シュガースポットまで待って

 東京の駅にも改札にも、我ながらよう慣れたもんや。
 そりゃそうか。関西からこっちに来てもう三年目やもんな。
 けど、電車に乗るたびに思い出してまうな、衝撃を受けたあの日のこと。
 眩しい笑顔に一目惚れして。おまけに、くるぶしにまで心を奪われてもたやなんて。
 でも、今やったら惹かれた理由、わかる気がする。
 慣れてへん東京の空気に負けんよう、学ランのボタン、一番上まで留めて、標準語で話さなあかんって、自分を押し殺しとった。
 けど、どんだけ気合い入れてても、クラスに馴染めんかった。
 そんなときやった、結弦先輩を見つけたんは。
 突然、目の前に現れた先輩を見た瞬間、俺のがんじがらめになった心は木っ端微塵になった。
 友達と楽しそうに笑い合って、全身から堂々としたエネルギーを感じたんや。
 周りなんて関係ない。自分は自分って、俺に教えてくれてるみたいやった。
 それに、先輩の、あの可愛いくるぶし。
「……ふふ。ほんま、自分でも不思議やったわ」
 ぐいっと捲り上げられたズボンの裾から、くるぶしがひょっこり顔を出してるのから、目が離されへんかったもんな。
 電車の中の空気や、走行音をこうやって感じるだけで、初めて先輩の笑顔を見つけたあの日のことが浮かぶわ。
 東京の中学に転校してきて、まだ一ヶ月くらいしか経ってへん頃やったな──。


 あー、憂鬱や。学校なんて行きたない。っていうか、東京になんか来たなかった。
 ずっと関西でおりたかったのに、何で転校せなあかんかったんや、って親父の仕事のせいやけど……。
 学校行ったら、きっとまた言われる。言い方キツイとか、怒ってる? とか。
 関西弁って、こんな感じってテレビで漫才とか観てたらわかるやん。
 関西は会話の全てがボケツッコミやねん。……まあ、これはさすがに言いすぎか。
 そやけど、俺が本気で話してることまで『それ、ボケ?』って何回も聞かれたら、もう笑われへんわ。

 けど、俺はもっと自分は強いって思ってた。それやのに、東京来てからずっと下ばっかり向いてるし。教室でも、歩いてるときも、今みたいに電車に乗ってる時も。
 いっぺんに大勢から標準語で言われただけで、心折れてまうなんて。
「おまけにゲイ扱いされたし……」
 転校する日にふざけて撮った写メ見て、親友との思い出に浸っとっただけやのに。
 まさやんが俺を姫抱っこしてる、それだけの写真やったのに……。

「それをあいつが見てて、俺がゲイやって言いふらしよったんや」

 中三っていう、お年ごろに最適な『ネタ』は、あっという間に広まってもた。
 そのくせ、はっきり言うてこーへんのに、俺をくすくす笑いで見てくる。
 でも、焦ったんは、それが図星やったからや。
 好きになる相手が普通とちゃうって、自覚してるから。
 けど、まさやんのこと、そういう目で見たことない。大事な親友や。それやのに──。
 あれは、ほんま耐えられへん。
 目、合うたびに「ギャグないの」とか、「それってボケ?」とかって言われたら──もう、無理やった。限界やったんや。

 ほんまは俺、底抜けに明るい性格やし、友だちも多かったのに。
 引っ越しの時なんて、みんなで肩組んで、大学生になったら東京で会おうって、友情の続きも約束したくらいやで。
 それやのに、俺、今、ぼっちやん。
 関西に帰りたい! ほんまに帰りたい。このままやったら、俺、ほんまに壊れてまう。
 そう親に頼もうと思ったけど、言えんかった。

「そやから、あんな衝動的なことしてもたんや……ほんま、アホや」

 正直、怖かったし、めっちゃ痛かった。
 けど、そんなことするくらい、心底参ってたんや。
 いざ、手首に刃を当てたとき、結局ビビってもたけど。でも、それがよかったんやろな。傷は思ったより浅くて済んだ。
 慌てたおかんと病院行って、めちゃくちゃ怒られて、浴びたげんこつの方が痛かった。
 それで俺の反抗はあっけなく終わり。
 残ったんは、尖ったもん苦手になって、ハサミを握るんがギリになったこと。
 それと、この手首の白い線みたいな傷痕やな。

 ……電車の窓の外見てたら、切ななってくる。終点が、地元やったらええのにな。
 このまま、下向いて寝てたら乗り過ごせへんかな。
 とりあえず、目ぇつむって、うつむいとこ──。

 ガタンッて体が横揺れして、パッと目が開いた。
 俺、一瞬、マジ寝してたんや。駅、着いてる……って、まだ三つしか過ぎてへんやん。
 ドアが開いて風が入ってきた。春の風や、お日さんの匂いがするもん。
 足音と一緒に、賑やかな声も聞こえてきた。
 なんか楽しそうな声や。友達やろか、仲良さそうでええな。
 声聞いてるだけで、こっちも楽しなってくるわ。
 そうや。うたた寝から起きたフリして、どんな人なんかさりげなく見たろ。

 前髪に隠れながら、ゆっくり顔を上げた瞬間、時が止まった気がした。
 電車の揺れも、アナウンスの声も全部消えて、ドアのそばに立つ男子に釘付けになった。
 すらっと長い手足に、小さい頭。緩いウェーヴの前髪は目元ぎりの長さで、笑うたびに揺れてそこからほんのり垂れた目が見えてる。
 ふっと笑ろたら、一瞬だけ目が細くなる。あの笑顔、なに。めっちゃ心に刺さるやん。
 制服も着崩しておしゃれやし、立ってる姿も凛としてて、どこをとっても完璧や。
 何より、あのくるぶし! 細い足首と一緒になって、めちゃくちゃきれいで輝いてる。
 ズボンの裾を折って、くるぶし丈にする着こなしに、丈の短い靴下がめっちゃ似合ってる。笑顔とくるぶしに目が惹きつけられて、ガン見してまう。

 ちょお、待って。くるぶしとかって、俺、変態みたいやん。あの人に気づかれたらアウトなやつやん。
 普段は足なんて気にせえへんのに、あの人だけは勝手に目が見てまう。他に二人おるけど、俺の目に映るんはくるぶしの人だけや。
 心臓、めっちゃドキドキしてる。こんな感覚、初めてや。
 高校生やろか? 俺より、ちょい年上っぽいもんな。
 とにかく顔がヤバい。特に笑った顔。あれはあかん、反則や。あんなきれいな男子、この世におったん?
 これ……一目惚れ? え、俺、あの人のこと、好きになってもたん? ほんならこれが初恋? 
 いやいや、学校行きたない病でおかしなってるんや。

 冷静になれ。ほんで、深呼吸してもっかい見てみよ。
 あ、また笑った。あーいうのを、満面の笑顔って言うんやろか。
 声もええなぁ。低すぎひんし、高くもない。俺の好きな音や。
 学年一のイケメン・まさやんも、あの人には敵わへんわ。尊すぎる。
 どないしよ。見たいのに、見られへん。
 もしかしたら、東京のイケメンに免疫がないだけかもしれへん。けど、俺の心があの人のこと知りたいって叫んでるんは事実や。
 関西のノリで、きっかけ作れって、脳が指令出してる。
 心の口、塞いどかな声かけそうになってる。

 あ、あー。迷ってる間に、駅、降りてまう。ここ何駅? 学校どこなん? 何にもわからへん。俺、今、ぷちパニック!
 カッコええんと、足のくるぶしが可愛いってことしか、あの人の情報ゼロやん。
 明日もこの車両に乗ってくるんかな。ずっとこの時間に登校しとったんかな。
 学校行きたないからって、いっつもギリギリに着くよう電車乗ってたから、会わへんかったんかも。めっちゃもったいないことしてたやん。
 さっきの駅、メモっとこ。あと制服の特徴と、カバンに校章ついとったな。
「あ、あと、バッシュケース持ってたわ!」
 ヤバッ。興奮して声デカなってもた。隣の席のおっちゃんにめっちゃ睨まれてもた。
 ごめん、おっちゃん。けど、人生で初の恋やねん。許して。

 学校は嫌やけど、この電車には乗りたい。いや、乗るんや!
 あの人の笑顔見てたら、勇気出てきた。うじうじ悩んどったんがアホみたいやわ。
 よし、明日から、がんばろっ。
 もし毎日、会えるんやったら、俺はもう「学校行きたない」なんて思わへん。
 毎朝の、ちょっとした幸せがあれば、クラスで何を言われてもスルーできる。
 そんなふうに、俺の毎朝は、あの人の笑顔を中心に回り始めたんや。


 電車が駅に滑り込むガタンゴトンッて、ジョイント音とアナウンスの声で、俺はハッと今に引き戻された。
 あの時から三年か──。
 けど、あのくるぶしを間近で拝めるようになるなんて、あの時は想像もしてへんかったな。
「おまけに、先輩があの笑顔、どっかに置いてきてもたんも……」

 だから決めたんや。
 俺が救われたように、今度は俺が先輩の笑顔を取り戻す番なんやって。
 それにくるぶしの傷痕。あれが原因でバスケやめたんなら、それも取り戻したい。
 けど、これは無理強い出来ひん。
「とにかく、笑顔や!」
 よし、早よ学校行こ。ほんで今日もまた、藤棚の下で結弦先輩と会うんや。