて、トモは手を膝の上に置いた。指が震えていないか確かめる。今日はましだ。まし、という言葉は便利で、最高でも最悪でもない現実を、見ていられる言い方をくれる。
 そのとき、視界の端を細い影が横切った。制服の肩。鞄の角。髪の黒。黒の質感は、糸の密度で違って見える。いま目に入った黒は、細かい糸で織られている感じがした。織りが細かいと、光が均等に吸われて、色が静かになる。静かな色は、見ていられる。
 その彼が、隅の席に座った。トモは正面を見たまま、視界の端で状況を測る。座るときの音がなかった。音を出さない座り方を知っている人だ。知っている人は、誰かとぶつからない方法を練習している。練習の跡は、動作の角に出る。角が丸い。
 受付のほうで名前が呼ばれ、別の誰かが立ち上がる。音の配列が変わるたび、トモは自分の中のいくつかのスイッチを切り替える。耳を半分閉じ、肩の位置を少し下げ、視線を床から二十センチ上に固定する。二十センチ上に固定すると、人の顔に触れない。顔は刃だ。表情という刃が、何度も何度も自分の皮膚を切ってきた。切られる前に避ける術は、時間の中で見つけた。
 喉が渇いている。渇きは、痛みより遅くやって来る。遅いものは後回しにされがちだ。後回しにされた渇きは、気づいた時には砂の音になって胸の奥で鳴っている。鳴り始めた砂の音を黙らせたくて、トモは紙コップを取りに立った。ウォーターサーバーのレバーを押すとき、指の腹でゆっくり圧をかける。押し出される水の太さを、耳で測る。太すぎると、コップの縁で跳ねて音を立てるから、細く。音が立つと、周囲の目がこちらに向く。目が向くと、皮膚の内側で何かが縮んでちぎれる。そのたび、触れられない自分が増える。増やしたくないから、音を減らす。
 席に戻る。戻るときも、歩幅を揃える。揃った歩幅は、床と脚の間で静かな契約を作る。契約がある限り、床は裏切らない。裏切らない床に紙コップの底を置く。膝の上に手を置く。手のひらにうっすら汗がにじんで、紙の繊維の凹凸に湿りが移る。移るのを感じて、トモはコップを持ち直した。自分の汗の形が誰かに触れるのが、どうにも苦手だ。触れられるのも苦手だが、触れてしまうのも苦手だ。どちらも、世界の境界が曖昧になる瞬間に似ている。曖昧は、過去のいくつかの部屋の匂いを連れてくる。その匂いは、できれば二度と嗅ぎたくない。
 隣の席から、ほんの少し、空気の重さが変わる。人が喉の奥をそっと鳴らしたときに生まれる、細い空気の揺れ。横を見るのは避ける。避けながら、端で確かめる。さっき座った彼が、膝の上に文庫本を置き、表紙の端を指で撫でている。撫でる動作のリズムが揃っている。三。五。七。素数のリズム。素数の歩幅で歩くタイプだ。素数は、誰とでも割り切れない。割り切れないものは、孤立しやすい。孤立に慣れると、戻る道が細くなる。細い道は、風で簡単に消える。消える前に、道標が一本でも立てられたらいいのに、とトモは思う。思って、思い過ぎないように、紙コップを少し上げる。
 飲む。喉に落ちる水が、胸の砂の上に一度だけ雨を降らせる。すぐ乾くけれど、降ったという事実は残る。事実は嘘の反対ではない。嘘を混ぜずに語られた過去でも、受け取った側の中で形が捻れることがある。捻れた形は、見た目ほど悪くない。悪くないと信じられる日もある。今日はどうだろう。トモは、自分の身体の中に小さな余白が残っているのを感じた。余白は、他人の気配を入れても壊れない場所だ。そこに入ってきたものなら、たぶん、耐えられる。
 彼の喉が一度、乾いた紙をめくるみたいに小さく鳴った。紙の音は嫌いではない。紙は刃になりにくいから。トモは、その音の後で、口から言葉を押し出した。
 「飲む?」
 声は自然に低くなった。低くするのではなく、低くなる。なる、のほうがいい。無理に何かをすると、形が歪んで相手の皮膚を傷つける。傷つけないで渡せるものは、世の中にそう多くない。紙コップくらいだ。差し出す。差し出す角度を間違えると、相手は身を固くする。固くなる前に、角度を浅く、距離を少し長く保つ。すぐに触れなくてもいいという約束を、最初に置く。
 彼は驚いた顔をした。驚いた顔は、とがりやすい。けれど、彼の驚きは、目の輪郭の内側で音もなく起きて、そのまま静かに沈んでいった。沈むことができる人だ。沈むことができる人は、浮かび上がる時に周りを傷つけにくい。彼の指先が、ためらいながら空気を撫でて、トモの差し出したコップの縁に触れた。その瞬間、トモの背中の皮膚がさっと粟立つ。触れられる、のではない。触れる、のほうだ。触れる側でいるときでさえ、身体が昔の記録を勝手に開こうとする。鍵はかけた。かけたはずだ。鍵の穴に何度も布を詰め、封印した。封印の布の手触りを指先が覚えている。覚えていることを忘れられない。忘れられないことを、どう扱えばいいのか、トモはまだ学びきれていない。
 それでも、彼の指の硬さが、トモの指の硬さと似ていることに気づくと、背中の粟立ちは少し収まった。似ている硬さは、鏡のように受け止め合う。鏡は痛いが、嘘をつかない。嘘をつかないものは、信じすぎない距離をとれる。距離をとったまま、紙コップは彼の手に渡り、縁が唇に触れる。飲む音が、薄い。薄い音は、やさしい。
 「ありがとう」
 彼の声は小さかった。小さいけれど、途中で切れないように気をつけて絞り出された音だった。絞った声は、最後まで落ちてくる。途中で消えない。途中で消えないのは、信頼につながる。信頼は、知らない相手に向けるには大きすぎる言葉だと思っていたけれど、言葉の大きさは縮まることもあるらしい。縮んだ信頼は、胸ポケットにしまえる。しまえる大きさなら、落としても探せる。
 そのあとの会話は短かった。短いのに、重さがあった。学校、音、人混み、触れられること。話題はどれも、トモにとっては刃物に近い。近いのに、彼の口から出ると刃が鞘に収まって見えた。鞘に入った刃は、むやみに振り回されない。振り回されない刃のそばなら、トモは座っていられる。
 彼の名が呼ばれ、立ち上がる前、トモは呼吸を整えた。整えると、言葉の出口が静かになる。静かな出口から、短い言葉を出す。
 「じゃあ、また」
 言ってから、すぐに後悔する類いの言葉ではなかった。出口で壊れなかった。壊れないなら、残る。残るなら、誰かの中で形にできる。形ができてしまったからには、責任が生まれる。責任を引き受ける覚悟がいる。覚悟は、大げさなものではない。次に会ったとき、同じ高さで、同じくらいの音量で、同じ角度で、もう一度「また」と言えるだけでいい。言えるだろうか。言いたいとは思った。
 彼が診察室に消えてから、トモは天井の蛍光灯を見るふりをしながら、目を閉じた。閉じれば、光は薄い橙になり、血の線が細い枝のように広がる。枝の間を、昔の匂いが通り抜けそうになるのを、呼吸で塞ぐ。塞いだところで、隙間から少しこぼれる。それでもいい。完全ではなくていい。今日のトモには、完全を目指す余白はない。余白がないときは、まし、で折れる。折り方だけは覚えた。
 診察の順番が来るまで、トモは自分の掌に自分の掌を重ねて、体温を共有した。触れることへの拒絶が、他人だけに向いているわけではないと知っている。自分自身に触れるのも、うまくいかない日がある。うまくいく日も、ある。今日は、どうにか、掌の熱が掌に戻ってくる。戻る熱に合わせて、肩の筋肉の輪郭がゆるむ。ゆるむ、という言葉の中には危うさもある。ゆるみは崩れに変わりやすい。崩れないよう、椅子の背もたれの曲線に背中の線を重ねる。重ねると、外の形に内の形が寄り添う。寄り添うと、バラバラだった骨の音が、ひとつの音階にまとまる。
 トモの名が呼ばれた。立ち上がり、歩幅を揃えて診察室へ向かう。扉の取っ手に触れる前、一瞬だけ手を止める。冷たい金属に触れるのは嫌いではない。熱の交換が明確だからだ。明確な交換は、曖昧よりましだ。触れる。冷たさが指先から肘の内側へ、細く伸びていく。細い冷たさは、余計な記憶を凍らせる。凍った記憶は、動かない。
 先生の部屋は、明るい。白い。白の中に、筆記具の黒や、書類の淡いクリーム色が少しだけ置かれている。それだけの色配分で、部屋は落ち着いていた。落ち着いた配分は、誰かが考えて整えた跡がある。整えるという行為に、トモは救われる。
 今日の話は短く、目的がはっきりしていた。先生は言葉の角を丸くして、トモに返す。丸い角は、ぶつからない。ぶつからないから、必要なことだけが中に入る。途中で、先生がひとことだけ言った。
 「今週は、どうでしたか」
 どう、の中に、誰が、どこで、いつ、がすべて溶けているのがわかった。溶けた質問は、受け取る側が形を選べる。トモは今日の形の中から、夕方の待合室での数分を取り出した。取り出して、言える音だけで並べた。低い声で水を差し出したこと。受け取られたこと。ありがとう、と言われたこと。じゃあ、また、と返したこと。どれも短い。短いけれど、先生は頷いて、短い言葉を返す。
 「それは、大事です」
 大事、という言葉は、トモにはまだ大きい。大きいものは重い。重いものは持ち上げにくい。けれど先生の口から出ると、手のひらに乗るくらいに縮んでいた。縮んだ大事は、掌の真ん中に置ける。置いて、落とさないように、指を少し丸める。
 診察が終わり、トモは扉を開けた。外の空気は、さっきよりわずかに湿っている。夕立の前の匂いがする。匂いの記憶は、音より先にやって来る。先に来た匂いに、昔の光景が勝手に貼り付こうとする。それを、呼吸で剥がす。剥がして、足を一歩、待合室へ戻す。
 彼は戻ってきていた。隅の席。さっきより深く座り、目を伏せ、膝の上に置いた文庫の背を撫でている。撫でる速度が、前より遅い。遅くしたのか、遅くなったのか。どちらでもいい。遅いリズムは、追いつける。追いつけるから、トモは彼の視線に触れないまま、受付へ二歩進み、次回の予約のことを短く伝える。受付の人が了解の丸を作る。丸の形が、視界の端で転がる。転がる音はしない。しない音が、かえって安心を連れてくる。
 出口に向かう前、トモは一度だけ振り返る。振り返るのは、ためらいに似ているが、今日だけは違った。儀式のようなものだ。確認と、約束と、挨拶の間にあるもの。彼の顔は上がらない。上がらないけれど、こちらの方向への気配の向きが変わる。向きが変わっただけで、十分だった。十分、という言葉をトモは胸の内で反芻する。十分は、失敗を許す言葉でもある。許す、の重さに耐えられる日は少ない。今日は、どうにか耐えられそうだ。
 自動ドアの外へ出る。外光は強く、影が濃い。濃い影は、形をはっきりさせる。はっきりした形から、いらない部分を切り取る作業は、トモの得意なことのひとつだ。切り取り、ポケットに入れ、家まで持って帰る。帰る途中、バス停の薄いベンチに座り、ポケットの中で形を確かめる。紙片のような、楕円のような、薄い波紋のような、形のない形。低い声の底に触れたときの、身体の重心の落ち方を思い出す。重心が降りると、脚の裏が地面に吸い付く。吸い付いた感覚は、足を前に出す勇気とよく似ていた。
 バスが来て、扉が開く。乗り込む。座る。窓の外を、同じ速度で景色が流れる。流れるものの中に、自分のままで残るものがあるか探す。探して、見つけたら、名前をつける。名前は勝手ではいけない。でも、いまは仮に、でいい。仮の名で呼ぶ。待合室の楕円。低い声。紙コップの縁。触れない指。触れた瞬間の硬さと温度。どれも短く、どれも大きい。大きいのに、掌に乗る。掌に乗るから、大事、まであと半歩だ。
 家に着く。玄関のドアは二度、鍵を回す。二度回すのは、念のためだ。念のため、という言葉が、トモを過去から救ってきた。救いは大げさだが、倒れ込まずに済む程度には助けになる。靴を脱ぎ、揃える。揃えると、帰って来たという感覚が足首から上がってくる。廊下の照明は暖色だ。暖かい光は、音を丸くする。丸くなった音の中で、呼吸を整える。台所のコップに水を注ぎ、唇に当て、味がないことを確認する。味がない水は、世界の基準だ。基準があると、迷ったときに戻る場所ができる。
 自室に入り、机の上に荷物を置く。机の角は少し欠けている。欠けは、過ごした時間の証拠だ。証拠は、言い逃れを防ぐ。防がれたところで、責められるのが怖いわけではない。責める声が近づく前に、自分で先に落ち度を数える癖がある。癖は、悪いときのほうが働く。今日は、数が少ない。少ないと気づいたとき、肩の筋肉が一段落ちた。落ちると、背骨のすき間に余白が生まれる。余白に、待合室の空気がやって来る。やって来て、音を立てないで座る。座った空気は、部屋の匂いと混ざって、いつもより少しだけ澄んだ匂いになる。
 机の引き出しの、一番奥にしまってある古い手帳を取り出す。手帳は、何かが変わった日だけ、数行だけ書くためのものだ。書く手は震えない。震えない日は、字が真っ直ぐだ。真っ直ぐな字で、数行。待合室。低い声。水。ありがとう。じゃあ、また。全部で十五文字くらい。十五文字では足りないことを、今日は知っている。それでも、足りないままで閉じる。閉じて、掌で表紙を押さえる。押さえた手のひらに、表紙の布のざらつきが移る。移ったざらつきは、少しの間、残る。残るものが今日はいくつかある。いくつか、で十分だ。
 ベッドの端に座る。窓のカーテンを少し開ける。夜風が薄く入る。薄い風は、部屋の匂いの角を撫でる。撫でられた角は、まるくなる。まるい角の中で、トモは目を閉じる。閉じて、今日の景色を一枚ずつ、心の中の乾いた台に並べる。並べた紙片の端が、ふと、音もなく重なり合う。重なったところで、輪郭が一部消える。消えた部分は、次に書き足す余白だ。余白が残っているなら、続けられる。
 明日、同じ時間に病院へ行く予定はない。ないのに、「また」と言ってしまった。言ってしまったから、どこかで約束を守りたい気持ちが立ち上がる。守るために、トモは自分の中で日を数えることにした。数えるのは、味方だ。数の列は、ばらばらの時間を一本の紐にしてくれる。紐があれば、落ちる前に掴める。掴めるものが一本でも増えたら、明日は今日よりましになるかもしれない。
 目を開ける。天井には、昔の夜ほど怖い影はない。影の形を、低い声でなぞる。声は出さない。出さない声は、喉の奥で温度だけを持って揺れる。揺れが落ち着くまで待ち、トモはベッドに横になった。横になって、掌を胸の上に置く。置いた掌の下で、心臓が確かに動く。動く音は、世界でいちばん最初に習ったリズムだったはずだ。最初のリズムを思い出せる夜は、眠りにたどり着ける。たどり着けると信じて、目を閉じる。
 翌日。予想より早く雨が降り出した。校門の前で傘がぶつかり合い、濡れたアスファルトが鈍い光を返す。トモは傘の端を斜めにして、他人の傘の骨と触れないように歩く。傘の骨は、小さな刃だ。刃と刃がこすれる音は、昔の部屋の鍵の音に似ている。似ているだけで、同じではない。同じではないと気づける日は、記憶に足を掴まれにくい。
 教室の後ろの席に着き、鞄を足元に置く。周りの声はいつもどおり大きい。大きいけれど、今日は、全部が同じ高さではなかった。昨日の低い声が、心のどこかで基準になっている。基準があると、他の音を並べ替えられる。並べ替えた結果、残りのざわめきはいくぶん遠くなった。遠くなったから、板書の線が読める。読む。読むと、時間が進む。進む時間に合わせて、鉛筆の芯が紙に細い道を作る。道は、端から端へ続いている。続いているものなら、歩ける。
 放課後。雨は小降りになって、空の色は薄い灰。バス停の屋根から落ちる水が、等間隔で地面を打つ。等間隔の音は、心拍と重ねやすい。重なっているあいだは、息が乱れない。乱れない息を数え、トモはふと、角を曲がった先の診療所の看板を思い出す。思い出して、そのまま通り過ぎる予定だった道を、足が勝手に曲がった。勝手に、ではない。昨日の「また」の細い紐が、胸のどこかで引いた。引かれた分だけ、足が出る。
 自動ドアの前に立つ。立てば、開く。開いた先に、昨日と同じ椅子の列があり、昨日と同じ海藻の緑があり、昨日より少し湿った空気がある。違うのは、人の配置だ。配置はいつも違う。それなのに、隅の席に、同じ黒が座っていた。文庫の背を撫で、耳たぶに指先を置き、呼吸を整える仕草。昨日と同じ動作が、昨日とは違う雨の匂いの中で繰り返されている。その繰り返しの中へ、トモは入り口の敷居をまたいだ。敷居の段差は低い。低い段差なら、つまずかない。
 受付で名前を伝える。今日は予約はない。予約がなくても、受付の人は目の角度だけで了解を示す。了解の角度は、昨日と同じ。昨日と同じ、が積み重なると、世界の一部が固定される。固定された部分は、寄りかかれる柱になる。柱の重さを確かめるみたいに、トモは足元の床の硬さを感じ、息をひとつ吐く。
 視線を上げる。隅の席の彼が、こちらに気配を向ける。目は合わない。合わないけれど、昨日の位置から半歩だけ近いところに、お互いが座る形になった。半歩の距離は、言葉ひとつで埋まることも、埋まらないこともある。埋めないほうがいい夜も、ある。今日は、どちらでもいい。いい、と思えるくらいには、胸の空洞が静かだ。
 トモは紙コップを取りに立った。昨日と同じ手順でレバーを押し、同じ太さで水を受け、同じ歩幅で戻る。戻る途中、ふと、コップを二つにすべきだったと思う。思って、思い直す。余計な親切は、刃になる。刃と知らずに差し出された刃で、何度か切られた。切った側に、悪意はなかったはずだ。悪意がないのに痛むのが、いちばん困る。だから、コップは一つでいい。一つでも、昨日と同じ形にたどり着けるはずだ。
 座る。水を一口。喉を湿らせる。湿った喉で、昨日よりも少し明るい声をつくる。
 「……今日も、いるんだな」
 彼はゆっくり顔を上げ、まばたきを一度だけした。その一度が、合図のようだった。彼は文庫の栞を挟み直し、コップを持つトモの手を見て、小さく頷いた。頷く角度が、昨日より一度ぶん深い。深い、は底に近づくことだ。底に近づくと、落ち過ぎない。落ち過ぎない場所なら、座っていられる。
 少しだけ、沈黙を置く。置いた沈黙の上に、音のない会話が落ちる。落ちる音を、ルウガという名の誰かが、彼の胸の奥で拾っている気がした。拾う相手がいると、落ちるのは怖くない。怖くない時間が数十秒続き、トモは自分の喉の奥の蛇口を手で回すように意識して、言葉をひとつ送った。
 「俺、トモっていう」
 名乗りは、いつだって危うい。名は、世界に開く取っ手だ。掴まれたくない日に限って、誰かの手が伸びてくる。伸びてきた手を振り払う力が、自分にあるのかどうか、トモはいつも迷う。迷うけれど、今日は、取っ手を外に向けて置いてみた。置いて、待つ。待つ時間は、胸骨の裏側で長くなる。長くなり過ぎる前に、彼が口を開いた。
 「……サエ」
 それだけ。短いのに、ちゃんと届いた。届いたのを、トモの耳の奥の膜が受け止める。膜が震え、震えはすぐにおさまる。おさまったあとに残るのは、音ではなく、輪郭だ。サエ、という輪郭。輪郭があると、呼びかけるとき迷わない。迷いは、相手の皮膚を傷つける。傷つけない呼びかけは、世界の中に意外と少ない。
 名前を交換しただけで、椅子の硬さが少し変わる。変わったのは椅子ではなく、トモの背中の筋肉のほうだ。筋肉が、今いる場所の形に合わせて輪郭を調整する。合わせられる夜は、崩れない。崩れないと信じられるほど、今日はましだった。
 受付の時計が、分を一つだけ進めた。進む音は、針の先で空気を弾くような微かな音。微かな音に、二人の間の沈黙が、少しだけ笑った。笑いは、声にならない笑いのほうが長く残る。残像のように、胸の中の壁に薄く貼りつく。貼りついた笑いは、剥がれにくい。剥がれにくさは、安心の別名だと、トモは初めて考えた。
 雨脚が少し弱くなったらしい。自動ドアの向こうの世界が、明るくなった。明るさに合わせて、人の入れ替わりが一度起きる。配列が変わり、空気が入れ替わり、それでも隅の席の二人の間に置かれた薄い楕円は、壊れずに残った。残った形の上に、言葉がもう一つ落ちる。
 「また」
 同じ言葉だ。昨日と同じ。昨日と同じなのに、違う。違うのは、名がついたからだ。名のある「また」は、行き先が具体になる。具体になった行き先は、紐の端をきちんと持つ感覚に似ている。落ちそうになったとき、どちらの手で引けばいいのか、わかる。
 サエがうなずき、トモもうなずく。うなずく音はしない。しないのに、胸の奥で小さなクリックが二つ鳴る。クリックは約束の音だ。約束の音が重なって、待合室の白い壁に、目に見えない印がひとつ増えた。印は、次に来たとき、目には見えないのに、確かにここにあるとわかる種類のものだ。そういう印が、世界のあちこちに少しずつ増えたら、他人に触れられない身体でも、他人と隣り合って呼吸できる瞬間が、きっと増える。
 トモは紙コップの縁を指で一度だけなぞった。なぞる指先の温度が、昨日より少し高い。高い温度は、掌の皮膚に薄い記憶として残る。残る記憶は、刃物より役に立つ夜がある。役に立つ夜は、いつ来るかわからない。わからないけれど、「また」と言った。言ったから、待てる。待てるだけで、今日は十分だ。十分、という言葉を胸の内で転がしながら、トモは静かに息を吐いた。吐いた息の先で、サエも同じタイミングで息を吐いた。二つの呼吸が、目に見えないところで重なる。重なった一瞬の上に、この物語の真ん中が、そっと置かれた。

 夕方の色はゆっくりと薄い金から灰色へ変わっていく。雲の裏側で光が丸く削れて、待合室の床に落ちる四角の光は、さっきより一段やわらいだ。サエはその変化の速さではなく、変化が確かに起きているという事実のほうに救われていた。確かに、は音にならないけれど、皮膚の下で形になる。形になったものは、しまえる。
 文庫を閉じ、指先で表紙の角を二度だけ撫でる。撫でる回数を今日だけは二度にしたのは、三度だとルーチンの硬さが強く出てしまう気がしたからだ。硬さは守ってくれるけれど、誰かを弾くこともある。弾きたくない相手が、隣にいる。
 トモは紙コップを両手で持ち、縁の薄さを確かめるように親指の腹で一周、なぞった。なぞる動作が、言葉より先に会話になるのが、この場所のやり方だとサエは思う。音を減らし、角を丸め、視線を少し外して、代わりに動作の輪郭を重ねる。重なったところに置くべき言葉だけが、ゆっくり沈んで残る。
 看護師が診察室から出てきて、二つの名前を続けて呼んだ。どちらも知らない人のものだったのに、音の並びがもたらす空気の起伏ははっきりわかった。人が立ち、椅子がわずかに軋み、ドアが開閉し、空気が入れ替わる。そのたび、サエは呼吸の幅を合わせ直す。合わせ直すたび、胸の奥の小さな錘がすっと下りて、動悸が半歩だけ落ち着く。
 トモと目が合う。いえ、目の周りの空気が重なる。重なり方は、昨日より少しだけ確かだ。確か、は、音にならない。けれど、重なった数秒のあとに残る微弱な温かさが、確か、の証拠になる。
 サエは口を開いた。言葉が出るより先に、ルウガの声が薄く前を走る。
 ――いまは大丈夫。喉は乾いていない。音量はそのままで。
 うなずきの角度を決めてから、声を出す。
 「昨日、ありがとう。水」
 短い。けれど、短いからこそ、途中で千切れずに最後まで落とせる。落ちた言葉の重さが、膝の上でやわらかく響いた。響きの余韻に合わせて、トモがわずかに笑う。笑いの線は細い。細いけれど、引っ張ると切れるような薄さではない。芯がある。芯のある笑いは、刃にならない。
 「俺も助かった。差し出せるもの、あんまり持ってないから」
 差し出せるもの。サエはその言い方が好きだと思った。何かを与える、ではなく、差し出せる、という動詞。受け取られない可能性を最初から含んだ、やわらかい言葉だ。やわらかい言葉は、触れても怪我をしない。
 「紙コップ、充分」
 と言ってから、言葉足らずだったかもしれないと心配になる。足らない部分を、どこまで足すべきかの感覚はいつも難しい。足しすぎると音が増える。増えた音は、誰かの刃を呼ぶ。足りないまま残す勇気と、足したい衝動の間で迷う。そのとき、トモが小さくうなずいて、続きを置いた。
 「俺も、そう思う。重いものは持てないけど、軽いものなら、落とさないで渡せる」
 軽いもの。紙。水。沈黙。沈黙が軽いかどうかは、時と場所による。ここでは、沈黙は軽い。軽い沈黙は宙に浮いて、二人の間を何度か往復してから、ふっと消える。消えたあとに残るのは、呼吸だけだ。
 受付の時計が、分を一段上げる。秒針の小さな音が、二人の間の沈黙を傷つけることはない。むしろ、ひびの入っていないガラスの上に、薄い霧を吹きかけるみたいに、全体を柔らかくする。柔らかくなった空気の中で、トモが顎をわずかに動かした。
 「学校、今日はどうだった」
 学校、という語の硬さにサエの肩が一瞬だけ強張る。強張った気配は、自分の中では大きいのに、外には出さない。代わりに、言える範囲で切り取る。
「黒板のチョークの音、今日は薄かった。あと、窓の外の雨が等間隔で、少し助かった」
 トモは、わかる、の言い方を知っている人だ。軽く頷いてから、言葉を短く選ぶ。
 「等間隔、は、味方だ」
 味方。サエはその言葉の位置を胸の中で確かめて、そこに薄く鉛筆で丸をつける。味方。丸。丸は角を持たない。角を持たないものは、長く触れていられる。
 ふいに、待合室のどこかで幼い子の泣き声が立った。高い。高い音は、蛍光灯の明滅と重なって、サエの耳の薄い膜を震わせる。震えの波は眼球の裏側に広がり、視界の端で光が白く跳ねた。跳ねた光が刃先をつくる。刃先が近づく。身体がすぐに硬くなる。硬くなった瞬間、ルウガが腕を伸ばす。
 ――息。鼻から四つ、入れて。止めないで、ゆっくり出す。
 言われた通りにする。音の波はすぐには消えない。消えないのを知っていることが、唯一の防壁になる。消えない波の上に、別のリズムを重ねる。重ねていると、隣から低い声が、音に負けない速度で届いた。
 「大丈夫」
 低い。深い。底のある音。サエはその音が、自分の耳の膜ではなく、胸骨の内側の窪みに響くのを感じた。窪みに落ちると、音は刃にならない。落ちる音が、刃の角度を鈍らせる。泣き声は続いている。続いているのに、距離が変わった。距離が変わると、同じ音でも質が変わる。質が変わった音は、分類が変わる。危険から、注意へ。注意から、無害の手前へ。
 「……大丈夫」
 サエは自分でも驚くくらいの速さで、同じ言葉を返していた。返す声が、途中で切れなかった。切れないとわかった途端、背中の筋肉がゆっくりほどける。ほどけるのは危険だが、ほどけないままだと、崩れる。ほどけることと崩れることは違う、と先生が言ったことを、サエは遅れて思い出す。思い出すタイミングは遅くていい。遅い思い出しは、静かに効いてくる。
 泣き声はやがて、しゃくり上げに変わった。しゃくり上げの合間に、親の低い声が入る。低い声は、落ちるための網だ。網の隙目が小さいほど、落ちたものは早く止まる。止まった先が硬いと痛いから、声には柔らかさが必要だ。柔らかい声に包まれる幸運が、世界にはどれほど残っているのだろう。残っている数を数えることはできない。数えられないかわりに、目の前の低い声を数える。
 トモが手の中の紙コップを見つめ、ふと口を開いた。
 「俺、さ」
 そこで一度止まり、言葉の厚みを測るように息を入れ直す。サエは視線を合わせないで、足元の床の斑点に焦点を落とした。斑点の密度は均一だ。均一なものは、長く見ていられる。
 「人に触れられない、って言ったろ。たぶん、前に、誰かの手が、合図の代わりに刃だった時期があって」
 言葉は短い。短いのに、形がはっきりしていた。はっきりした形は、無理に触れにいかなくても見える。見えるだけでも、わかるに近づく。サエは返事を急がない。急がないことで、相手の言葉が壊れずに済む夜がある。
 「こっちも、似てる。音が刃のときが、多かった」
 自分の内側の棚から、いちばん手前にある箱だけを取り出し、蓋を少し開けて見せる。それ以上は開けない。開けないまま、隣に置く。置かれた箱の存在を、トモが目で確認し、手を伸ばさずにうなずく。伸ばさない手は、やさしい。
 「それでも、水は渡せるし、言葉は置ける。たぶん、それで十分なんだと思う」
 十分。サエは昨日から何度も胸の中で転がしてきた語に、もう一度触れる。十分は、完璧の手前で許す合図だ。許されたところで、人は少しだけ柔らかくなる。柔らかくなると、刃が刺さりにくい。刺さりにくい夜がひとつでも増えれば、翌日の朝はましになる。
 サエの名前が呼ばれた。自分の名が空気に乗って待合室を渡るたび、過去の夜のいくつかが身体のどこかで痛む。それでも、呼ばれること自体は嫌いではない。呼ばれるのは、此処にいることの証拠になるからだ。証拠の数が増えると、世界の床が少しだけ厚くなる。
 立ち上がる前に、サエはトモを見た。目は合わせない。目の周りの空気だけを重ねる。重ねた空気の上に、言葉を置く。
 「また」
 昨日と同じ。中編と同じ。だけど、名を知って、沈黙を共有して、泣き声の上に低い声を渡してから言う「また」は、別の形をしている。楕円だった輪郭が、丸に少し近づいた気がする。丸は、角を持たない。
 トモもうなずく。うなずきの角度は昨日よりわずかに深い。深い角度は、底のある返事だ。底があると、言葉は落ちすぎない。落ちすぎないところで止まった返事の音は、しばらく胸の中に残る。
 診察室の扉に手をかける。金属の冷たさが、指先から肘へと静かに伸びる。伸びた冷たさの上を、ルウガの声が薄く渡る。
 ――戻っておいで。今日の君は、戻れる。
 サエはその言葉を、内側の胸ポケットにしまう。しまって、扉を押す。音はほとんどしない。先生の白衣の皺の浅さと、机の上のペンの並びの正しさが、今日の対話が無事に終わるだろうという予感を先に連れてくる。予感に頼り切らず、サエはひとつずつ、必要なことだけをこぼさないように話す練習をする。練習は裏切らない。練習を続けられるのは、避難所があるからだ。避難所に、新しい音の座り方を教えてくれる声が置かれたからだ。
 診察を終えて出てくると、待合室は少し空いていた。空いた椅子の並びが、さっきよりも遠くまで見通せる直線を作っている。その直線の端に、トモが立っていた。帰る準備の姿勢。鞄の紐を肩にかけ直し、紙コップを捨てる前に、底に残った水を確かめる視線。視線は刃ではない。刃にならない見方を知っている人だ。
 「おつかれ」
 トモの声は、待合室の白い壁の反響で少し丸くなって、サエの耳の側まで転がってくる。転がってきた声を、サエは落とさないように両手で受けるふりをする。ふり、で充分だ。充分、が今日の合言葉だ。
 「おつかれ」
 返す。返すと、胸の奥で薄いクリックが鳴る。クリックは、やっぱり約束の音だ。約束の音は、守れなかったときに自分を傷つける刃にもなる。けれど、いまは刃の形をしていない。丸い。丸い音は、ポケットの中で転がって、温度を持つ。
 トモが自動ドアのほうへ向かう。足元の影が、床の四角の上で伸びて縮む。伸びた影の端が、サエの靴のつま先に一瞬だけ触れ、すぐに離れる。触れた感触は残らない。残らないのに、どこかに薄く印がつく。目には見えない。見えない印は、次に来たとき、身体のほうが先に思い出す種類のものだ。
 サエも出口の方へ歩く。受付の人に目で挨拶を返し、ドアの前で一瞬だけ足を留める。外の音は、まだ雨の等間隔を保っているようだった。等間隔の上なら、歩ける。歩けると信じられる一歩目は、低い音が合図になる。
 外に出る。雨は細かく、風は弱い。傘の布を叩く音が、音階の下の方に揃っている。揃っていると、他人の足音も、車の走る音も、急に尖って刺すことはない。サエはバス停までの角を曲がり、信号のタイミングに合わせて足を止める。止まった足の下で、地面の安定がゆっくり身体に伝わってくる。安定は無音だ。無音が、世界でいちばん大きな音だと思う瞬間がある。
 隣で足音が止まる。目を向ける前に、低い声が、傘の下の湿った空気をやさしく揺らした。
 「同じ方向、だったんだな」
 サエはわずかに横を向く。視線を直接合わせない角度で、トモの傘の縁の水滴が等間隔で落ちる様子が見えた。落ちる間隔は、さっきの待合室の秒針と似ている。似ているとわかると、胸の奥の錘がもう一段落ちる。
 「うん」
 短い返事で充分だと思えた。充分のあとに、欲張りな自分が顔を出す。聞いてみたいことは幾つかある。どの道で帰るのか。明日は学校に行くのか。土曜日はいつも何をしているのか。訊けば、音は増える。増えた音で、今の丸い感触が欠けるかもしれない。欠けさせたくないものが、やっとひとつできたところだ。だから今日は、訊かないことを選ぶ。
 信号が青になり、二人は同じタイミングで一歩を踏み出した。歩幅は完全には揃っていない。揃っていないことが、かえって楽に感じられる。揃っていない二つの歩幅が、結果として同じテンポで進んでいくとき、世界は少しだけ優しい。
 バス停の屋根の下で、二人は傘をたたむ。布の水を軽く揺らして落とすとき、サエは自分の手の動きが以前よりゆっくりになっているのに気づいた。ゆっくり、は、丁寧と隣り合っている。丁寧は、音を小さくする。音が小さい動きは、隣の誰かと並んでいても、相手の皮膚を傷つけない。
 先に来たバスは、トモの乗る路線だった。扉が開き、段差が低くお辞儀をするみたいに沈む。乗り込む前に、トモがこちらへ半歩だけ向きを変えた。顔は上げない。上げないのに、声はまっすぐ届いた。
 「また」
 また、は三度目だった。三度目のまたは、もはや楕円ではなかった。丸に近づいた。丸は転がる。転がる先は、未知だ。未知の先が怖いのに、丸は転がる。転がっていくものの背を、サエは目で追わず、胸で受け止めた。
 「また」
 返すと、胸の内側で鳴った小さなクリックが、今度は二重に聞こえた。二重に重なった約束の音は、薄い和音になった。和音は一人では作れない。和音が作れたという事実だけで、今日の世界は昨日より少し広がる。
 バスが動き出し、雨の薄い線が窓に流れる。サエは屋根の下にしばらく立って、遠ざかる車体のテールランプの赤が、雨の粒に散って消えるのを見た。散って消える赤は、音にすると低い。低い音は、胸の窪みに落ちる。胸の窪みが満ちると、喉の奥の蛇口は自然に閉まる。閉まった蛇口の向こうで、ルウガが小さく笑う。
 ――ね、サエ。君の声、さっき、自分で好きだと思ったよね。
 即答はできなかった。できなかったけれど、否定の言葉も出てこなかった。言葉が出てこない代わりに、胸の中で小さな頷きが一度、起きた。その頷きは、誰の目にも見えないのに、はっきりと存在した。
 次のバスが来るまでの短い時間、サエはポケットの中で指を丸めた。丸めた指先の間に、薄い空気が挟まる。挟まった空気は暖かい。暖かい空気を、少しだけ持ち帰る。持ち帰って、机の端に置く。置いた場所が、次に来る「また」の居場所になるかもしれない。
 バスが到着し、扉が開く。段差が沈む。サエは一歩、乗り込んだ。車内の蛍光灯は病院のものより黄色く、音は柔らかかった。柔らかい音の下で、車体が滑るように動き出す。窓の外の雨は細く、街の輪郭を磨いていく。磨かれた輪郭の先に、まだ見ぬ道が続いている。続いているものなら、歩ける。
 帰宅したら、今日の数行を手帳に書こう。紙コップ。低い声。泣き声の上を渡った二つの呼吸。三度目のまた。最後の行に、小さく、こう書き足すつもりだった。
 自分の声が、ほんの少し好きになれた。
 文字にする前に、胸の中で一度、言ってみる。口には出さない。出さない声は温度だけを持って、喉の奥で丸くなる。丸くなった温度は長く残る。長く残るものが、今日はいくつかある。いくつかで、十分だ。
 車窓の雨が、等間隔で流れた。均一のリズムが、サエの心拍と静かに重なる。重なった数分が終わるころ、街の明かりが増え始める。明かりは音を持たない。持たないはずなのに、ときどき音に変わってしまう夜がある。そんな夜にも、低い声で「大丈夫」と言えるように。そう願って、サエは目を細く閉じた。
 物語は、まだ始まったばかりだ。出会いと声のはじまり。次の「また」が、どこで鳴ってもいいように、胸の空洞を少しだけ整えておく。整える練習を続けられるうちは、世界は真ん中より少し良い。その少しで、歩いていける。
 ルウガが最後に小さく囁く。
 ――行こう。君の速度で、君の音で。
 サエは、見えない頷きをもう一度だけ胸の中で刻み、窓の外の雨粒が夜の光を細かく刻むのを、静かに見ていた。