晄と二回会ったあとも、メッセージのやりとりは変わらず続いていた。
送られてくる文はさらに短く、雑になった。絵文字もほとんど使わず、思ったことをそのまま投げるだけ。
でもそのぶっきらぼうな感じが、逆にリアルで、読んでいるうちに口調や表情まで浮かんでくるようだった。
“今日の講義、マジで眠すぎて後半意識飛んだ”
“朝までオールで映画観てたもんね”
“うっせーわ”
そんな軽口の応酬が心地よくて、返信が来るたび、少しだけ笑ってしまう。
時々、「打つのめんどい」と言って、突然電話がかかってくることもあった。
バイト帰りのホームで聞こえる電車のブレーキ音、遠くで流れるアナウンス。その合間に混じる晄の声は、不思議と近く感じて。
特別な話をしているわけじゃない。ほとんど軽口混じりの、どうでもいいことばかり。
それなのに、通話が終わったあとも、耳の奥に残る声の余韻がなかなか消えない。
気づけば、スマホの通知音が鳴るたび、胸の奥が少しだけ温かくなる――そんな日々が、自然と当たり前になっていった。
“レポート二本はえぐいて 宵やってくんね”
“出来るわけないじゃん”
“提出しないと、映画観に行けねーよ?”
「……それは俺も困るけどさぁ」
晄の返信に、思わず本音がこぼれる。
会っている時は基本的にぶっきらぼうでテンションも低めなのに、メッセージだとどこか駄々っ子というか、小さい子どもみたいに甘えてくるところがあるのに気付いたのも、ここ最近のこと。それを前に指摘したら、恐ろしいほどのスタンプ連打攻撃を喰らったから、絶対に本人には言わないけれど。
“少しなら手伝えるけど”
仕方がない、分からないところだけ一緒に考えてあげよう。
そんな気持ちで返信を打つと、すぐに既読がついた。
“じゃあ 俺の大学来いよ”
送られてきたURLを開く。図書館棟の設備が記された大学のホームページだった。
晄の私大は、俺の通う国立よりもずっと有名で、キャンパスの規模も蔵書数も、何もかもが桁違い。その中で、図書館棟は一般にも開放されているらしい。
他大に行くだけで少し緊張するけれど、晄の知らない一面を覗けるような気がして嬉しかった。
“いいよ。ちゃんと真面目に終わらせてくれるなら”
“ぜってー終わらす”
目つきの悪いネコが、親指を立てているスタンプが一緒に送られてきた。
講義室の隅で、微笑んでしまいそうになる口元を袖口で隠しながら、俺もスタンプを送り返した。
*
そして、迎えた約束の日。
正門前で待っていた晄は、黒い五分袖Tシャツにグレーのスウェットパンツというラフすぎる格好で立っていた。
俺が着ていたら、まるで部屋着になりそうなファッションなんだけれど、晄が着ていると洗練されている。
近づいていくと、心なしかいつもより指輪やピアスの数が増えているように見えた。
「おはよ、晄」
「……はよ」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で返事をして、怠そうに晄はに歩き出した。
ガラス張りの校舎が並ぶキャンパスは、空まで明るく開けていて、通り過ぎる学生たちの声もどこか華やかだった。俺の大学とはまるで違う。
図書館の三階に案内されて、窓際の学習スペースに並んで座る。
晄はぐしゃぐしゃに折れたプリントを鞄から引っ張り出し、面倒くさそうに溜息をつきながらそれを机に置いた。
「宵、マジでやってくんね? 文学部の本気出せよ」
「だめだよ。絶対バレるって」
「俺っぽく書けばバレねーよ。一生のお願い」
「えー、絶対それまた使う“一生”なんじゃないの?」
口喧嘩みたいなやり取りの途中、隣の席の学生に咳払いで注意されて、晄がニヤリと笑った。
「ほら、宵。うるせーってよ。静かにしろ」
声のボリュームを抑えて、肘で軽く俺の肩を押す。その何気ない仕草に、胸がほんの少しだけ跳ねる。
友達同士の距離感が分からない。これくらいは、普通なのかな。
「晄がちょっかい掛けるからだよ」
「あー、マジめんどくさ。……今日中に終わらせるわ」
晄は文句を言いつつも、心理学の本を数冊抱えて戻ってきて、意外にも真面目に読み始めた。隣で俺もパソコンを使って文献を探す。
図書館の空気は静かで、日差しが机に薄く伸びている。集中していても時々、晄のページをめくる音がやけに気になって、ふと視線を移す。
真剣に本を読みこむ、綺麗な横顔が見える。本人に言ったら怒られそうだし、きっと嫌がるだろうから、言わない。
けれど、晄には「いつまでも見ていたい」と人を惹きつけるような魅力があった。
「……なに」
不意に晄が顔を上げ、俺の視線を捕らえる。
「な、何でもない……」
「嘘つけ。ガン見してたのバレバレ。見惚れてたくせに」
「そんなことない!」
俺が必死になるのを見て、心底楽しそうに、頬杖をしながら笑う晄。
まるで小学生の男の子みたいだと思いながら、向き直ろうとする。
「……あ、宵。ちょっと待て、そのまま動くな」
シャーペンをくるくる回しながら俺を見ていた晄が、ふいに手を伸ばしてきた。
反射的に避けそうになったけれど、“動くな”と言われたことを思い出して、身体がピタリと止まる。
「……前髪、目にかかってる」
その指先はゆっくりと俺の髪に触れ、前髪をかき分けるようにすくい上げた。
いつもは鋭い晄の眦が下がっていて、呼吸まで飲み込むように息を止めた。
晄は鞄から黒い小さなピンを取り出し、慣れた手つきで俺の前髪をそっと留めて言った。
「目デカすぎてえぐいな」
「……そうかな? あんま、言われたことないけど」
言われたことがないというより、そんな話をする相手が居ないのだけれど。
「前髪、短い方が似合いそう」
ピンで留めた反対側の前髪を、さらっと指で撫でられる。
その手にびっくりして、思わずぎゅっと目を閉じた。
一軍の男子って、普段から友達とこうして髪で遊ぶのかな。
分からない。けれど、躊躇なく触れる晄に合わせて、俺も動かないことにした。
「……落ち着かないから、短いのは嫌かな」
「前髪で顔を隠すのは、『心理的防衛行動』って言って……」
「やめて、それ。今言わなくていいから」
暗にコミュ障を指摘されて、頬が熱くなっているのを自覚する。
ピンを外そうと手を伸ばすと、俺より先に晄が手を伸ばして外してくれた。そのまま、前髪をぐしゃ、と絡ませるように撫でられる。
「やっぱ、これは俺以外に見せらんないわ」
「え?」
「宵はデコ出し禁止」
「え……ハゲてるってこと?」
俺が一瞬言葉に詰まると、晄は吹き出した。
すぐ近くの席から咳払いが聞こえてきて、晄は慌てて口元を押さえ、笑いを引っ込める。
お互いに「静かにしろ」とでも言いたげに目で訴え合っていると、不意に晄が指で前髪を梳いた。
その手が離れ、何事もなかったように、再びレポートへ視線を戻した。
俺が晄の書いた文章をチェックして、晄はもう一本を書き上げると、こらえきれない様子で大きくあくびをした。
「終わってよかったね」
「……この後、メシ行く?」
「うん、いいよ」
二人で肩を並べて正門へ向かっていると、建物から出てきた大所帯の男女が晄に駆け寄ってきた。
「アキじゃーん! やっほー!」
「うわ、だる……」
顔をしかめる晄の肩を軽く小突く、明るい一軍グループ。圧倒的な陽キャ集団。
笑い声は大きく、全員が「理想のキャンパスライフ」を送る大学生にしか見えなくて、眩しいくらいだった。
その中に立っているだけで、まるで違う世界に迷い込んだような気分になる。自然と一歩、身を引いてしまう自分がいた。
「隣の子だれ? 彼氏? めちゃ綺麗」
「思った! ねぇ、SNSとかやってる?」
「お前らマジで黙れ、さっさと散れよ」
茶髪の男子が無邪気に俺を指差す。それをかわす様に、晄がさっと間に立った。
「今からいつもの店で飲みだけど、晄も来いよ」
「今日はマジで無理」
「友達も一緒でいいじゃん。行こうって」
「マジでない。 おい佐久本、コイツら早くどっか連れてけよ」
晄は深くため息をつく。その横で、佐久本と呼ばれた黒髪の男子が「はいはい」と苦笑しながらグループをなだめていた。
身長は……多分、晄と同じくらい。整った顔立ちで、爽やかな笑みを浮かべている。
このグループの中で彼だけ少し雰囲気が違って、この騒がしさの外側に立っているような印象だった。
「ノリわる。てか、その子友達なん? ウチの大学で見たことない。紹介してよ」
軽く笑いながら、近くにいた女子が身を乗り出してきた。
ニコニコと笑いながら、俺の肩に手を伸ばす。その仕草があまりにも自然で、慣れている感じがして、どう反応していいかわからなくなる。
周囲の視線が、一気に俺に集まっているのに気付いて、俺はさっと俯いた。
すると、黙っていた晄が、不意に俺の肩をぐっと後ろへ引き寄せた。
「勝手に触んないで?」
声は柔らかい。女子相手だから、っていうあの気遣いの色は確かにある。
でも、その柔らかさの奥にあるのは、完全に線を引いた気配だった。
後ろから回された腕が、俺の頬を片手でぎゅむっと挟む。
反射で「むぐっ」と変な声が出かけたけど、押さえ込む暇もなく、顔が変に引きつった。
「えー! かわちい!」
「なにそれ! 彼氏ムーブじゃん!」
周りの女子が一斉に叫んで、大爆笑。
かわちい、って何だ。
俺の顔はぐにゃっと変形してるし、どこに“かわちさ”の要素があるのか本気でわからない。
「……こいつ未成年だから。飲みは無理なの」
晄の声が頭の横で落ちてくる。
その瞬間、俺は反射的に晄の横顔を見る。
晄は眉を少しだけ持ち上げ、「話合わせとけよ」って言いたげな、半ば命令みたいな視線を送ってきた。
……いや、俺は二年生だし、普通に二十歳なんだけど。
抗議の意味も込めて見上げると、晄は視線をすっと逸らし、口元を固く引き結んだ。
あれは、完全にわかってて嘘ついてる顔だ。
一軍グループの人たちは「あー、そっかぁ」「未成年なら仕方ないか〜」と残念そうに言いながらも、どこか名残惜しそうにこちらを見て、最後に「じゃ、また今度ね!」と手を振って去っていく。
彼らの足音が遠ざかっていくと、急に喧騒がゆるくほどけた。
俺と晄の間だけ、妙に静かで、妙に温度が高い。
しばらく黙って晄を見上げ、ぽつりと口にした。
「……なんで、年齢のこと嘘ついたの?」
晄はポケットに両手を突っこんだまま、俺を見るでもなく答える。
「お前、ああいうの断れなさそうだから」
短くそう言ったあと、晄はそのまま歩き出した。
後ろ姿は普段通りなのに、どこか急いでいるようにも見える。
俺は小さく息をついて、数歩遅れてその後ろをついていく。
――晄なりに、俺のことを守ってくれたのかな。
正面から言われるわけじゃないけど、さっきの態度で充分伝わるものがあった。
「晄って、普段あの人たちと一緒にいるの?」
正直、居心地がよさそうには見えなかった。どんな理由でつるんでいるのかも分からない。
晄は視線を横へ流すと、少し間をおいてから答えた。
「……佐久本は中学からの腐れ縁。そこにあいつらが勝手にくっついて来てる感じ」
「そうなんだ」
短いやりとりのあと、また少し沈黙が戻った。
けれど、さっきとは違う。
足音のリズムが揃って、歩幅まで同じになっていることに気づく。
沈黙が、妙に落ち着く。無理に話さなくても、空気が自然に続いていく。
道の向こうでは、夕焼けがゆっくり沈んでいた。街路樹の影が長く伸びて、晄の横顔をやわらかく包む。
「……宵、これ見ろよ」
名前を呼ばれて顔を上げると、晄のスマホがすっと目の前に差し出された。
「お前が観たがってた映画、サブスクで配信されてる」
「えっ、ほんと?」
表示された画面のタイトルを見て、思わず身を乗り出した。
フィルメモリーにブックマークしてた作品だ。
俺がたった一言、「気になってるんだよね」と言っただけなのに、晄はちゃんと覚えていてくれた。
晄のさりげない優しさが、胸の奥をふわっと温かくする。
「俺、契約してるからうちで観れる」
「いいなぁ……俺、レンタル派なんだけど。ずっと契約しようか悩んでて――」
どのプランが良いのかなぁ、と続けようとした瞬間、晄の声がその上から重なる。
「……今度、うち来る?」
晄の声は低いけど、どこかぎこちない。
マスクに覆われた表情が読めないぶん、そのわずかな不自然さが余計に気になった。
顔を上げると、視線がぶつかったのは一瞬。
晄はすぐにそらし、ポケットに手を突っ込んだまま、微妙に肩を固くしていた。
――なんか、よそよそしい?
それでも、胸がトクトクと早く鳴る。
だって晄の家で映画なんて、普通に楽しそうだ。
「……行ってもいいの?」
聞き返す声まで、自分でわかるほど慎重になってしまう。
「当たり前だろ。来週とかでいい?」
そう言った晄の声は柔らかくて、やけに穏やかに感じられた。
マスクをしてるから分からないけれど、晄の瞳が少しだけ緊張しているように見えて、俺もゆっくり頷く。
晄の家で映画を観る。ただそれだけのことなのに、その言葉が頭の中で何度も過る。
「じゃあ、また来週な」
ホームで晄と別れたあと、電車が来るのを待ちながら、その余韻から抜けられなかった。
車内の座席に腰を下ろして、ようやくスマホを取り出す。
予定アプリに指先を滑らせて、そっと文字を打ち込む。
《晄の家で映画》
たったそれだけの言葉なのに、画面の光が妙に眩しい。
予定というより、“心の中に印をつける”ような感覚だった。



