翌日――部室のドアを開けた瞬間、昨日の熱がまだ漂っているような気がした。
湿った木材の匂い、乾ききらないペンキの香り、窓際に積まれた段ボールに染みついた埃の匂い。
どれもいつも通りのはずなのに、胸の奥で何かが引っかかったまま外れない。
昨日、抱きとめられたときの感触。
腕の中で息を詰めたあの一瞬を思い出すたび、喉の奥がくすぐったく、苦しいような、不思議な痛みが広がる。
こんな感情、今まで経験したことがない。
「やばい……何考えてんだ、俺」
独りごちて頭を振る。
けれど振り払おうとするほど、あの温度が蘇ってきて、どうにも離れない。
そんなとき――
「あ、翠先輩。おはようございます」
部屋の奥から軽やかな声。五十嵐が椅子から立ち上がって近づいて来る。
白いシャツの袖を肘までまくり、朝の光が髪に反射している。
まるで昨日のことは何事もなかったかのように、平然としているように見えた。
「……今日は早いんだな」
「昨日は途中で終わっちゃったので」
「そういうところは真面目だよな」
俺が教科書の入った重いリュックを椅子に置くと、五十嵐は模型の設計図に触れながら言った。
「翠先輩が仕上げたこの設計図、本当に綺麗。 いつまでも眺めたくなります」
「……それはどうも」
「設計図を書いてる時の、翠先輩の顔も……めちゃくちゃ綺麗ですけどね」
その言葉が胸の奥に静かに落ちて、心臓が一拍遅れて跳ねた。
朝から何を言ってんだ、と思いながらも、返す言葉が出てこない。
よくも恥ずかしげもなく、そんなことを言えるなと思う。
でも、何故か昨日ほど俺の心は動揺していなかった。
日々を重ねていくなかで、五十嵐の存在に慣れてきたから、かもしれない。
作業を始めると、部室の中にヤスリの擦れる音とボンドの匂いが混ざり合う。
夏特有の湿気が髪にまとわりついて、首筋や頬に粒のように汗が垂れる。
開け放った窓の外では、電車が通過する音が遠く響き、風が部室を通り抜けていく。
「なあ五十嵐。ここの角、どう思う?」
「うーん……ちょっと急すぎますかね。もう少し緩やかにした方が、風が通る気がする」
「風?」
「うん。実際にここに立つと、列車が通るときの風ってすげぇ気持ちいいじゃないですか。
模型でも、見てる人がその風を感じられたら最高だなって」
その言葉を聞いた瞬間、心の奥が震えた。
――ああ、そうだ。俺も、ずっとそれを目指してたんだ。
鉄道模型に“風”を吹かせたい。ただの縮小世界じゃなく、そこに時間と、空気を生かしたい。
俺がずっと心の奥で思っていた理想を、五十嵐が自然と言葉にしてくれた気がした。
「……お前、本気でやってんだな」
「当たり前でしょ。翠先輩の隣にいる限り、手は抜けないですから」
「調子のんな」
「褒め言葉ですよね?それ」
陽射しの中で笑う五十嵐の横顔が、どうしようもなく眩しかった。
額にかかる髪の隙間から覗く目尻はタレていて、穏やかな笑みを浮かべている。
気にくわない後輩。
四月の頃は確かにそう思っていたのに、いつの間にか、俺の中で五十嵐を見る目が少しずつ変わり始めている気がした。
***
放課後の桜ヶ丘駅前。人影はまばらで、風がわずかに汗ばんだ頬を撫でていく。
耳をすますと、どこからともなく蜩の声が響いてきた。
塾があるという香取と別れた後、俺と五十嵐は模型の周りに配置する小物の実物を確認していた。
電柱や看板。樹木の写真を一通り撮影し、この前来た時とは反対側のホームの駅名表や、屋根の色までスマホに収めていく。
「翠先輩、こっち終わりました」
五十嵐の声に振り返った瞬間、ちょうど快速列車が風を切って通り抜けた。
その風がシャツの裾をふわっと持ち上げ、汗ばんだ腕にひんやりと触れる。
この前、部室で五十嵐が言っていた“風が通る”という言葉が、鮮やかに頭に蘇った。
「……ここなんですよ」
「何が?」
「俺が、中学の時に……翠先輩に一目ぼれした場所」
呟くような声に、俺は自然と立ち止まった。
「ここで、俺と翠先輩は話したことがあるんですよ。
少しだけですけど」
「……え? お前が入部しに来た日が、初めての会話だろ」
全く記憶にないことを言われて、その顔を見上げると、五十嵐は軽く首を傾けて微笑んだ。
「あはは、やっぱ覚えてないですよね。
今と違って、黒髪だし……制服も学ランで、マスクもしてましたから」
五十嵐の視線が俺をしっかり捉えたまま、微かに眉を寄せる。
頭の中で今の五十嵐を黒髪姿にしてみたけれど、いまいちピンとこない。
「ここのホームで参考書を読んでて、定期入れを落としたのに気づかなくて。……そしたら先輩が『落ちたよ』って拾ってくれたんです。マジで衝撃でした。
今まで会ったなかで、一番綺麗な人だって思いました」
五十嵐の言葉に、記憶を手繰り寄せる。そんな事もあったような、なかったような。
目の前の五十嵐は、ちょっと照れくさそうに、だけど大切なことを打ち明けるトーンで話し続けた。
「鞄につけてた合格祈願のお守り見て、『あ、受験生? ごめん、縁起の悪いこと言って』って笑ってました」
あの日の五十嵐を、今の姿で知る俺の心は、焦りと戸惑いで揺れている。
そういえば、確かにそういうやりとりをしたような気がしてきた。
「当時は受験で追い詰められてたんですけど……『あんまし頑張り過ぎんなよ!』って言って走って行く先輩の言葉に、少しだけ心が軽くなって……」
五十嵐の耳が赤くなっている。茶化そうにもそうは行かない雰囲気で、俺はその話に耳を傾ける。
しばらく無言で見つめた後、ハッとして、思わず声が裏返った。
「……てか、なんで初日にそれを言わねーんだよ! 一目惚れっていうか……話したことあったんじゃん!」
五十嵐はそう言われることを予想していたみたいに笑って、視線を落とした。
「俺にとっては大切な思い出ですけど、先輩は拾ったことなんて覚えてないだろうな、って思ってましたし。事細かに覚えてることを話したら、引かれるかなって思って……すみません」
謝る声が優しくて、怒ることも笑うこともできなかった。
普段の明るい態度やスカしている時とも違う、必死さが伝わってくる。
「……告白して振られたら、とか考えなかったのかよ」
チラ、と横目で見上げる。五十嵐は、ひゅっと息を吸い込んだ。
「……え? もしかして俺、いま振られかけてます?」
「いや、そういう意味じゃ」
「よかった。じゃあ“全く興味ない”からちょっと増えたくらいですかね」
「調子乗んな。誰が増えたなんて言った」
「一ミリも?」
ぐっと顔を近づけられて、思わず顔を背ける。
一ミリって何だよ。そんな低い数字出されると、そこまでじゃないかもと思ってしまう自分がいる。
「……まぁ、そのくらいは……無くはない」
「マジですか? じゃあ、一ミリずつ増やしていきます」
五十嵐のポジティブさに、呆れながらも笑いが零れる。
でも、その笑いが不思議と心地よかった。
中学時代から変わらぬ熱量で俺のことが好きで、コイツなりに努力して、今もストレートにそれをぶつけてくる。
その思いが、これからも冷めることなく続くということも、ひしひしと感じた。
目の前の五十嵐の瞳に映る想いが、体の芯まで突き刺さってくる。
どうしたらいいんだろう。
俺は多分、もう五十嵐のことを「嫌い」じゃない。
そう気づいたら、喉のあたりがきゅっと締め付けられて、心臓もいつもより早く動いている気がした。
頭の中で思考がまとまらなくなる。
俺は五十嵐との距離を、どう測ればいいのか、分からなくなってしまった。

