駅祭り当日を迎えた桜ヶ丘駅前は、いつになく賑やかだった。
 ホームでは、浴衣姿の子どもたちが笑い声を上げ、構内に飾られた風鈴が鳴っている。
 俺たち鉄道研究部も、慌ただしく準備を進め、跨線橋の通路に沿って一直線に模型を配置した。

 駅から、また次の駅へと続く七十七メートルの真っ直ぐな線路。歴代の模型と、俺達三人が作った桜ヶ丘駅が並んでいる。
 それを見た瞬間、心に達成感が満ちていた。

「……出来た」

 俺が呟くと、隣で五十嵐が小さく笑った。

「じゃあ今日一日、頑張りましょうね」
「……うん」

 何だかんだ、毎日しんどいことも多かったけれど……振り返ってみれば、あいつに救われた場面のほうが多かった気がする。
 お調子者で、口も達者で、こっちのペースをぐいぐい崩してくるくせに。
 でも、いざというときは真っすぐで、努力もちゃんと見える形で積み上げていて。
 アプローチだの何だのは置いといて――部活に向き合う姿勢は、俺と同じくらい真面目だった。

 小さな世界の中を列車がゆっくりと走っていく。
 カタン、カタン……と繰り返すそのリズムが、胸の奥の鼓動と妙に合っているのが、なんとなく落ち着かなかった。


 ***


 駅祭りが始まると、跨線橋を歩く親子連れが、何度も模型の前で立ち止まった。

「パパ、これ見て! すごいね!」
「本物の駅みたいだな」
「このお兄さんたちが作ったんだって。カッコイイ!」

 そんな声が聞こえるたび、誇らしくて、胸の奥が温かくなった。
 走る列車をキラキラした瞳で見つめる小さな子どもたちを見て、自分もかつてそうだったことを思い出す。
 父と母に手を引かれて、初めて鉄道模型を見たあの日。自分もいつか電車を走らせてみたいと思った。
 そして今、その“夢だった場所”を自分の手で作れている――それが何よりもうれしかった。

 普段は俺たちに年下感を出してくる五十嵐も、今日は子どもたちに囲まれ、真剣に説明している。
 「このスイッチ押すとね、電車が動くんだよ」なんて言いながら、膝をついて子どもの目線に合わせている。

「……五十嵐がそんなに気になるのか?」
「は? 気になってねーし」

 ニヤニヤと笑う香取に肘打ちすると、背後で男の子達の声が響いた。

「あれー? 止まっちゃった」

 その声に、俺ははっと振り返った。
 ホームに設置された線路の上で、車両が完全に停止している。さっきまで軽やかに回っていたモーター音は、ぴたりと止んでいる。空調の低いうなりと、通路のざわめきだけが、やけに耳に刺さる。

「……電源、落ちたのか?」

 香取の声が遠くに聞こえた。予想外のトラブルに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。操作盤を覗き込むが、電源ランプは点灯したまま。照明も生きている。それなのに、列車は動かない。

 頭の中で、さっきの作業を思い出す。増設した電源ライン、フィーダーの接続……。そこまで考えて、俺はハッとした。

「……やったの、俺だ」

 声がかすれた。五十嵐と香取が同時にこちらを見上げる。

「昨日、電源ライン増設したときに……極性、逆に繋いだかもしれない」

 模型の前でがっかりしている子どもたちの表情が目に入って、胸の奥が一気に冷たくなった。
 今すぐどうにかできる問題じゃないのは分かっている。だからこそ、頭が真っ白になっていく。
 部長の自分が、みんなの楽しみに水を差した——そう思った瞬間、背中にやわらかい温度が触れた。

「先輩、大丈夫です。俺が見ます」

 その声は、不思議とまっすぐで、沈んでいた意識をすくい上げるみたいだった。
 振り返るより早く、五十嵐は俺の横にしゃがみ込んでいた。

「ここですね。プラグの噛みが甘くて、接触が不安定になってます」

「……でも、修理するのは――」

「半田ごては無理ですけど、応急ならいけます。通電は、戻せますよ」

 自信と言うより、確信に近い声だった。
 五十嵐はプラグを外し、向きを確かめ、導線を整えながら指先でそっと押さえる。
 その横顔は真剣で、集中していて――
 胸の奥で、何かがふっとほどけていくのが分かった。

 その横に居た小さな男の子が、不安げな顔で五十嵐の制服のズボンをぎゅっと握っている。

「おにーちゃん、電車なおる?」

 五十嵐は微笑み、優しい声で答える。

「……うん、大丈夫だからね」

 そう言って、そっと男の子の頭を撫でた。
 その仕草を見た瞬間、俺の不安に満ちた心まで一緒に撫でられたような気がした。
 この子が感じていた気持ちは、俺のものと同じだ。
 五十嵐がその不安を溶かしていくのを見ていると、いつのまにか俺の中にあった不安、焦り、自分を責める気持ちまで落ち着いていくようだった。

 ランプが光り、列車はゆっくりと動き出す。車輪の軋みとライトの光が復活し、「動いたー!」と親子の歓声が響き渡った。

「五十嵐、お前いつの間にあんな知識付けたんだ?」

 香取が驚きの声を漏らす。

「香取先輩のオススメは、ほぼ全部読み込みました。……認めてもらいたい人がいるんで」

 肩をすくめながら言うその声は、いつもに増して穏やかで優しかった。
 その言葉の後、五十嵐はふと俺を見つめる。澄んだ瞳に、確かに自分だけを見てほしいという熱が込められているのを感じた。

「あと二時間頑張りましょう、翠先輩」

 ぽん、と軽く頭に触れる指先。
 出会った頃の俺なら、こんなの即座に振り払っていたはずだ。
 なのに今は、その温度が離れていくのが惜しいとすら思ってしまう。

 五十嵐は何事もなかったみたいに手を引き、
「子どもたち見てきますね」
 と柔らかい笑みを残して、すっと離れていった。

 その瞬間、胸の奥に風が通り抜けた。
 たった数歩の距離で、どうしてこんなにも心が空くんだろう。
 いつもあれだけ絡まれると鬱陶しいと感じていたのに、
 自分から離れていく背中を見ると、妙にひりつく。

 前髪の陰で、無意識に彼を目で追っていた。
 胸の奥で、静かに泡立つような熱が広がる。
 まるで、沸きはじめた湯の底から、ぽつりぽつりと小さな泡が浮かんでくるみたいに。
 気づけばその熱が、呼吸の隙間にまで染み込んでくる。

 ――近くにいてほしい。
 ――ずっと絡んでほしい。
 ――こっちを、見ていてほしい。

 そんな子どもみたいな願いが、胸の奥で少しずつ形を持ちはじめていく。
 押し込めようとしても、否応なくあいつの方へ傾いていく心を、もう誤魔化せない。

 ゆっくりと、でも確実に理解してしまった。
 ああ、そうか。
 ――俺はとっくに、五十嵐のことが好きなんだ。

 
 ***


 展示は大盛況に終わり、気づけばもう夕方だった。
 昼間あれほど賑わっていた構内も、少しずつ人が減っているのが分かる。
 
「大成功でしたね。お疲れ様でした」
「……うん、五十嵐もお疲れ。鉄道部にいつか入りたいって言ってくれる子も居て、嬉しかったな」
「さっき声を掛けてくれた中学生たちが入部してくれたら、また鉄道合宿が出来るかもな」

 香取も達成感と期待に満ちた表情を浮かべながら、丁寧にケースへ線路パーツを並べていた。

「鉄道合宿、ですか?」
「部員数がもっと多かった頃は、長期休みの時に“大回り”って言って、一つの路線を乗りまくるみたいな鉄道旅をして、みんなで民宿に泊まったりしたんだよ」
「へぇー! それ、めちゃくちゃ楽しそうですね、やりたいです!」

 無邪気に笑う五十嵐を見て、俺と香取も顔を見合わせて軽く微笑んだ。

「……俺、先輩たちの役に立てましたか?」
「正直、あのアイディアがなかったら、あんな風に人が集まらなかったと思う」
「……じゃあ、ご褒美もらえますよね?」

 笑いながら言う五十嵐の顔が、オレンジ色の光に照らされていた。
 
「そういう明るくて図々しいとこ、嫌いじゃない」
「え、今の録音していいですか?」
「するな」

 他愛もないやり取り。でも、どうしようもなく愛おしかった。
 最後の模型を片付け終えるころ、ホームに本物の列車が入ってきた。
 車輪の軋む音、吹き抜ける風。それを見つめる俺に、香取が五十嵐の制服のポケットに手を突っ込んで言った。

「五十嵐、スマホ貸せ。記念に写真撮ってやるよ」
「え、香取先輩は?」
「俺は写真苦手だから、記録係。並べ」

 俺たちは模型を手に持ち、ぎこちなく隣同士で並んだ。

「おい、なんだその顔は。マグショットじゃあるまいし。笑え」
「いや、笑えと言われましても」
「お前ら、ホームの端と端か? 画面に収まらん、もっと寄れ」
「香取、スマホを横向きにするという案もあるけど……」
「俺は本当に呆れているぞ、榎戸。
 お前らの身長差で横向きに撮れるとでも?」

 五十嵐の顔を見上げると、目が合った。
 ふっと優しく笑みを向けられて、「心から嬉しい」という気持ちが伝わってくる。
 お互いに少しずつ距離を詰めると、肩が触れる。わずかな接触でも、動揺を隠し切れない。

「じゃあ、撮るぞ。……平成6年に誕生した日本初のオール二階建て新幹線車両の名前は〜?」
「ええっ!? E1系ー!」

 シャッター音が、跨線橋に乾いた音を立てて響いた。

「香取、なんで“はいチーズ”じゃないんだよ! 笑っちゃったじゃん」
「お前ら、いつかちゃんと俺に感謝しろよ」

 鼻で笑いながら、香取は五十嵐のスマホを突き返す。
 二人でカメラロールを覗き込むと、そこには笑顔で並ぶ俺たちがいた。

「翠先輩、可愛っ……じゃなくて、これめっちゃいい写真!でも、なんか顔赤くないですか?」
「……夕日のせいだと思う」
「えー、嬉しい。ホーム画面これにしようかな」
「だめ。設定したら来週から退部な」
「うわ、まだ言うんですかそれ」

 跨線橋の下で揺れるひまわりの影と、蝉の声。二年の夏が終わったことに、少しだけ、切なさを感じていた。