ご褒美ください、翠先輩。

 放課後、部室に向かう途中、制服のポケットの中でスマホが震えた。香取からのメッセージだ。

 “熱が出たから早退する。五十嵐と作業を進めててくれ”

 何てことだ。俺は両手で頭を抱えた。どうせ休んだところで、布団の中で鉄道雑誌を開いている癖に。
 仕方なく、香取の代わりに職員室へ部室の鍵を取りに向かう。

 今日の部活は、俺と五十嵐の二人きり。
 嫌だという気持ちは、不思議と湧かなかった。
 ただ、香取がいない分、どんな距離感で接すればいいのか分からない。
 沈黙そのものではなく、その向こうに潜む“何か”が怖かった。

 部室のドアを開けると、むわっとした湿気が肌にまとわりつく。ボンドと木材、それに少し焦げたような塗料の匂い。
 普段なら落ち着くはずのその空気が、今日はどこか息苦しく感じられた。

「……あれ、香取先輩は休みですか?」

 ドアを開けると、本を読んでいたらしい五十嵐がぱっと顔を上げて言った。

「風邪だって。 まあ、大人しく寝てないだろうけど」
 
 俺が椅子にリュックを置いて返事をすると、少しの沈黙が続いた。

「……不謹慎ですけど、翠先輩と二人きりになれてラッキーです」
「お前、本当バカだな。香取が居ないってことは、作業量が増えるんだぞ」

 軽く言い返したつもりなのに、声が思ったよりも部屋に響いて、自分でも内心驚いた。
 五十嵐は小さく笑い、向かい側に座ったまま、机の上のペンキ缶を指で揺らす。

「じゃあ、今日は二人でやりましょうか」

 五十嵐の楽しげな声が、やけに耳に残る。
 ……こいつを意識しない、作業に集中。
 自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。

「ここ、支柱が傾いてる。修正しないと」
「ミリ単位くらい、誤差でしょ」
「わかる。違うもんは違う」

 苦笑しながらも、五十嵐は素直にヤスリを手に取り、支柱を丁寧に削り始めた。
 その動きは無駄がなく、長い指がそれを際立たせる。気づけば、俺が何も言わなくても、求める精度で動いてくれるようになっていた。

「……なあ、五十嵐」
「はい?」
「なんでそんなに飲み込み早いんだ? 単に頭がいいから?」

 俺は何の気なしに五十嵐の方へ顔を向けた。
 目が合った瞬間、いつもより鋭く、確信めいた視線を返される。

「好きだからっすよ」
「……鉄道が?」
「いや、翠先輩が」

 手が止まった。
 ヤスリの擦れる音も、時計の針の音さえも遠のく。

「お前、そういうの軽く言うなって」
「軽くないですよ」
 
 俺の言葉に被せるように、五十嵐が強めに言い返してきた。
 思わず視線をそらしかけるが、心の奥で熱がぐっとこみ上げるのを感じた。

「いや、普通に反応に困るし……」

 乾いた笑みを浮かべる俺。立ち上がった五十嵐がテーブルに手をついて、軋む音が響いた。

「もっと困ってください」

 顔を上げた瞬間、また視線がぶつかった。
 その目が、まるで俺の動揺まで見透かすように、じっとこちらを見つめている。

「……手、止めるなよ。ちゃんと作業進めろ」
「はーい」

 少し遅れて反応すると、五十嵐は再び自分の席に座った。
 口調は軽いのに、声の奥に熱が滲んでいる。

 その後、黙々と作業を続けた。五十嵐は無駄口を叩かず、必要最低限の言葉だけを交わす。
 それが逆に落ち着かなくて、集中しているはずの手元が微妙に震えるのを感じた。

「あれ……ここのパーツ、どこいった?」
「何か探してます?」
「いや、大丈夫。あっちに予備があったはず」

 部室の奥の棚を見上げる。古い本や資料が積み重なっているけれど、どこに何があるかは一応、記憶してある。
 俺が指さした方向を見て、五十嵐が先に立ち上がる。

「え、あそこ? 危ないですよ、俺が取ります」
「いい。平気だから。先にそっち片づけとけ」

 部室の奥から三段の脚立を取り出し、棚の前に脚を広げた。一番上の段に跨って、手を伸ばして箱を引くけれど、ビクともしない。

「大丈夫ですか? 俺、やりますよ。代わって下さい」
「いや、大丈夫。ここ引っ張れば……」

 ぐっ、と親指に力を入れて箱を引き抜いた瞬間、積み重なった鉄道関連の本が一斉に崩れ落ちてきた。

「うわっ!」

 腕で頭を守ろうとした瞬間、体勢が崩れて視界が傾く。
 落ちる――そう思った瞬間、脚立から足が滑り、床の硬さと痛みを覚悟した。

「翠先輩!」

 鈍い衝撃が、肩に走った次の瞬間。五十嵐に体を抱き留められ、俺達は二人で床に座り込んだ。
 衝撃は感じず、ただ五十嵐の腕の力強さと、手の感触だけが伝わる。
 咄嗟の行動なのに、全身で俺を守るようにしてくれている。思わず息を呑んだ。

「……大丈夫ですか?」

 五十嵐の顔が、すぐ目の前にある。心配そうに眉を寄せ、唇を少し引き結ぶその表情に、目が釘付けになった。
 無意識のうちに、五十嵐のシャツまで掴みながら。

「……翠先輩って意外とドジ。自分よりパーツ守ってどうするんですか」
「……うるせぇな」
「えー、助けたんですけど?」
「頼んでないし!」

 言い返しても、声が震えた。シャツ越しに伝わる体温。
 やけに高く感じるけれど、たぶん五十嵐の体温じゃない。俺が動揺して熱くなっているんだ。
 離れようとした瞬間、腕が強く抱き寄せてきた。

「翠先輩……」

 五十嵐の瞳が、潤んでいる。この距離、この空気。恋愛経験のない俺でも、流石に分かる。
 このままだと、きっとキスされる。
 
 俺は反射的に両手を伸ばし、五十嵐の口を塞いだ。

「んぐっ!?」
「五十嵐、待て(ステイ)!」

 驚いたように目を見開いたあと、俺の考えを悟ったように五十嵐は目を細めて笑った。
 頬がわずかに赤く、どこか悔しそうで、どこか嬉しそうでもある。

「……翠先輩」
「なんだよ」
「俺、犬じゃないんですけど」
「……し、知ってる」

 でも、こうでもしないと、体格差で強行突破されそうだ。俺はゆっくりと手を離して、体の距離を置く。
 五十嵐は「はぁー」と笑い混じりに溜息をついた。

「俺……『難易度高い方が燃える』って言いましたよね」
「言ってたな」
「本当、その通り。なかなか靡いてくれないですね。……俄然、落としたくなりました」

 立ち上がって、俺を見下ろして笑う五十嵐の口元は引き攣っている。
 どうやら俺は、五十嵐の更なる“やる気スイッチ”を入れてしまったようだ。

「……あんなので、俺がときめくと思うなよ」

 五十嵐に宣戦布告する。アプローチだか何だか知らないが、きっと今までそれで落とせた子たちと同じように、俺が簡単に落ちると思ったら大間違いだ。
 その言葉と共に、俺達は黙ったまま床に散らばった模型や本を片付け始めた。
 それでも、五十嵐の視線が背中を焼くように感じる。まるで静かに、次の一手を待っているかのように。
 
 ――絶対に、靡くもんか。

 そう思いながらも、顔も身体も、どこか熱くなっている自分がいた。