駅前商店街の片隅にその店はある。
日焼けした紺色のオーニングには、白のゴシック体で「ベーカリー pas de chat(パ・ドゥ・シャ)」と店名が書かれている。クリーム色の外壁は色褪せて雨水が垂れた跡が残っているものの、どこかその古さが心地よい。
ガラス窓には朝の光よりも少し温かい照明が吊るされており、香ばしい小麦の香りを漂わせながら行儀よく陳列しているパンたちを優しく照らした。
猫のマークが掘られた真鍮製のドアノブを引けば、ちりんちりん──まるで首輪についている鈴のような軽やかな音色のドアベルが響いて、カウンターで眠る店員がちらりと目を向けてくるはずだ。
「いらっしゃいませ」
代わりにもう一人の店員が愛想良く挨拶をする。常連客にはそれが日常で、文句を言う客はいない。
「おはよう、穂咲(ほさき)ちゃん。クロワッサン焼けてる?」
「おはようございます! ちょうど焼きたてですよ」
「穂咲ちゃーん、今日のおすすめ何?」
「今日は明太フランスがいい感じ!」
焼きたてのパンを並べてはレジを打ち、客の会話にも愛想良く返す。くるくるとよく動くその店員とは正反対に、もう一人の店員はまだ眠ったままだ。
「うーん、今日はどうしようかな」
金のトングをかちかち鳴らしながらのんびりパンを吟味していると、稀に例の無愛想な店員がひらりと近寄ってくることがある。
軽やかな身のこなしで客の間をすり抜け、ひらりと棚に飛び乗ると前足でつんつん、ぽとり。ビニールに入ったコロッケパンは、見事に客のトレーに落ちた。
「お、小麦(こむぎ)。お前のおすすめはこれか?」
客を見上げたあと、すぐにひらりとレジに戻ってまた体に顔を埋めた。
「穂咲ちゃんお会計お願い。小麦がこれにしろって」
それを聞いた常連客たちがレジで眠る店員に目を向ける。
「いいなぁ。今日は斉藤さんが選んでもらえたか。私も小麦に選んでもらいたいんだけどなぁ」
「俺もまだ一度も選んでもらったことないよ。もう一年近く通ってるのに」
無愛想な店員、茶トラ猫の小麦はベーカリーパ・ドゥ・シャの看板猫だ。タレ目がちな大きな瞳に、焼いたパンのような柔らかい茶色の毛並み。コックタイみたいな赤い首輪を着けて、いつもレジ横で眠っている。
けれど稀にふらりと起き上がっては、器用に前足を使って棚からお客さんのトレーにパンをぽとりと落とす。
小麦の意思か、はたまた気まぐれか。しかし常連客たちの間では、いつの間にかそれが名物になっているらしい。今日も小麦が選んだパンを嬉々としてレジへ運んでいく。
「ありがとうね、小麦」
商品を受け取った客たちは、流れるように小麦の頭に手を置いた。にゃあん、とひと鳴きした小麦は、意気揚々と店を出ていく客を薄目で見送る。
これがベーカリーパ・ドゥ・シャの日常だ。