「あっ! 結弦せんぱ……椎名先輩! それ捨てるんやったら俺にくれへん?」
やば……つい、名前で呼んでまいよった。
だって結弦先輩が、お宝をゴミ箱に捨てようしてるやもん。絶対止めな。
穏やかないつもの放課後やのに、藤棚に着いた途端、焦らせんといて。
「あ、凪。くれへんって、これ……?」
うわっ。先輩、めっちゃ引いてる……。
靴下持ち上げて、鳩が豆鉄砲食ったみたいな顔してる。一瞬きょとんとしたあと、すぐに呆れた顔してパックジュース飲んでるし。
「そう。その、親指だけ穴の空いた靴下」
気を取り直して言うたら、今度は変質者を見るような目で見てきた。
「こんなのどうするんだ? 凪、まさかお前、匂い嗅ぐとか?」
先輩の視線は、俺の心の中まで透けて見えそうで、ちょっとドキドキする。
俺って、変態やと思われてるんちゃうやろか。でも、そんなことせーへん。俺にもプライドがある。
「違うねん。それ、まだ新しいやろ? 履けるからもったいないって話。糸で縫うねん」
「縫う? 凪が? 自分で?」
「それくらいできるし。今度破れたら捨てんとき。俺が縫ったるわ」
慌てて言い訳してるけど、心臓はバクバクが止まらへん。
だって、俺はずっと見てたんやもん。先輩のきれいなくるぶしを。
光り輝いてたあのくるぶしに、白い線の傷痕を見つけた日から。ずっと……。
その傷痕を一番近くで守ってた靴下、捨てたらバチが当たる。
これ、本人には言われへんけど……。
「……凪がいいならやるけど。本当に匂いは嗅ぐなよ」
変なこと言う後輩やのに、優しい先輩は嫌な顔ひとつせえへん。
俺が藤棚に来るようになっても、邪険にせえへんかったしな。
二ヶ月分しか知らんけど、昼休みも放課後も、先輩はいっつも一人でここにおった。
それがめっちゃ寂しそうやってん。
「わかってるって。ありがたくちょうだいします」
ちょっとおどけて見せたら、先輩は呆れた顔で靴下を差し出してくれた。
表彰状受け取るみたいに靴下を手にしながら、先輩の顔をちらっと見た。
……どないしたんやろ。ボーッと靴下ばっかり見て。
やっぱり、くるぶしが出る短い方が好きなんかな。もうすぐ夏やし、先輩の足首にはその方が似合うわ。
今俺がもらった、くるぶしを隠してしまう丈のんよりも。
電車で見てた時、先輩はいつも短い方を履いてたもんな。
靴下見ながら、先輩が何か言いたそうに口を開きかけてる。でも、やっぱり何も言わへんかった。
もしかして、俺が知りたいこと話してくれるんかな。そう思って、期待して待ってたけど、先輩の目は藤棚に移ってもた。
花が終わった藤は葉っぱが茂ってて、日よけになってくれるから涼しい。でも、陰になった先輩の顔はアンニュイで、見ててなんか切ないわ。
結弦先輩。そこにもう、花は咲いてへんで。こっち見てよって、俺、ポエマーか。
アホや、また変なこと考えてもた。
……だって俺はずっと探してたから。くるぶし丈の靴下が世界一似合う、凛とした先輩を。
この靴下は結弦先輩の分身やから。
細く鍛えられた足に、きゅっと引き締まった足首。そこに、コロンと丸いくるぶしやろ。それが短い靴下と似合ってて、めっちゃ輝いててん。
初めて見たときはなかった傷痕が、痛々しいけどな……。
あれ見つけたとき、サーって血の気がひいたの、今でも忘れられへん。
自分の左手首にある、あの白い線と同じやったから。
俺の古傷が先輩のくるぶしに飛び火したみたいで、それ、どうしたん? って、よう聞かへんかった……。
「それ、気に入って買った靴下だから、破れて軽いショックだったわ。ほら、俺の親指、上にそり返ってるだろ。ちょっとでも爪が伸びたらそこだけいつも穴が開くから」
知ってる。ストックの靴下をカバンに入れてるのも。
先輩のことばっか見てる俺の、たまものや。
「椎名先輩の親指、オラついてるもんな」
「オラついてる?」
俺の言ったことに、真剣に考えてくれてる。そういうとこ、ほんまにずるいわ。
「うん。先輩の指が上から目線やから、破れてまうねん」
「上から目線?」
あ、今度は首傾げてる。俺のギャグ、通じひんかったんか。
「そうか、わかった! 親指が上向いてるのが、偉そうに威張ってるみたいだからか。なるほど、関西のお笑いは難しいな」
明るく笑った結弦先輩の顔。難問の答え思いついたみたいで嬉しそうや。
そのまま、もっと、心の底から笑ろてくれたらええのに。
初めて見た、友だちと一緒になってめっちゃ笑ろてた、あのときみたいに。
先輩の笑い顔見てたら、中三の春に転校して来たときのこと思い出すわ。
電車で見た、顔いっぱいに笑う姿と、光り輝いてた足元を。
あの笑顔とくるぶしが、あのときの俺に勇気をくれたんや──。
中学最後の学年ってタイミングで、関西から東京に引っ越してきた俺は、友だちと離れたせいもあって、学校になんか行きたなかった。
けど、いやいや乗ってたその電車が、俺の運命を変えたんや。
楽しそうに笑う顔を見るために、俺は毎日、学校に行ってた。
気づいたら、先輩の制服を調べて、同じ高校を受験しとった。
無事入学して、毎日、校内で先輩を探してた。それやのに、どこにもおらへんかった。
高校間違えた? それとも先輩、卒業してもたん? いや、そんなはずない。
ちゃんとネクタイの学年カラー調べたし、会話聞いとったから、俺より一歳上ってわかってる。
高一の一年間は、ずっと先輩のことばかり考えとった。
高二になった四月、あの日も俺はいつものように、校庭をうろうろしてた。
そして、とうとう会えたんや。
昼休みに裏庭を歩いてた俺は、上から落ちてきたバッシュケースが頭に直撃した。
ムカついたけど、ケースのデザイン見た途端、痛みは一瞬で消えた。
上を見上げたら、階段の踊り場から、ずっと探してた人が真っ青な顔して覗き込んでた。
俺が頭を押さえてたら、慌てて降りて来てくれたっけ。
このときが、俺と結弦先輩の初対面──いや、先輩にとっては違うけど……。
初めて間近で見た先輩に、俺の心臓はめっちゃ震えてた。
あのケース。結弦先輩はうっかり落としたって言ってたけど、そんなスピードやなかった。
今でも思う。あれは、投げたんや。紙ヒコーキ、思いっきり飛ばすみたいに。
──ごめん、大丈夫か? 保健室、いや、病院行く?
心配そうに何度も言ってくれたから、俺はつい、調子に乗ってもたんや。
──病院はいいです。その代わり、俺と知り合いになってくれませんか。
あんときも、今日、靴下くれたときみたいに、目まん丸になっとった。
そりゃそうや。
初対面の人間からそんなこと言われたら、普通、引くって。
でも、俺はなりふりなんて構ってられへんかった。必死やったんや。
それに勇気だせたんは、神様が俺に下した使命やったから。
結弦先輩を笑顔にするっていう。
そのために、俺は作戦を考えた。
まず、ちょっとでもええから先輩と一緒に過ごすこと。
先輩は昼休みとか、放課後に藤棚におるんがわかったから、俺はそこに押しかけた。
最初は引かれたけど、そこは、ほら。ギャグ連発して乗り切った。
ついでに敬語も使わんようにした。
じゃないと、俺の好きな笑顔は、でてこーへんって思ったから。
だからバッシュケース事件でしゃべった敬語が、最初で最後や。
単純な作戦やけど、俺はあの日からずっとこれを貫いてる。
それに、俺は結弦先輩と話がしたかった。先輩に、俺を見てほしかった。
こんなこと思ってるんは、あのときからずっと変わってへん。
今でもその延長みたいなもんや。今日も先輩に会える。それだけで、十分な毎日や。
藤棚の隙間から溢れた木漏れ日が、結弦先輩のほっぺたで跳ねてる。
やっぱり先輩は、光が似合う。
こんなきれいなシーン、今日も見れて俺は幸せや。
「さあ、そろそろ行こうかな」
先輩の声で、意識が藤棚に戻ってきた。
「椎名先輩。今日もあそこ行くん」
「……ああ。でも俺は見てるだけなんだけどね」
飲み終わったパックジュースを捨てると、結弦先輩がカバンを肩にかけた。
幸せな時間が終わる合図や。
「あー、なんやったっけチームの名前──あ、ひざ爆弾や!」
「それを言うなら、ひざボンバーズだろ。あ、そうそう。この間の地区大会は三位になったんだ。六十歳超えのバスケチームでは快挙なんだ」
笑いながら先輩が言う。でも、それが寂しそうに見えるんは俺だけ?
ほんまは自分が試合に出たいんやろな……。
──ねえ、結弦先輩。もう、バスケせーへんの?
聞きたいことが増えていく。けど、口が裂けてもこの質問は言わへん。言われへん……。
もし、聞いたら笑顔を取り戻すどころか、きっと曇らせてしまうん、わかってるから。
「凪もバスケしてみる? お前、運動神経よさそうだし。センスありそうだぞ。たまには一緒に行こう──って、今日はバイトか」
「うん。休まれへん。夏美ちゃんの腰が治るまで、俺がウェイトレスせなあかんからな」
「それを言うならウェイターだろ。なに、凪はメイド服着て喫茶店手伝ってるのか?」
「そ、そんなん着るわけない。ちょっと間違えただけやん。それに、俺より椎名先輩のが似合うわ。先輩、きれいな顔してるもん」
「凪……」
一瞬、呼吸が止まりそうになる。
静かに名前を呼ばれただけやのに、紅茶に沈んだ角砂糖みたいに、じわって溶けそうや。
「前々から言おうと思ってたけど、何で俺にタメ口なんだ?」
とうとう言われてもた。
いつか言われるだろうと思ってたその質問。でも、呆れられるからホンマのことは言われへん。
とりあえず、ここは素直に謝っとこ。
「ごめんなさい、椎名先輩。でも、そこはほら、関西弁ってことでスルーして」
「なんだそれ。まあ、どっちでもいいけど。……じゃ、帰るか」
スマホで時間見てるだけやのに、そんな仕草も見惚れてまうな。
先輩、ごめんな。俺、いっつも偉そうで。
でも、これは先輩の笑顔を増やすためやねん。
ほんまはバスケも復活してほしいけど、先輩と歴史が浅い俺が言うのはおこがましい。
それに、自分からやりたいって結弦先輩には思ってほしいから。
バスケしてる先輩を、俺は動画でしか見てへんから、ちゃんとこの目で見たい。
いつか、先輩のきれいなシュート見るの、楽しみにしてるねんけどな……。
「じゃあな。バイトがんばれよ」
正門を出たところでいつも左右に別れる。
この瞬間が、とてつもなく寂しい。
でも、今日も会えたんや。それだけで、お釣りがくるくらい幸せや。
「椎名先輩も。あ、ひざボンバーズにもがんばれって」
手を振ったら、笑顔で返してくれる。でもその笑顔に、寂しいっていう、フィルターが張り付いて見えるから、切なくなる。
制服の後ろ姿を見てたら、ユニフォームの背中が重なって、どうしても考えてまう。
くるぶしの傷痕が出来た原因を。
聞きたいけど、踏み込み過ぎて引かれたらいやや。
先輩だけには嫌われたない。
三十歩あるいたら振り返る。でも先輩の後ろ姿は角を曲がって、もうそこにはおらへん。
──どうか結弦先輩が、前みたいな笑顔になりますように。
見えへんようになってから、そっと願うのは俺のルーティン。
電車で見てたころの、心から楽しそうにしてる顔をまた見たいから。
バスケが好きで、でも、やめてしまった。
その理由が、あの、くるぶしの傷なら。
やっぱ怖くて聞かれへん。だって、絶対悲しい顔する。わかってるもん、俺は。
それでも俺は諦めへん。
明日もまた笑わせたる。機はまだ熟してへんねん。
電車で先輩を見つけたときから、俺はずっとあの笑顔に恋してるんやから。
やば……つい、名前で呼んでまいよった。
だって結弦先輩が、お宝をゴミ箱に捨てようしてるやもん。絶対止めな。
穏やかないつもの放課後やのに、藤棚に着いた途端、焦らせんといて。
「あ、凪。くれへんって、これ……?」
うわっ。先輩、めっちゃ引いてる……。
靴下持ち上げて、鳩が豆鉄砲食ったみたいな顔してる。一瞬きょとんとしたあと、すぐに呆れた顔してパックジュース飲んでるし。
「そう。その、親指だけ穴の空いた靴下」
気を取り直して言うたら、今度は変質者を見るような目で見てきた。
「こんなのどうするんだ? 凪、まさかお前、匂い嗅ぐとか?」
先輩の視線は、俺の心の中まで透けて見えそうで、ちょっとドキドキする。
俺って、変態やと思われてるんちゃうやろか。でも、そんなことせーへん。俺にもプライドがある。
「違うねん。それ、まだ新しいやろ? 履けるからもったいないって話。糸で縫うねん」
「縫う? 凪が? 自分で?」
「それくらいできるし。今度破れたら捨てんとき。俺が縫ったるわ」
慌てて言い訳してるけど、心臓はバクバクが止まらへん。
だって、俺はずっと見てたんやもん。先輩のきれいなくるぶしを。
光り輝いてたあのくるぶしに、白い線の傷痕を見つけた日から。ずっと……。
その傷痕を一番近くで守ってた靴下、捨てたらバチが当たる。
これ、本人には言われへんけど……。
「……凪がいいならやるけど。本当に匂いは嗅ぐなよ」
変なこと言う後輩やのに、優しい先輩は嫌な顔ひとつせえへん。
俺が藤棚に来るようになっても、邪険にせえへんかったしな。
二ヶ月分しか知らんけど、昼休みも放課後も、先輩はいっつも一人でここにおった。
それがめっちゃ寂しそうやってん。
「わかってるって。ありがたくちょうだいします」
ちょっとおどけて見せたら、先輩は呆れた顔で靴下を差し出してくれた。
表彰状受け取るみたいに靴下を手にしながら、先輩の顔をちらっと見た。
……どないしたんやろ。ボーッと靴下ばっかり見て。
やっぱり、くるぶしが出る短い方が好きなんかな。もうすぐ夏やし、先輩の足首にはその方が似合うわ。
今俺がもらった、くるぶしを隠してしまう丈のんよりも。
電車で見てた時、先輩はいつも短い方を履いてたもんな。
靴下見ながら、先輩が何か言いたそうに口を開きかけてる。でも、やっぱり何も言わへんかった。
もしかして、俺が知りたいこと話してくれるんかな。そう思って、期待して待ってたけど、先輩の目は藤棚に移ってもた。
花が終わった藤は葉っぱが茂ってて、日よけになってくれるから涼しい。でも、陰になった先輩の顔はアンニュイで、見ててなんか切ないわ。
結弦先輩。そこにもう、花は咲いてへんで。こっち見てよって、俺、ポエマーか。
アホや、また変なこと考えてもた。
……だって俺はずっと探してたから。くるぶし丈の靴下が世界一似合う、凛とした先輩を。
この靴下は結弦先輩の分身やから。
細く鍛えられた足に、きゅっと引き締まった足首。そこに、コロンと丸いくるぶしやろ。それが短い靴下と似合ってて、めっちゃ輝いててん。
初めて見たときはなかった傷痕が、痛々しいけどな……。
あれ見つけたとき、サーって血の気がひいたの、今でも忘れられへん。
自分の左手首にある、あの白い線と同じやったから。
俺の古傷が先輩のくるぶしに飛び火したみたいで、それ、どうしたん? って、よう聞かへんかった……。
「それ、気に入って買った靴下だから、破れて軽いショックだったわ。ほら、俺の親指、上にそり返ってるだろ。ちょっとでも爪が伸びたらそこだけいつも穴が開くから」
知ってる。ストックの靴下をカバンに入れてるのも。
先輩のことばっか見てる俺の、たまものや。
「椎名先輩の親指、オラついてるもんな」
「オラついてる?」
俺の言ったことに、真剣に考えてくれてる。そういうとこ、ほんまにずるいわ。
「うん。先輩の指が上から目線やから、破れてまうねん」
「上から目線?」
あ、今度は首傾げてる。俺のギャグ、通じひんかったんか。
「そうか、わかった! 親指が上向いてるのが、偉そうに威張ってるみたいだからか。なるほど、関西のお笑いは難しいな」
明るく笑った結弦先輩の顔。難問の答え思いついたみたいで嬉しそうや。
そのまま、もっと、心の底から笑ろてくれたらええのに。
初めて見た、友だちと一緒になってめっちゃ笑ろてた、あのときみたいに。
先輩の笑い顔見てたら、中三の春に転校して来たときのこと思い出すわ。
電車で見た、顔いっぱいに笑う姿と、光り輝いてた足元を。
あの笑顔とくるぶしが、あのときの俺に勇気をくれたんや──。
中学最後の学年ってタイミングで、関西から東京に引っ越してきた俺は、友だちと離れたせいもあって、学校になんか行きたなかった。
けど、いやいや乗ってたその電車が、俺の運命を変えたんや。
楽しそうに笑う顔を見るために、俺は毎日、学校に行ってた。
気づいたら、先輩の制服を調べて、同じ高校を受験しとった。
無事入学して、毎日、校内で先輩を探してた。それやのに、どこにもおらへんかった。
高校間違えた? それとも先輩、卒業してもたん? いや、そんなはずない。
ちゃんとネクタイの学年カラー調べたし、会話聞いとったから、俺より一歳上ってわかってる。
高一の一年間は、ずっと先輩のことばかり考えとった。
高二になった四月、あの日も俺はいつものように、校庭をうろうろしてた。
そして、とうとう会えたんや。
昼休みに裏庭を歩いてた俺は、上から落ちてきたバッシュケースが頭に直撃した。
ムカついたけど、ケースのデザイン見た途端、痛みは一瞬で消えた。
上を見上げたら、階段の踊り場から、ずっと探してた人が真っ青な顔して覗き込んでた。
俺が頭を押さえてたら、慌てて降りて来てくれたっけ。
このときが、俺と結弦先輩の初対面──いや、先輩にとっては違うけど……。
初めて間近で見た先輩に、俺の心臓はめっちゃ震えてた。
あのケース。結弦先輩はうっかり落としたって言ってたけど、そんなスピードやなかった。
今でも思う。あれは、投げたんや。紙ヒコーキ、思いっきり飛ばすみたいに。
──ごめん、大丈夫か? 保健室、いや、病院行く?
心配そうに何度も言ってくれたから、俺はつい、調子に乗ってもたんや。
──病院はいいです。その代わり、俺と知り合いになってくれませんか。
あんときも、今日、靴下くれたときみたいに、目まん丸になっとった。
そりゃそうや。
初対面の人間からそんなこと言われたら、普通、引くって。
でも、俺はなりふりなんて構ってられへんかった。必死やったんや。
それに勇気だせたんは、神様が俺に下した使命やったから。
結弦先輩を笑顔にするっていう。
そのために、俺は作戦を考えた。
まず、ちょっとでもええから先輩と一緒に過ごすこと。
先輩は昼休みとか、放課後に藤棚におるんがわかったから、俺はそこに押しかけた。
最初は引かれたけど、そこは、ほら。ギャグ連発して乗り切った。
ついでに敬語も使わんようにした。
じゃないと、俺の好きな笑顔は、でてこーへんって思ったから。
だからバッシュケース事件でしゃべった敬語が、最初で最後や。
単純な作戦やけど、俺はあの日からずっとこれを貫いてる。
それに、俺は結弦先輩と話がしたかった。先輩に、俺を見てほしかった。
こんなこと思ってるんは、あのときからずっと変わってへん。
今でもその延長みたいなもんや。今日も先輩に会える。それだけで、十分な毎日や。
藤棚の隙間から溢れた木漏れ日が、結弦先輩のほっぺたで跳ねてる。
やっぱり先輩は、光が似合う。
こんなきれいなシーン、今日も見れて俺は幸せや。
「さあ、そろそろ行こうかな」
先輩の声で、意識が藤棚に戻ってきた。
「椎名先輩。今日もあそこ行くん」
「……ああ。でも俺は見てるだけなんだけどね」
飲み終わったパックジュースを捨てると、結弦先輩がカバンを肩にかけた。
幸せな時間が終わる合図や。
「あー、なんやったっけチームの名前──あ、ひざ爆弾や!」
「それを言うなら、ひざボンバーズだろ。あ、そうそう。この間の地区大会は三位になったんだ。六十歳超えのバスケチームでは快挙なんだ」
笑いながら先輩が言う。でも、それが寂しそうに見えるんは俺だけ?
ほんまは自分が試合に出たいんやろな……。
──ねえ、結弦先輩。もう、バスケせーへんの?
聞きたいことが増えていく。けど、口が裂けてもこの質問は言わへん。言われへん……。
もし、聞いたら笑顔を取り戻すどころか、きっと曇らせてしまうん、わかってるから。
「凪もバスケしてみる? お前、運動神経よさそうだし。センスありそうだぞ。たまには一緒に行こう──って、今日はバイトか」
「うん。休まれへん。夏美ちゃんの腰が治るまで、俺がウェイトレスせなあかんからな」
「それを言うならウェイターだろ。なに、凪はメイド服着て喫茶店手伝ってるのか?」
「そ、そんなん着るわけない。ちょっと間違えただけやん。それに、俺より椎名先輩のが似合うわ。先輩、きれいな顔してるもん」
「凪……」
一瞬、呼吸が止まりそうになる。
静かに名前を呼ばれただけやのに、紅茶に沈んだ角砂糖みたいに、じわって溶けそうや。
「前々から言おうと思ってたけど、何で俺にタメ口なんだ?」
とうとう言われてもた。
いつか言われるだろうと思ってたその質問。でも、呆れられるからホンマのことは言われへん。
とりあえず、ここは素直に謝っとこ。
「ごめんなさい、椎名先輩。でも、そこはほら、関西弁ってことでスルーして」
「なんだそれ。まあ、どっちでもいいけど。……じゃ、帰るか」
スマホで時間見てるだけやのに、そんな仕草も見惚れてまうな。
先輩、ごめんな。俺、いっつも偉そうで。
でも、これは先輩の笑顔を増やすためやねん。
ほんまはバスケも復活してほしいけど、先輩と歴史が浅い俺が言うのはおこがましい。
それに、自分からやりたいって結弦先輩には思ってほしいから。
バスケしてる先輩を、俺は動画でしか見てへんから、ちゃんとこの目で見たい。
いつか、先輩のきれいなシュート見るの、楽しみにしてるねんけどな……。
「じゃあな。バイトがんばれよ」
正門を出たところでいつも左右に別れる。
この瞬間が、とてつもなく寂しい。
でも、今日も会えたんや。それだけで、お釣りがくるくらい幸せや。
「椎名先輩も。あ、ひざボンバーズにもがんばれって」
手を振ったら、笑顔で返してくれる。でもその笑顔に、寂しいっていう、フィルターが張り付いて見えるから、切なくなる。
制服の後ろ姿を見てたら、ユニフォームの背中が重なって、どうしても考えてまう。
くるぶしの傷痕が出来た原因を。
聞きたいけど、踏み込み過ぎて引かれたらいやや。
先輩だけには嫌われたない。
三十歩あるいたら振り返る。でも先輩の後ろ姿は角を曲がって、もうそこにはおらへん。
──どうか結弦先輩が、前みたいな笑顔になりますように。
見えへんようになってから、そっと願うのは俺のルーティン。
電車で見てたころの、心から楽しそうにしてる顔をまた見たいから。
バスケが好きで、でも、やめてしまった。
その理由が、あの、くるぶしの傷なら。
やっぱ怖くて聞かれへん。だって、絶対悲しい顔する。わかってるもん、俺は。
それでも俺は諦めへん。
明日もまた笑わせたる。機はまだ熟してへんねん。
電車で先輩を見つけたときから、俺はずっとあの笑顔に恋してるんやから。

