シュガースポットまで待って

「なあ、凪。お前の歩き方、おかしいぞ」
 駅から十五分。大通りを折れ、住宅街に差し掛かったところで結弦先輩が言った。
「え、おかしいって、どこが?」
 至って普通に歩いてますけど?
「だって、手と足、一緒に出して歩いてる」
「え! うそやん、俺そんな変な歩き方してた?」
「してた、してた」
 ヤバい。俺、めっちゃ緊張してるんかも。
 一緒に電車乗るだけで、手汗が半端なかったもんな。
 足も震えて踏ん張られへんかったし、結弦先輩の話も、うわの空やった。

 だってしょうがないやん、初めて好きな人と帰って、そのまま家に行くねんで。おまけに、先輩が……髪を切ってくれる。夢のようや。
 こんなん、緊張するなってのが無理──あ、しまった!
「せ、先輩! 俺、手土産ない」
「手土産? 何でそんなのがいるんだ?」
「だって、先輩の家にお邪魔するのに、手ぶらは失礼やんか。俺、ちょっとスーパー行ってメロンでも買って──」
「凪!」
「は、はい!」
 ピンっと張った声で呼ばれたら、背筋が伸びる。

「ちょっと落ち着け。それに、手土産なんて要らないから」
 前屈みになって、俺の顔、覗き込んで怒ってくれる。真面目な顔も、カッコええな。
 怒られて嬉しいって。俺、ドMやん。
「しかもメロンって。高校生が買えるわけないだろ」
「だって、手土産って言うたら、メロンやろ?」
「それは見舞いだろ? いや、それも違うか。とにかく、気を使うなって」
 ほら行くぞって、腕を掴まれた。
 先輩に腕、触れられて、おまけに家にまで招待されるやなんて。
 今日は最高に、ええ日や。

 けど、それだけちゃうで。今日はちょっと暑いから、先輩がズボンの裾、折ってるんや。
 そう! 待ちに待った、先輩のくるぶし解禁日。
 嬉しすぎて、顔が勝手にニヤけるわ。
 ふわふわした足取りで歩いてたら、先輩の足が止まった。

「凪、ここが母さんの店。家は店の裏にあるけど、中で繋がってるから」
「え、ここ? めっちゃオシャレな店や! 壁がブックカバーみたいできれいし、蔦の葉が付いた窓なんて、外国のカフェみたいやん」
「母さん一人でやってるから、小さい店だけどな」
「それが逆にええやん。木のドアがあったかそうで、それにこのオリーブ。ウェルカムしてるみたいやな」
「ウェルカムって──でも、それ母さんが聞いたら喜ぶな」
 結弦先輩が鍵を開けてる姿を眺めてたら、ドアの上の方に英文字が見えた。

「先輩、『Knot』って店の名前?」
「あ、ああ」
 ノット、ノット……あ、そうか!
「ノットって、『結び目』って意味や! 先輩の名前やな」
 正解やろ? って顔して結弦先輩を見たら、なんか照れくさそうにしてる。
 何その顔、めっちゃ愛しいんやけど。

「そんなニヤニヤして俺を見るな。ほら、入れよ」
「はーい。お邪魔します……」
 あー、このドアのベルの音、先輩のくるぶし思い出す。
 コロンって音が可愛いの、似てるな。それに店の中、なんかいい匂いする。
 シャンプーの匂い? それとも先輩の家の匂い? あかん、また変態チックなこと考えてもた。

「狭いだろ。カットブースも三つしかないし」
「先輩のお母さん、店の中を全部、見渡せるようにしたんやろなぁ。それにこの鏡、楕円形で大きいから見やすい──」
 あれ。俺、なんか失礼なこと言ったんやろか。めっちゃ先輩、真顔でこっち見てる。
「椎名先輩。あの……」
 今度は俺が結弦先輩の顔の覗き込んだら、先輩の瞼がぐいって上がって目が見開いた。
 な、何をそんなに驚くんや。こっちがドキッてなるわ。
 けど、たまに見る、このびっくり顔、好きやなぁ。
 まぁ、俺は先輩の全部が好きやねんけど。

「……何でもない。凪が可愛いって思っただけ。それより、ここ座れ」
 か、可愛いって。また言ってくれた。あかん、足に力が入れへん。立ってるんが精一杯や。
 先輩が、椅子をくるって回して、座りやすいように向きを替えてくれた。
 とうとう来た! まだ、可愛いの魔法から解けてへんのに、今から先輩が俺の髪に触るんや。鏡越しに目が合って、笑いかけてくれたりするんや。
 この椅子に座ったら、俺は先輩の手で生まれ変わる──
「あれ、結弦。帰ってたの?」
 女の人の声が後ろからして、体がビクッてなった。
 振り返ったら、めっちゃきれいな人が先輩とお揃いの目で俺を見てる。
 も、もしかしてこの人、先輩のお母さん?
 きりっとした笑顔やのに、声はやわらかい。それにお母さんっていうより、お姉さんみたいに若い。

「あ、うん。なあ、今から店、使っていい?」
「いいけど。髪切るの? 自分で?」
「いや、俺じゃなくて──」
「は、初めまして! ぼ、僕、浦嶋凪って言います。椎名先輩の後輩で、高二です。よろしくお願いします!」
 腰の骨、折れるほど頭を下げて挨拶した。それやのに、シンって静かや。
 ……何も言ってくれへん?
 カチ、カチって時計の音だけがやたら大きい。沈黙に押し潰されそうや。
 俺の挨拶、変やった? けど、ちゃんと『僕』って言い換えたし。
 あー、やっぱり、メロン買いに行っとけばよかったやん。俺のアホー。

「あっははは、可愛い子ねぇ。結弦、あんたにこんなキュートな後輩がいたのね」
 わ、笑われた。恥ずい……それにキュートって。
「母さん、茶化すなよ」
「あら、ごめんなさい。結弦が後輩の子、家に連れてくるの初めてだったから、つい」
 は、初じめて──俺が後輩で、家に呼ばれたん、一人目!?
 ヤバい、嬉しすぎる。頼むから、二人目は出てこーへんようにって祈っとこ。

「それより、道具とか借りるから。凪の髪切ってやるんだ」
「おっ、とうとう後継ぎになる決心ついた?」
「……違う。凪の髪切るだけ。もういいだろ。ほら、家に戻ってろよ。ちゃんと後片付けしとくから」
 あれ、先輩の顔色、変わった。
 言葉を飲み込むみたいに、先輩の喉が動いてる。
 イヤそうとかじゃなくて、その反対でもない。難問を解くみたいな顔や。

「はいはい。年寄りは退散するわ。凪君、きみの可愛い顔、もっと素敵にしてもらいなさいね。私が言うのもなんだけど、この子、センスいいのよ」
 先輩のお母さん、ウインクしてくれた。それに、めっちゃ気さくな人で話しやすそう。 ──よし!
「あ、あの!」
 先輩のお母さんが背中向けたタイミングで、呼び止めた。
 しまった。まだ、言葉まとまってへんのに、声かけてもた。
 ほら、振り返って首かしげてるやん。早よ、言わな。
 けど、その仕草も結弦先輩と似てる。先輩、お母さん似なんや。じゃなくってっ。

「あの、今日はお店、お休みやのにお邪魔してすいません。俺が前髪伸びたん気にしたから、先輩が気をつかってくれたんです」
 ほんま、すいません──そう言って頭下げたら、また笑われた。けど、さっきの炭酸みたいな声とはちゃう。今度は綿飴みたいにふわっとした笑い声や。
「凪君の話し方、ほんわかしていいね」
 え、ほんわか? それって関西弁、ウザないってこと?
 ハテナマークを浮かべて見返したら、ふふふって、笑われた。
「髪切り終わったら見せてよ。おやつ用意しとくし」
「待ってるね」そう言って、先輩のお母さんは手を振って自宅の方へ行ってもた。

「やっと行った。ごめん、凪。うちの母、テンション高いだろ。しかも、おやつって小学生かよ。ったく。……じゃ、切ろうか」
 結弦先輩がクロスを広げて、ふわりと俺の肩にかける。
 首元に軽く指が触れた。たったそれだけやのに、身体中の神経が触れられたところに集合してきた。
「苦しくないか?」って訊かれて、思わず正直に答えそうになった。
 息が詰まって、心臓が止まりそうで苦しいです……って。

「へ、平気やで。さあ、スパッとやってもらおう!」
「スパッて、俺は石川五ェ門か」
 先輩、ナイスボケ!
 お母さんが言うた通り、センス抜群やん。ここでその名前出してくるなんて最高や。
「『また、つまらぬものを斬ってしまった』って、言わんといてよ。この猫っ毛、俺の自慢やねんから」
 鏡の中の先輩を見て言ったら、また肩振るわせて笑ろてる。
 嬉しすぎて、お腹が筋肉痛になるまで、笑かしたろって思ってまうな。
「自分で言うか、それ。でも確かに凪の髪、柔らかくて手触りいいな」

 結弦先輩の指が、俺の髪をすくってる。
 時々、先輩の指が地肌に当たる。その度に電流が走りそうや。
 俺、切り終わったとき、椅子に座ったまま失神してるかもしれへん。
「なあ、凪。どんな風にしたいんだ? なりたいイメージとかあるのか?」
「なりたいって、俺、わからへんから、先輩にお任せしてもええ?」
「お任せか……」
 両肩に先輩の手が乗ってる。
 気づいたら、二人でプリクラ撮るみたいに顔が近い。
 前の鏡に並んで映ってて、直視できひん。
 いつも行く、美容師さんもこんなことしてるけど、全く緊張なんかせえへんのに。
 このシチュエーションは想像以上に、甘い。甘すぎるわ。

「凪の顔、幼いから可愛い系がいいな。ナチュラルで優しい雰囲気が似合いそう」
 み、耳元でしゃべらんといて。こそばゆいし、恥ずかしい。
「か、可愛いって。そんなん言われたことないわ」
 俺、今、必死や。必死で、平気なフリしてる。
「へー、意外。凪みたいな可愛い系男子は、女子からモテそうだけどな」
「モテそう? そんなん、ないない。俺、自慢やないけど、告られたことないもん。けど椎名先輩は、ごっついモテるんやろな。バレンタインの日なんか、漫画みたいに下駄箱とかにチョコあふれてたんちゃう?」
 そんな景色、見たいないけどモテるんは事実や。だってさっき、筋肉先輩、言ってたもんな。先輩が部活に出てへんから、女子の応援減ったって。
 結弦先輩が人気あるん、最初からわかってる。中学のとき、初めて先輩を見たときから。

「よし、決めた。マッシュベースにして、隠しツーブロック入れてみよ」
「マッシュ? なんや、おいしそうな名前の髪型やな」
「美味しそうって、そうきたか。俺、凪のそんな発想、好きだな」
 す、好き!?
 ……今、好きって言ったよな、先輩。
 いや、恋の『好き』とちゃうってことくらい、わかってる。けど、俺の中の一個でも好きって思ってくれるん、めっちゃ嬉しい。

「今の髪型、あんまり段差がないから、サイドと襟足を刈り上げしてスッキリさせてみるか。それで、マッシュの丸みでシルエットをきれいに調整してみるよ」
「それでいいか?」って、また甘い声で耳をくすぐってくる。
「う、うん。よーわからへんけど、それでいっとくわ」
「おっけ、じゃ切っていくぞ」
 その声を聞いた瞬間、俺の全てが結弦先輩に支配された。

 鏡越しに見てたら、先輩が俺の髪をクリップで留めだした。そのままの流れで、自分の髪もおそろいのクリップで留めてる。丸見えになった瞳は、真剣そのものや。
 鏡に映っとる先輩の耳、きれいな形やな。
 男前はどのパーツも美しいんやって、結弦先輩が証明したも同然や。
 鏡の中の先輩に見惚れてたら、俺の耳に指先が触れた。
 うわぁ……結弦先輩の呼吸が、ほっぺたのすぐそばで聴こえてる。
「動くなよ」って言われた声が、甘くて優しくて、俺の肌を震わせてくる。
 カチッ、とハサミの刃が噛み合う音。しゅっしゅって、俺の髪が先輩の手で切られてる。
 なんて至福の時間なんやろ。

 鏡の中で、先輩の目が少しだけ細くなる。そんな真剣な眼差し見たら、息するのも忘れてしまいそうや。
 髪を持ち上げながら「この辺、長いな」とか、呟いてる。
 先輩、ほんまの美容師さんみたいやな……
 銀のハサミが光って、髪が静かに落ちていく。時々、ほっぺたに触れる先輩の指の温度で、俺の心が裸にされるみたいや。

「……凪、そんなにじっと見てくるな。緊張する」
「え、俺、そんな見てた?」
「見てた。素人なんだから、ダメ出しするなよ」
「そんなん、せーへんって。それに、髪の毛切ってる先輩、プロみたいやで」
「それは、褒めすぎ。凪は俺を甘やかしすぎだ」
「今ので甘やかしてることになるん? それやったら、もっと先輩を持ち上げな。なんたって、俺は椎名結弦のファン一号なんやから」
 鏡越しで目を合わせるたび、先輩が少し笑ってくれる。
 楽しい。けど、まだ戻ってない。初めて電車で見た百点満点の笑顔には届いてない。

「カットはこんなもんかな。次は髪を洗うぞ」
「え、シャンプーも! ええの?」
 いいから、いいからと、先輩に促されてシャンプー台へ移動した。
 ドキドキしながら仰向けになったら、真上から先輩が整った顔で見下ろしてくる。
 この角度から見る結弦先輩、新鮮やな。
 天井のダウンライトの逆光で、輪郭が少し滲んでる。
 まぶしいのに、目を逸らしたなくて見上げてたら、長いまつ毛の影まで見えた。
 瞬きするたびに濃い毛先が揺れて、羽みたいに動いてる。

「凪、タオルかけるぞ」
 ああ、先輩の顔が見えんくなる……けど、その方がええんかも。
 髪洗う動きって、今よりもっと顔、近づくから心臓がもたへんもんな。
 ふわっとタオルが顔に乗っかった。
 視界が閉ざされたら、余計に先輩の気配が濃くなった気がする。
 手の動きと一緒に髪の間からお湯の音が聞こえる。その手が俺の頭を撫でるたびに、鼓動が最高タイムを叩き出そうとしてる。

「お湯、熱くないか」
 優しい声が落ちてきた。この声で天に召されそうや。
「あ、熱ないで。気持ちええ」
 これが精一杯。もう、意識が半分、飛びかけてるもん。
 俺、いつも美容師さんと何しゃべってたっけ。
 頭の中で五十音がぐるぐる回って、言葉にしようとしたら、静かに名前を呼ばれた。
「……凪」
「な、なに? 先輩」
 どないしたんやろ。……今の声、ちょっと深刻やった。
 タオルで先輩の表情が見えへん。
 目隠し取って確認したいけど、それはやめておけって、もう一人の俺が脳内で叫んだ。

「俺の怪我の話、していいか」
 怪我……どうしよう。知りたいけど、俺に気ぃ使って話そうとしてへん?
「椎名先輩、無理に話さんでええで」
 そうや。無理に話すことちゃう。言いたくなった時でいい──
「凪に聞いてほしいんだ。だめか?」
「だ、だめちゃう。俺も聞きたい。けど、今、シャンプーしてるし……」
「この方が話しやすいから。だから、そのまま聞いてて」
 そっか……顔、見ん方がええってことか。
 俺もその方がええかも。先輩の気持ちに集中できる。
「うん、ええよ。先輩、話して」

 ありがとう──
 シャワーの音に混ざって聞こえた声が、少し震えて俺の鼓膜に落ちてきた。
 それはいつもの先輩と少しちゃう、心に直接語りかけるような声やった……