シュガースポットまで待って

「高二になって初めての試合中に、怪我したんだ」
 結弦先輩の声が少し小さくて、いつもより硬い。
 聞いてる方が苦しくなる声や。

「ゴール下でジャンプした時、着地で相手の足を踏んだのが原因なんだ」
 タオル越しにふうって、小さな息を吐いたのが聞こえてきた。
 辛い話しやのに伝えてくれようとしてる。そんなら、俺はちゃんと受け止めな。

「それでも大事な試合だったから、湿布とテーピングして出たけど、そんなんじゃどうしようもない怪我だったんだ」
「どうしようもない……って?」
 先輩の顔が見えへんから不安や。
 大丈夫? このまま話してて平気?

「わかるかな? くるぶしの靭帯(じんたい)って」
 く……るぶし……
 そのひと言で、俺の呼吸が一瞬、止まった。
 初めて先輩を電車で見て、笑顔の次に俺の心を撃ち抜いた、あの『くるぶし』。
 そこの靭帯ってなに? 考えるだけで手が震える。

「『ぜんきょひじんたい』って言うんだけど、外側のくるぶしの靭帯を断裂したんだ」
 噛みそうな名前だろって、先輩が笑いながら言う。その声が嘘っぽくて切ない。
「靱帯の裂傷が酷くて手術したんだ。そのあとはリハビリ。普通に歩けるまでも結構時間がかかったよ」
 くるぶしの傷痕って手術の痕やったんや。やっぱり怪我してたんや。

「スポーツでは『最悪の捻挫』って言うんだってさ」
 先輩の声に痛みと苦しさが混ざっている気がした。
 怪我した足は痛かったと思う。けど、心の方が、もっと痛かったんちゃうかな。
 学校を休むだけちゃう。大好きなバスケもできひんかったんやから。
 それが一番、辛かったと思う。今も、それを結弦先輩は抱えてるんや。
 だから、キャプテン先輩らにあんな言い方してもたん?

「先輩、時間かかったって、どのくらい?」
「あー、ほぼ一年? かな」
 心臓が抉られるみたいに、痛みが走った。
 高校に入学してから毎日、先輩を探してた自分とぴたって重なる。

 あの笑顔に会いたくて、高校まで追いかけてきた。
 でも、先輩はその一年、手術して、痛みに耐えて、歩く練習してたんや。
 俺だけが勝手に追いかけて、勝手に会えんで落ち込んで。
 俺なんかよりずっと、先輩の一年は苦しかったんや。

「一年間……」
「そう、完治まで一年。手術して痛みや腫れがなくなってから、少しずつ動かしたな。杖なしで歩くのを目標にしてさ」
 タオル、あってよかった。
 こんな話し、先輩の顔見ながら聞いてたら絶対泣いてた。
 唇噛んで我慢してたら、タオルの端まで噛んでもた。
 シャンプー中で、先輩からは俺の顔ほとんど見えてへん。
 涙こらえてるの、バレてへんはず……

「……まだ、痛い?」
「……」
 勇気出して聞いたけど、返事がない。
 シャワーの音だけが静かに落ちてきて、全身が氷水に沈んだみたいに冷たなった。
 どないしよ、聞いたらあかんかったんかな。
 声、かけようとしたらシャワーのコックをひねる音で何も言えんくなった。
 タオルで髪を拭いてくれてる間も、先輩はずっと黙ったまま。

 リクライニングの背もたれが動いて、上体がゆっくり起き上がる。
 顔にかけてたタオルが外されたら、店の景色がじんわり滲んで見えた。
 頭をタオルで包んでくれる先輩の顔を、そっと見たら目が合って、いつもみたいに微笑んでくれる。
 それを見て、泣きそうになった。

「シャンプー完了。お疲れさん」
「あ、ありがとう……ございます」
「あれ、珍しいな。凪が敬語使うなんて」
 しまった。つい、言ってもた。
「ほ、ほんまや。キャプテン先輩としゃべってたからかな」
 慌てて言い訳したら、先輩が変な顔してる。
 何でそんな、凹んだみたいな寂しそうな顔するん? 俺に話したこと、後悔してるん?
 聞くのが怖い。

「髪、乾かそうか。凪に褒めてもらるスタイルにしないと」
 明らかに声のトーンが落ちてる。
 どうしよう。俺、テンパって言わんでもいいこと、しゃべったんやろか。
 あー、店来たときまで巻き戻したい。
 頭の中で不安が渦巻いてると、スイッチの音がして温風が髪を膨らませてくる。
 温かい風と、先輩の優しい指が髪を撫でていく。
 空気を含ませるよう、髪を軽く持ち上げては毛流れを整えてくれる。

 鏡に映る先輩と俺。こんなに近いの初めてやのに、電車で見てたときより遠い……
 風で揺れる髪の隙間から、こっそり見ることしかできひん。
 ドライヤーが止まって、ワックスの匂いがした。
 先輩の手が俺の猫っ毛を丁寧に整えていく。
 この至福の時間も、もう終わりや。暗い気持ちで終わらせたらあかんな。

「よし、出来たぞ。うん、中々いい感じの仕上がりだな」
「わぁ、めっちゃカッコかわいい! なんか俺、急に都会っ子になったわ」
 大袈裟に言おうと思ってたけど、そんなん必要ない。
 鏡の中の俺は、完璧な仕上がりになってたんやから。

「カッコかわいいって。でも、確かに似合ってる。凪、肌の色が白いから、茶色に染めたら映えそうだな」
 鏡に映る自分を、まじまじと見た。
「椎名先輩、天才や。俺がいつも行ってる店の人より数倍上手い!」
「だから褒めすぎだって」
「褒めすぎちゃうで。ほら先輩、俺見てみ。オシャンなアイドルに見えへん?」

 鏡の中の自分を指差したら、先輩がキョトン顔になった──と思ったら、突然、大声で笑い出した。
「オ、オシャンって。久しぶりに聞いたな、それ」
 笑い過ぎて腹が痛いって、前屈みになって肩、震わしてる。
 先輩のそんな姿見てたら、陽だまりにおるみたいにぽかぽかしてくる。
 嬉しいって、心が叫んでる。

「そ、そんなにおかしい? けど、先輩の、石川五エ門の方がイケてたで」
「そっか。笑いのプロに褒めてもらったら自信つくな」
 涙まで流して笑ってる。ほら、目頭を指で擦ってるし。
 昔、電車で見てたときの結弦先輩みたいな笑顔や。
 さっきまでの『もやもや』。今の笑顔で吹き飛んでくれた。

「椎名先輩。今度、時間ある時でええから、俺のバイト先に来てくれへん?」
 ハサミとクリップを片付けてる先輩の背中に声をかけた。
 ずっと考えてた。いつか結弦先輩に、バイトしてる喫茶店に招待すること。
 タイミング、逃したらもう言えへん。今が誘う絶好のチャンスや。

「凪のバイト先?」
「うん。今日のお礼させてくれへん?」
 先輩がホウキを持ち出したから、それを引き取りながら言った。
 めっちゃ平常心のフリしてるけど、俺の中、冷や汗だくだくや。
 断られたらイヤやな。けど、無理強いはできひん。
 祈る気持ちで落ちた髪を掃いてたら、先輩がちりとりを持って俺の足元に屈んだ。
 あ、結弦先輩の頭頂部や。見下ろすことないから、なんか新鮮やな。
 かわいいなぁって見惚れてたら、不意に先輩が上を向いて目がバチッと合った。

「じゃ、お言葉に甘えて行こうかな」
 上目遣いの笑顔で返事してくれた。
「ほんまに……ええの?」
「ええのって、それ、こっちのセリフだし。仕事の邪魔になるのに」
「邪魔なんて絶対思えへん! むしろ大歓迎や!」
 ホウキを持ってたことを忘れて両手を広げた瞬間、先輩の頭頂部にコツンって柄が当たってもた。

「うわぁ! 先輩ごめん! 痛かった?」
 咄嗟にしゃがんで結弦先輩の顔覗き込んだ。勢い余って、鼻と鼻がぶつかりそうになる。
 ……ヤバ。近づき過ぎた。
「ご、ごめん! 先輩、頭、大丈夫? あっ、触ってもた! ほんま、ごめん!」
 慌てて頭を撫でてもたけど、これはあかん。無断で先輩に触ったら、天罰がくだる。

「ホウキが当たったくらい何ともないって。それより、『頭、大丈夫』のがショックだ。俺が変なやつみたいなに聞こえる」
「あ、あれはそんな意味ちゃうって。当たったとこが痛ないかなって──あ、先輩。また笑ろてる。俺をからかうん、やめて」
 先輩がまた楽しそうに笑ってくれた。ほんまによかった。
 ちょっとだけ、引っかかりはあるけど、今はそこをほじくり返すんはやめとこ。
 先輩が笑顔やったら、オールオッケーや。

「先輩、いつやったら来れる? 俺、今週は明日と明後日シフト入ってるで」
 集めた髪の毛を捨てながら聞いたら、顎に手を添えて天井見てる。
 考えてるポーズもサマになるなぁ。制服着てるのに、モデルみたいや。
「じゃ、明日にしよっか。凪は大丈夫か?」
「ぜんぜん、大丈夫! 先輩、場所わかる?」
 また、天井向いて考えてる。白い天井に地図でも見えてるんかな?
 同じように見上げたら、チラッと視線だけが降りてきた。

「……な、なに?」
「何でもない。なあ、おすすめのメニューは?」
 何でもないんやったらそんな甘い視線、向けんといて。ここ来てから、ずっと脈が乱れてんねんから。
「お、おすすめは、断然、パンケーキ! 千夏ちゃんの作る生地が甘くて、何もつけんでも食べれるねん」
 初めて食べたとき、めっちゃ感動したもんな。三枚はペロってイケる。
 思い出したら、食べたなってきた。
「へえ。それ、うまそうだな」
「先輩は甘いもん平気な人?」
 これ、重要事項やった!

「俺、甘いのもしょっぱいのも平気。ただ──」
「ただ? ただ、なに? 何でも言って。あ、もしかしてアレルギーとかあるん?」
 ツレにもおった。卵アレルギーのやつや、小麦があかんやつも。
 アホや、俺。浮かれて大事なこと聞かんと誘ってもたやん。
「そんな慌てんな。アレルギーも好き嫌いもないから。ただな、チョコレートだけが苦手なんだ」
「チョコ?」
「そう、チョコ」

 ほんなら、一年に一回、女子が頑張る日にもらったやつ、どないしてたん?
 俺、妄想してたもん。先輩の下駄箱いっぱいの、女子からの愛を。
「椎名先輩。チョコ嫌いやったら、例の日のブツはどないしとったん?」
「例の日のブツ?」
「バレンタインチョコのこと。大量な愛はどないしてたん?」
 俺が必死で聞いてんのに、どこにツボったんか、先輩がまた笑ろてる。

「ブツって。凪はおもしろいな。一緒にしゃべってたら俺まで漫才してる気分になる」
 それ、よー言われる。けど、狙ってしゃべってへんねんけどな。
「ほんで、チョコの行き先はってば」
 今は漫才より、先輩のチョコが気になる。
「あー。チョコな……。従兄弟に全部あげてたかな」
「先輩、従兄弟さんおるねんな。いくつ?」
「確か今、中二だったかな。そいつもバスケして──いや、何でもない」
 すらすらしゃべっとった声が、ふっと途切れた。

 先輩の日常やったバスケ。
 今はその三文字をあんまり言わへんのは、聞かれたない何かがあるから? 
『バスケ、まだできないの?』とか……
 それやのに、ボンバーのみんなにバスケ教えてるんは、そこから離れたないから?
 聞きたいことが頭の中でポップコーンみたいに膨らんでる。
 これが弾けてしまわへんよう、熱くなったらあかん。

「先輩の従兄弟やったら、きっと男前やろな」
 結弦先輩の顔色が一瞬だけ曇ったから、慌てて違う話した。
 ……結弦先輩が笑ってバスケのこと話してくれるまで、3文字は禁止や。

「凪は俺の顔、褒めてくれるけど、俺は凪の顔の方が好きだな。髪の毛切ったら、さらに可愛くなったし。従兄弟の家で飼ってる、トイプードルみたいだ」
「トイプードルって、ワンコやん。それも、チビでキャンキャン吠えるやつやん」
「そっくりだろ?」
 俺は思わず、自分の顔とか体をぺたぺたって、確かめるみたいに触ったあと、ハッとした顔で呟いた。
「……ほんまや」って。
 そしたら先輩、爆笑してくれた。きれいな顔、クシャってして。
 そうや。俺は先輩を悲しい顔にはさせへんねんやった。これは俺の使命やから。

「じゃ、そろそろ家の方に行くか。母さんが『おやつ』用意してるみたいだし」
 本日の緊張、第二弾。今度は先輩の家や。
 もしかして、先輩の部屋に入るんかな? いや、お母さんが言ってたやん、髪切ったの見せてって。きっとリビングまでやって。
 ワクワクとドキドキを咄嗟に飲み込んで、元気に返事した。
「うん、おじゃまするっ」