悔しいことに、一週間経っても五十嵐はしっかり居座っていた。

 俺と香取による“鉄道スパルタ授業”を受けても、こいつはまったく堪えない。狼狽えるどころか、その場で言ったことを理解し、翌日には完璧に覚えてくるのだ。
 退部を賭けた抜き打ちテストも、俺の全敗。思い描いていた展開とはまったく違って、腹の底から悔しさがこみ上げる。

 そして今、いちばん厄介なのは──この呼び方だ。

「すいせーんぱーい♡」
「だーかーらー、その呼び方やめろって言ってんだろ!
 バカ五十嵐!」
「だって榎戸先輩って呼びにくいんですよ。
 だから、翠先輩がいいです。響きも可愛いし」

 不意打ちで放たれた「可愛い」の一言に、耳の奥まで熱くなる。どうにか平静を装おうと、咳払いで誤魔化す。

 部活中のちょっとした時間も、五十嵐の質問攻撃は止まらない。よく飽きないもんだと、逆に感心するレベルだ。

「翠先輩って、緑色が好きなんですか? スマホカバーもペンケースも緑だし……」
「はやぶさグリーンの色だから」
「え、新幹線の?」

 頬杖をつきながら一度だけ頷く。
 「本当に新幹線好きなんですね」と、五十嵐はパイプ椅子に跨るように座り、背もたれに両腕を乗せながら俺の顔を見つめる。
 俺が部誌を書いて無視しても、視線を反らさず延々としゃべり続ける。

「好きな音楽グループとかあります? 俺、結構守備範囲広いんで。知ってるのあるかも」
「駅メロ」
「駅メロ!? あのピロロロ〜ンのやつですか?」
「そう。編成が来る感じがしてテンション上がる」
「へー、帰ったらMeTube(ミーチューブ)で調べて見よっかな」

 五十嵐はスマホを制服のポケットから取り出し、タプタプと何か打ち込んでいる。おそらく駅メロを検索窓に打ち込んでいるんだろう。

「じゃあ、欲しいものは? 俺、尽くす系なのでプレゼントとか贈るの好きで」
「……なら、寝台特急『北斗星』のヘッドマークが欲しい」

 嘘ではない。俺が意味深に微笑むと、五十嵐は「え、翠先輩が笑った!」と大興奮して赤面する。
 香取はすかさず、スマホでJR北海道のページを見せて言った。

「五十嵐、あの笑顔に騙されるな。榎戸の欲しがってるヘッドマークは、271万円だぞ。……なんでもホイホイ言うこと聞いてると、どんどんレベルが上がって、かぐや姫みたいになりかねん」

 その値段を聞いた五十嵐は、指を折りながら何かを計算している。

「んー、俺が将来一流企業に入れば、無理ではない気が……」

 一切めげる様子を見せず、自分の年収まで香取に相談する。
 その横で香取はタブレットでエクセルを開き、あっという間に生涯賃金を棒グラフにしてしまう。
 才能の無駄遣いをするな、ここで進路相談会を開くな。というか、部活を真面目に……と突っ込みそうになるが、五十嵐の座るテーブルの前には、きちんと手入れされた動力車が四両並んでいた。


***


 部活以外で五十嵐と顔を合わせることはほとんどなかった。
 学校のルールで、トラブル防止のために他学年フロアは立ち入り禁止だ。
 しかし、そのルールの抜け目を掻い潜るように、五十嵐は渡り廊下や全校集会で絡んでくるようになった。

「おい榎戸、またあの一年がなんかやらかしてるぞ」

 クラスメイトに声をかけられ、教室の窓辺を見ると人だかりができていた。

 入学早々、五十嵐はその顔とスタイルの良さで話題になり、女子から告白されまくったとか、一週間で七人も振ったとか、噂が尾ひれをつけて校内で広まっていた。
 最近はなぜか“俺限定”で絡んでくるせいで、二年の間でも妙に名が知れている。……俺は何もしていないのに。

 俺も窓に近づき、グラウンドを覗き込む。
 そこには──大きく描かれた「すい」の二文字が、ハートで囲まれた巨大な砂文字があった。

「……は?」

 どう見ても俺宛だし、どう見てもアウトだし、どう見ても普通じゃない。
 周りの一年がドン引きしているのも遠目で分かる。

「あいつ……」

 顔が一気に熱くなる。クラスメイトたちは大爆笑で「やばい」「告白?」と言いながらスマホで撮影している。

 本当に、何なのあいつ。言うこと聞かせたいのに、まるで手が付けられない。お前は暴走特急かよ。

 次の授業は体育らしい五十嵐はジャージ姿で、こっちに気づくと犬の尻尾みたいに全力で手を振ってきた。
 腕、もげるんじゃないかという勢いで。

「やめろバーカ! 早く消せ!」

 届かないのは分かっているのに、思わず叫んでしまった。
 こんな日々が続き、五十嵐が俺の日常にどんどん侵食してくるうちに、四月後半を迎えていた。

 あの後、模型テーマは「桜ヶ丘駅とその周辺の再現」に決まったものの、そこから先のレイアウトがまったくまとまらない。
 模型の配置図を前に、香取が眉を寄せた。

「やっぱり駅構内だけだと、レイアウトが単調だな」
「でも、展示スペースが限られてるから」

 俺たちの想定では、改札手前――みどりの窓口跡地に設置する予定だった。
 ただ、それだと“動き”が出ない。電車が走る魅力を活かしきれない。没になった図はもう十枚以上。

 そんなとき。

「……だったら、跨線橋(こせんきょう)を使えばいいんじゃないですか?」

 唐突な五十嵐の提案に、俺と香取が同時に顔を上げた。

「跨線橋?」
「はい。桜ヶ丘駅って駅舎とホームが離れてて、長い跨線橋があるじゃないですか。あそこに模型を一直線に走らせたら面白いかなって」

 その瞬間、頭の中で鮮明に映像が浮かぶ。
 日差しに溢れた通路を、小さな列車が走り抜けていく光景。

「……いいかも」

 思わず呟くと、五十嵐の顔がぱっと明るくなる。
 香取はすでにホワイトボードに構内図を描き始めていた。

「直線を活かせるし、来場者の動線も妨げない。動く展示として理にかなってるな」
「わーい、香取先輩に褒められた!」
「調子に乗んなよ」

 五十嵐が舞い上がる横で、俺の胸はざわついていた。
 鉄道に興味がないはずの五十嵐が、構造の魅力に直感で気付くなんて。

「直線に沿って、東京駅から青森までの主要駅の模型を置いて──」

 香取がアイディアを書きながら言う。

「いいと思う。OBたちの模型も活かせるし、俺らが作るのは桜ヶ丘駅だけで済む」

 少しずつ希望が見えてきた。

「よし。実際の跨線橋、確認しに行くか」

 香取の提案で、放課後の俺たちは桜ヶ丘駅へ向かった。

 
 ***


 香取はスマホを片手に、計算しながらメモを取っていく。

「直線八〇メートル……スケールは一万分の一……」
「香取先輩って数学得意なんですね」
「得意ってか、こいつ学年首席だから」
「マジすか。俺と同じだ」
「……は? お前、そんな頭いいの?」
「実は、首席入学なんです。 新入生代表の挨拶もやりました」

 にへっと笑う五十嵐を見て、思わず目を瞬いた。ヘラヘラしてるくせに秀才って、ギャップが過ぎるだろ。

 その後、香取が計算を続ける横で、俺と五十嵐は跨線橋からホームを眺めた。

「……翠先輩、電車の“顔”って全部違いますよね。なんであんなに印象変わるんですか?」

 ホームの車両を指差しながらのその一言に、俺は思わず息を呑む。
 子どもの頃の自分と同じ感性を、五十嵐も持っているなんて。

「……ヘッドライトの位置とか、窓の角度で“性格”が出るんだと思う。E231系は素直で、E257系はちょっと気が強い感じ」
「形式だけ言われても分かんないっす」
「調べろよ。でも……お前の言いたいことは分かる」

 そう言うと、五十嵐は少し照れたように笑った。

「翠先輩の話聞くと、世界がちょっと違って見えます。もっと教えてほしいです」
「……別に、教えてるつもり無いけど」

 思わず視線を逸らしたところへ、香取が戻ってきた。

「計算は終わった。データはあとで送る。それじゃあ、俺は“鉄分を補給”してくる」
「……香取先輩、貧血なんですか?」
「いや、“電車を見に行く”って意味だ」

 香取が去るのを見送りながら、俺は心の中で軽く叫んだ。行くな、俺たち二人にするな。
 二人きりの帰り道、初めて二人きりになった俺と五十嵐は、気まずくて沈黙していた。
 自分を好きだと言ってくる奴と、何を話したらいいのか分からない。そんな俺の気持ちを汲んだように、五十嵐は会話しやすそうな話題を選んできた。

「……翠先輩。 あのアイディア、本当に使ってくれるんですか?」
「使う。跨線橋レイアウト、いいと思うから……ありがとな、提案してくれて」
「え、翠先輩がデレてる! スーパー・スペシャル・レア!」
「うるさい、バカ五十嵐」

 軽口を交わしながら、こぼれそうな笑みを俯いて隠した。
 グイグイ来るくせに、俺が困っている時はそれを尊重して、気を遣ってくれているのが分かる。
 いい奴なのか、そうじゃないのか分からない。確実に言えるのは、今までに俺が遭遇した事のないタイプの人間ということだった。
 

 ***


 早めの梅雨の湿気が部室にこもる頃、模型制作は少しずつ形になってきた。

 俺が設計図を引き、香取が部品リストをまとめ、五十嵐がパーツを磨く。
 最初はやかましかった五十嵐が、今では静かに集中している。その変化に、正直驚いていた。

「……意外と几帳面なんだな」
「俺、“意外と”って言葉嫌いなんです」
「なんで?」
「どうせ出来ないと思ってた、って前提がある気がするから」

 軽く言いながら、言葉はどこまでも真っ直ぐだった。

「翠先輩、部長なんだから、俺の努力をちゃんと見ててくださいね。先輩に認めてもらえないと報われないんで」
「……うるさい。だったら俺が認めざるを得ない位の、技術と知識をつけて来いよ」

 誤魔化すように言って会話を切る。
 香取から模型製作の本を借りようとしている五十嵐の背中を見ながら、胸がざわついた。

 正直、前より嫌いじゃない。頭もキレるし素直で、言ったことはきちんとやる。
 でも──あいつが俺を恋愛的に好きだと言っている以上、どうしても距離を置きたくなる。

 こいつとは“距離を置かないと危険だ”。そんな警報が、ずっと頭の中で鳴っている。
 女子でもいいだろ、あの顔なら引く手あまただろ……なんで俺なんだよ。

 そこまで考えて、ハッとした。

 ……これ、五十嵐の思うツボなんじゃないのか?

 初対面の挑発的な笑顔が脳裏に浮かぶ。
 煩悩を振り払うように息を吐いて、設計図へ視線を戻した。
 だけど、線がうまく引けない。集中が続かない。
 気づけば何度も消しゴムを走らせていた。

 まるで、自分の頭の中で(もつ)れている“何か”ごと、消し去ろうとするみたいに。