晄と約束していたホラー映画の公開日。
シリーズの最終章にして、“史上最恐”なんて宣伝されている。レビュー欄にも「夜眠れなくなった」とか「心臓に悪い」なんて言葉がずらり並んでいた。タイトルの横には星が四つもついていて、見ただけで背筋が寒くなる。
朝のうちにオンラインでチケットを取ったけれど、人気作だけあってほとんど席は埋まっていた。
それでも中央寄りの隣り合った二席が空いていたのは、偶然というより、何かのご褒美みたいに感じた。
待ち合わせは前回と同じ、グッズ売り場の前。晄の姿を見つけた瞬間、胸の奥がふっと熱を帯びた。
「晄、チケット発券しておいたよ」
「サンキュ」
黒のパーカーにワイドパンツのラフな姿で、スマホをいじる右手にはシルバーの指輪がいくつも光っていた。アッシュグレーの色付きのサングラスもさらりと似合っているのが、晄らしい。
毎日メッセージで話していたのに、やっぱり“直接”会うと違う。
画面越しの文字じゃ伝わらなかった空気――声のトーンとか、息の間とか、そんな些細なことが、心の中で波紋のように広がっていく。
どうしてこんなに緊張してるんだろう。メッセージの時みたいに、もっと自然に話せる気がしていたのに。
「この作品、マジで怖いってフィルメモリーに大量に書き込まれてたな」
「みたいだね。ホラー大好きだから、すっごい楽しみ」
「へぇ? 俺は宵の泣き顔が楽しみ」
「泣かない。……多分」
意地悪そうに笑う晄。
その顔を見た瞬間、返す言葉より先に“綺麗だな”って思ってしまった。
視線を逸らそうとしたのに、どうしても離せない。
「……ほら、行くぞ」
「ま、待って!」
ぶっきらぼうな言葉なのに、歩幅を合わせるように少しだけスピードを落としてくれる。
それだけのことなのに、胸の奥がくすぐったくなる。
晄のそういうところが、態度とは裏腹に、優しいと思った。
並んで歩きながら、耳元に覗くシルバーのピアスに視線を惹きつけられる。
ひとつひとつ、形も位置も違う。痛そうなのに、光を受けて微かに揺れるそのどれもが似合っていた。
場内に入ると、ほとんどの席は埋まっていた。
暗闇の中でスクリーンの光がちらちらと客席を照らし、誰かの笑い声や囁きが静かに混じり合っている。
隣り合わせに座った晄の存在が、ほんの少し近いだけで、心臓のリズムが早まっていく。
映画を観に来ただけなのに、晄が隣にいるだけで、世界の輪郭が少し違って見えた。
「……俺、こっちに座るわ」
「え? あ、うん。いいよ」
晄が指差したのは、俺の左隣だった。
鞄を足元に置き、上着を膝に畳むと、場内の照明がゆっくりと落ちていった。
*
序盤は余裕で見ていられたけれど、次第に“間”で攻めてくるタイプのホラーに変わっていく。
隣を見ても、晄は眉ひとつ動かさず、スクリーンをじっと見つめていた。
劇場内は静まり返り、主人公が廊下の奥をじっと見つめる。
何も映ってない――でも、“来る”。そう確信して、俺は思わず両手で顔を覆った。
指の隙間からスクリーンを覗いた瞬間、轟音と共に幽霊が現れ、劇場に悲鳴が響き渡る。
分かっていたはずなのに、体が跳ね、驚きの声が漏れる。
肘掛けに手を戻して誤魔化そうとしたその瞬間、柔らかく、温かい感触が手の甲に触れた。
驚いて視線を落とすと、そこには晄の手が重なっていた。
ほんの数センチの触れ合い。それだけなのに、心臓が大きく跳た。
「……あ、ごめん」
絞り出したのは、それだけ。小声で謝って手を引く。
スクリーンの暗転に隠れて、晄の表情はハッキリ見えない。
「……間違った。悪い」
周囲に聞こえないよう、耳元で囁くように言われて、そっと視線をスクリーンへ戻したけれど落ち着かない。内容に集中しようとしても、晄の横顔が頭から離れず、手が重なったことを繰り返し思い出す自分が居た。
*
映画が終わり、スクリーンいっぱいにクレジットが流れ始める。さっきまで支配していた闇と恐怖が、ゆっくりと解けていくようだった。
館内の照明が段階的に戻り、浮かび上がる人の輪郭や、赤いシートの色。非現実の世界から、現実へと引き戻される時間。
それでも胸の奥には、まだ微かな熱が残っていた。理由は分からないのに、鼓動だけがいつもより近くで鳴っている。
人の流れに押さるようにして、二人で劇場の出口へ向かった。晄が一足先にエスカレーターへ乗り、下の段から振り返る。
「宵、めっちゃビビってたな」
目を細めて、マスクを顎下にずらした晄の顔には、楽しそうな笑顔が浮かんでいた。
「……想像以上だった」
「ビクビクしてんの、隣で見ててクソ面白かった」
晄は少しだけ身を乗り出して、俺の額を人差し指で軽く押しながら楽しそうに言う。
「あれくらい素直に反応してくれると、見てて飽きないわ」
怖がっている自分を笑われたはずなのに、嫌な感じは全然なくて。俺は押された額を片手で軽く抑えながら、少し恥ずかしくて下を向いた。
――さっきの、手がぶつかったこと。
晄は何も言ってこないけど……特に気にしてない、のかな。
そんなことを聞く勇気があるわけもなく、俺は何も言えないまま、ただ晄の後ろに立っていた。
*
晄と並んでスマホを覗き込みながら、映画のスコアを付け合う。五段階評価の星をタップする指先。ホラー映画の余韻も、心臓の高鳴りも、晄と感想を共有するうちに、ゆっくり普段通りの落ち着きへと戻っていく。
「今日も喋ってかね?」
「うん、いいよ。お店どうする?」
そんな会話をしながら、映画館のロビーに足を踏み入れた瞬間だった。
ふっと空気が変わったのを、肌で感じる。
視線。
明らかに、晄へと集まっている。すれ違う女性たちが、歩調を緩めながら口元を手で隠し、小声で囁き合っている。
「ねぇ見て、めっちゃイケメン」
「え、マジだ。やばぁ……」
聞こえないふりをしているつもりでも、耳は正直で、言葉が一つひとつ刺さってくる。
そして、決まってその視線は俺の方へと流れてくる。
値踏みするみたいな目。不思議そうな目。あるいは、少しだけ探るような目。
「声かけちゃう? インスタだけ聞くとか」
「事務所とか入ってそう。 絶対相手してくれないよ」
通り過ぎた後も、そんな声が背中に追い打ちみたいに届い、胸の奥が、じわじわと冷えていく。
晄はやっぱり目立つ。背が高くて、顔立ちが整っていて、歩いているだけで視線を集める存在。
一軍男子どころか、ド一軍。同じ人間なのに、生きてる世界が違う。眩しすぎて、直視できない別の生き物みたいだ。
――自分なんかが、晄の隣を歩いていていいんだろうか。
そう思った瞬間、無意識に歩調が落ちていた。
半歩、また半歩。気づけば、晄の横ではなく、影みたいに後ろを歩いている。
「宵?」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。
「どうした」
「あ、いや……何でもないよ」
声が弱い。自分でも分かるくらい、頼りなかった。
案の定、晄は立ち止まり、眉を寄せる。
「いや、気になるから言えよ」
逃げ場を塞がれたみたいで、喉が詰まる。
それでも、少しだけ勇気を出して口を開いた。
「あの……歩いてると、色んな人が晄のこと見てて、落ち着かなくて」
晄は一瞬だけ目を伏せてから、短く息を吐いた。
「あー、それ。ウゼェから、気にしないようにしてる」
淡々とした声。
でも、よく聞くとほんの少しだけ、苦みが混じっていた。
「どうせ顔だけだから。理想を勝手に押し付けてくんなって思う」
思わず、息を呑む。
軽口じゃない。冗談でもない。きっとこれまでに、好意も期待も、勝手に向けられてきたのだろう。それに応えられなくて、傷ついたことも。その一言に、積み重なった疲れが滲んでいた。
「俺は……晄みたいなイケメンじゃないから、うまく理解できないけど」
言葉を選びながら、続ける。
「でも、じろじろ見られるのって、やっぱりいい気はしないよね」
「……は?」
晄が首をかしげる。
「いや、宵はだいぶ整ってるだろ」
「えっ……何言ってんの」
思わず即答してしまう。
「晄、眼科行ったほうがいい」
真顔で言うと、晄は一瞬きょとんとしてから、口元を押さえて笑った。
「お前こそ鏡見ろ」
「いや、あり得ない。絶対そんなことないから」
反射的に否定する。褒められると、どうしても身構えてしまう。
すると、晄の表情が少しだけ変わった。笑みが消えて、声が低くなる。
「……“そんなことない”って言うの、やめたら?」
「えっ、でも」
「でも、じゃなくて」
真剣な眼差しが、真正面から向けられる。
冗談の逃げ道が塞がれて、心臓がどくんと鳴った。
「せっかく言葉にして褒めたいと思ってくれた相手の気持ちを、否定してるって思わね?」
言葉が、静かに胸に落ちる。
「“ありがとう”って言われた方が、相手も嬉しいに決まってる」
その一言が、胸の奥でじんわりと溶けていく。
ずっと、褒め言葉は受け取らないものだと思っていた。否定することで、期待されないように。傷つかないように。
晄は、それを見抜いて言ってくれた気がした。
「宵はもっと、自分に自信持った方がいい。絶対」
視線を落としたまま、小さく息を吸う。
「……あ、ありがとう」
かすれた声。でも、ちゃんと口にできた。
俯いた俺に、晄がふっと笑った気配がする。それはからかう笑いじゃなくて、少し安心したみたいな、柔らかいものだった。
――褒められることを、素直に受け取っていい。
そんな当たり前のことを、初めて教えてもらった気がした。
晄の隣を歩く自分を、ほんの少しだけ許せた気がして。
さっきまで冷えていた胸の奥が、静かに温かくなっていった。
シリーズの最終章にして、“史上最恐”なんて宣伝されている。レビュー欄にも「夜眠れなくなった」とか「心臓に悪い」なんて言葉がずらり並んでいた。タイトルの横には星が四つもついていて、見ただけで背筋が寒くなる。
朝のうちにオンラインでチケットを取ったけれど、人気作だけあってほとんど席は埋まっていた。
それでも中央寄りの隣り合った二席が空いていたのは、偶然というより、何かのご褒美みたいに感じた。
待ち合わせは前回と同じ、グッズ売り場の前。晄の姿を見つけた瞬間、胸の奥がふっと熱を帯びた。
「晄、チケット発券しておいたよ」
「サンキュ」
黒のパーカーにワイドパンツのラフな姿で、スマホをいじる右手にはシルバーの指輪がいくつも光っていた。アッシュグレーの色付きのサングラスもさらりと似合っているのが、晄らしい。
毎日メッセージで話していたのに、やっぱり“直接”会うと違う。
画面越しの文字じゃ伝わらなかった空気――声のトーンとか、息の間とか、そんな些細なことが、心の中で波紋のように広がっていく。
どうしてこんなに緊張してるんだろう。メッセージの時みたいに、もっと自然に話せる気がしていたのに。
「この作品、マジで怖いってフィルメモリーに大量に書き込まれてたな」
「みたいだね。ホラー大好きだから、すっごい楽しみ」
「へぇ? 俺は宵の泣き顔が楽しみ」
「泣かない。……多分」
意地悪そうに笑う晄。
その顔を見た瞬間、返す言葉より先に“綺麗だな”って思ってしまった。
視線を逸らそうとしたのに、どうしても離せない。
「……ほら、行くぞ」
「ま、待って!」
ぶっきらぼうな言葉なのに、歩幅を合わせるように少しだけスピードを落としてくれる。
それだけのことなのに、胸の奥がくすぐったくなる。
晄のそういうところが、態度とは裏腹に、優しいと思った。
並んで歩きながら、耳元に覗くシルバーのピアスに視線を惹きつけられる。
ひとつひとつ、形も位置も違う。痛そうなのに、光を受けて微かに揺れるそのどれもが似合っていた。
場内に入ると、ほとんどの席は埋まっていた。
暗闇の中でスクリーンの光がちらちらと客席を照らし、誰かの笑い声や囁きが静かに混じり合っている。
隣り合わせに座った晄の存在が、ほんの少し近いだけで、心臓のリズムが早まっていく。
映画を観に来ただけなのに、晄が隣にいるだけで、世界の輪郭が少し違って見えた。
「……俺、こっちに座るわ」
「え? あ、うん。いいよ」
晄が指差したのは、俺の左隣だった。
鞄を足元に置き、上着を膝に畳むと、場内の照明がゆっくりと落ちていった。
*
序盤は余裕で見ていられたけれど、次第に“間”で攻めてくるタイプのホラーに変わっていく。
隣を見ても、晄は眉ひとつ動かさず、スクリーンをじっと見つめていた。
劇場内は静まり返り、主人公が廊下の奥をじっと見つめる。
何も映ってない――でも、“来る”。そう確信して、俺は思わず両手で顔を覆った。
指の隙間からスクリーンを覗いた瞬間、轟音と共に幽霊が現れ、劇場に悲鳴が響き渡る。
分かっていたはずなのに、体が跳ね、驚きの声が漏れる。
肘掛けに手を戻して誤魔化そうとしたその瞬間、柔らかく、温かい感触が手の甲に触れた。
驚いて視線を落とすと、そこには晄の手が重なっていた。
ほんの数センチの触れ合い。それだけなのに、心臓が大きく跳た。
「……あ、ごめん」
絞り出したのは、それだけ。小声で謝って手を引く。
スクリーンの暗転に隠れて、晄の表情はハッキリ見えない。
「……間違った。悪い」
周囲に聞こえないよう、耳元で囁くように言われて、そっと視線をスクリーンへ戻したけれど落ち着かない。内容に集中しようとしても、晄の横顔が頭から離れず、手が重なったことを繰り返し思い出す自分が居た。
*
映画が終わり、スクリーンいっぱいにクレジットが流れ始める。さっきまで支配していた闇と恐怖が、ゆっくりと解けていくようだった。
館内の照明が段階的に戻り、浮かび上がる人の輪郭や、赤いシートの色。非現実の世界から、現実へと引き戻される時間。
それでも胸の奥には、まだ微かな熱が残っていた。理由は分からないのに、鼓動だけがいつもより近くで鳴っている。
人の流れに押さるようにして、二人で劇場の出口へ向かった。晄が一足先にエスカレーターへ乗り、下の段から振り返る。
「宵、めっちゃビビってたな」
目を細めて、マスクを顎下にずらした晄の顔には、楽しそうな笑顔が浮かんでいた。
「……想像以上だった」
「ビクビクしてんの、隣で見ててクソ面白かった」
晄は少しだけ身を乗り出して、俺の額を人差し指で軽く押しながら楽しそうに言う。
「あれくらい素直に反応してくれると、見てて飽きないわ」
怖がっている自分を笑われたはずなのに、嫌な感じは全然なくて。俺は押された額を片手で軽く抑えながら、少し恥ずかしくて下を向いた。
――さっきの、手がぶつかったこと。
晄は何も言ってこないけど……特に気にしてない、のかな。
そんなことを聞く勇気があるわけもなく、俺は何も言えないまま、ただ晄の後ろに立っていた。
*
晄と並んでスマホを覗き込みながら、映画のスコアを付け合う。五段階評価の星をタップする指先。ホラー映画の余韻も、心臓の高鳴りも、晄と感想を共有するうちに、ゆっくり普段通りの落ち着きへと戻っていく。
「今日も喋ってかね?」
「うん、いいよ。お店どうする?」
そんな会話をしながら、映画館のロビーに足を踏み入れた瞬間だった。
ふっと空気が変わったのを、肌で感じる。
視線。
明らかに、晄へと集まっている。すれ違う女性たちが、歩調を緩めながら口元を手で隠し、小声で囁き合っている。
「ねぇ見て、めっちゃイケメン」
「え、マジだ。やばぁ……」
聞こえないふりをしているつもりでも、耳は正直で、言葉が一つひとつ刺さってくる。
そして、決まってその視線は俺の方へと流れてくる。
値踏みするみたいな目。不思議そうな目。あるいは、少しだけ探るような目。
「声かけちゃう? インスタだけ聞くとか」
「事務所とか入ってそう。 絶対相手してくれないよ」
通り過ぎた後も、そんな声が背中に追い打ちみたいに届い、胸の奥が、じわじわと冷えていく。
晄はやっぱり目立つ。背が高くて、顔立ちが整っていて、歩いているだけで視線を集める存在。
一軍男子どころか、ド一軍。同じ人間なのに、生きてる世界が違う。眩しすぎて、直視できない別の生き物みたいだ。
――自分なんかが、晄の隣を歩いていていいんだろうか。
そう思った瞬間、無意識に歩調が落ちていた。
半歩、また半歩。気づけば、晄の横ではなく、影みたいに後ろを歩いている。
「宵?」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。
「どうした」
「あ、いや……何でもないよ」
声が弱い。自分でも分かるくらい、頼りなかった。
案の定、晄は立ち止まり、眉を寄せる。
「いや、気になるから言えよ」
逃げ場を塞がれたみたいで、喉が詰まる。
それでも、少しだけ勇気を出して口を開いた。
「あの……歩いてると、色んな人が晄のこと見てて、落ち着かなくて」
晄は一瞬だけ目を伏せてから、短く息を吐いた。
「あー、それ。ウゼェから、気にしないようにしてる」
淡々とした声。
でも、よく聞くとほんの少しだけ、苦みが混じっていた。
「どうせ顔だけだから。理想を勝手に押し付けてくんなって思う」
思わず、息を呑む。
軽口じゃない。冗談でもない。きっとこれまでに、好意も期待も、勝手に向けられてきたのだろう。それに応えられなくて、傷ついたことも。その一言に、積み重なった疲れが滲んでいた。
「俺は……晄みたいなイケメンじゃないから、うまく理解できないけど」
言葉を選びながら、続ける。
「でも、じろじろ見られるのって、やっぱりいい気はしないよね」
「……は?」
晄が首をかしげる。
「いや、宵はだいぶ整ってるだろ」
「えっ……何言ってんの」
思わず即答してしまう。
「晄、眼科行ったほうがいい」
真顔で言うと、晄は一瞬きょとんとしてから、口元を押さえて笑った。
「お前こそ鏡見ろ」
「いや、あり得ない。絶対そんなことないから」
反射的に否定する。褒められると、どうしても身構えてしまう。
すると、晄の表情が少しだけ変わった。笑みが消えて、声が低くなる。
「……“そんなことない”って言うの、やめたら?」
「えっ、でも」
「でも、じゃなくて」
真剣な眼差しが、真正面から向けられる。
冗談の逃げ道が塞がれて、心臓がどくんと鳴った。
「せっかく言葉にして褒めたいと思ってくれた相手の気持ちを、否定してるって思わね?」
言葉が、静かに胸に落ちる。
「“ありがとう”って言われた方が、相手も嬉しいに決まってる」
その一言が、胸の奥でじんわりと溶けていく。
ずっと、褒め言葉は受け取らないものだと思っていた。否定することで、期待されないように。傷つかないように。
晄は、それを見抜いて言ってくれた気がした。
「宵はもっと、自分に自信持った方がいい。絶対」
視線を落としたまま、小さく息を吸う。
「……あ、ありがとう」
かすれた声。でも、ちゃんと口にできた。
俯いた俺に、晄がふっと笑った気配がする。それはからかう笑いじゃなくて、少し安心したみたいな、柔らかいものだった。
――褒められることを、素直に受け取っていい。
そんな当たり前のことを、初めて教えてもらった気がした。
晄の隣を歩く自分を、ほんの少しだけ許せた気がして。
さっきまで冷えていた胸の奥が、静かに温かくなっていった。



