桜ヶ丘高校の鉄道研究部は、廃部の危機に瀕している。
 部室の壁には、OBの先輩たちが鉄道模型コンテストで残した功績が並んでいる。
 「HO車両部門優勝」「審査員特別賞」──けれど、その輝かしい実績も今では色褪せてしまっている。

 机や棚の上には古い模型や資料が散乱し、今や部員はたったの二人。
 部長である俺──榎戸(えのきど)(すい)は、机の上で線路パーツを並べながら、深い溜息をついた。

「部員をあと三人以上集めないと……廃部か」

 俺の幼馴染で、もう一人の部員の香取が、窓際で顔を上げて言った。

「……絶望的だよな、こんな状況じゃ」

 成績は学年トップクラス、頭の切れる生粋の鉄道オタクだ。上級生が部活を引退してから、部員は俺と香取の二人だけになってしまった。

 「名前だけでも貸してほしい」と頼んだクラスメイトには「電車は興味ない」と失笑され、断られた。唯一の頼みの綱だった新入生へのビラ配りも、鉄道に興味を示した生徒は殆どいなかった。

 未完成の駅模型が机の上に山積みになっているのを見ると、鼻の奥がつんと痛む。
 俺たちの代で、この部活が廃部になってしまうかもしれない。車両のパーツに触れながら、気持ちが重くなっていく。やらなきゃいけないことは山積みなのに、それを乗り越える力が湧いてこない。

 その時、部室の扉を叩く音が響き、俺は顔を上げた。

「すみません、入部希望です」

 やがて扉がゆっくりと開き、新しい空気が流れ込んできた。立っていたのは、真新しい制服の男子生徒だった。
 目をまっすぐ俺に向けて、揺るぎない決意を感じさせる表情をしている。

「本当に? ここ、鉄道研究部だよ?」
「はい、間違えてません」
「えっと……名前、教えてもらっていい?」
「一年七組の、五十嵐(いがらし)(はるか)です」

 一年生なのに物怖じせず、受け答えは凛としていた。しっかりしているな、というのが第一印象だった。
 長身で、綺麗な二重瞼が印象的な整った顔立ち。垢抜けていて、つい最近まで中学生だったとは思えない。
 しかも、うちの高校の七組はいわゆる“特別進学コース”。香取と同じで、とんでもなく頭も良いらしい。

「じゃあ、五十嵐くん。好きな電車とかある?」

 俺は鉄道オタクとして、彼がどんなタイプなのか知りたくなった。好きな電車の分野を聞けば、その人の鉄道へのこだわりや性格が大体つかめるものだ。
 しかし、五十嵐は特に考える素振りも見せずに即答した。

「特に無いです」
「え?」
「好きな電車は、無いです」

 俺の頭の中で、言葉が整理できずに滞る。まさか、こんな返答が来るとは思っていなかった。
 「鉄道初心者か?」と香取と無言で顔を見合わせ、気まずい空気が部室を支配する。
 香取は眼鏡のブリッジを中指で一度持ち上げて尋ねた。

「……じゃあ、君は何のためにウチに?」

 香取の視線を全く気にせずに、五十嵐は俺を指差して答えた。

「駅で、この人に一目惚れしたからです」
「…………は?」

 大真面目な顔で言う五十嵐に、俺は沈黙した後、驚きのあまり間抜けな声が出た。
 一目惚れって、何?
 意味不明すぎて、俺は眉間に皺を寄せる。新入生の新手のいたずらか何かか、とも思ったけれど、そんな雰囲気には見えなかった。

「何言ってんの? 俺のことからかってる?」

 冷やかしなら、時間の無駄だ。さっさと出て行ってほしくて、俺は歓迎ムードから一転して、怒りを含ませた声で返事をした。
 隣にいる香取も目を丸くし、完全に固まっている。香取とは十年以上一緒に居るけれど、初めて見る反応だった。
 
 五十嵐は真面目な顔のまま、間を置かずに続ける。

「中学生の時、駅のホームで先輩を見かけて、一目惚れしました。制服を見て、同じ高校に入れば会えると思って」

 椅子からずり落ちそうになった。
 でも、向けられたその真剣な眼差しを見た瞬間、即座に拒絶することはできなかった。

「……ちなみに聞くけど、どこの駅?」

「桜ヶ丘駅です。去年の冬、二番線のホームで先輩が写真を撮ってました」

 ――駅名も、時間帯も、俺がその時いた場所も全部合ってる。
 少し怖い。いや、怖いというか……動揺が全身を駆け巡る。

 香取も俺を見上げ、「合ってるのか?」と尋ねてきた。
 確かに、あの日は桜ヶ丘線の古い車両が引退する日で、俺は一人でそれを撮影しに行った。
 嘘ではないと分かったけれど、今度は問い詰めたくなった。

「受験して受かっても、俺が卒業してる可能性だってあっただろ」

 俺の言葉に五十嵐は目を丸くした後、口元に笑みを浮かべて得意げに言った。

「ああ、それはほら。ネクタイと、タイピンを見れば分かるじゃないですか」
 
 ネクタイを指さす五十嵐に誘導されるように、俺はそちらへ視線を移した。
 うちの高校では、コースによってネクタイの色が違う。赤は文系、青は理系。そして、タイピンの形で学年が分かる仕組みになっている。
 
 五十嵐の説明は、納得できた。それでも、心の中ではモヤモヤした気持ちが残る。
 目で香取に助け舟を求めると、それに気づいた香取は、深く息を吐きながら言った。

「確かに榎戸は、顔はマジで綺麗だよ。中学の時なんて、本人の知らない所でファンクラブまであった。でも、中身は重度の鉄道オタクだよ?……走行音とか駅メロで興奮するような」

 香取の言うことは本当だ。でも、鉄道オタだっていいじゃないか。香取だって、救いようのない「時刻表オタ」のくせに。

「それでも好きです。だから、こうして入部届を持ってきました。同じものを共有して、俺のことも知って貰って……。ゆくゆくは、俺を好きになって貰えたらいいなと思ってます」

 五十嵐があまりにも真剣に言い切る。
 けれど、俺の中にはどうしても譲れないものがあった。無理やり距離を詰めてくるような態度──そして、あまりにも不純な入部動機。それだけは受け入れられない。
 俺は深く息を吸い、言葉を絞り出した。

「勝手に一目惚れだのなんだの、よく分かんないけど……それは百歩譲って認めたとしても。本当に鉄道が好きじゃないなら、入部はしないで欲しい」

 語気が強くなる。物心ついた頃から、鉄道は俺のすべてだった。
 初めて買ってもらった電車のおもちゃ、図鑑で見た車両の流線形。小学生の頃から、休日になるたびに乗りに行った在来線の揺れ。どれも、心の底からワクワクする瞬間だった。
 駅のホームに立つと、線路の響きだけで胸が高鳴る。電車が好きだという気持ちは、ただの趣味なんかじゃない。俺にとっては、生きがいそのものなんだ。

「いくら廃部寸前で困ってても、不純な動機で入る部員は要らない」

 視界の端で、香取が小さくため息をつき、俺の肩に手を置いた。

「榎戸、落ち着け。部員不足で困っているのは事実だろ」

 その手を払いのけて椅子に腰を下ろし、顔を窓の外に向けた。
 知らない奴が勝手に踏み込んできて、自分の大切な場所をかき乱していくのが、どうしても許せない。

 だけど、そんな俺を前にしても、五十嵐は全く動じていなかった。まるで俺の焦燥が見えていないかのように、ただ静かにじっと前を見据えている。
 そして、微笑みながら言った。

「俺、冷やかしじゃなくて本気ですよ。
 鉄道はこれから好きになります。……アンタが好きなものだから」

 その言葉に、俺は思わず言葉を詰まらせた。けど、ここで認めるわけにはいかない。
 怒りに任せて吐き出すように気持ちをぶつけた。

「……出てけよ。俺が好きなのは鉄道だけなの。
 それ以外を好きになるなんて、百パーセントあり得ないから!」

 そのとき、部室のドアが突如として開いた。顧問の上野先生だ。

「おう、お前ら。新入部員が増えて良かったなー! 早速なんだが、これ……見ておいてくれるか?」

 先生は満面の笑みを浮かべながら、俺に一枚のプリントを差し出した。
 そこには“桜ヶ丘駅祭り”という大きな文字とともに、電車のイラストが描かれている。

「今年の夏、桜ヶ丘駅祭りで『鉄道模型を展示して欲しい』ってJRから依頼が来てる。レイアウトは自由で、来場者に楽しんで貰えるようなのにして欲しいそうだ」

 その話に、俺と香取は顔を見合わせた。
 模型の製作にかけられる期間は、仮に今日から始めたとしても約三か月。部員二人だけでは到底、間に合わない。
 「じゃあ俺は、会議があるから」と言って、先生は手を振りながら部室を出て行った。

 嫌な予感がして五十嵐の顔を見ると、余裕を感じさせる笑みを浮かべている。まるで「俺が入部すれば、助かるだろ」とでも言いたげな顔だ。

「榎戸。不本意かもしれないが、さっきの告白は聞かなかったことにして、三人でやっていくしかないと思う」

 香取が諭すように言う。その言葉に、俺は唇を固く閉じた。心の中に悔しさがこみ上げる。こんな奴に頼るなんて、絶対に嫌だ。

「……さっさと帰れよ」
「あー、怒っちゃいました? 怒った顔も可愛いですけど」

 ……ますます頭に来た。胸ぐらを掴みたくなるくらいの生意気な言い方だ。なんとか今は、それ(こら)えている。

「榎戸。残念だが、五十嵐を迎え入れるのが賢明だ」

 香取にそう言われると、見放されたような気分になる。
 唯一の味方だと思っていた香取を五十嵐に奪われ、とうとう俺は折れるしか無くなった。

「……分かった。ただし、俺と香取の言うことは絶対。鉄道の知識も、基礎の基礎から叩き込むから」

 五十嵐は、その言葉に表情をぱっと明るくした。一気に先ほどまでのクールですました態度が消え去り、大型犬のように人懐っこい笑顔を浮かべて答える。

「はい!楽しみにしてますね。……あと入部する前に、先輩にひとつお願いがあるんですけど」

 顎に手を添えながら、五十嵐が明るい声で切り出した。

「……お願い? お前、あんま調子のんなよ」

 憎たらしいほど背の高い五十嵐に向かって、俺は体の前で腕を組み、下から睨みつけながら言った。
 香取は「殴り合いだけはするなよ」と言いながら、電車の「停まれ」の手旗信号を真似た。この状況を次第に楽しみ始めた香取を見て、俺は更にイライラしていた。

 五十嵐はゆっくりと俺に近づき、海外式のプロポーズのように膝をつく。俺の指先に、まるで指輪をはめるかのように指先を添え、顔を見上げ、柔らかい笑みを浮かべて言った。

「俺が模型作りに貢献したら、ご褒美ください」

 鋭く整った眉、高い鼻筋、少し吊り上がった目元。無駄にイケ散らかした顔面で、俺の目をじっと見つめてくる。
 その視線に負けじと、俺も嫌悪感丸出しで五十嵐を見下した。

「はぁ? なんだよ、ご褒美って……」
「その方がモチベ上がるんで。絶対役に立つって約束します」
「違くて、内容。何が欲しいのかって聞いてんの」
「……それは、駅祭りが終わるまでに考えときます」

 ああ、最悪だ。年下のくせに、完全に部長である俺を舐めきっている。自分ではどうしようもないこの状況に、また怒りが湧き上がる。

「いいよ、ご褒美。どこまでやれるか楽しみにしてるから」

 心の中で、絶対に一ヶ月……いや、一週間で自主退部させてやると決意する。
 鉄オタを舐めるなよ。抜き打ちで鉄道問題のテストを仕掛けて、全部クリアできなければ容赦なく指摘する。模型作りの部品の細かさ、組み立ての精密さ、計算の大変さに直面させて、ミスしたら徹底的に叱る。
 理不尽なスパルタ指導で心を折って、「やっぱり辞めます」とこいつの口から言わせてやるんだ。

「ありがとうございます。部活も真面目にやりますけど……先輩のこと、本気で落としにいきますね」

「別に、本気でもなんでも勝手にすれば?
 俺、鉄道以外のことには全く興味ないから」

 女子なら黄色い悲鳴でも上げて喜びそうな、クサい台詞。でも、俺は一ミリも嬉しくない。
 心の中でドン引きしながら、冷静に言葉を切り返した。
 香取はすでに俺たちのやりとりには興味を示さず、分厚い時刻表の“全国ダイヤ改正号”を読んでいた。

「俺、難易度が高い方が燃えるんで。楽しみです」

 五十嵐は入部届を突き付けながら笑って、俺を一瞥すると部室を出て行った。

 ――四月早々、最悪の形で新入生に絡まれ、俺の部活動は波乱で幕を開けた。