駅祭りを週末に控えた、水曜日。
 部室では、跨線橋の模型がほとんど完成していた。
 列車が風を切るように走り抜ける軌道や、ホーム脇に植えられた小さな木。信号灯の角度まで、細かく調整済みだ。

「おーい、お前ら。今日は模試あるから、先に帰るわ」

 香取がドアの前で、鍵を揺らしながら言った。

「じゃあ、俺が鍵やっとくから、先に帰っていいよ」
「分かった。職員会議あるから、五時までに返しとけよ」

 香取が鍵を軽く放り、反射的に受け取った俺の掌に、冷たい金属の感触。

 ドアが閉まると、静けさが一気に降りてきた。
 また五十嵐と二人きりになってしまって、俺はしばらく作業に集中するふりをした。
 プラ板をカットして、手すりのパーツを作る。
 カッターの刃がスッと素材を裂く音が、やけに大きく響く――その時だった。

「……痛っ」

 熱のような痛みが指先に走り、思わずカッターを床に落とした。
 それに気づいた五十嵐がすぐ隣に来て、俺の手元を覗き込む。

「大丈夫ですか?」

 肩同士が軽く触れた瞬間、空気が変わった気がした。湿った空気の中で、やけに近い体温が気になる。
 救急箱の一番下の段から消毒液を見つけた五十嵐が、俺の手首を優しく掴んだ。

「いや、自分で出来る」
「へぇ、片手で?」
「……今までは何とかやってた」
「でも、今は俺がいますよね」

 軽い調子のくせに、手の力は優しかった。冷たい消毒液が傷口に染みて、顔がこわばる。

「固定した方が止血になりますから、少しだけ巻きますね」

 包帯が白く重なっていくのを、黙って見つめる。

「……なんかお前、手当てうまいな」
「母親が看護師なんで。弟と妹の怪我の処置は、俺の担当なんです」
「え、お前きょうだい居るの?」
「はい。二人とも生意気な小学生ですけど」

 笑った五十嵐の目が、やけに優しかった。
 
「終わりました」
「……ありがとう」
「本当、危なっかしいですよね。……もうすぐ本番なんですから、集中しないとダメですよ」
「でも模型は、ほぼ完成してるし」

 言い訳みたいに口にした瞬間、自分でも苦しくなる。
 集中出来てないのは、俺が一番よく分かっているから。

「……もしかして、この前のこと思い出しました?」
「は? 何の話だよ。自意識過剰すぎ」

 言葉の勢いでごまかしたつもりだった。けど、五十嵐の視線は鋭いまま変わらない。
 逃げ道を塞ぐような、そんな目をしていた。

「嘘つかないでください。
 翠先輩って、恥ずかしい時はいつも左向きますよね」

 また、言い返せなかった。狭い部室の空気が、急に熱を持ちはじめる。
 包帯の上から伝わる五十嵐の指先の体温が、ゆっくりと広がっていく。

「自意識過剰なのは、翠先輩の方じゃないですか?」
「……お前、本当に生意気」

 挑発するように見つめられて、息がうまく整わない。距離が近すぎて、胸を突き上げるように心臓が鳴っている。

「たまには、俺も翠先輩に意地悪しちゃおうかな」

 五十嵐が、包帯を巻いた方の手の甲にゆっくりと唇を寄せて、ちゅっと音を立てた。

 何が起きたのか分からなくて、一瞬固まる。
 キスされた、俺の手に。
 というかこれ、キスのうちに入るの?
 ……そこまで考えて、五十嵐がそのまま手の甲に顔を摺り寄せてきたのを見た瞬間、俺はハッとした。

「い、五十嵐っ!」

 思わず手を引く声が、予想以上に高く震えていた。
 それを見た五十嵐は、軽く唇を歪めて上目遣いする。

「これだったら、嫌でも意識しちゃいますよね?」

 言葉と視線に、体の奥まで震えが伝わる。俺は咄嗟にパイプ椅子を指さした。

「五十嵐、ハウス!」
「……えー、せっかくのムードなのに? 悲しいワン」

 五十嵐は泣き真似をしながら、定位置の椅子にゆったり腰かける。背もたれに凭れ、軽やかに笑っている。

 動揺と怒りと恥ずかしさが、波のように一気に押し寄せてくる。
 五十嵐の唇の感触は、見えない痕みたいにくっきりと手の甲に残っていて、なかなか消えない。

 傷はまだじんと痛むのに、何故か俺の左手は迷うように手の甲へ伸びる。
 指先で、残った五十嵐の気配を、そっと確かめるように触れていた。