夏休みの熱気は消えたはずやのに、教室はまだ夏の名残りの空気であふれてる。
日に焼けた肌とか、旅行の写真。みんなで見せ合いっこして、楽しそうや。
けど俺の頭の中には、最悪の一日しか残ってへん。
雨の公園。結弦先輩の顔や声、ワックスで決めた髪が濡れていく感触……
全部、思い出すたびに、窒息しそうに苦しい。
二学期が始まっても、胸の鉛は残ったままやった。
昼休みは勇気がなくて教室から一歩も出れへんかった。けど、それじゃあかんって、もうひとりの俺が怒ってる。
教室からは見えへんのに、藤棚がある方ばっかり窓から眺めてた。
新学期になって数日経ってからの放課後。みんなが帰って行く中に紛れて、藤棚のある校庭の隅っこに行ってみた。けど、手前にあるイチョウの木で俺の足は止まってもた。
藤棚の下。いつものベンチに結弦先輩がおったからや。
久しぶりに見る、制服姿の先輩。もしかして、学校始まってからずっと来てたん?
イチョウの木に隠れて見てたら、先輩が風に揺れる藤の葉をぼんやり眺めてた。
結弦先輩、元気ないな……
ご飯、ちゃんと食べてた? ちょっと痩せてへん?
心配する言葉並べても原因作ったんは、俺や。
声かけたいな……
けど、俺がそばに行ったら、先輩がまた嫌なこと思い出すかもしれへん。
ぐちゃぐちゃに絡まった糸は、不器用な俺にはほどかれへん。
家、帰ろ──あ、ヤバッ。向こうからキャプテン先輩が来てもた。
なんであの人、ここに来るんやろ。藤棚の下、気に入ったんかな……って、ちゃうわな。
二人は親友やもん。きっと、結弦先輩が心配で会いに来てるんや。
めっちゃ笑顔で結弦先輩の隣に座ってる。
あそこ、いつも俺の場所やったのに。
イチョウの木に八つ当たりしそうになった手を止めて、また二人を覗いた。
何の話してるんやろ、先輩が苦笑いしてるんが気になる。
もっと近くに行かな聞こえへんな。
藤棚に近いイチョウまで移動して、木の幹に背中を預けた。顔だけ出そうとした時、キャプテン先輩の声が聞こえて慌てて顔を引っ込めた。
「凪君、まだ来てないんだ」
キャプテン先輩、俺のことは気にせんと、代わりに結弦先輩、笑かしたって。
木の影から祈ったけど、倉持先輩には伝わらへんかった。その証拠に、結弦先輩は黙ったままや。
「どうした、ケンカでもしたのか」
そのワードは禁句やって。もう、キャプテン先輩の役立たず。
「ケンカ……か。ちょっと違うな。俺が一方的に悪くて、勝手に傷ついて、凪に八つ当たりしただけだ」
聞こえてきた声は、俺が知らん結弦先輩の声やった。
先輩は悪ない。俺に八つ当たりもしてないって。
「それが凪君がここに来てない理由、とか?」
結弦先輩が膝に置いた手を握りしめるんが見えた。
先輩、そんな辛そうな顔で踏ん張らんでええねん。俺のことで苦しまんといて。
「俺、謝りたくて待ってるんだけど。……ずっと凪は来てない」
……先輩は悪ないねんってば。
「ふーん。あの、底抜けに明るい子が顔を見せないって、よっぽどのことか」
ちょっと、底抜けってなに? 人がおらへん思って、キャプテン先輩、言いたい放題やな。
「俺、ずっと凪に救われてたのに。凪がいたから……じいちゃんのバスケも見に行けたし、バスケもしようかなって思えたんだ。だから、バッシュを見にも行った。けど──」
「けど?」
結弦先輩、緊張してる? ゴクッて、唾を飲み込む音が聞こえてきそうや。
「俺よりずっと輝いてるやつが、凪のそばにいたんだ。負けたって……思ったな」
え……? それ、もしかしてまさやんのこと?
なんで、そんな風に思うん? まさやんも、結弦先輩もみんな、一生懸命な人はキラキラしてるやん。先輩は、今、ちょっと休憩してるだけやんか。
「追い打ちをかけるみたいに、推薦がなくなった話も凪に知られて。情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて。だから……あんなこと、言ったんだ。ほんと、俺は最低だ」
藤の葉がザワって揺れた。そのせいで結弦先輩の声が少し震えて流れてくる。
「凪にもらってばっかりで、俺は何も返せてない。凪に慕われる資格なんてないんだ」
――そんなこと!
絶対、そんなことない!
言わなあかん。すぐ言わなあかんのに、足が動かへん。俺、びびってる。
「俺、どうしたらいいんだろうな」
弱々しい声や。それでも必死に奮い立たせようとしてる。
今すぐ先輩のそばに行って手を握りしめたい。大丈夫やって、先輩は弱ないって言いたい。
「部活に戻って来い、結弦。毎朝、走り込みしてるんだろ。お前のお母さんが教えてくれたぞ。足はとっくに治ってるんだ、あとはここだけだ」
倉持先輩が、こぶしを結弦先輩の胸んとこに当ててる。
先輩、毎朝走ってるんや。ほんなら、足、もう痛ないんや。
よかった。ほんまによかった。くるぶし、万歳や!
「走ってるけど、それだけだ。ボールもボンバーの練習んときくらいしか触ってない」
「結弦は凪君を、その輝いてる子に取られてもいいのか?」
え? キャプテン先輩。それ、どういう意味?
「輝いてる子に……か」
結弦先輩は意味わかって答えてるん? え、俺だけわかってないん?
先輩が小さく息を吐くのが見えた。ベンチに持たれて、また揺れてる葉っぱ見てる。
「凪君は、お前が笑ってるのが見たいって言ってたな」
「笑ってるのを?」
頭の後ろで両腕組んだキャプテン先輩が、横目で結弦先輩を見てる。
めっちゃ優しい目やけど、それ以上は言わんといてよ。俺の気持ち、バラさんといてよ。
木の影から念を送ってたら、倉持先輩の目と合った。
ヤバッ! 見つかってもた! キャプテン先輩が、ニヤッて笑ろてる。
サッて木の影に隠れたら、倉持先輩が爆弾投げよった。
「凪君に謝りたかったらバスケに戻れ。絶対、あの子はそれを喜ぶ」
あかん。そんな風に先輩を追い詰めんといて。
「一回、コートに立ってみろ。そっからシュート打ってみたら、何かが変わるって」
「シュートか……何回かやろうとしたけど、足を怪我したときのイメージが消えないから打てなかった。渋谷の言う通り、俺はメンタルが治ってない」
「お前はずっと怪我知らずできたから余計だ。俺なんか、何回、怪我してると思ってるんだ。ディフェンスしてたら肘鉄は喰らうし、捻挫だって数えられないくらいしてる」
そうやったんや。キャプテン先輩も、まさやんも、怪我に苦しんできたんや。
「ここまで言ってもその気になれないなら、俺が凪君もらうけど。凪君の顔、アイドルの何とかリヒトって子に似てて可愛いし」
はい? 今、何て言いました? リヒトって誰?
俺をもらうって、意味わからへん。あ、あの人、わかってて言うたんや。俺のこと、からかってるんや。ほら、こっち見てニヤけてるし。
もう、バレるからこっち見たらあかんって。
「倉持が凪を? それは──」
結弦先輩が何か言った瞬間、風がサッと吹き抜けて、イチョウの葉がざわざわと揺れた。
なに? 今、結弦先輩、何て言ったん? 葉っぱの音で聞こえへんかった。
「なるほどな。じゃ、決まりだな」
ちょっと、何が『なるほど』なん? 『決まりだな』ってなにが決まったん?
肝心なとこ、わからへん。結弦先輩、何て言ったん?
こっから一歩踏み出して、先輩に声かけたら解決すんのに、それができひん。
イチョウの葉を見上げながら、行き場のない気持ちをぶつけるみたいに木の幹にしがみついた。
あー、もう。先輩のそばに行きたい……
日に焼けた肌とか、旅行の写真。みんなで見せ合いっこして、楽しそうや。
けど俺の頭の中には、最悪の一日しか残ってへん。
雨の公園。結弦先輩の顔や声、ワックスで決めた髪が濡れていく感触……
全部、思い出すたびに、窒息しそうに苦しい。
二学期が始まっても、胸の鉛は残ったままやった。
昼休みは勇気がなくて教室から一歩も出れへんかった。けど、それじゃあかんって、もうひとりの俺が怒ってる。
教室からは見えへんのに、藤棚がある方ばっかり窓から眺めてた。
新学期になって数日経ってからの放課後。みんなが帰って行く中に紛れて、藤棚のある校庭の隅っこに行ってみた。けど、手前にあるイチョウの木で俺の足は止まってもた。
藤棚の下。いつものベンチに結弦先輩がおったからや。
久しぶりに見る、制服姿の先輩。もしかして、学校始まってからずっと来てたん?
イチョウの木に隠れて見てたら、先輩が風に揺れる藤の葉をぼんやり眺めてた。
結弦先輩、元気ないな……
ご飯、ちゃんと食べてた? ちょっと痩せてへん?
心配する言葉並べても原因作ったんは、俺や。
声かけたいな……
けど、俺がそばに行ったら、先輩がまた嫌なこと思い出すかもしれへん。
ぐちゃぐちゃに絡まった糸は、不器用な俺にはほどかれへん。
家、帰ろ──あ、ヤバッ。向こうからキャプテン先輩が来てもた。
なんであの人、ここに来るんやろ。藤棚の下、気に入ったんかな……って、ちゃうわな。
二人は親友やもん。きっと、結弦先輩が心配で会いに来てるんや。
めっちゃ笑顔で結弦先輩の隣に座ってる。
あそこ、いつも俺の場所やったのに。
イチョウの木に八つ当たりしそうになった手を止めて、また二人を覗いた。
何の話してるんやろ、先輩が苦笑いしてるんが気になる。
もっと近くに行かな聞こえへんな。
藤棚に近いイチョウまで移動して、木の幹に背中を預けた。顔だけ出そうとした時、キャプテン先輩の声が聞こえて慌てて顔を引っ込めた。
「凪君、まだ来てないんだ」
キャプテン先輩、俺のことは気にせんと、代わりに結弦先輩、笑かしたって。
木の影から祈ったけど、倉持先輩には伝わらへんかった。その証拠に、結弦先輩は黙ったままや。
「どうした、ケンカでもしたのか」
そのワードは禁句やって。もう、キャプテン先輩の役立たず。
「ケンカ……か。ちょっと違うな。俺が一方的に悪くて、勝手に傷ついて、凪に八つ当たりしただけだ」
聞こえてきた声は、俺が知らん結弦先輩の声やった。
先輩は悪ない。俺に八つ当たりもしてないって。
「それが凪君がここに来てない理由、とか?」
結弦先輩が膝に置いた手を握りしめるんが見えた。
先輩、そんな辛そうな顔で踏ん張らんでええねん。俺のことで苦しまんといて。
「俺、謝りたくて待ってるんだけど。……ずっと凪は来てない」
……先輩は悪ないねんってば。
「ふーん。あの、底抜けに明るい子が顔を見せないって、よっぽどのことか」
ちょっと、底抜けってなに? 人がおらへん思って、キャプテン先輩、言いたい放題やな。
「俺、ずっと凪に救われてたのに。凪がいたから……じいちゃんのバスケも見に行けたし、バスケもしようかなって思えたんだ。だから、バッシュを見にも行った。けど──」
「けど?」
結弦先輩、緊張してる? ゴクッて、唾を飲み込む音が聞こえてきそうや。
「俺よりずっと輝いてるやつが、凪のそばにいたんだ。負けたって……思ったな」
え……? それ、もしかしてまさやんのこと?
なんで、そんな風に思うん? まさやんも、結弦先輩もみんな、一生懸命な人はキラキラしてるやん。先輩は、今、ちょっと休憩してるだけやんか。
「追い打ちをかけるみたいに、推薦がなくなった話も凪に知られて。情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて。だから……あんなこと、言ったんだ。ほんと、俺は最低だ」
藤の葉がザワって揺れた。そのせいで結弦先輩の声が少し震えて流れてくる。
「凪にもらってばっかりで、俺は何も返せてない。凪に慕われる資格なんてないんだ」
――そんなこと!
絶対、そんなことない!
言わなあかん。すぐ言わなあかんのに、足が動かへん。俺、びびってる。
「俺、どうしたらいいんだろうな」
弱々しい声や。それでも必死に奮い立たせようとしてる。
今すぐ先輩のそばに行って手を握りしめたい。大丈夫やって、先輩は弱ないって言いたい。
「部活に戻って来い、結弦。毎朝、走り込みしてるんだろ。お前のお母さんが教えてくれたぞ。足はとっくに治ってるんだ、あとはここだけだ」
倉持先輩が、こぶしを結弦先輩の胸んとこに当ててる。
先輩、毎朝走ってるんや。ほんなら、足、もう痛ないんや。
よかった。ほんまによかった。くるぶし、万歳や!
「走ってるけど、それだけだ。ボールもボンバーの練習んときくらいしか触ってない」
「結弦は凪君を、その輝いてる子に取られてもいいのか?」
え? キャプテン先輩。それ、どういう意味?
「輝いてる子に……か」
結弦先輩は意味わかって答えてるん? え、俺だけわかってないん?
先輩が小さく息を吐くのが見えた。ベンチに持たれて、また揺れてる葉っぱ見てる。
「凪君は、お前が笑ってるのが見たいって言ってたな」
「笑ってるのを?」
頭の後ろで両腕組んだキャプテン先輩が、横目で結弦先輩を見てる。
めっちゃ優しい目やけど、それ以上は言わんといてよ。俺の気持ち、バラさんといてよ。
木の影から念を送ってたら、倉持先輩の目と合った。
ヤバッ! 見つかってもた! キャプテン先輩が、ニヤッて笑ろてる。
サッて木の影に隠れたら、倉持先輩が爆弾投げよった。
「凪君に謝りたかったらバスケに戻れ。絶対、あの子はそれを喜ぶ」
あかん。そんな風に先輩を追い詰めんといて。
「一回、コートに立ってみろ。そっからシュート打ってみたら、何かが変わるって」
「シュートか……何回かやろうとしたけど、足を怪我したときのイメージが消えないから打てなかった。渋谷の言う通り、俺はメンタルが治ってない」
「お前はずっと怪我知らずできたから余計だ。俺なんか、何回、怪我してると思ってるんだ。ディフェンスしてたら肘鉄は喰らうし、捻挫だって数えられないくらいしてる」
そうやったんや。キャプテン先輩も、まさやんも、怪我に苦しんできたんや。
「ここまで言ってもその気になれないなら、俺が凪君もらうけど。凪君の顔、アイドルの何とかリヒトって子に似てて可愛いし」
はい? 今、何て言いました? リヒトって誰?
俺をもらうって、意味わからへん。あ、あの人、わかってて言うたんや。俺のこと、からかってるんや。ほら、こっち見てニヤけてるし。
もう、バレるからこっち見たらあかんって。
「倉持が凪を? それは──」
結弦先輩が何か言った瞬間、風がサッと吹き抜けて、イチョウの葉がざわざわと揺れた。
なに? 今、結弦先輩、何て言ったん? 葉っぱの音で聞こえへんかった。
「なるほどな。じゃ、決まりだな」
ちょっと、何が『なるほど』なん? 『決まりだな』ってなにが決まったん?
肝心なとこ、わからへん。結弦先輩、何て言ったん?
こっから一歩踏み出して、先輩に声かけたら解決すんのに、それができひん。
イチョウの葉を見上げながら、行き場のない気持ちをぶつけるみたいに木の幹にしがみついた。
あー、もう。先輩のそばに行きたい……

