シュガースポットまで待って

 半袖、ええな……。
 あの、肘曲げたときにできる、ぽこっと出る骨。あれ、何て名前やろ。
 ちょうどええ腕の太さと、あの白さ。美術館におるダビデ像みたいや。
 あ、ちゃう、ちゃうで。俺は先輩の裸なんて想像してへんからな。
 慌てて首が取れるくらい頭を振ったら、結弦先輩がじっと見てきた。

「凪、どした。虫?」
 メガネのフレームを指の背でクイッて上げる仕草──からの、ゆっくりな瞬き。
 ……これ、映画のワンシーン? 美しすぎる。
 たまに登場する、レアメガネの演出のせい?
 先輩の周りに花が舞ってるのが見えるわ。まあ、完全に俺の妄想やけど。

「何でもない。ちょっと髪の毛が目に入りそうやったから」
 下唇を突き出して息を吹き上げたら、自分の前髪がふわっと揺れた。
 ほんまに前髪、邪魔や。そろそろ切りに行かなあかんな。
 指先で前髪を摘んでたら、結弦先輩の目がまだ俺を見てた。
 え、やっぱり虫、付いてるん? それやったら言って! 俺、虫が世界一、苦手やねん。
 訴えるように目の前の人を見てたら、耳を疑うようなことを言われた。
 藤棚の葉っぱが風に揺れて、ざわざわって鳴ってる。今の俺の心臓みたいに騒がしい。

「……先輩。今、何て言ったん?」
「だから、俺が髪、切ってやろうかって言ったの」
「か、か、かっ──」
 言葉が引っかかって、思わずベンチから立ち上がった。
「『か、か、かって』って。お前は、悪だくみする悪代官か。動揺しすぎだ」
 な、何それ。『悪代官』って、おもろ過ぎる。しかも、結弦先輩、ちょっと笑ってる。いや、笑ってるっていうより、楽しそう? こんな顔、久しぶりに見たっ。
 その顔と、さっきの悪代官だけで、白飯、三杯いけるわ。

「だ、だって、せ、先輩が、俺の髪、切ったる言うなんて考えてへんかってんもん」
「いや。前髪、邪魔そうにしてるから」
 メガネを外しながら話してる。こんな、なんでもない動きも見落としたない。
 ちょっと首を傾けた仕草とか、指先の形とか、全部きれいや。
 ……あかん、見惚れてる場合やない。話を戻さな。

「椎名先輩って、髪の毛自分で切れる人なん? その髪型も、自分で?」
「あ。これは母親が切った。うち、美容院なんだ」
 これは新情報! しかも家族系のは初や!
「そうやったんや。じゃあ、そのほんのり茶色の色も──」
「そう、母さんの趣味。校則に引っかからない程度にな」
 結弦先輩のお母さま。あなた、最高のセンスです。神です。この世に先輩みたいな美しい人を授けてくれただけやなく、さらに磨きまでかけてくれるなんて。

「だから先輩も髪切れるんや」
「見よう見まねだけどな」
 そう言って、結弦先輩が微笑んだ。少しずつ、すこーしずつ、前の笑顔に近づいてる。
 二年の春に再会(俺的には)して、もうすぐ夏が来る。ここにきて、だいぶん先輩の笑顔が見れるようになった。
 でも、まだや。
 初めて見た結弦先輩は、もっと弾けた笑顔やった。
 心の底から楽しいときって、こんな顔なんやって、先輩の笑顔が思い出させてくれたんやもん。

「俺、椎名先輩に切ってもらいたい。ええかな?」
 先輩にもっと近づける。これは、千載一遇のチャンスや。無駄になんかできひん。
「ええよ──って、あ、関西弁、うつったな」
 うわあぁ。結弦先輩の関西弁! 
 貴重や。今日、神回? しかも笑い声付きやなんて。
『ええよ』──この三文字が、頭の中でサンバ踊ってる。

「せ、先輩の関西弁、新鮮やな。もっと感染させたろ」
 わざとふざけて言ったけど、動揺してるねん。あー、もう、抱きつきたなる。
「じゃ、今から行くか。今日は喫茶店、休みだろ」
 先輩……。俺の予定、覚えてくれてるん?
 嬉しい。これからも、この先も、先輩の心にいろんな俺を記憶してほしい。

「う、うん! ええの?」
「ええよ」
 二回目の『ええよ』、いただきました。
 カッコいいと可愛いが、俺の脳内で全面戦争してる。どっちか決めらへん。

「でも、先輩。お店って営業中なんちゃうん?」
 ゴホンって咳払いしてから聞いてみた。心拍数が爆上がりなん、隠すために。
「うちも今日は定休日だ。だから気にすんな」
 定休日……。
 ほんなら、店には二人っきり? 
 鏡の前に座る俺と、後ろから俺の髪、触ってくれる先輩と、二人だけの空間!? 
 想像しただけで、体が数センチ、浮いたみたいや。
 だって、冷静になって考えてん。先輩の手が、目が、俺を……俺を──
「結弦、久しぶりだな」
 聞いたことない声に、俺の幸せな妄想が吹き飛ばされた。
 誰? 俺のぽかぽか気分を邪魔するんは。
 
 振り返ったら、百八十近い男子が三人、結弦先輩を見下ろしてた。
 な、なんやこの人ら。先輩に何かしたら俺が許せへんからな。背、高いからって、負けへんで。
「……久しぶり」
 心の中でファイティングポーズ取ってたら、結弦先輩が目線も合わさんと、返事してた。それも、絞り出したみたいな声で。
 え、なんなん、この声……。
 こんな元気ない先輩の声、初めて聞く。この人ら、結弦先輩の友達? それともバスケ部の人?

「学科が違うと、廊下ですれ違うこともないしな」
 今、しゃべった人。昔の俳優みたいな男前やな。醤油顔ってこの人みたいなん言うんやろか。
 けど、なんでそんな思い詰めたみたいな顔で先輩を見てるんやろ。
「椎名は進学コースだから、教室は別館だしな」
 今度は筋肉ムキムキのイカつい人が、しゃべった。顔は笑ろてるのに、目は笑ろてへん。
 なんか、感情、ぐっと飲み込んでるみたいに見える。

「そうだな。あ、そう言えば、この間の試合どうだった? 勝った?」
「ああ、まあ。……なあ、結弦。お前、まだ無理なのか?」
 やっぱり、みんなバスケ部なんや。
 でも『無理』ってどういう意味やろ? あ、まさか──
「足のリハビリ、もう終わったって顧問から聞いたけど」
 細マッチョの人が言った。今にも泣きそうな声してる。
 それにリハビリって、まさかあのくるぶしの傷のこと?

「それは終わった。でも、俺は前みたいには、もう──」
 膝の上の結弦先輩の手、めっちゃ力入れてグーしてる。骨が浮いて、白なってる。
 笑ってんのにどっか辛そうにして、こんな顔、先輩にさせたない。
 この人らは結弦先輩を気にかけてるんや、見てたらわかる。それに、最初に声かけた人も、どっかで見たことあると思ったら、中学のとき、電車で先輩と一緒におった人や。ずっと、先輩とバスケしてきた人なんや。
倉持(くらもち)。俺、退部届け出したから。キャプテンのお前に伝えるの忘れてた。悪い」
 退部届け──。
 やっぱり、もう出してたんや。
 間に合わへんかった。コートに戻った先輩をもう一回、見たかったのに。

「それ、まだ受理してないって顧問が言ってた。だから、お前はまだバスケ部ってこと。それにお前がいないせいで、女子の応援が減ったんだぞ」
 ちょっと、ムキムキの人。それ、ほんま?
 受理されてへんってことは、結弦先輩はまだ、バスケ部員なんや。
 ほんならまだチャンスはある。まだ、やれることあるかもしれへん。
 結弦先輩。みんな、先輩に辞めてほしないって思ってるん、気づいてるんやろか。
 ムキムキの人も心配そうな顔して先輩の肩に手、回して……って、ちょっと筋肉先輩! 俺の結弦先輩に触りすぎとちゃう?

「……おい、荻元(おぎもと)。苦しいから離せって。暑苦しいから肩組むな」
 ほら、怒られた。
 結弦先輩と肩組んだのは、ムキムキの人で名前はオギモト……か。覚えとかなな。
 せやけど名前めんどいから、やっぱり筋肉先輩でええか。要注意人物には変わりないし。
 肩組みなんて俺はまだしてへんのに、なんてうらやましいことすんねん。
 いや、嫉妬してる場合ちゃうわ。さっきのリハビリの話や。

 結弦先輩。もう、バスケできひんの? 前みたいには走られへんってことなん?
 聞きたいけど、聞かれへん。
 だって俺は、先輩の友達でも、恋人でもないから。
 ひとつ年下の、ただの知り合いの分際で口出しできひん。

「なあ、結弦。俺ら予選で優勝したんだ。だから都大会はシード枠もらった。お前が足のこと、克服する時間はあるって俺は思ってる。だから──」
「待ってる、って言いたいんだろ? な、倉持キャプテン」
 中学のとき、電車で結弦先輩と一緒におったこの人、キャプテンなんや。

「荻元の言う通りだ。俺らは椎名が戻って来るまで絶対に勝ち進む。だからせめて練習には顔出せよ。徐々に練習すれば──」
「徐々に練習すれば前みたいに動ける? 人の気も知らないで、本気でそんなこと思ってるのか」
 結弦先輩、その言い方はあかん……。
 この人たち、みんな先輩のこと心配してるのに。自分から突き放したら、みんな離れてまう。

「椎名。お前、その言い方は何だ! 俺らがどれだけ心配してるか──」
「あーっ、先輩方! 申し遅れました!」
 勢いよくベンチから立ち上がったった。けどやり過ぎたか? いや、これくらい派手にせんと空気変えられへん。
「俺、二年一組の、浦嶋凪って言います。あ、浦嶋太郎ちゃいますよ。俺は椎名先輩のファンをしております。以後、お見知りおきを」
 ほら、みんな呆然としてる。いや、呆れてる? どっちでもええわ。イヤな空気はギャグで吹き飛ばすんが一番や。

「何、この二年。ファンって、マジで言ってんの?」
 こ、怖いやん、筋肉先輩。そんな詰め寄って来んといて。けど、俺も負けへんで。
「そうです。俺は、椎名先輩に憧れてるんで」
「へえ。憧れね。で、いつの間にファンクラブなんか出来たんだ? 結弦」
 キャプテン先輩、もしかして空気読んでくれた? ノってくれるんめちゃ助かるやん!

「凪、お前は突然何を言い出す──」
「俺が勝手に追っかけてるだけで、先輩はしゃーなしに付き合ってくれてるんです。あ、ちなみに会員は俺だけです。他の人は入れませんから」
「ブッ。会員一人って。それ、一歩間違ったら、お前、椎名にストーカー扱いされるぞ」
 名前わからん細マッチョ、ええフリしてくれるやん。
「ス、ストーカー! それはヤバい。先輩、お願いやから警察呼ばんといてな」
 頭抱えて、わざと泣きそうな声出したった。
 やった、結弦先輩も、ちょっと笑ろてる!

「浦嶋君、関西の子か。イントネーションが癒される。な、結弦」
「キャプテン先輩、癒されるってそれ、めっちゃ褒め言葉です」
「キャプテン先輩って。お前、面白いな」
「お褒めくださり、ありがとうございます。筋肉先輩」
「俺は筋肉先輩か。鍛えた甲斐あるな」
 二の腕にこぶ作って見せてくれた。よし、みんなノってきた。作戦成功や。

「あのさ、凪──」
「あー、椎名先輩。もうタイムリミットや。早よ行かな、限定二十個の、黄金のたい焼き売り切れるで。今日、絶対食べるって言うてたやん」
 ごめんやけど、先輩。手首掴むで。そのまま引っ張るからな。
「ほな、先輩方。そういうことなんで、ここで失礼します。椎名先輩、早よ行こ!」
「ちょ、ちょっと凪! そんなに引っ張るな。──じゃ、行くわ。その、悪かったな」
「今日は太郎ちゃんに免じて許しとく。早く行ってこい。たい焼き、売り切れるんだろ」
 キャプテン先輩、いい人なうえに勘もいい。さすが、結弦先輩の友達や。
 ……あれ、太郎ちゃんって俺のこと?
 あっ! 浦嶋太郎の太郎か。やっぱこのキャプテン、センス良すぎるわ。

「凪、ちょっと止まれ」
 夢中で走っとったら、もう正門の外まで来てた。
「ご、ごめんなさい。先輩、手首痛なってへん? あ、足は!」
 あの場から退場するんに必死やったから、引っ張り過ぎた? 手首も触ってもたし。
 それに足、痛めてない? 先輩、怒ってたらどないしよ……。

「……ありがとうな、凪」
「え? な、何のありがとうなん?」
「俺があいつらにイヤミ言いそうになったの、凪が止めてくれただろ」
 結弦先輩、気づいてたんや。自分の言葉を止められへんかったんも、わかってたんやな。
 でもその気持ち、俺もわかるで。
 勢いで言葉を乱暴にぶつけてまうの、誰でもあることやもん。
 俺もある。それも、何回も。
 一回、口から出したら止まらんと最後まで言い切って、傷つけたりその反対もある。
 でもな。そんな時は、そばにおる誰かが止めたらええねん。
 俺が一緒におる時は、何回でも止めたる。

「俺は椎名先輩の、防犯システムやから」
「防犯システムって。さっきは俺のファンって言わなかったか?」
「言ったで。俺は先輩のファンで、ボディガードで、ストーカーやから」
「ストーカーは嫌だな」
 先輩、笑ろてる。よかった、ちょっとでも楽しい気分になってくれて。
 けど、ファンか……。ほんまは彼氏になりたいけど──って、恥ずいこと考えてもた。
 先輩。俺は、昔みたいな笑顔が見られたらそれでええねん。そのためやったら、何百回でもアホなこと言えるから。

「じゃ、黄金のたい焼き買いに行くか」
 先輩の横顔見つめとったら、笑いながらこっち見てる。
「せ、先輩、それは咄嗟についた嘘で──あ、知ってて言ったんか。もー、からかわんといて」
「あはは、凪は可愛いな」
 か、可愛い! 俺が?
 ど、どないしょ。褒められた。心臓に爆弾、仕掛けられたみたいに破裂しそうや。
 結弦先輩からそんなこと言われたん初めてやから、耳が熱なってきた。
 免疫力ないのに、これインフル並みに熱出るやつや。

「それじゃ、たい焼きはまた今度にして、家に行くぞ」
「家?」
「もう忘れたのか。髪切ってやるって言っただろ、だから今から俺んち行くの」
 結弦先輩の家……。わ、忘れとった!
 そうや、今から俺は、先輩と二人っきりになるんやった。