服装は変わっていない。それは俺も、隣を歩く茜も同じだった。どうやら日付を跨いではいないらしい。

 辺りを見渡してみる。行きゆく人々はみな、新年の挨拶を繰り返している。安心するほど平穏な日常が、ここには流れている。

 昔からの習わしなのか、この島の初詣は着物やスーツに身を包む人が多い。当時の俺もそうだった。

 でももし今この場所に戻ったとしたら、俺は胸を張って流行りの服装で着飾っていくのだろう。都会の空気に紛れることに、染まることに必死になった自分を象徴するように。

 田舎者の発想と言われるとそれまでなのだけれど、都会では、他人との違いを求める人が多い気がする。個性と呼ばれるやつ。それなのに、大きな輪からは外れないように、最後に求めるのは他者からの承認だったりする。かくいう自分もその一人だったりして、流行りの服を纏いながら自分の色を探していた。そして認めてほしいと思った。

 郷に入っては郷に従えではないが、これが成長の一つだとしたらどこか悲しくなる。でも周りの環境に染まることが人間の宿命なのかもしれないとも思ったし、その方が楽だった。

 ただ楽だと感じた時、「俺」という人間は消えるのだと気付いていた。楽な方に流されていくだけで、そこに自我などないからだ。

『茜が居なくなった原因は俺じゃない』と心のどこかで思おうとしていたのも、自分にとって気が楽だからだろう。自分が原因だと受け入れなければ、俺は自分を否定せずに済んだから。抗う努力をしなくて済んだから。だから気付いていながら蓋をした。


 本当は、受け入れるのが怖かっただけなのだ。


 このままでは何も変わらないことくらいわかっている。今だって過去を見ているだけで、過去を繰り返すだけで、何かが変わる気配すら感じられない。

 茜を見つけて、一緒に元の世界に帰りたい。

 そのためにまず俺が出来ることは、原因が俺にあると認めた上で真剣に茜と向き合うことではないかと、ようやく思えた。

 ここに来ていることには意味があるはずだ。

 神さまに祈りを捧げる人、屋台に心躍らせる人、家族や恋人との時間を満喫する人。それぞれの想いが交わり、正月という行事に一層の花が咲くこの場所に、俺が居る意味が。

「どうしたの? そんなにキョロキョロしちゃって」

 心配するような顔で茜が俺を見る。

「いや、この島にもこんなに人が居たんだなって思ってさ」

 自分でも驚くほど、咄嗟にしてはそれなりの嘘が口を衝く。これが上京して学んだものかと思うと、どこか寂しいものがある。

「今日は大体みんな同じ場所に集まるからね。でもこの時間でこの人数はたしかに凄いかも」

 こんな小さな島でね、と茜は笑う。時刻はまだ、午前八時にもなっていなかった。

「じゃあまずは目的のおみくじを――の前に、寒いし甘酒でも貰いに行こっか」

 茜は甘い香りのする方へと足を向けた。

 この島の初詣の甘酒は無料配布されている。だから上京して甘酒が有料だと言われた時は驚いた。島と比べて人数が多い分、一年の始まりというおめでたい時くらい税金やらなにやらで賄えばいいのに、と本気で思った。

 だけど今はこの当たり前に感謝しなければならないと思うようになっている。この感性は上京したからこそ学べたことで、島の外で学んだことも、案外捨てたものではないのかもしれない。

「甘酒か。いいね、貰いに行こう」

 少し先に、特設テントの中で数人の女性が大きな鍋いっぱいに入った甘酒をかき混ぜているのが見える。

 二人でテントの前にできた短い列の最後尾に並ぶ。

「甘酒って良いよね」茜が口元を緩ませる。

「正月くらいしか飲む機会ないけど、そんなに好きなの?」

 茜は、んー、と口を結んだが、また笑みを浮かべた。

「だってさ、甘酒って二十歳になっていなくても飲めるお酒じゃない? 合法的に悪いことをしてる気分っていうの? それが味わえるから、なんか好き」

 謎理論だなと思ったが、わからなくはなかった。「酒」と付く飲み物をなんの気兼ねなく飲めるのは、どこか魅力がある。昔、「甘酒」「車の運転」と父親の背中を見ながら調べたことをふと思い出した。

 列は流れ、あっという間に先頭に立つ。

「朝早くから仲が良いのねー。甘酒は万能薬なんて言われているけど、若い子を見ていた方がよっぽど元気が出るわよねー」

 甘酒の鍋を混ぜながら、ふくよかな熟年のおばさんは言う。さらにその隣のおばさんが相槌を打つように言葉を重ねる。

「それわかるわー。甘酒じゃ目の保養もできないし、活力だってみなぎらないのよね」

 寒さも相まり、早く甘酒を貰いたいと思っていたが、唐突に開催された井戸端会議は加速の一途を辿る。一度火がついてしまうと、その火は簡単には消えないらしい。

「『若い頃は』と、『気が付けば』ってセットの言葉なのよね。若い頃は気が付けば終わってて、ふとした時にはもう、それは遠い昔だったりするのよ」
「あらー、また随分と上手いこと言うじゃない。わかるわ。でも私なんてね、最近ボケてきちゃったもんだから、この先は気が付くこともなさそうよ」

 やだもー、とおばさんたちは手を叩きながら、ハスキーな声で合唱するように笑う。辛うじて、お玉を持った手だけは鍋の中で回っていた。俺と茜の後ろにはまだ列が続いている。このままこの寸劇を観ていても良いのだが、そうもいってはいられない状況だった。

 でも、おかげで思わぬ情報を耳にすることができた。

「あの頃の記憶だけでも思い出せれば、気持ちくらいは若くなるのかしら。私も〝思念の神さま〟にお願いしようかしら?」


「思念の神さま?」


 島で生まれ育ったが、そんな名前の神さまの名前を聞くのは初めてで、思わず大きな声が口から漏れた。同時に、強い違和感を心が抱く。

 俺の言葉に目が覚めたのか、おばさんは「あらやだ、いけない。甘酒二つで良いかしら?」と急いで紙コップに甘酒を注いだ。

「はい、どうぞ。あなたたちみたいに熱いから気を付けてね」

 その屈託のない笑顔は井戸端会議での発言に反して、まだまだ若さを保っているようだった。

「やだもー。そういうのをオヤジギャグっていうのよ」

 そう言っておばさん軍団はまた、遠慮の知らない声で笑った。俺は差し出された甘酒を手に話し掛ける。

「あの……、さっきお話しされていた『思念の神さま』というのは?」

 おばさんは驚いた顔を浮かべたが、「島の中でも限られた地域だけの言い伝えだからねえ。今の若い子たちは知らない子がほとんどなんだろうねえ」とすぐに教えてくれた。

「思念の神さまはね、人の幸せを司るとされる神さまなの。その時の記憶、感情、そういうのも含めて預かって、持っていてくれるのよ」


 幸せを、預かる――?


 あの時の光景が頭に浮かぶ。あの男。神社で茜に赤いナニカを手渡した、あの男に違いない。

「へえ、知らなかった。この島にそんな神さまが居るんですね」

 そう口にした『ここに居る茜』は知らない。近い将来、その神さまと会うことになるなんて。