今日は遅番で、明日からレンタル開始になる新作の売り場づくりを任されていた。
ひたすら、上の段から下の段までパッケージを並べ、本社から送られてきたポップを丁寧に貼りつけていく。
ようやく終わりが見えてきて、ひと息ついて立ち上がると、背後から声がかかった。
「あのー、すみません」
「はい!」
お客さまだと思って慌てて振り返った先には、晄が立っていた。
「お疲れ」
「び、びっくりした……どうしたの?」
「近くで用事済ませてたから、寄ってみた」
「来るなら、来るって教えてくれればいいのに……」
「それじゃつまんねーじゃん? 俺が」
晄は口の端を上げながら、俺の制服姿を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
ブルーのギンガムチェックのシャツに、ネイビーのエプロン。売り場で膝をついて作業していたせいで、黒いズボンの膝あたりが白く汚れているのに気づく。
それを慌てて手で払うと、晄が売り場のDVDの背表紙を指でなぞって言った。
「宵、今日ってシフト何時まで?」
「あ、あと十五分であがるよ」
腕時計を確認しながら答えたその時、通路の奥から遊佐先輩が顔を覗かせた。
両手には返却されたディスクのケースが山のように抱えられている。
「ゆ、遊佐先輩!……あの、手伝います……」
俺と晄を交互に見て、遊佐先輩はにやりと笑って肘打ちしてきた。
「なに、深山の友達なん?」
「あ、はい……」
「へぇー、めっちゃイケメンじゃん!……てか、お前にそういう友達いたんだ。意外だわ」
いつもの軽口だとわかっていても、その言葉に傷ついている自分がいた。確かに俺は普段、ひとりでいることが多い。職場でも、余計なことを話さないようにしてきた。でも、どう見ても友達がいるようには見えないタイプなんだな、と改めて分からせられる。
そして、晄と俺が釣り合っていないと言われた気がして、気持ちが重く沈んだ。
「それ、陳列頼んだぞー。俺、有馬とレジに入るから」
遊佐先輩が、明るい調子の声のまま去っていく。その背中を、晄が鋭く睨んでいるのが見えて、俺は少し狼狽える。
あまり普段見ない表情で、怒っているのが伝わってきた。遊佐先輩のような人は苦手なのかなと、その横顔を見ながら思った。
「……じゃあ、外で待ってるわ」
「う、うん。わかった」
晄は軽く手を振って、ガラス扉の向こうへと歩いていった。頼まれた陳列を手早く終えて、先輩やパートさんたちに一通り挨拶をすると、急いでバックヤードに向かった。
タイムカードを押し、裏口の扉を閉めると、晄がスマホを片手に待っていてくれた。
「ごめん、遅くなって」
「全然。てか、俺がいきなり来ただけだし」
晄はポケットから小さなビニール袋を取り出し、俺にそれを突き出す。中を覗くと、晄の家で一緒に食べたチョコが入っていた。
驚いている俺に「やる」とだけ言って、俺は笑顔を浮かべた。だって、ちゃんと俺が好きな抹茶味のチョコを選んでくれていたから。
「ありがとう。……わざわざ買ってきてくれたの?」
「いや、ついでだから。俺も腹減ってたし」
気を遣わせない様に、そんな風に言っているんだと思った。早速開けて、自分が食べるより先に、晄にチョコの入った袋を向ける。
「晄も一緒に食べようよ」
「いや、俺は別に……」
「でも、チョコ好きだよね? はい、あーん」
口元に差し出すと、晄が俺を見つめて固まっている。
どうかしたのかな、と思って俺が見つめ返すと、晄は屈んで俺の手を掴んだ。
「……じゃあ貰う」
晄の唇が指先に触れた。その感触をやけに生々しく感じて、慌ててチョコの袋をポケットに押し込む。
歩いているうちにもう駅が見えてきて、名残惜しい気持ちになった。
すると、黙ってチョコを食べていた晄が俺の名前を呼んで言った。
「宵、俺腹減ったかも」
「え……夜ご飯、食べてないの?」
「食った。でも、なんか腹減ったからファミレス付き合って」
ふ、と晄が口元に僅かに笑みを浮かべたまま、優しい眼差しで俺を見ている。二つ返事で頷くと、俺たちは駅ビルの中にあるファミレスに入った。
メニューを見ると俺もお腹が空いてきて、ふたりでチーズハンバーグとパスタを注文した。
「はい、フォーク」
「サンキュ」
晄にスプーンとフォークを渡す。頬に垂れた髪を耳に掛けて、ハンバーグを口に運ぶと、晄がこっちを見つめていた。
「……どうかした?」
「……いや。見た目に似合わず、一口がデカいなと思って」
晄は俺から顔を背けて、肩を震わせて笑うのを我慢している。まさかの指摘に、俺が慌てて小さく刻み直すと「ムキになんなよ」とまたイジられた。
恥ずかしさや、拗ねる気持ちよりも。
こんな軽口を交わす時間さえ、本当は「楽しい」と感じている自分がいた。
*
「やべー、これはマジで間に合わねーかも!」
食べ終わった後もファミレスで話し込んでいたら、すっかり時間を忘れていた。
駅構内には終電のアナウンスが流れ始める。二人で改札を走り抜け、バタバタという大きな靴音が響く。
「宵、マジで急げ! 置き去りにされる!」
「ま、待って! それだけは無理!」
普段なら絶対こんな大きな声で笑わない。けれど、お互いに必死になっている状況がおかしくて、走りながら晄と顔を見合わせて笑った。
俺の終電はあと三分あるから、まだ間に合いそう。でも、晄の電車は間に合うかどうかの瀬戸際だ。
置いて行けばいいのに、笑いながら俺の手を握って、力強く引っ張る。
「ほら、引っ張るから走れ!」
駅員のアナウンスと、電車の到着音が聞こえる。
二人でエスカレーターを駆け下りたけれど、目の前で電車はドアを閉じ、湿度の高い空気だけを残して走り去ってしまった。
「……ごめん、俺が足遅いせいで……」
両膝に手をついて息を整える俺に、晄は自分の額の汗を拭って「ふはっ」と笑い声をこぼした。
普段は笑ってもすぐ顔を隠す晄が、そのまま顔を俺の方に向けて笑っている。
「久々にガチでダッシュした! やばくね? めっちゃ体の衰え感じる」
俺のこと、置いて行けば絶対に間に合ったのに。でも、それを感じさせないために明るく振舞ってくれている気がした。
遠くで踏切の警報が鳴り、四番線に近づく最終列車のアナウンスが響いた。
「……宵のこと見送ったら、どっかで適当に時間つぶして、始発で帰るわ」
晄の立つ向こうから、電車のライトが近づいてくる。言いたい言葉が喉の奥で渦を巻き、言うか言わないか、心の中で何度も揺れた。
――早く、はやく言わないと。
スマホでネカフェを検索している晄の手元と横顔を、交互に見た。
列車が迫るその瞬間、俺は晄の手首をそっと掴んだ。顔を上げた晄の目が、少しだけ見開いている。
「あの……俺の家、泊まっていく……?」
レールの軋む音と共に空気が揺れ、終電がホームに滑り込んだ。
晄が何かを言おうと口を開いたその瞬間、発車のベルが鳴り響く。
俺はその返事を待たずに、手首を握った手に力を込めて、ぐっと車内へ引き寄せた。
プシューッという音とともにドアが閉まり、列車はゆっくりと動き出す。
ドアの前で二つ向き合った青と黒のスニーカーを見つめたまま、顔を上げられずにいた。
どうしよう。晄の返事を聞くより先に、勝手に手を引っ張って終電に乗せてしまった。
「……宵、手ぇ繋ぎっぱなしなんだけど」
その一言で身体が弾かれるように反応して、慌てて晄の手を離した。見上げると、晄も困ったような顔で頬を赤めているのが見える。
短い沈黙が流れて、俺達は少しだけ体の距離を空けた。晄はスマホを上着のポケットにしまいながら、小さな声で呟いた。
「お前、変な所で大胆だよな」
「ご、ごめん。……晄が帰れないのは放っておけなくて」
終電の車内は思ったよりも空いていて、静かな車両の中を低いモーター音が流れていく。
窓際の席に腰を下ろすと、晄も自然な動作で隣に座った。膝の上で作った拳に、きゅっと力を込める。
「……あの、自分から引っ張っておいて今さらなんだけど」
「うん」
「俺の家、晄の家みたいに広くないけど大丈夫……?」
「平気。ていうか、泊めてもらえるだけで助かる」
短くそう返事をされて、俺たちはまた黙り込んだ。電車がゆるやかに揺れるたび、肩と晄の腕がかすかに触れる。
その感触が落ち着かなくて、竦めてみても、また肩が触れた。晄は嫌がる様子を見せなくて、俺も“気にしていません”を装った。
「……ほら、宵の分」
当然のように言われて、手渡されたイヤホンを落さないように受け取る。
LとRのどちらのマークかを確かめて、手のひらの上の“L”に目が止まった瞬間、初めて晄と会った日の記憶が唐突に浮かび上がった。
“こっちの耳は、若干聞こえにくい時もあるけど”
俺が右耳に軽く触れて、話題を早々に切り上げたあの日。
“……俺、こっちに座るわ”
映画館の席でも、歩いているときも、交差点で信号を待っているときでさえ……思い返せば、晄はいつも俺の左側にいた。
今、この揺れる車内でも自然に。
“この映画のサントラ、どのシーンの曲が一番好きだった?”
この前電車に乗ったときも、晄は何も言わずに左側のイヤホンを俺へ差し出していた。
あのときは自分がいつも左耳にしかつけないから、ただの習慣みたいに受け取って、深く考えもしなかった。
それが偶然じゃなくて、静かに気遣われていたのだと分かった途端、零れそうな何かを隠すように、口元を手の甲で押さえた。
「宵? どうした」
晄の声が、イヤホン越しに流れるピアノの旋律を押し分けて届く。
穏やかで、波打たない音のはずなのに、その奥で、晄と過ごした時間の記憶が次々に立ち上がってきた。
映画館の暗闇。
指先に触れた一瞬の温度。
何気ない言葉のやり取りや、視線が重なった短い間。
どれも取るに足らない出来事のはずなのに、今になって輪郭を持ち、胸の奥へと押し寄せてくる。
「……な、なんでもない」
そう答えた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
嘘だ。
本当はその優しさに「ありがとう」って言いたい。
今すぐ、顔を見て、ちゃんと伝えたい。
でも、言葉にしようとした瞬間、胸の奥で熱がじわじわと広がっていく。
それは焦りでも、不安でもなくて、ただ大きすぎて扱い方の分からない感情だった。
喉の奥がきゅっと塞がって、息をするのが少しだけ難しくなる。
どうして、こんなにも言葉が遠いんだろう。
視線だけが落ち着かず、宙をさまよって、窓の外の暗闇に逃げ込む。
最寄り駅までは、あと少し。
電車は速度を落とし、規則正しかった車輪の音が、ゆっくりと間延びしていく。
いつもなら、何も考えずにやり過ごしていたこの時間。
でも今は、当たり前だと思っていた日常の中に、
自分がずっと見落としてきた“意味”があったことを、ようやく理解してしまった。
受け止めきれない嬉しさ、でも手放すこともできなくて、
ただその感情を抱えたまま黙り込む。
唇を無意識に擦り合わせる。
言葉がそこまで来ているのに、外に出てくれない。
――どんな言葉なら、晄にこの気持ちを無理なく渡せるんだろう。
考えないようにしても、考えてしまう。
答えを探すみたいに、何度も頭の中で言葉を並べては、消して。
隣に座る晄の体が、すぐそこにある。
触れそうで触れない、そのわずかな隙間。
埋めてしまいたいような、でも壊したくないような距離。
その曖昧な間に、俺はただ座っていた。
何も言えないまま、胸の奥で育ち続ける想いを、静かに抱えながら。
ひたすら、上の段から下の段までパッケージを並べ、本社から送られてきたポップを丁寧に貼りつけていく。
ようやく終わりが見えてきて、ひと息ついて立ち上がると、背後から声がかかった。
「あのー、すみません」
「はい!」
お客さまだと思って慌てて振り返った先には、晄が立っていた。
「お疲れ」
「び、びっくりした……どうしたの?」
「近くで用事済ませてたから、寄ってみた」
「来るなら、来るって教えてくれればいいのに……」
「それじゃつまんねーじゃん? 俺が」
晄は口の端を上げながら、俺の制服姿を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
ブルーのギンガムチェックのシャツに、ネイビーのエプロン。売り場で膝をついて作業していたせいで、黒いズボンの膝あたりが白く汚れているのに気づく。
それを慌てて手で払うと、晄が売り場のDVDの背表紙を指でなぞって言った。
「宵、今日ってシフト何時まで?」
「あ、あと十五分であがるよ」
腕時計を確認しながら答えたその時、通路の奥から遊佐先輩が顔を覗かせた。
両手には返却されたディスクのケースが山のように抱えられている。
「ゆ、遊佐先輩!……あの、手伝います……」
俺と晄を交互に見て、遊佐先輩はにやりと笑って肘打ちしてきた。
「なに、深山の友達なん?」
「あ、はい……」
「へぇー、めっちゃイケメンじゃん!……てか、お前にそういう友達いたんだ。意外だわ」
いつもの軽口だとわかっていても、その言葉に傷ついている自分がいた。確かに俺は普段、ひとりでいることが多い。職場でも、余計なことを話さないようにしてきた。でも、どう見ても友達がいるようには見えないタイプなんだな、と改めて分からせられる。
そして、晄と俺が釣り合っていないと言われた気がして、気持ちが重く沈んだ。
「それ、陳列頼んだぞー。俺、有馬とレジに入るから」
遊佐先輩が、明るい調子の声のまま去っていく。その背中を、晄が鋭く睨んでいるのが見えて、俺は少し狼狽える。
あまり普段見ない表情で、怒っているのが伝わってきた。遊佐先輩のような人は苦手なのかなと、その横顔を見ながら思った。
「……じゃあ、外で待ってるわ」
「う、うん。わかった」
晄は軽く手を振って、ガラス扉の向こうへと歩いていった。頼まれた陳列を手早く終えて、先輩やパートさんたちに一通り挨拶をすると、急いでバックヤードに向かった。
タイムカードを押し、裏口の扉を閉めると、晄がスマホを片手に待っていてくれた。
「ごめん、遅くなって」
「全然。てか、俺がいきなり来ただけだし」
晄はポケットから小さなビニール袋を取り出し、俺にそれを突き出す。中を覗くと、晄の家で一緒に食べたチョコが入っていた。
驚いている俺に「やる」とだけ言って、俺は笑顔を浮かべた。だって、ちゃんと俺が好きな抹茶味のチョコを選んでくれていたから。
「ありがとう。……わざわざ買ってきてくれたの?」
「いや、ついでだから。俺も腹減ってたし」
気を遣わせない様に、そんな風に言っているんだと思った。早速開けて、自分が食べるより先に、晄にチョコの入った袋を向ける。
「晄も一緒に食べようよ」
「いや、俺は別に……」
「でも、チョコ好きだよね? はい、あーん」
口元に差し出すと、晄が俺を見つめて固まっている。
どうかしたのかな、と思って俺が見つめ返すと、晄は屈んで俺の手を掴んだ。
「……じゃあ貰う」
晄の唇が指先に触れた。その感触をやけに生々しく感じて、慌ててチョコの袋をポケットに押し込む。
歩いているうちにもう駅が見えてきて、名残惜しい気持ちになった。
すると、黙ってチョコを食べていた晄が俺の名前を呼んで言った。
「宵、俺腹減ったかも」
「え……夜ご飯、食べてないの?」
「食った。でも、なんか腹減ったからファミレス付き合って」
ふ、と晄が口元に僅かに笑みを浮かべたまま、優しい眼差しで俺を見ている。二つ返事で頷くと、俺たちは駅ビルの中にあるファミレスに入った。
メニューを見ると俺もお腹が空いてきて、ふたりでチーズハンバーグとパスタを注文した。
「はい、フォーク」
「サンキュ」
晄にスプーンとフォークを渡す。頬に垂れた髪を耳に掛けて、ハンバーグを口に運ぶと、晄がこっちを見つめていた。
「……どうかした?」
「……いや。見た目に似合わず、一口がデカいなと思って」
晄は俺から顔を背けて、肩を震わせて笑うのを我慢している。まさかの指摘に、俺が慌てて小さく刻み直すと「ムキになんなよ」とまたイジられた。
恥ずかしさや、拗ねる気持ちよりも。
こんな軽口を交わす時間さえ、本当は「楽しい」と感じている自分がいた。
*
「やべー、これはマジで間に合わねーかも!」
食べ終わった後もファミレスで話し込んでいたら、すっかり時間を忘れていた。
駅構内には終電のアナウンスが流れ始める。二人で改札を走り抜け、バタバタという大きな靴音が響く。
「宵、マジで急げ! 置き去りにされる!」
「ま、待って! それだけは無理!」
普段なら絶対こんな大きな声で笑わない。けれど、お互いに必死になっている状況がおかしくて、走りながら晄と顔を見合わせて笑った。
俺の終電はあと三分あるから、まだ間に合いそう。でも、晄の電車は間に合うかどうかの瀬戸際だ。
置いて行けばいいのに、笑いながら俺の手を握って、力強く引っ張る。
「ほら、引っ張るから走れ!」
駅員のアナウンスと、電車の到着音が聞こえる。
二人でエスカレーターを駆け下りたけれど、目の前で電車はドアを閉じ、湿度の高い空気だけを残して走り去ってしまった。
「……ごめん、俺が足遅いせいで……」
両膝に手をついて息を整える俺に、晄は自分の額の汗を拭って「ふはっ」と笑い声をこぼした。
普段は笑ってもすぐ顔を隠す晄が、そのまま顔を俺の方に向けて笑っている。
「久々にガチでダッシュした! やばくね? めっちゃ体の衰え感じる」
俺のこと、置いて行けば絶対に間に合ったのに。でも、それを感じさせないために明るく振舞ってくれている気がした。
遠くで踏切の警報が鳴り、四番線に近づく最終列車のアナウンスが響いた。
「……宵のこと見送ったら、どっかで適当に時間つぶして、始発で帰るわ」
晄の立つ向こうから、電車のライトが近づいてくる。言いたい言葉が喉の奥で渦を巻き、言うか言わないか、心の中で何度も揺れた。
――早く、はやく言わないと。
スマホでネカフェを検索している晄の手元と横顔を、交互に見た。
列車が迫るその瞬間、俺は晄の手首をそっと掴んだ。顔を上げた晄の目が、少しだけ見開いている。
「あの……俺の家、泊まっていく……?」
レールの軋む音と共に空気が揺れ、終電がホームに滑り込んだ。
晄が何かを言おうと口を開いたその瞬間、発車のベルが鳴り響く。
俺はその返事を待たずに、手首を握った手に力を込めて、ぐっと車内へ引き寄せた。
プシューッという音とともにドアが閉まり、列車はゆっくりと動き出す。
ドアの前で二つ向き合った青と黒のスニーカーを見つめたまま、顔を上げられずにいた。
どうしよう。晄の返事を聞くより先に、勝手に手を引っ張って終電に乗せてしまった。
「……宵、手ぇ繋ぎっぱなしなんだけど」
その一言で身体が弾かれるように反応して、慌てて晄の手を離した。見上げると、晄も困ったような顔で頬を赤めているのが見える。
短い沈黙が流れて、俺達は少しだけ体の距離を空けた。晄はスマホを上着のポケットにしまいながら、小さな声で呟いた。
「お前、変な所で大胆だよな」
「ご、ごめん。……晄が帰れないのは放っておけなくて」
終電の車内は思ったよりも空いていて、静かな車両の中を低いモーター音が流れていく。
窓際の席に腰を下ろすと、晄も自然な動作で隣に座った。膝の上で作った拳に、きゅっと力を込める。
「……あの、自分から引っ張っておいて今さらなんだけど」
「うん」
「俺の家、晄の家みたいに広くないけど大丈夫……?」
「平気。ていうか、泊めてもらえるだけで助かる」
短くそう返事をされて、俺たちはまた黙り込んだ。電車がゆるやかに揺れるたび、肩と晄の腕がかすかに触れる。
その感触が落ち着かなくて、竦めてみても、また肩が触れた。晄は嫌がる様子を見せなくて、俺も“気にしていません”を装った。
「……ほら、宵の分」
当然のように言われて、手渡されたイヤホンを落さないように受け取る。
LとRのどちらのマークかを確かめて、手のひらの上の“L”に目が止まった瞬間、初めて晄と会った日の記憶が唐突に浮かび上がった。
“こっちの耳は、若干聞こえにくい時もあるけど”
俺が右耳に軽く触れて、話題を早々に切り上げたあの日。
“……俺、こっちに座るわ”
映画館の席でも、歩いているときも、交差点で信号を待っているときでさえ……思い返せば、晄はいつも俺の左側にいた。
今、この揺れる車内でも自然に。
“この映画のサントラ、どのシーンの曲が一番好きだった?”
この前電車に乗ったときも、晄は何も言わずに左側のイヤホンを俺へ差し出していた。
あのときは自分がいつも左耳にしかつけないから、ただの習慣みたいに受け取って、深く考えもしなかった。
それが偶然じゃなくて、静かに気遣われていたのだと分かった途端、零れそうな何かを隠すように、口元を手の甲で押さえた。
「宵? どうした」
晄の声が、イヤホン越しに流れるピアノの旋律を押し分けて届く。
穏やかで、波打たない音のはずなのに、その奥で、晄と過ごした時間の記憶が次々に立ち上がってきた。
映画館の暗闇。
指先に触れた一瞬の温度。
何気ない言葉のやり取りや、視線が重なった短い間。
どれも取るに足らない出来事のはずなのに、今になって輪郭を持ち、胸の奥へと押し寄せてくる。
「……な、なんでもない」
そう答えた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
嘘だ。
本当はその優しさに「ありがとう」って言いたい。
今すぐ、顔を見て、ちゃんと伝えたい。
でも、言葉にしようとした瞬間、胸の奥で熱がじわじわと広がっていく。
それは焦りでも、不安でもなくて、ただ大きすぎて扱い方の分からない感情だった。
喉の奥がきゅっと塞がって、息をするのが少しだけ難しくなる。
どうして、こんなにも言葉が遠いんだろう。
視線だけが落ち着かず、宙をさまよって、窓の外の暗闇に逃げ込む。
最寄り駅までは、あと少し。
電車は速度を落とし、規則正しかった車輪の音が、ゆっくりと間延びしていく。
いつもなら、何も考えずにやり過ごしていたこの時間。
でも今は、当たり前だと思っていた日常の中に、
自分がずっと見落としてきた“意味”があったことを、ようやく理解してしまった。
受け止めきれない嬉しさ、でも手放すこともできなくて、
ただその感情を抱えたまま黙り込む。
唇を無意識に擦り合わせる。
言葉がそこまで来ているのに、外に出てくれない。
――どんな言葉なら、晄にこの気持ちを無理なく渡せるんだろう。
考えないようにしても、考えてしまう。
答えを探すみたいに、何度も頭の中で言葉を並べては、消して。
隣に座る晄の体が、すぐそこにある。
触れそうで触れない、そのわずかな隙間。
埋めてしまいたいような、でも壊したくないような距離。
その曖昧な間に、俺はただ座っていた。
何も言えないまま、胸の奥で育ち続ける想いを、静かに抱えながら。



