『お天気コーナーの時間です。東京は午前中は晴れ間も見えますが、午後からは雨の予報です。傘を忘れずにお出かけくださいね。特に午後からのお出かけは、雨具必須です!』
雨か……
せっかく結弦先輩と初めてのおでかけやのに、雨とは許されへんな。
お天気お姉さんの予報を聞いてベランダに出たけど、空はきれいな水色一色や。
「ほんまに雨降るん? けど、このお姉さん、当たるしな」
玄関のシューズボックスの隅っこ。確か、この辺に折り畳み傘あったよな。
「あ、あったあった」
トートバッグに傘を入れてたら、鏡の俺と目が合った。
前髪を指先で、ちょいちょいって触ってみる。
ワックス、先輩、気づいてくれるかな。
前髪をちょっとだけ捻って形作ってから、鏡の自分に、ニッて笑いかけた。
「よし、完璧や──ちょ、おかん。黙って立たんといて」
おろしたてのスニーカー履いてたら、おかんが音もなく後ろにおった。
「凪、新しい靴、履いて行くん?」
「そうや。カッコええやろ」
上がりかまちに座って足上げたら、おかんが渋い顔してる。
「今日、雨やで。雨の日に新しい靴、下ろしたら縁起悪いねんで」
またそんな、根拠もないこと言いよる。小さいときから何かにつけて物言いしてくるわ。
夜に口笛吹いたら蛇、出てくるとか。夜、爪を切ると親の死に目に会えへんとか。って、
なんや、夜ばっかりやな。
「そんなん迷信や。汚れるからやめとけってことやろ?」
「そうとも言うな」
何やそれ。縁起悪いって話はどこいったんや。
「汚れたらちゃんと洗うからいいねん。ほな、行ってくるわ」
つま先、一回だけトンって土間に当てて、気合い入れてから玄関を出た。
外はまだまだギラギラ太陽や。昼すぎてるからいっちゃん、暑い時間帯やな。
そやけど今日の俺は無敵やねん。
これでもかって温度も、熱気ムンムンも今日の俺には勝たれへん。
結弦先輩と二人で出かける。それだけで雲の上に乗ったみたいな気分や。
また鼻歌出そうになるの我慢しながら、待ち合わせの駅に向かった。
スマホで時間を確認したら、あと十分で約束の一時になる。
五分前くらいに着くから、ちょうどええな。
思わずスキップしたなる気持ちで歩いてたら、駅が遠目に見えて──
「あ、先輩、もうおるやん」
結弦先輩を待たせるなんて、どこの不届もんや。って、俺か。
今はひとりボケツッコミしてる場合ちゃう。
走りながら、「椎名先輩っ」って呼んだら、こっち見てくれた。
よかった。いつもの優しい先輩の顔や。
正直、今日、顔見るまで不安やった。
この間、まさやんと一緒やった時の先輩は様子がおかしかった。
苛立ってたっていうか、怒ってたっていうか……
もしまた、あの日みたいな目されたら──って、めっちゃ不安やった。
でも、遠目からでもわかる。
先輩の笑顔が見えた途端、俺の不安は一瞬で蒸発した。
「先輩、ごめん。遅なった」
目の前まで一気に走ってから謝ったら、暑さなんか跳ね除ける笑顔で迎えてくれた。
胸の奥で心臓が跳ねて、鼓動が太鼓のゲームみたいに連打してる。
呼吸が乱れてるんも、走ってきたせいとちゃう。いつもの先輩で嬉しかったからドキドキしてるだけや。
笑顔の先輩に会えた……それだけで、ゾンビもジェイソンも撃退できる。
「全然遅くないけど、凪、走って大丈夫か」
先輩が心配そうに俺の太ももを見下ろしてる。また、心配させてもた。
「平気やで。ほら、こんだけ足、上げても痛ないで」
その場で駆け足の格好を披露したら、結弦先輩の眉がググって、眉間に寄った。
上げた足の上に先輩の手が乗って、ゆっくり下げてくれる。
勢いつけて振ってた腕も、手でそっと掴まれて止まった。
「ほんとに無茶すんなって、凪」
諭すみたいな優しい声で名前呼ばれたら、言ってまいそうになる──
……結弦先輩が好きですって。
「なあ、それより昼飯、食った?」
架空の告白に思考が奪われてたら、先輩が、改札を指差してた。
「あ、うん、焼きそば食べてきた。もしかして椎名先輩、まだ?」
「そうなんだ。凪さえよかったら、マック、付き合ってくれる?」
「ええよ。俺、めっちゃポテトの気分」
改札抜けながら先輩が、可愛い気分だな、それ、って笑うから、ダンボール一箱分、食べたろかって思った。
最寄駅に着いて映画館に近いマックに入った。
向かい合って、ハンバーガーを食べてたら、恋人みたいな気分になる。
これこそ、理想の食卓っていうやつやろか。俺はポテト頬張ってるだけやけど。
「ハムスターみたいだな、凪の食い方」
「はむふたぁ? ろこが?」
ポテト、いっぺんに三本頬張ってるからやろか?
「そう言うとこ」
コーラ飲んでから、「そう言うとこって?」って、聞いたら、笑ろてばかりで教えてくれへん。
トイプードル言うたりハムスター言うたり。全部、ちっこいやつばっかりやん。
わざとひまわりの種みたいにポテトで口の中いっぱいにしたら、先輩が爆笑してくれた。
よかった。先輩、笑ろてる。
ホッとしてたら、見たことない制服の高校生が俺らを見下ろしてた。
誰、この人? どこの高校やろ。えらい、背の高い人やな。
じっと見上げてたら、俺の視線に気づいたんか、結弦先輩が後ろを振り返った。
見上げた途端、先輩の横顔がみるみる青ざめてる。
「声が似てると思ったら、やっぱり椎名だったか。久しぶりだな、元気か」
この人、結弦先輩の友達? それにしては先輩の表情、曇ってる。
「……まあな。渋谷も元気か?」
シブタニ……? あ、バッシュケース持ってる。ってことは、この人もバスケやってるんや。どうりで背、高いはずや。
「お前のとこも勝ってるみたいだな。このままいけば、トーナメントでうちの学校と当たるか。まあ、負ける気はないけど」
何や、この人。イヤな言い方してくるな。言葉の中に棘を仕込んでるみたいや。
「俺はもう、やめたから関係ない」
やめたってバスケのこと? けど、キャプテン先輩は、先生が退部届、受理してへんって言ってた。
「へえ、それはラッキーだな。椎名がいないなら、楽に勝たせてもらえるわ」
な、なんて言い方するんや、この人! 侮辱しか感じられへん!
「俺がいなくても、うちは勝てる。あまり甘くみない方がいいと思うけど」
相手の顔を見いひんまま、結弦先輩がアッパーカットかました。
シブタニっていう人、顔、ひきつってるわ。
「ふーん。余裕だな。ま、勝っても負けても、俺はどっちでもいいかな。誰かさんが怪我してくれたお陰で、俺は東洋大に推薦で行くこと決まったから」
誰かさん……怪我? それって、結弦先輩のこと!?
先輩の顔見たら、能面みたいに無表情になってる。
さっきまでの楽しい空気が、この人の登場で座席ごと凍らされたみたいになってもた。
「東洋大の監督が言ってたっけな。椎名はもう、メンタルが無理かもって」
一瞬、頭が真っ白になった。けど、それはすぐ、怒りが追い越した。
腹がたって考えるより先に、勢いよく立ち上がってた。椅子が後ろに倒れて、店内の空気を変える大きい音がした。他の客の視線がいっぺんに飛んできたけど、そんなんどうでもええ。
「ちょっと、あんた──」
言いかけた俺の言葉は、先輩に手首を掴まれて止まった。その手が小さく震えてる。
シブタニって人が、俺をちらって見て来たから、下から睨みあげたった。
「……お前の代わりに引き抜かれたのは癪だけど、理由は何でもいい。プロの目に留まるチャンスがあの大学にはあるからな。あ、仲間が呼んでるから行くわ。椎名も頑張れよ」
じゃあなっと言って、シブタニが同じ制服がおる席に戻って行った。
他の仲間がこっちを見て、何か耳打ちしてる。めっちゃイヤな感じや。
結弦先輩に視線を戻したら、食べかけのハンバーガー持ったまま遠い目になってる。
店の中でもない、さっきの人でもない。どこか別の空間を見つめているみたいな目や。
「せんぱ──」
「あー、腹いっぱいになったな。運動してないから少食になってるんかもな」
半分しかまだ食べてへんのに。ポテトもドリンクも残ってるのに。
「あの、先輩。さっきの人が言ってたことって……」
頭の中でもう一人の俺が叫んでる。『その質問はすんな』って。そやのに、口が止まらへんかった。
「ああ……あれな。あれは……言葉の通りだ」
言葉の通りって。ほんなら、ほんまは先輩が行くはずやった大学推薦の枠、あのシブタニって人に取られたってこと?
「あの、椎名せんぱ──」
「凪。ちょっと早いけど、映画館に行こうか」
トレーを持って、結弦先輩が立ち上がった。俺も慌てて立ったけど、もう、先輩はダストボックスの前におる。
まるでこの場に俺が存在してないみたいな、そんな動きや。
ゴミを捨てて振り返ったら、先輩はもう、外に行ってもた。
いつもなら俺が来るまで見ててくれる人が、今は背中向けて先を歩いてる。
横断歩道の信号でやっと追いついて、先輩の顔、見上げたら赤信号を睨むように見てた。
ピヨ・ピヨって軽快な音で踏み出した先輩の足が、その音をかき消すみたいに踏み締めて歩いてる。
横断歩道を渡り切った公園に入ってすぐのベンチの前で、先輩の足が止まった。
木陰の下、風が吹いて、最初の雨粒がポツッて先輩の肩に乗った。けど、一ミリも体は動かへん。
「椎名先輩……」
そっと呼んだけど、返事はない。
背中から滲み出てる空気は、これまで見たホラー映画よりずっと怖いくらい静かやった。
ポツ、ポツ、ポツッて、雫が空から落ちてきた。
あかん、先輩が風邪ひいてまう。
トートバッグから折り畳みの傘出して、広げようとしたのに、スムーズに開けへん。
その間も、先輩は何も言わんと、同じ場所で立ってる。
開いた傘を差しかけようとしたけど、近づいてええんかわからへん。
背中が一人にしてくれって、言ってるみたいや。
俺がそばにおってもええんやろか……
さっきより雨の粒が大きくなってきたから、思い切って先輩の上に傘をさした。
傘に当たる雨の音を聞いてたら、先輩の声が雨音に混ざってポソッと落ちてきた。
「先輩……?」
「……情けないよな。バスケを避けてたら、決まってた進路も取らてたなんて」
背中越しに聞こえる声が、雨に染み込んで俺に届いた。
泣きそうな声に聞こえるんは、気のせい?
いやや。先輩をこんな風に悲しませたない。
先輩の笑顔を取り戻すために、俺は存在してんのに。
「……先輩。バスケ、しよ。今やったらまだ間に合う。キャプテン先輩も言ってたやん。椎名先輩が戻るまで勝ち続けるって」
先輩の肩が、ピクッて強ばった。
俺も声が上擦ってまう。けど、結弦先輩には前を向いて歩いてほしいから伝えな。
初めて見た、お日さんみたいな笑顔でまたバスケの話し、してほしい。
「ねえ、先輩。最初は試合の感覚、思い出す感じでええやん。そうや。タカシさんらと一緒にしたら楽しいで。俺、パスの相手でもなんで手伝うし」
「凪……頼むから今はバスケのこと言うな」
「けど、先輩。今から試合出たら、大学の監督さんも考え直すかもしれへんやん。ほら、この間会った、まさやん。あいつも一回怪我して、リハビリ頑張って復活したんやで」
必死で言うた。先輩が笑って、そうやな、って言ってくれるように。
「リハビリ……」
先輩の声が小さく揺れた。その背中がしゃべるなって言ってたのに、俺は気づかんと、もう一歩踏み込んでもた。
「先輩が積み上げてきたもん、怪我なんかじゃ消えへんよ。小さな一歩からまた始めればええやん。まさやんも、あいつも必死で戦ってた。だから先輩も大丈夫やって」
笑ってよ。俺のギャグでええんやったら、なんぼでも言うから笑ってよ。
辛いことは俺が全部、引き受けるから。だから、先輩。笑って──
「……るさい」
雨足がひどくなってきて、先輩の小さな声がかき消された。
「先輩、今、なんて……」
「うるさい! お前に何がわかるんだ!」
初めて聞いた、感情がむき出しになった先輩の声。
「簡単に言うなよ。……どうして、どうしてそんなことが言えるんだ。お前のダチと俺は違うんだ! 日本代表になって外国でプレーしてるやつと一緒にするな」
「けど、先輩……バスケ、好きやろ? あの店におったんが証拠やん」
「お前に……俺の気持ちなんかわかるもんか。バスケもサッカーもできない、お前に言われたくない」
結弦先輩の顔に雨の雫がついて、泣いてるみたいな顔になってる。
失敗した──こんな言葉、先輩に言わせたなかったのに。こんな悲しい顔、させたないのに。
——勢いで言葉を乱暴に言い放ってまうん、誰でもあることやもん。
前、結弦先輩が、倉持先輩たちに感情をぶつけたとき、俺はそばにおって止めることが出来た。けど、今の言葉は……今日の先輩は、さすがに止められへん。
だって、先輩にひどい言葉、言わせたん俺やから。
「……ごめんやで、先輩。今の言葉、俺、止められへんかった」
一回、口から放った言葉は止まらへん。そのまま最後まで言い切って傷つけたり、傷つけられたり。そんなこと、俺らまだ未熟やもん。何回もある。
けどそんなときは、そばにおる人間が止めたらええねん。俺がそれをしたかったのに、俺がその役目やったのに。
俺が先輩に言わせてどうすんねん!
ほら、結弦先輩は優しいから、悪かったって顔してる。そんな顔も見たない。
先輩には暗い顔、似合わへん。
絶対させたなかったのに。ほんまにごめん。ごめんなさい……。
「……あ、凪。俺──」
「ごめん、先輩! 俺、急に腹、痛なってきたから映画、キャンセルするな。あ、この傘、使うて。俺、走るんは得意やから。ほんなら、帰るわ!」
先輩の手に無理やり、傘を握らせて、俺は一目散に公園を出た。
後ろから大好きな人が名前を呼んでくれてたけど、雨の音で聞こえてへんフリした。
アホ、アホ、俺のアホ──
先輩を笑顔にするんが使命やったのに、悲しませてどうすんねん! 傷つけて、どうすんねん。
真っ黒な雲がこれでもかって、俺を責めるように雨粒を全身に打ちつけてくる。
それでええと思った。罰にしてはヌルいくらいや。
電車乗ったのも、マンションの鍵、どうやって開けたんかもわからへんまま、家に帰って靴脱いだ時、おかんの言葉を思い出してもた。
──雨の日に新しい靴下ろしたら縁起悪いねんで。
「はは、迷信ってホンマなんや……」
廊下に足跡つけながら、自分の部屋に入ってベッドに潜り込んだ。
濡れた服のままで寝てもたから、その晩から熱が出てもた。
けど、こんなことくらいで罪滅ぼしにはならへん。
先輩はもっと、もっと辛かってん。今も、きっと……
歴代、最悪の夏休みになってもた。けど、今の俺にはお似合いかもしれへん……
雨か……
せっかく結弦先輩と初めてのおでかけやのに、雨とは許されへんな。
お天気お姉さんの予報を聞いてベランダに出たけど、空はきれいな水色一色や。
「ほんまに雨降るん? けど、このお姉さん、当たるしな」
玄関のシューズボックスの隅っこ。確か、この辺に折り畳み傘あったよな。
「あ、あったあった」
トートバッグに傘を入れてたら、鏡の俺と目が合った。
前髪を指先で、ちょいちょいって触ってみる。
ワックス、先輩、気づいてくれるかな。
前髪をちょっとだけ捻って形作ってから、鏡の自分に、ニッて笑いかけた。
「よし、完璧や──ちょ、おかん。黙って立たんといて」
おろしたてのスニーカー履いてたら、おかんが音もなく後ろにおった。
「凪、新しい靴、履いて行くん?」
「そうや。カッコええやろ」
上がりかまちに座って足上げたら、おかんが渋い顔してる。
「今日、雨やで。雨の日に新しい靴、下ろしたら縁起悪いねんで」
またそんな、根拠もないこと言いよる。小さいときから何かにつけて物言いしてくるわ。
夜に口笛吹いたら蛇、出てくるとか。夜、爪を切ると親の死に目に会えへんとか。って、
なんや、夜ばっかりやな。
「そんなん迷信や。汚れるからやめとけってことやろ?」
「そうとも言うな」
何やそれ。縁起悪いって話はどこいったんや。
「汚れたらちゃんと洗うからいいねん。ほな、行ってくるわ」
つま先、一回だけトンって土間に当てて、気合い入れてから玄関を出た。
外はまだまだギラギラ太陽や。昼すぎてるからいっちゃん、暑い時間帯やな。
そやけど今日の俺は無敵やねん。
これでもかって温度も、熱気ムンムンも今日の俺には勝たれへん。
結弦先輩と二人で出かける。それだけで雲の上に乗ったみたいな気分や。
また鼻歌出そうになるの我慢しながら、待ち合わせの駅に向かった。
スマホで時間を確認したら、あと十分で約束の一時になる。
五分前くらいに着くから、ちょうどええな。
思わずスキップしたなる気持ちで歩いてたら、駅が遠目に見えて──
「あ、先輩、もうおるやん」
結弦先輩を待たせるなんて、どこの不届もんや。って、俺か。
今はひとりボケツッコミしてる場合ちゃう。
走りながら、「椎名先輩っ」って呼んだら、こっち見てくれた。
よかった。いつもの優しい先輩の顔や。
正直、今日、顔見るまで不安やった。
この間、まさやんと一緒やった時の先輩は様子がおかしかった。
苛立ってたっていうか、怒ってたっていうか……
もしまた、あの日みたいな目されたら──って、めっちゃ不安やった。
でも、遠目からでもわかる。
先輩の笑顔が見えた途端、俺の不安は一瞬で蒸発した。
「先輩、ごめん。遅なった」
目の前まで一気に走ってから謝ったら、暑さなんか跳ね除ける笑顔で迎えてくれた。
胸の奥で心臓が跳ねて、鼓動が太鼓のゲームみたいに連打してる。
呼吸が乱れてるんも、走ってきたせいとちゃう。いつもの先輩で嬉しかったからドキドキしてるだけや。
笑顔の先輩に会えた……それだけで、ゾンビもジェイソンも撃退できる。
「全然遅くないけど、凪、走って大丈夫か」
先輩が心配そうに俺の太ももを見下ろしてる。また、心配させてもた。
「平気やで。ほら、こんだけ足、上げても痛ないで」
その場で駆け足の格好を披露したら、結弦先輩の眉がググって、眉間に寄った。
上げた足の上に先輩の手が乗って、ゆっくり下げてくれる。
勢いつけて振ってた腕も、手でそっと掴まれて止まった。
「ほんとに無茶すんなって、凪」
諭すみたいな優しい声で名前呼ばれたら、言ってまいそうになる──
……結弦先輩が好きですって。
「なあ、それより昼飯、食った?」
架空の告白に思考が奪われてたら、先輩が、改札を指差してた。
「あ、うん、焼きそば食べてきた。もしかして椎名先輩、まだ?」
「そうなんだ。凪さえよかったら、マック、付き合ってくれる?」
「ええよ。俺、めっちゃポテトの気分」
改札抜けながら先輩が、可愛い気分だな、それ、って笑うから、ダンボール一箱分、食べたろかって思った。
最寄駅に着いて映画館に近いマックに入った。
向かい合って、ハンバーガーを食べてたら、恋人みたいな気分になる。
これこそ、理想の食卓っていうやつやろか。俺はポテト頬張ってるだけやけど。
「ハムスターみたいだな、凪の食い方」
「はむふたぁ? ろこが?」
ポテト、いっぺんに三本頬張ってるからやろか?
「そう言うとこ」
コーラ飲んでから、「そう言うとこって?」って、聞いたら、笑ろてばかりで教えてくれへん。
トイプードル言うたりハムスター言うたり。全部、ちっこいやつばっかりやん。
わざとひまわりの種みたいにポテトで口の中いっぱいにしたら、先輩が爆笑してくれた。
よかった。先輩、笑ろてる。
ホッとしてたら、見たことない制服の高校生が俺らを見下ろしてた。
誰、この人? どこの高校やろ。えらい、背の高い人やな。
じっと見上げてたら、俺の視線に気づいたんか、結弦先輩が後ろを振り返った。
見上げた途端、先輩の横顔がみるみる青ざめてる。
「声が似てると思ったら、やっぱり椎名だったか。久しぶりだな、元気か」
この人、結弦先輩の友達? それにしては先輩の表情、曇ってる。
「……まあな。渋谷も元気か?」
シブタニ……? あ、バッシュケース持ってる。ってことは、この人もバスケやってるんや。どうりで背、高いはずや。
「お前のとこも勝ってるみたいだな。このままいけば、トーナメントでうちの学校と当たるか。まあ、負ける気はないけど」
何や、この人。イヤな言い方してくるな。言葉の中に棘を仕込んでるみたいや。
「俺はもう、やめたから関係ない」
やめたってバスケのこと? けど、キャプテン先輩は、先生が退部届、受理してへんって言ってた。
「へえ、それはラッキーだな。椎名がいないなら、楽に勝たせてもらえるわ」
な、なんて言い方するんや、この人! 侮辱しか感じられへん!
「俺がいなくても、うちは勝てる。あまり甘くみない方がいいと思うけど」
相手の顔を見いひんまま、結弦先輩がアッパーカットかました。
シブタニっていう人、顔、ひきつってるわ。
「ふーん。余裕だな。ま、勝っても負けても、俺はどっちでもいいかな。誰かさんが怪我してくれたお陰で、俺は東洋大に推薦で行くこと決まったから」
誰かさん……怪我? それって、結弦先輩のこと!?
先輩の顔見たら、能面みたいに無表情になってる。
さっきまでの楽しい空気が、この人の登場で座席ごと凍らされたみたいになってもた。
「東洋大の監督が言ってたっけな。椎名はもう、メンタルが無理かもって」
一瞬、頭が真っ白になった。けど、それはすぐ、怒りが追い越した。
腹がたって考えるより先に、勢いよく立ち上がってた。椅子が後ろに倒れて、店内の空気を変える大きい音がした。他の客の視線がいっぺんに飛んできたけど、そんなんどうでもええ。
「ちょっと、あんた──」
言いかけた俺の言葉は、先輩に手首を掴まれて止まった。その手が小さく震えてる。
シブタニって人が、俺をちらって見て来たから、下から睨みあげたった。
「……お前の代わりに引き抜かれたのは癪だけど、理由は何でもいい。プロの目に留まるチャンスがあの大学にはあるからな。あ、仲間が呼んでるから行くわ。椎名も頑張れよ」
じゃあなっと言って、シブタニが同じ制服がおる席に戻って行った。
他の仲間がこっちを見て、何か耳打ちしてる。めっちゃイヤな感じや。
結弦先輩に視線を戻したら、食べかけのハンバーガー持ったまま遠い目になってる。
店の中でもない、さっきの人でもない。どこか別の空間を見つめているみたいな目や。
「せんぱ──」
「あー、腹いっぱいになったな。運動してないから少食になってるんかもな」
半分しかまだ食べてへんのに。ポテトもドリンクも残ってるのに。
「あの、先輩。さっきの人が言ってたことって……」
頭の中でもう一人の俺が叫んでる。『その質問はすんな』って。そやのに、口が止まらへんかった。
「ああ……あれな。あれは……言葉の通りだ」
言葉の通りって。ほんなら、ほんまは先輩が行くはずやった大学推薦の枠、あのシブタニって人に取られたってこと?
「あの、椎名せんぱ──」
「凪。ちょっと早いけど、映画館に行こうか」
トレーを持って、結弦先輩が立ち上がった。俺も慌てて立ったけど、もう、先輩はダストボックスの前におる。
まるでこの場に俺が存在してないみたいな、そんな動きや。
ゴミを捨てて振り返ったら、先輩はもう、外に行ってもた。
いつもなら俺が来るまで見ててくれる人が、今は背中向けて先を歩いてる。
横断歩道の信号でやっと追いついて、先輩の顔、見上げたら赤信号を睨むように見てた。
ピヨ・ピヨって軽快な音で踏み出した先輩の足が、その音をかき消すみたいに踏み締めて歩いてる。
横断歩道を渡り切った公園に入ってすぐのベンチの前で、先輩の足が止まった。
木陰の下、風が吹いて、最初の雨粒がポツッて先輩の肩に乗った。けど、一ミリも体は動かへん。
「椎名先輩……」
そっと呼んだけど、返事はない。
背中から滲み出てる空気は、これまで見たホラー映画よりずっと怖いくらい静かやった。
ポツ、ポツ、ポツッて、雫が空から落ちてきた。
あかん、先輩が風邪ひいてまう。
トートバッグから折り畳みの傘出して、広げようとしたのに、スムーズに開けへん。
その間も、先輩は何も言わんと、同じ場所で立ってる。
開いた傘を差しかけようとしたけど、近づいてええんかわからへん。
背中が一人にしてくれって、言ってるみたいや。
俺がそばにおってもええんやろか……
さっきより雨の粒が大きくなってきたから、思い切って先輩の上に傘をさした。
傘に当たる雨の音を聞いてたら、先輩の声が雨音に混ざってポソッと落ちてきた。
「先輩……?」
「……情けないよな。バスケを避けてたら、決まってた進路も取らてたなんて」
背中越しに聞こえる声が、雨に染み込んで俺に届いた。
泣きそうな声に聞こえるんは、気のせい?
いやや。先輩をこんな風に悲しませたない。
先輩の笑顔を取り戻すために、俺は存在してんのに。
「……先輩。バスケ、しよ。今やったらまだ間に合う。キャプテン先輩も言ってたやん。椎名先輩が戻るまで勝ち続けるって」
先輩の肩が、ピクッて強ばった。
俺も声が上擦ってまう。けど、結弦先輩には前を向いて歩いてほしいから伝えな。
初めて見た、お日さんみたいな笑顔でまたバスケの話し、してほしい。
「ねえ、先輩。最初は試合の感覚、思い出す感じでええやん。そうや。タカシさんらと一緒にしたら楽しいで。俺、パスの相手でもなんで手伝うし」
「凪……頼むから今はバスケのこと言うな」
「けど、先輩。今から試合出たら、大学の監督さんも考え直すかもしれへんやん。ほら、この間会った、まさやん。あいつも一回怪我して、リハビリ頑張って復活したんやで」
必死で言うた。先輩が笑って、そうやな、って言ってくれるように。
「リハビリ……」
先輩の声が小さく揺れた。その背中がしゃべるなって言ってたのに、俺は気づかんと、もう一歩踏み込んでもた。
「先輩が積み上げてきたもん、怪我なんかじゃ消えへんよ。小さな一歩からまた始めればええやん。まさやんも、あいつも必死で戦ってた。だから先輩も大丈夫やって」
笑ってよ。俺のギャグでええんやったら、なんぼでも言うから笑ってよ。
辛いことは俺が全部、引き受けるから。だから、先輩。笑って──
「……るさい」
雨足がひどくなってきて、先輩の小さな声がかき消された。
「先輩、今、なんて……」
「うるさい! お前に何がわかるんだ!」
初めて聞いた、感情がむき出しになった先輩の声。
「簡単に言うなよ。……どうして、どうしてそんなことが言えるんだ。お前のダチと俺は違うんだ! 日本代表になって外国でプレーしてるやつと一緒にするな」
「けど、先輩……バスケ、好きやろ? あの店におったんが証拠やん」
「お前に……俺の気持ちなんかわかるもんか。バスケもサッカーもできない、お前に言われたくない」
結弦先輩の顔に雨の雫がついて、泣いてるみたいな顔になってる。
失敗した──こんな言葉、先輩に言わせたなかったのに。こんな悲しい顔、させたないのに。
——勢いで言葉を乱暴に言い放ってまうん、誰でもあることやもん。
前、結弦先輩が、倉持先輩たちに感情をぶつけたとき、俺はそばにおって止めることが出来た。けど、今の言葉は……今日の先輩は、さすがに止められへん。
だって、先輩にひどい言葉、言わせたん俺やから。
「……ごめんやで、先輩。今の言葉、俺、止められへんかった」
一回、口から放った言葉は止まらへん。そのまま最後まで言い切って傷つけたり、傷つけられたり。そんなこと、俺らまだ未熟やもん。何回もある。
けどそんなときは、そばにおる人間が止めたらええねん。俺がそれをしたかったのに、俺がその役目やったのに。
俺が先輩に言わせてどうすんねん!
ほら、結弦先輩は優しいから、悪かったって顔してる。そんな顔も見たない。
先輩には暗い顔、似合わへん。
絶対させたなかったのに。ほんまにごめん。ごめんなさい……。
「……あ、凪。俺──」
「ごめん、先輩! 俺、急に腹、痛なってきたから映画、キャンセルするな。あ、この傘、使うて。俺、走るんは得意やから。ほんなら、帰るわ!」
先輩の手に無理やり、傘を握らせて、俺は一目散に公園を出た。
後ろから大好きな人が名前を呼んでくれてたけど、雨の音で聞こえてへんフリした。
アホ、アホ、俺のアホ──
先輩を笑顔にするんが使命やったのに、悲しませてどうすんねん! 傷つけて、どうすんねん。
真っ黒な雲がこれでもかって、俺を責めるように雨粒を全身に打ちつけてくる。
それでええと思った。罰にしてはヌルいくらいや。
電車乗ったのも、マンションの鍵、どうやって開けたんかもわからへんまま、家に帰って靴脱いだ時、おかんの言葉を思い出してもた。
──雨の日に新しい靴下ろしたら縁起悪いねんで。
「はは、迷信ってホンマなんや……」
廊下に足跡つけながら、自分の部屋に入ってベッドに潜り込んだ。
濡れた服のままで寝てもたから、その晩から熱が出てもた。
けど、こんなことくらいで罪滅ぼしにはならへん。
先輩はもっと、もっと辛かってん。今も、きっと……
歴代、最悪の夏休みになってもた。けど、今の俺にはお似合いかもしれへん……

