まもなく、上映開始です。

 晄の家で映画を観る日が、ついにやってきた。
 朝起きた瞬間から、なんとなく落ち着かない。準備にはまだ早いのに、部屋を行ったり来たりしてしまう。

 一人暮らしをしている友達の家に行く。
 それだけのことなのに、考えてみればほとんど小学生ぶりだ。
 「大学生らしいこと」をこれまで素通りしてきた自分にとっては、それだけで胸が躍る。

 大学二年生にもなって、これが初めてだなんて恥ずかしい。
 でも、その気持ちよりも楽しみのほうが、ずっと大きかった。

 大学の講義もどこか上の空で終えた夕方、俺は晄のバイト終わりを待つために、駅の改札前に立っていた。
 行き交う人の波をぼんやり眺めながら、ちらちらスマホで時間を確認してしまう。
 人の合間から、見慣れた背の高さと歩き方がふっと浮かび上がった。

 晄だ。

 少し息を弾ませていて、急いで来てくれたんだと分かる。

「遅くなった、ごめん」

「走んなくていいのに」

「いや、フツーに待たせたくないから」

 その言い方が、本当にさらっとしていて、あまりにも自然で、あまりにも晄で。
 晄は前髪をかき上げながら、ふっと息を整えるように笑う。
 その仕草が妙に大人っぽい。
 さっきまでバイトしてた“仕事モード”が混じって見えるのは、なんだか新鮮だった。

 晄は髪を結んでいた襟足のゴムを外し、指先で無造作に髪を掻き上げる。
 その指の動きがゆっくりで、無造作なのに絵になるから、気づいたら目で追ってしまっていた。

 エスカレーターを降りると、ホームは帰宅ラッシュで混み合っていた。
 電車が入ってくる音が響くと、晄が「行くぞ」と短く言い、俺は小さく頷いてその背中を追った。

「これ、乗れる?」
「いや、乗るだろ。じゃねぇと帰れねーし」

 晄の言い方はいつも通り軽いのに、並んで立つ俺の背中をそっと押す指先は、思ったより優しかった。

 停車中の電車に足を踏み入れた瞬間、わずかな隙間を縫うように人が押し寄せてくる。
 吊り革を掴む余裕なんてなくて、俺は自然と奥のドア際に身体を寄せた。
 晄はすぐ目の前に立って、壁みたいに俺の視界を塞いだ。
 見上げると、ちょうど晄の鎖骨が視界の高さにあって、こんなに身長差があったんだと思い知る。

 電車が動き出した途端、車体がぐらりと揺れる。

 体勢が崩れかけて「あっ、」と息を呑んだ瞬間、右肩を掴まれた。
 晄の手だった。
 指先がしっかりと俺の肩を支えて、そのままグッと引き寄せられるように、距離が一気に縮まった。

「晄、ごめん」

 顔を上げた瞬間、視線が真正面からぶつかった。

 近い。
 想像していたより、ずっと近い。

 晄の息が混ざった空気が、頬に触れそうで、胸の奥がひゅっと縮む。
 喉の奥が急に乾いて、うまく息が吸えない。

「……別に」

 短く返した晄は、視線を窓の外に向けたままだ。
 その仕草は不自然で、どんな気持ちで言ったのか、どう反応していいのか分からない。
 
 嫌がられなくてよかったとか。
 支えてくれた腕がしっかりしていて、手首の太さが全然違うな、とか。
 
 そんなことばかり触れた所から感じて、目で追って。頭の中でぐるぐる回ってしまう。

 ふわりと、甘くて清潔感のある香りが鼻をかすめた。
 晄が抱き留めていた手をそっと離した瞬間、頭の上から低い声が落ちてくる。

「……掴まっとけば」

 返事ができるよりも先に、晄の指が俺の手首を軽く包んだ。
 そのまま導くみたいにして、自分の上着の裾を俺の手に握らせる。
 ぶっきらぼうな声なのに、触れ方はやけに優しい。

 手首に触れた指先が熱を残したみたいだ。心臓が落ち着かない。
 ありがとう、って言えばいいのに、緊張してしまって、喉が動かない。
 電車が揺れるたびに裾越しに伝わる体温が、余計に混乱させた。

 沈黙が長く続いた後、晄が片耳のイヤホンを外して、もう片方を差し出してくる。

「一緒に聴く?」

 晄の右耳にはもう一方がついている。渡された左耳のイヤホンをそっと着けると、少し間をおいて音が流れ出した。初めて二人で観た映画のサントラだ。
 晄はイヤホンを片方つけたまま、俺の顔をちらっと見た。

「この映画のサントラ、どのシーンの曲が好きだった?」

 唐突な質問に少し考え込む。どれも好きだけれど、答えは決まった。俺のそんな表情を見て、晄が口角を上げた。

「待って。やっぱ俺、当てるわ」

 挑発するような笑み。いや、当たる訳無い。
 だってこのサントラのリストは二十曲以上あるのに――

「エンディングだろ」
「えっ、なんで分かんの? 怖い怖い」
「怖くはないだろ」

 晄が笑って手を伸ばし、俺の頬をぎゅむっとつまんだ。
 指先はひんやり冷たいのに、触れられた瞬間、身体の内側が一気に熱を帯びる。思わず声が裏返った。

「いひゃい……!」

 晄はマスクの下で、笑いを堪えているのが分かる。
 くしゃっと細められた目元が子どもみたいでずるい。見ているだけで、こっちまでつられて笑いそうになる。

「マシュマロマンみてぇだな」

 ……どっちの意味ろう、それって。
 可愛いってこと? それともバカにしてる?
 どちらにせよ、胸の奥がくすぐったくて、変な感じがした。笑われているのに、嫌じゃない。

「晄、痛いって」

 反射的に、頬をつまむ晄の手に自分の手を重ねた。
 けれど、払いのけることはできなくて、離すタイミングを完全に見失う。

 電車が揺れるたび、晄の指が少しだけ動く。
 そのたびに、胸の奥で心臓が跳ねた。

「めっちゃ柔らか」

 むにゅ、と指に力がこもって、もうどうにも恥ずかしい。
 電車の中で何やってるんだ、俺たち。
 周りの視線が気になって仕方ないのに、晄の手は離れる気配がない。

「……あんまり意地悪すると、溶けちゃうかもよ?」

 冗談のつもりだった。
 晄が話していた映画に出てくるマシュマロマンは、ラストシーンで溶けて消えてしまうから。

 でも、口に出した瞬間、晄の指がぴたりと止まった。
 耳に届くのは、静かな息の音だけ。

「……その言い方はずるいだろ」

 低くて、どこか甘い声。
 さっきまで笑っていたのに、今の晄のトーンは明らかに違って聞こえた。
 鼓膜のすぐ近くで鳴るその声に、息が詰まる。

「え? なに、どうしたの、晄……」

 名前を呼ぶと、晄は視線を逸らし、マスクの位置を直した。
 その仕草がやけにぎこちない。

「こっち見んな、バーカ」

 投げるような言い方だったのに、耳の先がほんのり赤いのが見えて、言葉の強さが全部嘘みたいに感じられた。

 駅に着くまで、晄は前を向いたまま何も言わなかった。
 俺も同じように黙っていたけれど、不思議と苦ではない。
 むしろ、今まであんなに怖がっていた静けさが、少しだけ心地よかった。

 それでも――
 掴んでいた晄の上着の裾だけは、どうしても離せなかった。



「どーぞ。散らかってるけど」

 ドアを開けた瞬間、思わず息をのんだ。
 天井から吊るされた丸いランプが、部屋全体をやわらかく照らしていた。
 窓際には背の高い観葉植物。壁には色あせた映画ポスターがいくつも貼られていて、その一枚一枚に晄の好みが滲んでいる。

 ソファの脇には読みかけの映画雑誌が積まれ、テレビ台の上にはSF映画のフィギュア。奥の天井近くには小型の白いプロジェクターが取りつけられ、棚にはびっしりとDVDとBlu-rayが並び、ラベルが綺麗に揃っていた。まるで小さな映画館みたいだ。
 その光景に、自然と声が漏れた。

「うわー……待って、ヤバい。なにこの幸せ空間!」

 晄が映画好きなのは知っていた。でも、ここまでとは。
 息を整えながら、壁の棚を眺めていると、知らないタイトルの背表紙がいくつも目に入る。
 指先が背表紙の端をなぞるたびに、晄がこの作品たちと過ごしてきた時間が浮かぶようで、胸の奥がざわめいた。

「観たいのあれば貸すから」

「本当に? 嬉しい、まだ見てないのいっぱいあるし」

 視線を晄に向けると、リュックの中から黒い制服を取り出していた。慣れた手つきで軽く整えながら、黒いベストのポケットに指を入れて名札を取り出す。
 晄はそれをテレビ横のトレーに置き、外したピアスをカチャリと音を立てて隣に並べた。小さな金属音が響いた瞬間、何気なく目を向けたその白いプレートには、“Shimane”と印字されていた。
 その横に、小さなマーク。

「……えっ?」

 思わず声が漏れた。
 見覚えのあるロゴ――それは、俺と晄がいつも行く映画館、三原シネマのものだった。

「これって……映画館のロゴマークだよね?」

「……そうだけど」

 洗面所で洗濯洗剤を測りながら、晄は何事もなかったかのように洗濯機の蓋を閉じた。

「えっ、晄のバイト先って、三原シネマなの?」

「うん」

 俺の驚きを知ってか知らずか、肩の力を抜いて淡々と動く晄。

「聞いてないよ……! なんで教えてくれなかったの?」

 思わず声が大きくなる。晄は少しだけ目を瞬かせて、苦笑いを浮かべた。ため息と一緒に洗濯機のスタートボタンを押すと、回転音が低く唸り始める。

「いや、そのうち話そうとは思ってた」

 頭を掻きながら、晄はどこか言いにくそうに続ける。その顔が、嘘をついてる感じじゃなくて、ただ不器用にタイミングを探していた表情に見えた。

「宵が三原シネマで観たって書き込むまでは、マジで客だったとは知らなかったし……」

 軽い調子で言いながらも、どこか目線を逸らすような仕草。
 その裏に、バレたくなかったわけでも、隠していたわけでもない――“言い出せなかった”という空気が漂っていた。

「それに……初対面の時にあそこで実は働いてるなんて話したら、絶対気まずくなっただろ。ストーカーっぽくて」
「……たしかに」
「気まずくなったら、次はもう会えねーだろうなと思ったから」

 晄の視線が床に落ちる。
 言葉は淡々としているのに、その奥にある静かな本音を確認したくて、俺は晄と名札を交互に見てから言った。

「……じゃあ、また会いたいって思ってたってこと?」

 晄はわずかに目を見開き、顔をしかめて前髪をいじる。耳のあたりが、さっき電車のなかで見た時と同じように、うっすら赤い。

「は? お前……ニヤニヤすんな。いじんなって」

「あはは、晄が照れてるの可愛いね」

「うぜー。黙れって」

 そう言いながらも、晄の声には笑いが混じっていた。
 ソファに片膝を立てて座り、肘をついて顔を背けている。その横顔に、天井のランプの光がやわらかく落ちる。

「晄は普段、映画館でどういう仕事してるの?」

 俺はその隣に腰を下ろし、クッションを抱きしめながら晄を見た。
 晄は炭酸水のペットボトルを手に取り、シュッと小さく音を立ててキャップを開ける。明らかに“面倒くせぇ”という雰囲気を漂わせながらも、しぶしぶ話し始めた。

「シフトによって担当も変わるけど、売店は地獄。機械音うるせーし、注文殺到するし、やけど寸前になることもある」

「へぇ……。他には?」

「もぎりとか、館内放送とか。清掃が一番キツい。
 椅子の下のゴミは全部手で拾うし、床も掃除機かけて拭いて……上映後すぐだから時間もない」

「うわ、大変そう。でも映画館の裏側が聞けるの、ちょっとテンション上がる」

 俺が目を輝かせると、晄は思わず苦笑して肩をすくめた。
 その笑顔が、どこか柔らかくて、さっきまでよりも少しだけ距離が近づいた気がした。

「……宵ってさ、何だかんだ言って喋るの好きだよな。普段からそういう所、出せばいいのに」

「そ、そんなの無理だよ」

 心臓の奥が、ちくりと痛む。誰にも見せたことのない自分を、あっさり言い当てられたみたいで落ち着かない。
 晄は不思議そうに首を傾げ、炭酸の泡が弾ける音の合間に、まっすぐ俺を見つめた。

「なんで? 大学でも俺と話してる時みたいにすればいいじゃん」

「……こういうふうに話せるの、晄だけだから」

 言葉が出た瞬間、空気が少しだけ止まった。胸の奥がきゅっと縮む。
 自分でも何を言ってるのか分からない。ただ、気づいたら本音がこぼれていた。
 頭の中では「変なこと言った」と焦るのに、心の奥では「でも、それは本当なんだ」と静かに響く。
 その矛盾が絡まり合って、喉の奥に小さな塊ができたような感覚。

「何で? 俺だけ特別ってこと?」

 晄の声は低く、いつもより少しだけ慎重だった。
 その視線が真っ直ぐすぎて、俺は思わず目を逸らす。

「わかんない……晄のことは、特別な友達、だとは思ってるけど」

 視線を床に落とし、膝を抱えてソファに沈み込む。
 晄の目を見ていたら、自分でも気づいていないような、大事なものを見透かされそうで怖かった。
 けれど、晄は責めるでも笑うでもなく、炭酸をひと口飲んでから、静かに俺の方を向いた。

「宵ってさぁ……今まで、恋人とかいたことある?」

「えっ……ないに決まってるじゃん」

 反射的に声が強くなった。胸の奥がざわめいて、鼓動が速くなる。
 触れられたくない場所に、ふいに光を当てられたような感覚――けれど、不思議と嫌じゃない。
 ただ、それ以上どう返せばいいのか分からなくて、クッションを抱きしめる腕に、少しだけ力がこもった。

「じゃあ、告白されたことは?」

「あるけど……全部断ったよ」

「へぇ。男?女?」

 晄が軽く目を細め、興味深そうに尋ねてくる。その声音は何気ないのに、妙に心が落ち着かない。

「どっちもある……。でも、誰かと付き合ったことはない」

「なんで?」

「告白してくれた人のこと、よく知らなかったし……付き合うって、その後なにしたらいいか分からない」

 口にした瞬間、胸の奥で固まっていた気持ちが、形を持った気がした。
 でも、言葉にしても、すぐにまた沈黙が落ちて、心の中に静かな波が広がっていく。

 「『何かをするために付き合う』っていうんじゃなくて、
 『好き、だからずっと一緒に居たい』
 って付き合うもんなんだと思うけど。俺は」

 晄の言葉は、押しつけがましくもなく、答えを求める調子でもなかった。
 ただ、自分の考えを静かに差し出すみたいな言い方だった。

「……ずっと一緒に居たい、かぁ……」

 その言葉を繰り返しながら、俺は天井を見上げる。
 頭の中で反芻するたびに、胸の奥が少しだけ痛む。

 結局、自分はただ怖いだけなんだ。
 誰かと関わって、少しでも距離が縮まった瞬間に、
 ――いつか必ず何かが壊れる。
 そんな未来を、無意識に先取りしてしまう。

「……じゃあ、よく知ってる奴とだったら付き合える?」

 晄の問いが、部屋の静けさに溶け込む。
 乾燥機の回る低い音だけが、遠くで規則正しく響いていた。
 沈黙を埋めるみたいなその音が、ほんの少しの沈黙も際立たせていた。

「付き合えないと思う」

 言葉にした瞬間、喉がひりつく。

「うまくいく気がしない……いつか絶対に傷つくって想像しちゃって、怖い」

 膝を抱えて、体を小さく揺らす。
 守るみたいなこの姿勢が、もう癖になっていた。

 晄とこうして一緒にいる今は、その“怖さ”をほとんど感じない。
 むしろ、この時間が少しでも長く続けばいいと、自然に思ってしまう。
 その事実に気づいた瞬間、心の奥がざわりと揺れた。

 ――どうしてだろう。
 晄と関わることだけは、怖くない。

「じゃあ、ずっと独りきりの人生で良いって、諦めてんの?」

 晄の声は、責めるようでも、試すようでもなかった。
 慎重に、俺の心の縁をなぞるみたいな響きだった。

 少しだけ息を吸って、ゆっくり吐く。
 考えながら話すというより、心の奥を掘り起こす感覚に近い。

「自分を理解してくれる人が現れて……
 傷つくことも怖くなくなるくらい好きになって……
 心から通じ合えたら……」

 言葉を探しながら、続ける。

「……安心できるだろうし。
 きっと、ずっと一緒に居たいって思うんだろうけど」

 指先を組んで、膝の上でぎゅっと握りしめる。
 晄にどう思われているのかが気になって、話し続けるのが、少しだけ怖かった。

「……でも、そんなの現実にはあり得ないから」

 自分に言い聞かせるみたいに、声が低くなる。

「絶対に傷つかない映画の世界で、追体験すればいいやって思う」

「あり得ないかどうかは、分からないだろ」

 晄がちょっとムキになって言うので、俺は自分のありのままの裸の心を晒すように言った。

「……臆病だから、期待したくない」

 小さく笑って、誤魔化す。

「だから、映画は『心のシェルター』みたいな感じなのかも」

 スクリーンの中では、誰かが誰かを傷つけても、
 それは物語としての意味を持つ。
 喧嘩も、別れも、悲しみも、すべては結末へ向かうための過程だ。
 たとえバッドエンドでも、観客でいる限り、俺は守られている。

 でも――
 それが自分の身に起きるのは、どうしても怖い。

 なのに、登場人物たちの人生を追うたび、
 胸の奥で小さな願いが芽生えてしまう。

 ――自分も、こんなふうに誰かと心から繋がりたい。

 そのたびに、矛盾がはっきりする。
 人と関わるのが怖いのに、誰かを求めてしまう。
 距離を取ろうとするのに、心のどこかでは手を伸ばしている。

 俺の臆病な心が揺れるを、晄は黙って隣で見ていた。

「……じゃあ我が家は、その心のシェルターに最適な物件だな」

 晄がふざけた調子でDVDの並んだ棚を指さした。その何気ない一言で、さっきまで漂っていた緊張感のある空気はなくなって。
 相槌の代わりに小さく笑った自分の声が、部屋の中にゆるやかに溶けていった。

「はは……確かに。ここに住めたら最高だね」

 冗談を言いながら立ち上がり、晄が指さした棚の背表紙に指先をかすめながら、一つひとつタイトルを追っていく。

「あの一番上にあるやつも観たいな。晄、これ今日観ていい?」

「え、いいよ。……てか、この前言ってた配信のやつも観るなら、終電間に合わないし。泊まって行く?」

「いいの? これ、うちのバイト先でも取り扱ってなくて」

 棚の上段に並ぶパッケージに手を伸ばす。あと少しで届きそうなのに、指先が空を切る。
 つま先に力を入れて、もう一度伸び上がった――その瞬間。

 背中に、ふわっと温もりが触れた。

 一瞬で全身の神経がそっちに集中する。晄の腕が、俺の肩越しに伸びてきて、同じ方向へ動く。気づいたら、その手が俺の手の上に重なってた。

 指先が少しだけ触れただけなのに、そこから伝わる体温がやけにリアルで、背中の方まで熱くなっていく。心臓の音が、自分の耳にまで響いてる気がした。

「届かない?」

 耳のすぐ後ろで、低い声が落ちてくる。声っていうより、息そのものが肌に触れた感じがして、思わず肩をすくめた。近すぎて、まともに息が吸えない。

 晄は何事もなかったみたいにDVDのパッケージを取って、軽く笑って言った。

「……はい、これ。俺、酒持ってくるから、プレイヤーに入れといて」

「あ、うん……」

 晄が離れていった瞬間、背中の熱だけがぽつんと残ったみたいに消えない。
 
 びっくりした。
 ていうか、今の……後ろから抱きしめられるかと思った。
 
 自分で考えて顔が熱くなる。違うって分かってるのに、さっきの指の感触がまだ指先に残ってる。
 心臓がうるさすぎて、深呼吸しても全然落ち着かない。
 こんなの、ただDVDを取ってくれただけなのに。

「宵、ビール飲める?」

「あ、あんまり強くない……」

「じゃあチューハイ。一番弱いのにしとくか」

「うん。ありがと」

 受け取った缶を指先でなぞる。アルミの冷たさが肌に心地いいのに、顔はまだ赤いような気がした。
 口をつけて少し飲む。微かな甘みとアルコールの熱感が喉を通り、胸のざわめきがさらに広がる。

 映画が始まっても、頭の中ではさっきの光景が何度もリプレイされた。
 晄の声、手の感触、背中の距離。思い出すたび、身体の奥がじわりと熱を帯びる。自分でも、意識しすぎているのは分かっている。けれど、どうしても止められない。

 横を見ると、晄はベッドにもたれかかり、真剣な目で画面を見つめている。暗い部屋の中、プロジェクターの光が晄の横顔を照らす。金髪の隙間に落ちる影が、静かに揺れていた。

 アルコールのせいか、まぶたがだんだん重くなっていく。
 テーブルの上には空き缶が転がっていて、ソファのクッションに体を預けると、照明の柔らかなオレンジが視界をぼんやり包み込んだ。
 何度か意識が遠のきかけて、ふっと目を閉じたとき――。

「……宵?」

 晄の声が、遠くでゆっくり響いた。

「んー、なんかふわふわする」

「マジで? そんなんで酔ってんの?」

 ウソだろ、とぼやきながら、晄がお酒の缶を持ち上げてラベルの度数を確認している。
 その真剣な顔がなんだか可笑しくて、思わず笑ってしまう。

「えへへ、大正解~!」

「うわ。しかもお前、一番めんどいタイプかよ」

「……ひどーい! 誰か助けてくださーい! 嶋根晄くんに、強いお酒を飲まされていまーす!」

 声を張り上げると、晄がぎょっとして振り返る。その慌てた表情がツボに入って、腹の底から笑いがこみ上げた。
 晄は顔をしかめながら、窓を慌てて閉める。ガラス越しに夜風が遮られて、部屋の中にだけ笑い声が残った。

「宵、やめろ。マジで通報されたらヤバいから」

「えー、ダメなの? そっかぁ、ダメかぁ〜」

 晄に額を軽く小突かれる。それが妙に優しくて、また笑ってしまう。
 笑いすぎて涙が出そうになり、息を整えながら、ソファにずるずると身体を預けた。酔いのせいか、体の芯がふわふわして、頭がゆっくり沈んでいく。

「……おい、ここで寝んなよ。配信も観るんじゃなかったのかよ」

 晄の声が、少し遠く聞こえる。体育座りをして膝を抱え、俯いて額を押し付ける。

「ん、ここに住んだら毎日観られる……」

「はいはい。とりあえずベッドまでは歩けよ、肩貸すから」

「むり、ここで寝る。歩けないでーす」

「……いきなり甘えてんじゃねーよ」

 その声が、耳元のすぐ近くで落ちた。少しだけ照れたような響きのあと、体がふわりと浮く。ぼやけた視界がゆっくりと傾き、肩の下に晄の腕の感触。もう片方の腕が、俺の脚を支えている。
 
「おい、ちゃんと掴まれよ。落とすぞ」

 冗談めかした声なのに、耳元の温度はやけに優しい。小さく息を吐きながら、晄が歩くたびに、その振動が体の奥まで伝わる。

「あははっ、晄、落ちる!落ちちゃう!」

「脚バタバタすんなって。ほら、こっちで寝ろよ」

 そっと降ろされて、柔らかい布の感触が背中に触れた。バサッとちょっとだけ乱暴に毛布をかけられる。
 晄はその後も何か言っていた。風呂とか、着替えとか。でも、もう返事をする力も残っていなかった。

 静かな洗濯機の音と、遠くで流れる映画の音楽。そのすべてがやさしく溶け合って、俺はゆっくりと瞼を閉じた。



 朝、目を覚ますと、見慣れない天井が視界に入った。
 はっとして勢いよく起き上がり、周りを見渡す。昨日、映画グッズを見て騒いだあの部屋。棚の上にはポスター、テーブルの上には飲みかけの缶とスナックの袋。
 カーテンの隙間から射し込む光が、ソファの上でスマホを弄る晄の髪を照らしていた。

「起きたか」

「俺、寝落ちしたの全然分かんなかった。しかもベッドも占領しちゃって……」

「いいって。……寝れた?」

「う、うん。晄にソファー使わせちゃってごめん」

「別にいい。普段もここで寝ることあるし」

 晄は、何でもない調子でスマホの画面をスクロールしている。その横顔がやけに落ち着いていて、胸の奥が少しだけざわついた。
 俺は寝癖を手ぐしで直しながら、部屋を見回す。床に、開いたままのDVDケースが落ちている。どこか、昨夜の余韻がまだ残っている。

「昨日、いっぱい話せて楽しかった。また来てもいい?」

 そう言って笑うと、晄はローテーブルに置いたスマホを指先で滑らせて脇に寄せた。
 立ち上がると、黒いパーカーの裾が少し揺れた。ただそれだけなのに、部屋の空気が微かに変わる。

「……楽しかったのは覚えてんのか」

 晄はそう言いながら、俺が居るベッドの端に腰を下ろした。マットレスがゆっくり沈み、距離が一気に近くなる。
 朝の光に照らされた金髪の下、伏せた睫毛が影を落として、ふと視線が合った瞬間、息が止まった。

「うん。俺が観たかったやつ……を」

 晄の家で配信の映画を見るのが本来の目的だったのに、俺がDVDの方を観たいと言ったのは覚えている。
 結局、観たんだっけ? その先の記憶が霞んでいる。お酒を飲んだあたりから、どうしても断片的にしか思い出せない。

「すげー酔っ払ってたよ、宵」

「え、そんなに?」

「うん。ベタベタ甘えてきて、くそ可愛かった」

「え……?」

「首んとこにギュウギュウ抱きついて、『降ろしちゃダメ~』とか……あとは『一緒に――」

「ほ、本当に? 俺そんなことしたの!?」

 晄が軽く笑った。けれどその笑みは、からかうというより――思い出した何かに、ふと頬がゆるんだような笑い方だった。
 瞳の奥に、眠気の残る気だるさと、昨夜のぬくもりをそのまま引きずったような柔らかさがある。

「記憶、ないの?」

 朝の光に照らされた金髪が肩でゆらめいて、唇の端が静かに上がる。その仕草ひとつで、空気が甘く揺れた。
 記憶にないけれど、もしかしてとんでもないことをやらかしたのでは――そう思って顔を引きつらせると、晄が小さく息を漏らして笑った。

「いや、全部嘘。フツーに寝落ちてた」

「よ、良かった……。普段全然飲まないから、何かやらかしたのかと思った」

 晄は何も言わずに立ち上がって、テーブルのゴミを片づけ始めた。
 その横顔が、いつもと違う気がする。昨夜の何かを思い出してるみたいに、動きがゆっくりしてた。

 俺も無言で缶をまとめながら、ふと背中に声をかけた。

「……また遊びに来てもいい?」

「どうぞ。宵のシェルターにオススメ物件ですから、うちは」

 いつもの調子で返した晄が、振り返る。
 でもその瞳の奥に、ほんのわずかに残った迷いみたいなものが見えた。
 その顔を見つめて、目が合った晄に首を傾げられ、さっと逸らす。
 
 胸の奥が、じんと疼いたような気がした。