シュガースポットまで待って

『お天気コーナーの時間です。東京は午前中は晴れ間も見えますが、午後からは雨の予報です。傘を忘れずにお出かけくださいね。特に午後からのお出かけは、雨具必須です!』

 雨か……
 せっかく結弦先輩と初めてのおでかけやのに、雨とは許されへんな。
 お天気お姉さんの予報を聞いてベランダに出たけど、空はきれいな水色一色や。
「ほんまに雨降るん? けど、このお姉さん、当たるしな」
 玄関のシューズボックスの隅っこ。確か、この辺に折り畳み傘あったよな。
「あ、あったあった」
 トートバッグに傘を入れてたら、鏡の俺と目が合った。
 前髪を指先で、ちょいちょいって触ってみる。
 ワックス、先輩、気づいてくれるかな。
 前髪をちょっとだけ捻って形作ってから、鏡の自分に、ニッて笑いかけた。

「よし、完璧や──ちょ、おかん。黙って立たんといて」
 おろしたてのスニーカー履いてたら、おかんが音もなく後ろにおった。
「凪、新しい靴、履いて行くん?」
「そうや。カッコええやろ」
 上がりかまちに座って足上げたら、おかんが渋い顔してる。
「今日、雨やで。雨の日に新しい靴、下ろしたら縁起悪いねんで」
 またそんな、根拠もないこと言いよる。小さいときから何かにつけて物言いしてくるわ。
 夜に口笛吹いたら蛇、出てくるとか。夜、爪を切ると親の死に目に会えへんとか。って、
 なんや、夜ばっかりやな。

「そんなん迷信や。汚れるからやめとけってことやろ?」
「そうとも言うな」
 何やそれ。縁起悪いって話はどこいったんや。
「汚れたらちゃんと洗うからいいねん。ほな、行ってくるわ」
 つま先、一回だけトンって土間に当てて、気合い入れてから玄関を出た。
 外はまだまだギラギラ太陽や。昼すぎてるからいっちゃん、暑い時間帯やな。
 そやけど今日の俺は無敵やねん。
 これでもかって温度も、熱気ムンムンも今日の俺には勝たれへん。
 結弦先輩と二人で出かける。それだけで雲の上に乗ったみたいな気分や。

 また鼻歌出そうになるの我慢しながら、待ち合わせの駅に向かった。
 スマホで時間を確認したら、あと十分で約束の一時になる。
 五分前くらいに着くから、ちょうどええな。
 思わずスキップしたなる気持ちで歩いてたら、駅が遠目に見えて──
「あ、先輩、もうおるやん」
 結弦先輩を待たせるなんて、どこの不届もんや。って、俺か。
 今はひとりボケツッコミしてる場合ちゃう。
 走りながら、「椎名先輩っ」って呼んだら、こっち見てくれた。
 よかった。いつもの優しい先輩の顔や。

 正直、今日、顔見るまで不安やった。
 この間、まさやんと一緒やった時の先輩は様子がおかしかった。
 苛立ってたっていうか、怒ってたっていうか……
 もしまた、あの日みたいな目されたら──って、めっちゃ不安やった。
 でも、遠目からでもわかる。
 先輩の笑顔が見えた途端、俺の不安は一瞬で蒸発した。

「先輩、ごめん。遅なった」
 目の前まで一気に走ってから謝ったら、暑さなんか跳ね除ける笑顔で迎えてくれた。
 胸の奥で心臓が跳ねて、鼓動が太鼓のゲームみたいに連打してる。
 呼吸が乱れてるんも、走ってきたせいとちゃう。いつもの先輩で嬉しかったからドキドキしてるだけや。
 笑顔の先輩に会えた……それだけで、ゾンビもジェイソンも撃退できる。

「全然遅くないけど、凪、走って大丈夫か」
 先輩が心配そうに俺の太ももを見下ろしてる。また、心配させてもた。
「平気やで。ほら、こんだけ足、上げても痛ないで」
 その場で駆け足の格好を披露したら、結弦先輩の眉がググって、眉間に寄った。
 上げた足の上に先輩の手が乗って、ゆっくり下げてくれる。
 勢いつけて振ってた腕も、手でそっと掴まれて止まった。

「ほんとに無茶すんなって、凪」
 諭すみたいな優しい声で名前呼ばれたら、言ってまいそうになる──
 ……結弦先輩が好きですって。
「なあ、それより昼飯、食った?」
 架空の告白に思考が奪われてたら、先輩が、改札を指差してた。
「あ、うん、焼きそば食べてきた。もしかして椎名先輩、まだ?」
「そうなんだ。凪さえよかったら、マック、付き合ってくれる?」
「ええよ。俺、めっちゃポテトの気分」
 改札抜けながら先輩が、可愛い気分だな、それ、って笑うから、ダンボール一箱分、食べたろかって思った。

 最寄駅に着いて映画館に近いマックに入った。
 向かい合って、ハンバーガーを食べてたら、恋人みたいな気分になる。
 これこそ、理想の食卓っていうやつやろか。俺はポテト頬張ってるだけやけど。
「ハムスターみたいだな、凪の食い方」
「はむふたぁ? ろこが?」
 ポテト、いっぺんに三本頬張ってるからやろか?
「そう言うとこ」
 コーラ飲んでから、「そう言うとこって?」って、聞いたら、笑ろてばかりで教えてくれへん。

 トイプードル言うたりハムスター言うたり。全部、ちっこいやつばっかりやん。
 わざとひまわりの種みたいにポテトで口の中いっぱいにしたら、先輩が爆笑してくれた。
 よかった。先輩、笑ろてる。
 ホッとしてたら、見たことない制服の高校生が俺らを見下ろしてた。
 誰、この人? どこの高校やろ。えらい、背の高い人やな。
 じっと見上げてたら、俺の視線に気づいたんか、結弦先輩が後ろを振り返った。
 見上げた途端、先輩の横顔がみるみる青ざめてる。

「声が似てると思ったら、やっぱり椎名だったか。久しぶりだな、元気か」
 この人、結弦先輩の友達? それにしては先輩の表情、曇ってる。
「……まあな。渋谷(しぶたに)も元気か?」
 シブタニ……? あ、バッシュケース持ってる。ってことは、この人もバスケやってるんや。どうりで背、高いはずや。

「お前のとこも勝ってるみたいだな。このままいけば、トーナメントでうちの学校と当たるか。まあ、負ける気はないけど」
 何や、この人。イヤな言い方してくるな。言葉の中に棘を仕込んでるみたいや。
「俺はもう、やめたから関係ない」
 やめたってバスケのこと? けど、キャプテン先輩は、先生が退部届、受理してへんって言ってた。
「へえ、それはラッキーだな。椎名がいないなら、楽に勝たせてもらえるわ」
 な、なんて言い方するんや、この人! 侮辱しか感じられへん!
「俺がいなくても、うちは勝てる。あまり甘くみない方がいいと思うけど」
 相手の顔を見いひんまま、結弦先輩がアッパーカットかました。
 シブタニっていう人、顔、ひきつってるわ。

「ふーん。余裕だな。ま、勝っても負けても、俺はどっちでもいいかな。誰かさんが怪我してくれたお陰で、俺は東洋大(とうようだい)に推薦で行くこと決まったから」
 誰かさん……怪我? それって、結弦先輩のこと!?
 先輩の顔見たら、能面みたいに無表情になってる。
 さっきまでの楽しい空気が、この人の登場で座席ごと凍らされたみたいになってもた。

「東洋大の監督が言ってたっけな。椎名はもう、メンタルが無理かもって」
 一瞬、頭が真っ白になった。けど、それはすぐ、怒りが追い越した。
 腹がたって考えるより先に、勢いよく立ち上がってた。椅子が後ろに倒れて、店内の空気を変える大きい音がした。他の客の視線がいっぺんに飛んできたけど、そんなんどうでもええ。
「ちょっと、あんた──」
 言いかけた俺の言葉は、先輩に手首を掴まれて止まった。その手が小さく震えてる。
 シブタニって人が、俺をちらって見て来たから、下から睨みあげたった。

「……お前の代わりに引き抜かれたのは(しゃく)だけど、理由は何でもいい。プロの目に留まるチャンスがあの大学にはあるからな。あ、仲間が呼んでるから行くわ。椎名も頑張れよ」
 じゃあなっと言って、シブタニが同じ制服がおる席に戻って行った。
 他の仲間がこっちを見て、何か耳打ちしてる。めっちゃイヤな感じや。

 結弦先輩に視線を戻したら、食べかけのハンバーガー持ったまま遠い目になってる。
 店の中でもない、さっきの人でもない。どこか別の空間を見つめているみたいな目や。
「せんぱ──」
「あー、腹いっぱいになったな。運動してないから少食になってるんかもな」
 半分しかまだ食べてへんのに。ポテトもドリンクも残ってるのに。

「あの、先輩。さっきの人が言ってたことって……」
 頭の中でもう一人の俺が叫んでる。『その質問はすんな』って。そやのに、口が止まらへんかった。
「ああ……あれな。あれは……言葉の通りだ」
 言葉の通りって。ほんなら、ほんまは先輩が行くはずやった大学推薦の枠、あのシブタニって人に取られたってこと?
「あの、椎名せんぱ──」
「凪。ちょっと早いけど、映画館に行こうか」
 トレーを持って、結弦先輩が立ち上がった。俺も慌てて立ったけど、もう、先輩はダストボックスの前におる。
 まるでこの場に俺が存在してないみたいな、そんな動きや。

 ゴミを捨てて振り返ったら、先輩はもう、外に行ってもた。
 いつもなら俺が来るまで見ててくれる人が、今は背中向けて先を歩いてる。
 横断歩道の信号でやっと追いついて、先輩の顔、見上げたら赤信号を睨むように見てた。
 ピヨ・ピヨって軽快な音で踏み出した先輩の足が、その音をかき消すみたいに踏み締めて歩いてる。

 横断歩道を渡り切った公園に入ってすぐのベンチの前で、先輩の足が止まった。
 木陰の下、風が吹いて、最初の雨粒がポツッて先輩の肩に乗った。けど、一ミリも体は動かへん。
「椎名先輩……」
 そっと呼んだけど、返事はない。
 背中から滲み出てる空気は、これまで見たホラー映画よりずっと怖いくらい静かやった。

 ポツ、ポツ、ポツッて、雫が空から落ちてきた。
 あかん、先輩が風邪ひいてまう。
 トートバッグから折り畳みの傘出して、広げようとしたのに、スムーズに開けへん。
 その間も、先輩は何も言わんと、同じ場所で立ってる。
 開いた傘を差しかけようとしたけど、近づいてええんかわからへん。
 背中が一人にしてくれって、言ってるみたいや。

 俺がそばにおってもええんやろか……
 さっきより雨の粒が大きくなってきたから、思い切って先輩の上に傘をさした。
 傘に当たる雨の音を聞いてたら、先輩の声が雨音に混ざってポソッと落ちてきた。
「先輩……?」
「……情けないよな。バスケを避けてたら、決まってた進路も取らてたなんて」
 背中越しに聞こえる声が、雨に染み込んで俺に届いた。
 泣きそうな声に聞こえるんは、気のせい?
 いやや。先輩をこんな風に悲しませたない。
 先輩の笑顔を取り戻すために、俺は存在してんのに。

「……先輩。バスケ、しよ。今やったらまだ間に合う。キャプテン先輩も言ってたやん。椎名先輩が戻るまで勝ち続けるって」
 先輩の肩が、ピクッて強ばった。
 俺も声が上擦ってまう。けど、結弦先輩には前を向いて歩いてほしいから伝えな。
 初めて見た、お日さんみたいな笑顔でまたバスケの話し、してほしい。

「ねえ、先輩。最初は試合の感覚、思い出す感じでええやん。そうや。タカシさんらと一緒にしたら楽しいで。俺、パスの相手でもなんで手伝うし」
「凪……頼むから今はバスケのこと言うな」
「けど、先輩。今から試合出たら、大学の監督さんも考え直すかもしれへんやん。ほら、この間会った、まさやん。あいつも一回怪我して、リハビリ頑張って復活したんやで」
 必死で言うた。先輩が笑って、そうやな、って言ってくれるように。

「リハビリ……」
 先輩の声が小さく揺れた。その背中がしゃべるなって言ってたのに、俺は気づかんと、もう一歩踏み込んでもた。
「先輩が積み上げてきたもん、怪我なんかじゃ消えへんよ。小さな一歩からまた始めればええやん。まさやんも、あいつも必死で戦ってた。だから先輩も大丈夫やって」
 笑ってよ。俺のギャグでええんやったら、なんぼでも言うから笑ってよ。
 辛いことは俺が全部、引き受けるから。だから、先輩。笑って──

「……るさい」
 雨足がひどくなってきて、先輩の小さな声がかき消された。
「先輩、今、なんて……」
「うるさい! お前に何がわかるんだ!」
 初めて聞いた、感情がむき出しになった先輩の声。
「簡単に言うなよ。……どうして、どうしてそんなことが言えるんだ。お前のダチと俺は違うんだ! 日本代表になって外国でプレーしてるやつと一緒にするな」
「けど、先輩……バスケ、好きやろ? あの店におったんが証拠やん」
「お前に……俺の気持ちなんかわかるもんか。バスケもサッカーもできない、お前に言われたくない」

 結弦先輩の顔に雨の雫がついて、泣いてるみたいな顔になってる。
 失敗した──こんな言葉、先輩に言わせたなかったのに。こんな悲しい顔、させたないのに。

 ——勢いで言葉を乱暴に言い放ってまうん、誰でもあることやもん。

 前、結弦先輩が、倉持先輩たちに感情をぶつけたとき、俺はそばにおって止めることが出来た。けど、今の言葉は……今日の先輩は、さすがに止められへん。
 だって、先輩にひどい言葉、言わせたん俺やから。

「……ごめんやで、先輩。今の言葉、俺、止められへんかった」
 一回、口から放った言葉は止まらへん。そのまま最後まで言い切って傷つけたり、傷つけられたり。そんなこと、俺らまだ未熟やもん。何回もある。
 けどそんなときは、そばにおる人間が止めたらええねん。俺がそれをしたかったのに、俺がその役目やったのに。
 俺が先輩に言わせてどうすんねん!

 ほら、結弦先輩は優しいから、悪かったって顔してる。そんな顔も見たない。
 先輩には暗い顔、似合わへん。
 絶対させたなかったのに。ほんまにごめん。ごめんなさい……。
「……あ、凪。俺──」

「ごめん、先輩! 俺、急に腹、痛なってきたから映画、キャンセルするな。あ、この傘、使うて。俺、走るんは得意やから。ほんなら、帰るわ!」
 先輩の手に無理やり、傘を握らせて、俺は一目散に公園を出た。
 後ろから大好きな人が名前を呼んでくれてたけど、雨の音で聞こえてへんフリした。

 アホ、アホ、俺のアホ──

 先輩を笑顔にするんが使命やったのに、悲しませてどうすんねん! 傷つけて、どうすんねん。
 真っ黒な雲がこれでもかって、俺を責めるように雨粒を全身に打ちつけてくる。
 それでええと思った。罰にしてはヌルいくらいや。

 電車乗ったのも、マンションの鍵、どうやって開けたんかもわからへんまま、家に帰って靴脱いだ時、おかんの言葉を思い出してもた。

 ──雨の日に新しい靴下ろしたら縁起悪いねんで。

「はは、迷信ってホンマなんや……」
 廊下に足跡つけながら、自分の部屋に入ってベッドに潜り込んだ。
 濡れた服のままで寝てもたから、その晩から熱が出てもた。
 けど、こんなことくらいで罪滅ぼしにはならへん。
 先輩はもっと、もっと辛かってん。今も、きっと……
 歴代、最悪の夏休みになってもた。けど、今の俺にはお似合いかもしれへん……