「永遠!永遠ッ!」
誰かの声が、遠く、深く、耳の奥で響いていた。その声はひどく切実で、痛みに満ちていて、僕の心臓を今にも握り潰してしまいそうだった。
そうだ。僕はこの声を知っている。この世界でいちばん脆くて、最も美しいメロディを紡ぐあの人の声だ。
鳴り続ける電子音、鼻を刺す消毒の匂い、無機質に塗りつぶされた真っ白の天井。
ーーー僕は、目を覚まさなければならない。この暗闇からあの人の居る世界に戻らなければならないのに。
身体が鉛のように重く瞼は閉じたまま動かない。底のない穴に落ち続けているような感覚に陥る。
僕たちはどうしてこんなことになってしまったのだろう。ただ、この世界で唯一の居場所を求めていただけなのに。  

記憶はまるで砂時計をひっくり返すように、冷たい砂の流れに乗って、遠い過去へと遡っていく。





眩しい。暗い。怖い。
クラスメイトの笑い声、窓から吹き込む柔らかな春風、少し古びた僕たちの教室。白いチョークの粉が宙に舞い、それが光を反射して、目が痛いほどきらめいている。
「日向?」
誰かが僕の名前を呼んだ。
はっと我に返り顔を上げると、先程の授業の先生が眉をひそめていた。
「あ、ごめんなさい……」
笑ってごまかすと、教室のあちこちで小さな笑いが起きた。それがまるで、透明なガラス越しの出来事みたいに感じた。

僕だけ、別の世界にいるみたいだ。

そんなことを思いながら窓の外に目をやる。
空は蒼く澄み、校舎の桜は満開で、世界は今日も美しい。なのにどうして僕は息ができないのだろう。一人俯く僕を置いて世界は今日も周り続ける。
「永遠!飯食べようぜ〜!」
「直人…」
中学からの内部生であり僕の明るい友人、佐倉直人。高校から途中入学をして、クラスに馴染めなかった僕に唯一話しかけてきてくれた救世主である。
「なんか元気ないな」
「いや、元気だよ」
無理矢理口角を上げて笑顔を作る。上手く笑えてる自信はない。内部生と外部生の壁が辛いだなんて彼には言えない。それに、きっと人気者の彼には分からない感情だろう。
「じゃ、俺らの方来る?」
「あ、うん」
今日も本当の気持ちは言えなかった。僕は弱い。
「席一個増やしといて〜」
教室の反対側まで響き渡る彼の声。仕方なく弁当と水筒を引っ掴む。机がガタリ、と音を立てた。
一歩を踏み出そうとしたその時、後ろの扉が勢いよく開く。扉の先に立っていたのは担任だった。あの先生少し乱暴過ぎやしないかと思ったその瞬間、先生はこう言った。
「日向、ちょっと来てくれ」
「え?」
心臓が一瞬止まる。状況が飲み込めずあたふたとしていると直人がひそひそと僕にこう囁いた。
「永遠、なんかやらかした?」
「…心当たりはないけど」
本当にさっきの名前僕だったのだろうかと訳の分からないことを考えてしまう。
「日向!早く!」
片手にバインダーを持った先生が叫んでいたのは間違いなく僕の名前だった。
「はい…」
持っていた弁当と水筒をリュックの中に押し込む。後ろでキャッキャと盛り上がっている女子を横目に、先生の後を早足で追った。


先生が立ち止まった先は職員室だった。まあ中入れ、と促さられるまま入る。心当たりは先週の宿題の丸つけを忘れてたくらいしかないのだが…。
「日向、城ヶ崎って知ってるか」
神妙な顔をした先生がこの一言だけを告げた。
「…いえ」
胸の奥に重く沈む違和感が膨れ上がる。なぜ自分が、城ヶ崎奏という人物の話題に関わるのか。考えようとすればするほど、頭の中で言葉が絡み合い、出口の見えない迷路に迷い込むようだった。
誰の話だろう。何故僕に?胸の中で渦巻く様々な疑問を振り払うように頭を横に振った。
「そうか」
先生の視線は真剣で、冷たくはない。しかしその眼差しは、この質問がただの雑談ではないことを示していた。自然と背筋を伸ばし、沈黙を保つ。
先生はバインダーを机に置き、ため息のような息を吐いた。
「城ヶ崎奏、うちのクラスの生徒だ。去年あたりからほとんど登校していない」
心臓の奥で、カチリ、と何かが噛み合った音がした。城ヶ崎奏。噂にも聞かない名前だったが、自分のクラスに在籍する生徒だと聞いて、なぜか妙な納得感が胸を満たした。僕と同じ世界にいながら、別の場所にいる人。僕と同じなのかもしれない。
「たまに学校のプリントや課題を届けなきゃいけないんだ。担任として行きたいのは山々だが、正直、他の業務で手が回らなくて……」
先生はそこで言葉を区切ると、僕をまっすぐに見つめた。
「日向。悪いが、頼めないか」
「僕が、ですか」
驚きで声が裏返った。どうして僕なんだろう。クラスに馴染めていないの僕に、どうして不登校の生徒の家まで行くという、デリケートな役割を頼むのだろう。
「お前は真面目だ。それに高校から入学しただろう」
「え……?」
外部生だから、という理由が理解できなかった。
「内部生だと、どうしても昔からのコミュニティや人間関係がある。城ヶ崎はそういうもの全てを嫌がっている節があるんだ。だからお前の方が、余計なプレッシャーを与えずに済むかもしれない」
それは、僕がクラスに馴染めていないことを突き付けられているようで、少しだけ傷ついた。でも、同時に、「僕だけの役割」を与えられたような、奇妙な高揚感も覚えた。
「僕でよければ……やります」
気づけば、肯定の言葉を口にしていた。断るという選択肢は、僕の中になかった。家と学校に居る時間を少しでも減らしたかった。
「助かる。本当にありがとう、日向」
先生は心底安堵した顔で、引き出しから封筒を取り出し、僕に手渡した。
「これが、城ヶ崎に渡すものだ。場所はここだ」
先生はメモを添えてくれた。地図と、一軒の邸宅の住所だった。
「できれば、今日中に届けてほしい。いけるか?」
「はい、大丈夫です」
封筒とメモを握りしめ、職員室を出た。廊下はしんと静まり返っている。開かれた窓から舞い込んできた一枚の桜の花びらが僕の足元に落ちた。



終礼が終わったその瞬間、僕はリュックを掴み教室から飛び出した。久しぶりだ、こんなの。
「永遠〜!もう帰るのか?」
背後から不思議そうな直人の声が飛んでくる。
「ごめん、ちょっと用事あって」
言えた。自分の気持ち。初めてかもしれない。
「また明日一緒に帰ろうな」
「直人、ありがとう!」
感謝の言葉の理由がわからず首を傾げる彼を置いて、そそくさと硬い革靴を履いた。リズム良く階段を駆け降りると、ふわりとした優しい風が僕の頬を撫でた。どこからともなく漂ってくる甘い匂いが鼻腔を擽る。
ただ、日光が眩しかった。


自転車を飛ばす。爽やかな風が耳元を切り裂く。学校の門を出てすぐ、街は一気に静かになった。生徒たちの笑い声が遠ざかり、代わりに住宅街の穏やかな喧騒が耳に入る。住所のメモを握りしめ、ペダルを踏む足に力を込めた。城ヶ崎奏。名前を反芻するだけで、胸の奥に小さな棘が刺さるような違和感。クラスメイトなのに、存在を知らなかった。いや、知らなかったふりをしてきたのかもしれない。僕みたいに、壁の向こう側にいる人。先生の言葉が頭をよぎる。「余計なプレッシャーを与えずに済むかもしれない」。それが僕の役割だなんて、皮肉すぎる。


道は緩やかな坂を上り、高級住宅街へ入る。塀の高い家々が並び、庭の木々が風に揺れる。指定の住所は、黒い鉄柵に囲まれた大きな邸宅。
門柱に「城ヶ崎」と彫られたプレート。息を整え、インターホンを押す。ピンポーン、という音が虚しく響く。
「……はい」
スピーカーから漏れた声は、低く、掠れていた。男の声。眠そう、というか、苛立っているような。心臓がどきりと鳴る。
「あの、学校からプリントを……日向永遠です」
沈黙。数秒が永遠に感じられた。どうしよう、と思ったその瞬間。ガチャリ、と門が開く音がした。
ゆっくりと自転車を押し込み、玄関へ向かう。
重厚な木の扉が、わずかに開いていた。そこに立っていたのは――。ハーフアップの長い髪、耳に光るピアス。黒いシャツに白いズボン。いや、僕と同じ歳のはずなのに、どこか大人びて、疲弊した影が瞳に宿っている。
「……城ヶ崎、くん?」
僕の声が震えた。知らない人だ、絶対に。でも、なぜか胸がざわつく。彼――城ヶ崎奏は、僕をじっと見つめたまま、差し出した封筒を雑に受け取る。指先が触れそうになり、僕の視線が自然とその手に落ちる。細くて、白くて、美しい。ピアノを弾く手みたいだ。ふと、彼の視線が僕の指先に止まる。じっと、凝視するように。
「どうしたの?」
思わず聞くと、奏は目を逸らし、微かに震える手をごまかすように封筒を握りしめた。
「……何でもない」
声は低く、抑揚がない。でも、その瞳の奥に、何か熱いものが揺れている気がした。
「…久しぶり、だな」
「えっ?」
僕達の間を吹き抜けた風が、庭の大きな桜の木を揺らし花吹雪を舞い散らせる。
「いや、いい」
扉が閉まる音。何が起きたか飲み込めず立ち尽くす僕を置き去りにするように。理由の分からない胸の痛みだけが現実だった。
僕は自転車に跨がり、ペダルを踏む。心臓がまだ鳴っている。久しぶり?眩しい日光が、背中を追いかけるように照らす。あの視線の熱。あの手の震え。僕の居場所探しが、始まったような気がした。