シュガースポットまで待って

「マスター。河口(かわぐち)のおっちゃん、いつもの珈琲とたまごサンドね」
 学校帰り、『喫茶・木もれび』に着いた俺は、すぐ制服の上にエプロンを締めて、常連さんのオーダーを聞いた。
「はいよ」
 カウンターの向こうから返ってきたのは、マスターのおっとりした声。
 白髪まじりの丸眼鏡で、見てるだけで癒しになる。
 のんびりした性格やのに、平気な顔で珈琲豆の袋をひょいっと担ぐ。
 七十三歳とは思えん元気っぷりやけど、そのたびに、見てるこっちがハラハラする。

 常連の奥様方が使ってたテーブルの食器を下げて、ささっと拭きながら、つい入口の方に目がいってしまう。
 結弦先輩、いつ来るんやろ。 
 あかん、今日は集中できひん。
 手ぇ動かしてるのに気ぃ抜いたら、入口と時計ばっかり見てまう。
「凪君。今日はどうしたの? なんか落ち着きないわねぇ」
 夏美ちゃんの言葉に、ドキッとした。

 カウンターの端っこに座ってる夏美ちゃんが、紙ナプキンを折りながら俺を見てくる。
 夏美ちゃん、鋭いな。退院したてやのに、(あなど)れんわ。
 久々の出勤でもきれいに白髪を束ねてるし、オレンジのエプロンもシワひとつない。
 優しい笑顔と一緒に、目尻のシワを増やして俺のそわそわを見透かしてくる。
「な、何もないで。夏美ちゃんこそ、無理せんといてよ」
「もう平気。腰の痛みもすっかり消えたわ。でも、一ヶ月も入院してたから、体が鈍ってるわね。バリバリ働いて勘を取り戻さないと」
 腕まくりしてガッツポーズしてるけど、腰の骨折は甘く見たらあかんって、おかんが言っとた。

「その発言が心配やねん。夏美ちゃんが入院してる間、マスター、めっちゃ寂しそうやってんで。もう心配させたらあかん。夏美ちゃんは、大人しくそこに座っとき」
「ありゃ、凪君に叱られたわ。一年前より大人になったわねぇ」
「当たり前やん。俺は日々、進化してんねん」
 胸張って言い切った。だって、自信あんねんもん。
 関西弁でいじられて凹んどった俺とは違うんや。

「それに、この店に一目惚れしたんも大きいしな」
「お、でたな。凪君の、純喫茶びいき」
 いつものカウンター席から、河口のおっちゃんが冷やかしてくる。
 けど、それはほんまのことやから、なんぼ言われても嬉しい。
「おっちゃんこそ。マスターの珈琲が好きすぎて、もう二十年通ってるやん。俺はおっちゃんに比べたらまだまだひよっこやで」
「ひよっこか。まあ、そりゃそうか。凪君が生まれる前からここの客やってるからな」
 そうか……。そう考えると、この店は、ほんますごい。

 河口のおっちゃんだけちゃう。ここは、何十年も通ってる常連さんがようけおる。
 みんなが店に通う気持ち、俺もめっちゃわかるわ。
 夕方になったら、窓から差し込む夕日のかけらが床で踊って、古い外国の写真みたいやし。長いこと使ってるカウンターの木目は、蜂蜜色して光ってるもんな。
 一番は、珈琲淹れるときの湯気の匂い。ほんま、最高の空間や。

「けど、凪君はまだまだ、子どもね」
 夏美ちゃん、その言葉、聞き捨てならへんな。
「何で、まだまだなん? せめて、『まだ』って一個にして」
「あっははは。相変わらず面白いな、凪君は」
 河口のおっちゃんが、椅子からずり落ちそうなほど笑ろてる。
「夏美さんが言った意味は、凪君が珈琲飲めないからだろ」
 体勢立て直しながら、おっちゃんが的確に突っ込んできた。
 図星やってわかってるからツッコミ返せへんけど、椅子から落ちて怪我せんといてよ。

「だってブラック、苦いやん。けど、牛乳、入れたら飲めるで。俺は珈琲の匂いが好きやねん」
「それが子どもって証拠」
 夏美ちゃん、そんな、ピシャっと言わんでも。
「凪は珈琲より、夏美のパンケーキが好きだしなぁ」
 さっきから黙々と珈琲豆煎ってたマスターが、急に参戦してきた。
「もー、マスターまで俺を子ども扱いする。俺はこう見えても──」
 高齢者チームに一人で応戦してたら、ドアの取っ手がきしむ音が聞こえた。

 振り返った瞬間、目の前にUFOが現れたみたいに息を呑んだ。
 世界で一番輝く人が現れただけで、店の空気の色がまるごと変わった。
「せ、先輩!」
「凪……入っていいか?」
 結弦先輩の声で、心臓がハートの形になって胸から飛び出した。
 突然、宇宙に放りだされたみたいに、息ができんくなる。
 店の奥まで届く、透き通るような日差しの中で先輩が立ってる。
 なんやろ。いつも学校で見る先輩とちゃう。瞬き、できひん。
 一時停止したみたいに、結弦先輩だけを見つめてたら、時空が別の世界に繋がったみたいに、動かれへんくなった。

「凪?」 
「い、いらっしゃいませ!」
 勢いに任せて頭を下げてもたから、夏美ちゃんみたいに腰痛めそうや。
 緊張して声が裏返ったん、先輩、気づいてなかったらええのに。けど、結弦先輩より先に、河口のおっちゃんたちに笑われてもた。
「さすがの凪君も、イケメン君には緊張するか」
「凪君の友だち? 芸能人みたいにカッコいいわねぇ」
 夏美ちゃんが老眼鏡外して、結弦先輩をジッと見てる。
 俺の自慢で大好きな先輩やもん。でも先輩が困るから、あんまり言わんといて。

「もー、みんな。先輩は見せもんちゃうで。あんまり見んといて」
 結弦先輩を隠すように、前に立って両手を広げた。けど、背の高い先輩は、チビの俺には隠されへん。
 案の定、またみんなが笑ろてる。見たことないお客さんまで、くすくす笑ろてる。
「凪。俺、帰った方がいい?」
「あ、あかん。先輩、帰らんといて」
「そうそう。ハンサムな先輩は、カウンターの特等席にどうぞ」
 サイフォンが三つ並ぶ前の席を、夏美ちゃんが勧めてくれた。
 ナイス、夏美ちゃん。あの場所、最高やねん。
 珈琲が出来上がってくるの、いつまでも見てられる、俺のお気に入りの席や。

「……じゃあ、お邪魔します」
 結弦先輩、カウンター座るん、めっちゃ似合いすぎる。
 足長いから余裕で床につくし、足を組んだ姿なんて雑誌の表紙やん。
「せ、先輩。ようこそ。道、迷わんかった?」
 メニューを渡しながら聞いたら、アプリの地図の画面、ちょんって指で示してくれた。
「凪、この店、すごく雰囲気いいな。なんか落ち着く」
 店内を見渡しながら、感想言ってくれた。自分の店、ちゃうのに褒められたら嬉しい。

「やろ? 椎名先輩、気に入った?」
「うん。ハマりそう」
 ハマりそう──。うわぁ、その言葉、最高。
「よかった。先輩が帰ってもたら、俺、地球の裏側まで落ちるとこやったわ」
 咄嗟に思いついたこと言ってもた。けど、それくらい凹むってことやし。
 それに、『ハマりそう』の言葉が嬉しすぎて、何か言わんとおられへんかった。

「ほら、凪君。ちゃんと仕事しないと。先輩の注文聞いて」
「あ、ほんまや。椎名先輩、何する? 今日は俺がごちそうするから、何でもええで」
「え、いいって。俺、自分で払うから」
「あかん。今日は俺におごらして。髪切ってくれたお礼やし」
 腰に手を当てて、胸張って言った。
 髪の毛切ってもらって嬉しかった気持ち、ごちそうするだけじゃ足りひん。
 後輩に奢ってもらうん、嫌かも知れへんけど、今日は譲られへんよ。

「凪君の髪、先輩さんが切ったの? 前と違って可愛らしくなってたから、気になってたのよ。上手ねぇ、美容師さんみたい」
「いえ。見よう見まねなんで」
 恐縮してる結弦先輩も新鮮やな。あー、写メ撮って待ち受けにしたい。
「夏美ちゃん。先輩のお母さんは美容師さんなんやで。それも美人さんの」
「美人の美容師? そりゃ行く価値あるな」
 速攻、河口のおっちゃんが反応したから、両手で大っきくバツ作って見せた。
 おっちゃん、肩すくめて珈琲一気飲みしてる。

「先輩、何する?」
 本当にいいのかって、まだ遠慮してる。そやから、先輩に向けて大きな丸を手で作って見せた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
 メニュー見てるだけやのに先輩の横顔、英語の小説読んでるみたいで気品がある。
 貴族の服とか着たら、この美貌で国ひとつ簡単に手に入りそうやな。
 きれいな顔に見惚れてたら、先輩が俺の顔、じっと見てた。
 なに? って目で返事したら、先輩の長い指がパンケーキの文字を指した。

「凪のお勧めにするよ。それと、ブレンドで」
 パタンってメニュー閉じて、微笑まれた。
 かっこよすぎる! 「ブレンドで」って、大人や。
「わ、わかった。パンケーキとブレンドな。マスター──って、聞こえてるわな」
 俺のお勧め、覚えててくれたんや。気に入ってくれたらええのにな。

「はいよ。しかし、凪が今日、張り切ってたのは先輩が来るからか」
「は、張り切ってないで、マスター。俺は至って普通や」
 嘘や。ほんまはめちゃくちゃ張り切ってるし、ドキドキしてる。
「そしたら、凪君がパンケーキ、焼いたら?」
 まさかの上司命令に、頭の中でベートーヴェンの運命が鳴った。
 夏美ちゃん、それはあかん。せっかくのお勧めが、俺が焼いたことで台無しになる。

「いや、いや。夏美ちゃんが焼いた方が美味いって」
 もし失敗したら、先輩と夏美ちゃんに申し訳ない。
「俺、凪が焼いてくれたの食べたいな」
 せ、先輩。そんな爆弾、投げんといて。最初が肝心やのに、焦げてもたらどうするん。
「椎名先輩、とりあえず今日は、プロに焼いてもらお、な」
 お願いするみたいに言ったのに、夏美ちゃんと先輩が結託したみたいに笑い合ってる。

「あ……急に腰が痛くなってきた。パンケーキ、焼くの無理だわ」
 夏美ちゃんが腰、手で押さえてカウンターに突っ伏した。
 嘘くさい演技やのに、それやられたら、何も言われへんやん。
「な、夏美ちゃん。それ、ないわ」
「凪、頑張って。期待してる」
「せ、先輩まで。もうー、わかった。俺も男や、やったる。その代わり、失敗しても怒らんといてな」
 メニューを抱えてた手にグッと力込めて、お願いした。そしたら先輩の手がそっと伸びて、俺の頭をポンポンって撫でてくれた。微笑み付きで。
 この不意打ちは危険や。ボクシングやったら、開始数秒でノックアウトされる技や。
 ヤバい。耳まで熱なってる。
 目を泳がしてたら、カウンターの向こうで珈琲淹れてるマスターと目が合った。丸眼鏡の奥で笑ろてる。
 もしかして俺、結弦先輩が好きって、ダダ漏れしてるんちゃう?

「凪、早くパンケーキ焼きなさい。お客さまを待たせたらダメだろ」
 澄ました顔でサイフォン見ながら言われた。
「は、はい。ほな、先輩待ってて」
 カウンターに入って、コンロの前に立った。手汗がじわって出てくる。
 俺、ウェイトレス……じゃなくてウェイターの仕事しかしたことないのに、ちゃんと出来るんやろか。でも、先輩に食べてもらうんやったら、失敗したない。
 不安な気持ちで、冷蔵庫から生地を出してたら、いつの間にか夏美ちゃんがそばにいた。

「大丈夫。教えたげるから、やってみなさい」
 そう言って、鉄板を温めてくれた。俺はエプロンのポケットからメモ帳とペンを取り出した。「弱火?」って聞いたら、にっこり笑って、そうそうって頷いてくれる。
 焼く準備しながら、カウンターの先輩をチラッて見たら、マスターと珈琲の話をしてる。
 俺の好きな、鳩が豆鉄砲を食ったような目をところどころに入れながら。

 美味しいの、先輩に食べてもらいたい。先輩に喜んでもらいたい。
 さすがに珈琲は無理やけど、夏美ちゃんの指導やったらパンケーキはイケる気がする。
 濡れ布巾の上に乗せて熱を取って、そしたら焼きムラの防止になるっと。
 よし、メモに書いたで。
 鉄板にバターが落ちて、じゅっと溶ける匂いが食欲をそそる。
 生地を流して、火加減は極弱火。蓋をして、蒸し焼きに。
 これが厚焼きパンケーキを焼く秘訣なのよって、夏美ちゃんの独り言もメモったで。
 中までじっくり蒸し焼きにするための『命』なんやな、これ。
 厚い生地の中までふっくらと火が通るまで約、五分。じっと我慢の子や。
 絶妙なタイミングで裏返したら、見事なきつね色!

「やった、夏美ちゃん見て。めっちゃきれいに焼けたで」
「本当、凪君、上手ね。美味しそう」
 嬉しくて、先輩──って声かけようとしたけど、先輩がこっちを見てた。
 さっきまで普通に話してた顔やのに、今の表情は……なんやろ。
 言い方むずいけど、『愛でてる』って言葉しか思いつかへん。
 ど、どないしよ。なんか、先輩の顔、まともに見れへん。
 今の顔は、可愛い動物の動画見たときともちゃうし、売店で一番人気の焼きそばパンゲット出来たときともちゃう。
 そうや。中二のとき、電車で初めて見た結弦先輩の微笑みに近い。

 今日、誘ったんは髪の毛のお礼もあったけど、俺のことも知ってほしかったんもある。
 でも、まさか先輩のこんな笑顔を引き出せるなんて思ってへんかった。
 ……これって、功を奏したってことなん?
 このままバスケも復帰して昔みたいに、心の底から笑ろてくれへんかな。
 いやいや。欲張ったらあかん。ちょっとずつでええねん。
 とりあえず今日は、俺の焼いたパンケーキ食べて、「美味しい」って言ってくれたらええな。