――11月下旬。廊下に漂う冬の匂いが鼻に突いた。
肩より少し長い金髪を揺らしながら、私はざわつく廊下を歩いていた。
「おはよう」と飛び交う声を聞き流す。
パキッ――
その瞬間――世界が割れる音がした。
乾いた音とともに、固いものを踏み潰した感触が足裏に伝わった。
同時に、周りの音がすっと消えた。
心臓の鼓動が全身をかけめぐり、言葉が喉に詰まった。
振り返ると、床には白いワイヤレスイヤホンが一つ落ちている。
それを踏んでしまったらしい。
「えっ?」
額に冷や汗が滲む。
目の前には、三年生の敦生先輩と、三島先輩。
私と同じようにイヤホンを見つめ、言葉を失っていた。
慌てて拾い上げると、イヤホンは歪み、部品が突き出ていた。
「うそ……。ヤバい……。私……、壊した?」
冷や汗が頬をつたい、心臓がバクバクした。
イヤホンをそろりと二人に向けた。
どちらのものかわからないまま、罪悪感だけが膨らんでいく。
敦生先輩が影を被った表情で、ゆっくり右手を差し出した。
私は震えた手で、それを乗せる。
「……ごめんなさい。フレーム歪んじゃったみたい。弁償……します」
ただただ冷たい空気が流れた。
喉の奥が詰まるような静けさに、緊張が走る。
「これ、弁償して済むようなものじゃないんだ」
低く落ちた声。
見上げると、敦生先輩は深く息を吐き、まぶたを伏せた。
――轟敦生先輩。
学年で特に女子に人気がある人。
大きな瞳と、どこか近寄りがたい雰囲気。
噂では、毎月のように彼女が変わっているとか。
正直、少し苦手――。
「じゃ、じゃあどうすればいいですか?」
心臓がバクバクと波打つ。
敦生先輩は右手で顔を覆ったまま、沈黙を保っていた。
なにを考えているか全く読めず、目線が外せない。
冷たい空気がするりと抜け、廊下のざわめきが遠のいていく。
すぐに答えが出ないということは、よほど思い入れのあるものなんだろう。
沈黙が続く様子に、隣の三島先輩が助け舟を出した。
「悪いんだけど、このイヤホンは敦生の特別なものだから、返事はまた今度でいい?」
三島先輩の優しい表情に、私は申し訳ない気持ちのままこくんと頷く。
動揺していたから、少しだけ救われた気がした。
”特別なもの”――その言葉が、心の奥に染み込んだ。
「……はい。本当にごめんなさい。逃げたり隠れたりしたくないので、これ……預けておきます」
ブレザーのポケットから生徒手帳を取り出し、彼に差し出す。
「二年B組の水城里宇です。これは、私だという証拠。返事が決まったら、連絡してください」
敦生先輩は受け取らないどころか、顔から手を外さなかった。
私の声が届いているかどうかも、わからない。
様子を見ていた三島先輩が「わかった」と頷いて、受け取ってくれた。
胸のざわめきを抱え、一礼して廊下を歩き出した。
一歩踏み出すたびに息が苦しくなる。
五メートルほど先で、ついに足が止まった。
「……っ」
彼がなにも言わなかったことが、胸の奥に重くのしかかった。
少しでも責めてくれたら、まだ救われていたのかもしれない。
振り返ると、三島先輩が敦生先輩の肩を抱いている。
片手で顔を覆っている姿が、目に焼きついた。
イヤホンを壊した――。
たったこれだけのことが、私たち未来を動かし始めた。
二人の間に共通の悩みが潜んでいたことを、このときはまだ知らなかった。
やがてそれは、私たちの心に小さな嵐を巻き起こし、鮮やかな光を放つことに――。



