ご褒美ください、翠先輩。


 帰りの新幹線は、驚くほど静かだった。
 指定席の車両には、他に数人の乗客がいるだけ。
 一番後ろの座席に並んで座ると、街の灯りが窓の外をゆっくり流れていく。

「翠先輩。デートが終わる前に、もう一度伝えたいんですけど」

 その声に、心臓がきゅっと跳ねた。
 静かで、でも切実で、ひどく真っ直ぐ届いてくる。
 視線を向けた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。

「翠先輩のことが好きです。……俺のこと、まだ好きになってくれてないですか?」

 五十嵐は笑っているのに、瞳の奥が揺れていて、気丈に装っているのが分かった。
 これまで散々俺を翻弄してきたクセに、今は指先ひとつで壊れてしまいそうなくらい弱い表情をしている。

「……難易度が高い方が燃えるから、アプローチは止めないし、本気で落とすんじゃなかった?」

 茶化すつもりはなかったのに、口をついたのはそんな言葉。
 五十嵐は小さく肩をすくめ、珍しく視線を落とす。

「その……予想以上に、翠先輩が靡いてくれないので。正直、自信なくなってました」

 胸の奥が、ぐらりと揺れた。
 突き放して、怒鳴って、距離を置いて。それでも五十嵐は笑って追いかけてきたのに――今、初めてこんな顔を向けられた。
 その瞬間、心のどこかがざわりと音を立て、焦りが一気に膨れた。

「へー、じゃあ諦めるんだ? 俺が他の奴と付き合ってもいいの?……受験までして追いかけてきたくせに」

 本気で意地悪したいわけじゃない。
 ただ、このまま手を離すなんて絶対に嫌だと思う自分がいる。

 諦めんな。逃げんな。もっと追ってこい――。
 心の奥で叫ぶ声とは裏腹に、五十嵐は作り笑いを浮かべ、ゆっくりと視線を落とした。

「……翠先輩が好きになってくれないなら、もう……」

 その途切れた言葉で、築いていたプライドが音を立てて崩れたような気がした。
 今まで逃げてきた自分、誤魔化してきた感情が、一瞬にしてさらけ出されるような感覚。
 五十嵐の熱が弱まりかけている今、その手を絶対に離したくないと、本能的に思った。

「……なってるから」

 自分でも驚くぐらい、声が震えていた。
 五十嵐の肩が、びくりと揺れた。

「え……?」
「お前のこと、好きになってるって言ってんの」
「……マジですか?」
「今さら撤回しない」

 そう言うと、五十嵐は驚いたように目を瞬かせ、それから堪えきれないように笑みを弾けさせた。
 頬は真っ赤で、目は潤んでいて、嬉しさが全身から零れている。
 そんな顔を見てしまったらもう、どうしようもなく愛おしくなる。

 沈黙の中、自分から五十嵐の手を握った。
 恥ずかしさで視線を合わせられず顔を背けると、列車の低い振動と車内アナウンスが静かに流れる。

《まもなく仙台駅に到着いたします。ご乗車の皆さまは――》

 次の瞬間、五十嵐がぎゅっと手を握り返し、耳元で小さく震える声を届けた。

「……翠先輩、キスしたいです」

 突然の言葉に、心臓が跳ね上がり、頬から耳の先まで熱さが駆け上る。
 ゆっくりと顔を上げると、五十嵐の視線が真っ直ぐ俺を捉えていた。

「いや、ここ新幹線の中だし――」

 そんな俺をよそに、五十嵐はゆっくり顔を近づける。
 息遣いが混ざり合う距離に、心臓が耳まで跳ね上がる。

 片手で俺の顎を優しく持ち上げ、もう一方の手に持っていた帽子で口元をそっと隠す。
 遮られた光の中、五十嵐の顔だけが鮮やかに浮かび上がる。

「ごめんなさい。俺、もう“我慢(ステイ)”は出来ないです」

 その瞬間、唇が触れ合う。
 柔らかく、温かく、世界が一瞬で二人だけのものになるような短いキス。
 無意識に「もっと」と思い、そっと五十嵐のシャツの袖を右手で掴む。

 全身の感覚が五十嵐だけに集中し、文句も言えず、理性も時間もすべて消えた。
 唇が離れたあとも、ほんの数センチの距離で目が合う。
 息が触れ合うほど近い。
 瞳の奥に自分の顔が映るのを見て、俺は震える声で言った。

「……呼んで」
「え?」
「名前……呼んで、って言ってんの」

 一瞬、目を見開いて固まった五十嵐。驚きで口が少し開いている。

「……翠」

 まるで小さな宝物を手に入れた子供のようで、嬉しさが全身にあふれているのが分かる。
 そのシャツの袖口をぐっと引き寄せると、もう一度だけキスをして、体を離した。

 並んで座る二人の影が、窓に映ってゆらゆら揺れる。街の光がひとつひとつ遠くに流れて、列車は静かに進んでいく。
 
 きっと、俺たちの関係も同じだ。行き先の駅はまだ分からないけど、もう同じ線路の上を、確かに一緒に走っている。

「着いたら起こせよ。……(はるか)

 そっと目を閉じて、隣の肩に体を預ける。
 小さく息を呑む音が聞こえる。見なくても、微笑んでいるのが分かった。
 膝に置かれた手を優しく握られ、俺も指先を絡め返す。

 列車はそのまま静かに進み、二人を乗せた時間も、途切れることなく走っていく。
 
 きっと、どこまでも二人を運んでいく。
 青い夏の、次の季節へ向かって。



 end.