まもなく、上映開始です。


 正直、家のドアを開けるまでずっと緊張していた。
 自分の家に誰かを呼ぶのなんて初めてだし、何より、晄を誘って連れてきたのは俺だ。

「狭い部屋ですけど……どうぞ」
「うわ、マジで綺麗にしてんじゃん。ほぼ予想通りだわ」

 サイズの大きな黒い上着が壁に掛けられているのも、自分の部屋に晄がいるのも、非日常でそわそわしてしまう。
 特に気に入っている映画を集めた棚を眺め、晄はまた部屋を見渡した。今まで見せていなかった部分を見られているようで、何だか恥ずかしい。

「宵、俺これ観たいかも」

「えっ、今から?……いいけど」

 晄が名作の恋愛映画を手に取ながら言った。プレイヤーにディスクをセットし、俺はキッチンに向かう。

「ソファー、座ってて。飲み物持ってくるね」

「ん、サンキュ」

 グラスにジンジャエールを入れ、晄の隣に腰かけると、映画は静かなテンポで始まった。
 集中するうちに晄が軽く脚を開いて、膝同士がぶつかる。
 離れたら嫌がっていると思われる気がして、そのまま画面に視線を戻した。

 “なぜ、いつも私の傍に居てくれるの?”
 “僕は、君のことを――”

 物語の中盤に差し掛かると、主役のふたりが、キスを交わす前触れのように見つめ合う。
 この部屋の空気も、少しずつ熱を帯びている気がした。ただでさえ狭い空間なのに、晄の呼吸の音がより近く感じる。
 キスシーンは見慣れているし、ラブシーンだって、そう。なのに頬が熱くて、意識してしまう自分が変に思えた。

 “愛してるから”

 その字幕が表示された瞬間、画面の中のふたりはようやく思いが通じ合った喜びのまま、ゆっくりと何度も唇を重ね始めた。
 いやらしくはない。ないけれど――洋画らしい深い愛情表現が、この部屋にふっと熱を落していくようで、耐えきれずに視線を落とした。
 足の爪先ばかりを見つめながら、そっと膝を抱えて、ソファーの上で体育座りになる。
 晄がどんな反応をしているのか確かめたくて、ためらいのあと、ゆっくりと顔を上げた。

 晄と、目が合う。

 その視線は優しいわけでも、甘いわけでもない。
 けど、息を呑むような熱を帯びている。
 まるで大きな手でそっと体を押さえつけられたみたいに、視線ひとつで支配されて、目を逸らせない。
 表情を殆ど変えないまま、わずかに首を傾けて俺を見下ろしている。
 「どうしたの」「今の、何?」と聞けるような空気ではなく、何事も無かったようにお互いが目を逸らして、俺と晄は映画に視線を戻した。
 エンドロールが流れて、ふっと息を吐く。氷の溶けたジンジャエールを一口飲むと、晄が伸びをしながら言った。

「感動したら泣くタイプかと思ってた」

「いや……あんまり泣かない方だと思う」

「ガキの頃は?」

「うーん……我慢強くて、“よっぽどの事じゃない限りは泣かなかった”っていうのは聞いたことある。親から」

 DVDのディスクをケースに戻しながら言うと、晄が「へぇ」と返事して、サイドテーブルにある革の表紙のノートを指差した。

「……これ何?」

「映画の半券を集めてるノートだよ。見る?」

 ページを開いて見せると、今まで観た映画の半券がずらりと貼られていて、晄が思わず笑った。

「出たー、几帳面。性格ですぎ」

「こういうの、捨てられないんだよね。思い出の一部な気がして……」

「分かる。俺も、テキトーな箱に溜めてるわ」

「半券って見ただけで席とか、観た時間まで思い出せる感じが、すごく好きなんだよね」
 
 パラパラとめくりながら、その半券の作品についてまた話し込む。
 ふと時計を見たら、もう深夜ニ時近い時間になっていた。

「晄、もう寝よう? 流石にヤバい気がする」

「俺、午後から」

「いいなー、俺は二限から」

 間接照明の灯りを一段落として、ソファに置いていたクッションをベッドにかき集める。
 それを見た晄が、床に座り込みながら言った。

「俺、床でいい。宅飲みの時とかよくやるし」

「それは流石に申し訳ないよ、電車乗れなかったのも俺のせいだし……それなら俺が床で寝る!」

 晄の隣にクッションを置いて向かい合うと、今度はベッドの上が無人になって、お互いに顔を見合わせて笑った。
 
「俺たち、マジでアホだわ」

「だって晄が意地張るから……」

 ひとしきり笑い終えると、ふたりで立ち上がってベッドにクッションを置きなおした。

「狭くなっても良いならベッドにする。……でも、宵が壁側な」

 晄と一緒に、ひとつのベッドに横になった。エアコンのタイマーを設定してリモコンを置くと、晄はスマホのアラーム画面を開いていた。
 Tシャツの袖口がめくれて、二の腕の筋が見える。普段は服に隠れて分からなかったけれど、男性らしい筋肉がついているのが見えた。
 晄はスマホを枕元に置いて、俺に背中を向けて横向きになった。

「……晄、あのさ」

「ん?」

 迷いながらも、俺はそっと晄のTシャツの裾を指先でつまんだ。軽く引くと、晄が驚いた顔で振り返る。
 顔を向け合った瞬間、思っていたより近い距離に息が止まる。逃げたくなる反面、この暗闇だからこそ言えることがあった。

「イヤホン……いつも左耳のほう、貸してくれてありがとう」

 言った途端、部屋の空気が静かになった。
 エアコンの音だけがかすかに耳に触れる。暗くてよかった。今の俺の顔なんて見せられない。

「……なんの話だよ」

「映画の席も、出かけるときも、ずっと左側にいてくれるし」

「たまたまだろ。覚えてねーわ」

「……でも、俺は嬉しかったんだよ」

 晄のそっけなさは、照れ隠しだと分かる。その態度が答えになっていて、胸の奥がゆっくりあたたまる。

「……大げさ。俺が勝手にそうしてただけだし。感謝されるようなもんじゃねぇよ」

 そっぽを向いてスマホをいじる手元は、落ち着きなく画面を上下に滑らせている。
 それ以上何か言うのは悪い気がして、俺はつまんでいたTシャツからそっと指を離した。

「……右耳の話、してもいい?」

 言った瞬間、自分でも驚くほど声が小さかった。
 晄の返事はない。だけど、スマホをいじっていた指が止まり、その沈黙が「聞く」と言ってくれている気がして、言葉を紡いだ。

「バイトの時……後輩と先輩の仲が悪くて、間に入ることが多くなってさ。気づいたら、自分の容量(キャパ)を超えてたみたいで」

 あの頃の景色が、言葉を並べるたびに淡く戻ってくる。
 社員から“緩衝剤”みたいにシフトを組まれ、空気を良くするために笑って、我慢して、コミュ力のない心をすり減らして――。

「右耳の聞こえが急におかしくなって、頭痛もして……病院で、ストレス性の末梢神経麻痺だって言われた。
 ……初対面のとき言わなかったのは、その……病名っていうか。
 それを言葉にすると、重すぎるかなって思ってたから……」

 晄は、一度も遮らなかった。
 変に励ましもしない。ただ、そばでそのまま受け止めてくれている。

 その静けさが逆に安心で、でも怖くて――胸の奥に息がつかえた。
 人見知りのくせに、人間関係を無理して頑張って、自分でも呆れるくらいこじらせた結果。映画の世界に逃げ込む状況に、拍車がかかった。
 暗闇の中だからこそ、ようやく言えた。
 
 少しずつ暗闇に目が慣れてきたけれど、晄の方を見ることが出来ない。体を小さく丸めて、爪先を布団の中で重ねあわせる。

「……しんどかっただろ」

 低く静かな声。家族以外の人にそんな風に寄り添ってもらえたのは、晄が初めてだった。喉の奥がきゅっと締まって、返事が出てこない。
 少しの沈黙の後、慰めるように背中に手を添えられた。その体温や呼吸を近くに感じる。
 晄はそのまま左耳に顔を寄せて、低い囁きを落とした。

「これからは、傷ついた時は映画じゃなくて、俺にして。
 全部、聞くから。――いくらでも」

 静かであたたかい声だった。
 なのに、自分がひどく大事に扱われていることが怖くなる。
 言葉を探そうとすればするほど、喉の奥が熱くなるだけだった。
 そのことも全部分かってるみたいに、晄は黙って慰めるように後頭部を一度だけ撫でる。

 ――どうして、いつも。
 こんなに優しくしてくれるんだろう。

 胸の奥に、長く押し込めてきた小さな声が浮かぶ。
 晄との仲が深まるたびに、余計に自分の弱さがあらわになる気がする。
 それでも、今はその優しさに身を預けたくて仕方がなかった。

 こんな気持ちになるなんて、きっと少し前の俺じゃ想像もできなかった。
 情けないとか、重いとか、そんな言葉が頭をよぎるけれど、それでも晄の隣なら――ほんの少しだけ、凭れかかってもいいのかもしれない。

 どんなに辛かった事も、一緒に分け合うと晄が言ってくれるだけで、無駄じゃなかったと思えた。
 この気持ちは声にはならなかったけれど、代わりにそっと目を閉じて、晄のいる方へ少しだけ頭を傾けた。

 それだけで、晄になら分かってもらえるような気がした。