その後も、晄とのやりとりは途切れることがなかった。
“起きたら3限終わってて絶望”
“それは寝過ぎだと思う(笑)”
最初のうちは、映画の話ばかりだった。上映中のシーン、登場人物の仕草、カメラワークや光の使い方まで、スクリーンの中の世界を一緒に語り合うだけで、十分に楽しかった。
けれど、いつの間にか話題は映画だけじゃなくなっていた。朝の寝坊のこと、授業の退屈さ、駅で見かけたちょっとした出来事――些細なボヤきや笑い話。送られてくる内容は、日常の何気ないものに変わっていった。
“寝すぎてだりぃ”
晄の言葉は短く、思ったことをそのまま投げてくる無防備さがあった。返信も早く、授業中にこっそりメッセージを送ってくることもある。俺が返せないと、ゆるいキャラクターのスタンプを連打して、まるで催促しているような遊び心も見せてくれる。
夜遅くに送ったメッセージも、朝にはちゃんと返事が届いていた。
バイトの休憩中や電車の中――ふとした隙間時間にスマホを開くと、必ずそこに晄の文字があって、思わず笑ってしまうこともあった。
気づけば、晄とのやりとりは、俺の日常のリズムの一部になっていた。
“明日朝から小テストだから起こして”
“アラーム、いっぱいセットすればいいんじゃない?”
“正論パンチやめろや”
返ってきたのは、中指を立てた目つきの悪いネコのスタンプ。
文字だけなのに、まるで隣で晄が目の前に座っているみたいで、思わず口元を手で押さえて笑った。
“晄は次の講義なに?”
“心理学概論。宵は?”
俺は少し驚いた。あの派手で自由そうな晄が、心理学を専攻しているなんて――想像していなかった。外見とのギャップに、つい笑いそうになる。
“アメリカ文学だよ”
“文学専攻って、宵っぽいわー”
“なんで?”
“言葉の裏にあるものまで考えてそうだから”
その一文を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、スマホを握った手が止まった。
言葉の裏にある相手の「目線」や「感情」を感じ取る瞬間――自分がこんなふうに思っていることを、まるで見透かされてしまったようで、恥ずかしいのに、どこか嬉しかった。
“てか、いつバイト休みなん。そろそろ映画行きたい”
次に会う予定を相談しようとしても、お互いの講義やバイトの都合で、なかなか日程が合わなかった。そのもどかしさが、心の片隅でじわりとくすぶる。
けれど、メッセージのやり取りの中で、晄の声や笑顔を想像しながら文章を打つだけで、少しずつ距離が縮まっていく感覚があった。
“今日シフト出るから、確認する”
映画館での時間から始まった小さな接点が、日常の中に自然に溶け込み、俺の生活に新しいリズムを生んでいる――そんなことを、スマホを握りしめながら改めて感じていた。
次に会うときは、きっと前回より自然に話せる気がする。
晄と今度はどんな映画を観に行こうか考えると、肩にかかったリュックも、バイトに向かう足も、少し軽くなるような気がした。
バイトが終わったら、新作のDVDを観てレビューを書こう。そしてまた、晄と映画の話をするんだ。そう思うだけで、胸の奥がちょっと弾んでいた。
***
だけど、その高揚感は長く続かなかった。
大学での講義を終え、バイト先で返却作業をしていると、カウンターに返却袋がドンッ!と叩きつけられた。
「これ観れねぇーんだけど!金返せよ!」
大柄な男性の怒声に、体が固まる。DVDが再生できないことで返金を求められるのは珍しいことではない。マニュアル通りに説明を繰り返す。けれど、怒りは一向に収まらない。周囲の視線が無言の圧力となり、背中に突き刺さる。
「お前じゃ話になんねぇ、もっと上のやつ呼べよ!」
「し、承知しました。少々お待ちいただけますか……?」
声は小さく震え、手元を見たまま目を合わせられない。指先が汗ばんで、DVDケースが微かに滑る。カウンターの内側にある店長を呼ぶボタンを押しても、すぐには来てくれない。
胸の奥がどんどん重くなり、視界が曇る。お願いだから、早く来てほしい。心臓がドカドカして、今すぐここから逃げたい。
唇を固く結んだまま怒声を浴び続けていると、背後から声がかかった。
「宵くん、俺が代わるから」
有馬先輩だった。肩に手を添えられ、体が強ばる。頭の中で言いたいことがぐるぐる回る。助けてもらう自分が、また弱くて情けない。
「あの、でも……」
「いいの。遊佐も居ないし、あとは俺に任せときなさい」
それから遅れてやってきた店長に、震える声で事情を説明した。
そのあいだも、喉の奥にはさっきの怒鳴り声の余韻が残っていた。
横で有馬先輩が「もう終わったし、大丈夫だから」と言ってくれる。その穏やかな声だけが、体に残った恐怖をそっと撫でてくれるようだった。
「さっきは、ありがとうございました」
ちゃんと言った。言ったはずだった。
有馬先輩は柔らかく微笑みながら「気にすんなよ」と返す。
その軽さが嫌なわけじゃない。ただ――胸の奥に溢れていた“言葉にならない温度”が、どこにも届かなかった気がした。
本当は、助けてもらった安堵も、情けなさも、感謝も、全部そのまま伝えたかった。もっと言えたはずなのに。言えなかった自分に、じわじわ失望する。
何をどう言えばよかったんだろう。思い浮かべても、全部どこか不格好で、喉に引っかかってしまう。
自分は、どうしてこうなんだろう――その問いだけが、静かに胸の底に沈んでいった。
***
とぼとぼ歩く帰り道、街灯の光がやけに冷たく感じる。
地面に落ちる自分の影が、弱さを引きずっているみたいで、見たくなくて視線をそらす。
家に近づくほど、心の奥の重たさは深く沈殿していく。
ちゃんと話せなかったこと、怒らせてしまったこと、また足を引っ張ったこと――全部が胸に重くぶら下がっている。
玄関の扉を閉めた瞬間、糸が切れたように体から力が抜けた。
上着も脱がず、そのままソファに倒れ込む。
目を閉じると、さっきの光景が勝手に再生される。
怒号。硬直して動けなかった手。間に入ってくれた有馬先輩の背中。
助けられるだけで、何ひとつ返せなかった自分。その全部が胸に刺さり、息が浅くなる。
じっとしていると、また思い出してしまいそう。俺は手当たり次第にDVDケースを掴む。
何でもいい。とにかく、違う世界に逃げたかった。
再生ボタンを押すと、暗い部屋にスクリーンの光が広がる。
画面の中の登場人物たちは、言いたいことを言って、傷ついても、ぶつかっても、ちゃんと相手に思いを届けていた。
いいな、と心のどこかで思う。現実では、言葉が途中で引っかかるくせに、映画の主人公たちは迷いなく進んでいく。
その強さに憧れながら、自分が情けなくて、胸の奥がひりひりする。
だけど、映像に沈み込むと少しだけ楽になる。
自分じゃない誰かに感情移入して、苦しくない世界にいられる気がするから。
また逃げているとわかっても、やめられなかった。
画面の光が、ゆっくりと心の輪郭をぼかしていく。
こうやって俺はまた映画に隠れている――そう思いながら深く息を吐いて、膝を抱え込んだ。
深夜まで三本の映画を立て続けに観たあと、レビューを一気に投稿する。目は疲れ、肩も少し重い。
布団に寝そべると、ようやく一日の終わりを実感する。
「もう一時過ぎてる……早く寝よう」
スマホを手に取り、アラームをセットしようとしたそのとき、新着メッセージの通知が画面に浮かんだ。
“見過ぎ”
晄から届いた、わずか三文字の言葉。
それだけなのに、胸の奥がゆるむ。俺の投稿を、ちゃんと晄が読んでくれていたんだ――ただそれだけで、心に灯りをともしたように気持ちが明るくなる。返事をするより先に、続けてもう一件が連投で届いた。
“なんかあった?”
指先が止まる。
ほんの少しだけ、さっきの出来事を話したいと思ってしまう。誰かに、今日の重さを拾ってほしかったのかもしれない。
でも、晄に言うのは……違う。面倒だと思われたくない。重たいと思われたくない。
少し迷って、誤魔化す言葉を打ち込む。
“ううん、何でもない”
平気なフリをするようにスタンプまで添えた。
すぐに既読がついて――短く、鋭く届く。
“いや誤魔化すの下手くそかよ。
番号教えろ 通話するから”
胸が跳ねた。通話? 今から? 本当に?
手が震えてスマホを持つのも辛い。数字を打ち込もうとしても指が震えて思うように動かない。
“今”電話に出ろってことだ。緊張で頭の中が真っ白になり、変なことを口にしそうで怖い。
ちゃんと話せるかな。
ラインでは普通に喋れていたけど、電話なんてほとんどしたことがない。
言葉が詰まったら、どうしよう。
変な声が出たら、どうしよう。
手がガタガタと震えながら、慌てて十一ケタの数字を打ち込み、送信する。
画面を見つめる間もなく、着信画面が突然表示された。
ベッドの上で正座し、息を整えようとするけれど、呼吸は浅く、心臓が耳の奥でバクバク響く。
指を震わせながら、通話ボタンをスライドした。
「もしもし……」
「ああ、宵? 大丈夫?」
耳に落ちてきた声は、思っていた以上に柔らかかった。
「晄……」
自分の声が情けないほど弱気で、掠れたのに気付いて喉がきゅっと縮む。
「やば。声、死んでるじゃん」
「いや、あの……そんな大したことでは……」
「いいから、話せよ。大したことあったんだろ」
促されるまま、ぽつぽつと今日の出来事を話し始めた。
晄は静かに聞いて、時折相槌をうち、最後にはっきりと言った。
「……つーか、それ宵は何も悪くなくね?」
あっさりと言われたその一言が、胸の奥にするりと落ちる。
「でも、フォローしてくれた先輩にも申し訳なくて……」
「は? お前どんだけ真面目なん?
つーか、申し訳ないとか言いながら、ファンタジーとラブコメとホラー。
三本ガッツリ現実逃避してんの草」
晄はそう言って、低い声で笑った。
落ち込ませないように、明るく引き上げるような茶化し方だった。
その声だけで、沈んでいた心がすっと持ち上がっていくのを感じる。
「宵はやることやったじゃん。それでよくね?……まぁ、俺もモヤる時あるし、気持ちは分かるけど」
その言葉で、俺の中での晄のイメージが変わった。
晄は、大勢の中心でいつも自然に笑っていられる人だと思っていた。
でも、その言葉から、誰にも言えない気持ちを抱えて迷うこともあるのかもしれない、と気づかされた。
――俺だけじゃない。
キラキラして見えても、晄だってそう感じる時があるんだ。
そう思えた瞬間、胸の奥で張りつめていた糸が、ふっと緩むのを感じた。
「……てか、早くシフト教えろ。行くんだろ、映画」
不意に落ちてきたその一言に、心臓が小さく跳ねた。
胸の奥が、きゅっと音を立てて縮む。
行きたい。
すごく行きたい。
誘ってくれたことが、単純に嬉しい。
でも同時に、もう一人の自分が耳元で囁く。
――本当に? 俺でいいの?
期待して、何か嫌なことが起きて傷ついたら、勝手に落ち込むんじゃないのか。
喉の奥がひりついて、言葉を選ぶ間に呼吸が浅くなる。
「……一緒に観に行く相手、俺でいいの?
そんなに早く観たいなら、無理しなくていいよ。ほら、他の人とか誘って……」
言い終わった瞬間、失敗したって分かった。
本音とは逆のことを、反射みたいに口にしてしまった。
本当は、晄と行きたい。
でも、断られるより先に距離を取るほうが、まだ楽で。
傷つかないための逃げ道を、無意識に用意してしまう。
電話の向こうで、晄が黙る。
数秒。
たったそれだけなのに、胸の奥がざわざわして、時間が妙に引き延ばされた。
「……だる」
低く、短い言葉。
一瞬、心臓が跳ね上がる。
「自己肯定感低すぎ。
俺がお前と行きたいって言ってんだから、余計なこと考えんな」
乱暴な言い方なのに、声は驚くほどまっすぐで。
突き放すどころか、逃げ場を塞がれるみたいに、ちゃんとこちらに届く。
胸の奥で絡まっていた不安が、少しずつほどけていく。
言葉にできなかった「嬉しい」が、遅れて染み出してくる。
「……うん。わかった」
自分の声が、思ったより素直で、少し驚いた。
「じゃ、あとでまた連絡する」
通話が切れた瞬間、部屋が急に広くなったように感じて、静かになる。
画面は暗いのに、スマホを握る手のひらだけが、熱を帯びていた。
ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。
“――俺がお前と行きたいって言ってんだから”
その言葉が、胸の奥で何度も反芻される。
社交辞令かもしれない。
勢いで言っただけかもしれない。
それでも。
嬉しい、と思ってしまった自分を否定できなかった。
スマホをそっと胸に置く。
背面に残るかすかな温もりが、晄と長く話したことを証明しているみたいで。
心臓は、まだ少し早く脈打っていた。
“起きたら3限終わってて絶望”
“それは寝過ぎだと思う(笑)”
最初のうちは、映画の話ばかりだった。上映中のシーン、登場人物の仕草、カメラワークや光の使い方まで、スクリーンの中の世界を一緒に語り合うだけで、十分に楽しかった。
けれど、いつの間にか話題は映画だけじゃなくなっていた。朝の寝坊のこと、授業の退屈さ、駅で見かけたちょっとした出来事――些細なボヤきや笑い話。送られてくる内容は、日常の何気ないものに変わっていった。
“寝すぎてだりぃ”
晄の言葉は短く、思ったことをそのまま投げてくる無防備さがあった。返信も早く、授業中にこっそりメッセージを送ってくることもある。俺が返せないと、ゆるいキャラクターのスタンプを連打して、まるで催促しているような遊び心も見せてくれる。
夜遅くに送ったメッセージも、朝にはちゃんと返事が届いていた。
バイトの休憩中や電車の中――ふとした隙間時間にスマホを開くと、必ずそこに晄の文字があって、思わず笑ってしまうこともあった。
気づけば、晄とのやりとりは、俺の日常のリズムの一部になっていた。
“明日朝から小テストだから起こして”
“アラーム、いっぱいセットすればいいんじゃない?”
“正論パンチやめろや”
返ってきたのは、中指を立てた目つきの悪いネコのスタンプ。
文字だけなのに、まるで隣で晄が目の前に座っているみたいで、思わず口元を手で押さえて笑った。
“晄は次の講義なに?”
“心理学概論。宵は?”
俺は少し驚いた。あの派手で自由そうな晄が、心理学を専攻しているなんて――想像していなかった。外見とのギャップに、つい笑いそうになる。
“アメリカ文学だよ”
“文学専攻って、宵っぽいわー”
“なんで?”
“言葉の裏にあるものまで考えてそうだから”
その一文を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、スマホを握った手が止まった。
言葉の裏にある相手の「目線」や「感情」を感じ取る瞬間――自分がこんなふうに思っていることを、まるで見透かされてしまったようで、恥ずかしいのに、どこか嬉しかった。
“てか、いつバイト休みなん。そろそろ映画行きたい”
次に会う予定を相談しようとしても、お互いの講義やバイトの都合で、なかなか日程が合わなかった。そのもどかしさが、心の片隅でじわりとくすぶる。
けれど、メッセージのやり取りの中で、晄の声や笑顔を想像しながら文章を打つだけで、少しずつ距離が縮まっていく感覚があった。
“今日シフト出るから、確認する”
映画館での時間から始まった小さな接点が、日常の中に自然に溶け込み、俺の生活に新しいリズムを生んでいる――そんなことを、スマホを握りしめながら改めて感じていた。
次に会うときは、きっと前回より自然に話せる気がする。
晄と今度はどんな映画を観に行こうか考えると、肩にかかったリュックも、バイトに向かう足も、少し軽くなるような気がした。
バイトが終わったら、新作のDVDを観てレビューを書こう。そしてまた、晄と映画の話をするんだ。そう思うだけで、胸の奥がちょっと弾んでいた。
***
だけど、その高揚感は長く続かなかった。
大学での講義を終え、バイト先で返却作業をしていると、カウンターに返却袋がドンッ!と叩きつけられた。
「これ観れねぇーんだけど!金返せよ!」
大柄な男性の怒声に、体が固まる。DVDが再生できないことで返金を求められるのは珍しいことではない。マニュアル通りに説明を繰り返す。けれど、怒りは一向に収まらない。周囲の視線が無言の圧力となり、背中に突き刺さる。
「お前じゃ話になんねぇ、もっと上のやつ呼べよ!」
「し、承知しました。少々お待ちいただけますか……?」
声は小さく震え、手元を見たまま目を合わせられない。指先が汗ばんで、DVDケースが微かに滑る。カウンターの内側にある店長を呼ぶボタンを押しても、すぐには来てくれない。
胸の奥がどんどん重くなり、視界が曇る。お願いだから、早く来てほしい。心臓がドカドカして、今すぐここから逃げたい。
唇を固く結んだまま怒声を浴び続けていると、背後から声がかかった。
「宵くん、俺が代わるから」
有馬先輩だった。肩に手を添えられ、体が強ばる。頭の中で言いたいことがぐるぐる回る。助けてもらう自分が、また弱くて情けない。
「あの、でも……」
「いいの。遊佐も居ないし、あとは俺に任せときなさい」
それから遅れてやってきた店長に、震える声で事情を説明した。
そのあいだも、喉の奥にはさっきの怒鳴り声の余韻が残っていた。
横で有馬先輩が「もう終わったし、大丈夫だから」と言ってくれる。その穏やかな声だけが、体に残った恐怖をそっと撫でてくれるようだった。
「さっきは、ありがとうございました」
ちゃんと言った。言ったはずだった。
有馬先輩は柔らかく微笑みながら「気にすんなよ」と返す。
その軽さが嫌なわけじゃない。ただ――胸の奥に溢れていた“言葉にならない温度”が、どこにも届かなかった気がした。
本当は、助けてもらった安堵も、情けなさも、感謝も、全部そのまま伝えたかった。もっと言えたはずなのに。言えなかった自分に、じわじわ失望する。
何をどう言えばよかったんだろう。思い浮かべても、全部どこか不格好で、喉に引っかかってしまう。
自分は、どうしてこうなんだろう――その問いだけが、静かに胸の底に沈んでいった。
***
とぼとぼ歩く帰り道、街灯の光がやけに冷たく感じる。
地面に落ちる自分の影が、弱さを引きずっているみたいで、見たくなくて視線をそらす。
家に近づくほど、心の奥の重たさは深く沈殿していく。
ちゃんと話せなかったこと、怒らせてしまったこと、また足を引っ張ったこと――全部が胸に重くぶら下がっている。
玄関の扉を閉めた瞬間、糸が切れたように体から力が抜けた。
上着も脱がず、そのままソファに倒れ込む。
目を閉じると、さっきの光景が勝手に再生される。
怒号。硬直して動けなかった手。間に入ってくれた有馬先輩の背中。
助けられるだけで、何ひとつ返せなかった自分。その全部が胸に刺さり、息が浅くなる。
じっとしていると、また思い出してしまいそう。俺は手当たり次第にDVDケースを掴む。
何でもいい。とにかく、違う世界に逃げたかった。
再生ボタンを押すと、暗い部屋にスクリーンの光が広がる。
画面の中の登場人物たちは、言いたいことを言って、傷ついても、ぶつかっても、ちゃんと相手に思いを届けていた。
いいな、と心のどこかで思う。現実では、言葉が途中で引っかかるくせに、映画の主人公たちは迷いなく進んでいく。
その強さに憧れながら、自分が情けなくて、胸の奥がひりひりする。
だけど、映像に沈み込むと少しだけ楽になる。
自分じゃない誰かに感情移入して、苦しくない世界にいられる気がするから。
また逃げているとわかっても、やめられなかった。
画面の光が、ゆっくりと心の輪郭をぼかしていく。
こうやって俺はまた映画に隠れている――そう思いながら深く息を吐いて、膝を抱え込んだ。
深夜まで三本の映画を立て続けに観たあと、レビューを一気に投稿する。目は疲れ、肩も少し重い。
布団に寝そべると、ようやく一日の終わりを実感する。
「もう一時過ぎてる……早く寝よう」
スマホを手に取り、アラームをセットしようとしたそのとき、新着メッセージの通知が画面に浮かんだ。
“見過ぎ”
晄から届いた、わずか三文字の言葉。
それだけなのに、胸の奥がゆるむ。俺の投稿を、ちゃんと晄が読んでくれていたんだ――ただそれだけで、心に灯りをともしたように気持ちが明るくなる。返事をするより先に、続けてもう一件が連投で届いた。
“なんかあった?”
指先が止まる。
ほんの少しだけ、さっきの出来事を話したいと思ってしまう。誰かに、今日の重さを拾ってほしかったのかもしれない。
でも、晄に言うのは……違う。面倒だと思われたくない。重たいと思われたくない。
少し迷って、誤魔化す言葉を打ち込む。
“ううん、何でもない”
平気なフリをするようにスタンプまで添えた。
すぐに既読がついて――短く、鋭く届く。
“いや誤魔化すの下手くそかよ。
番号教えろ 通話するから”
胸が跳ねた。通話? 今から? 本当に?
手が震えてスマホを持つのも辛い。数字を打ち込もうとしても指が震えて思うように動かない。
“今”電話に出ろってことだ。緊張で頭の中が真っ白になり、変なことを口にしそうで怖い。
ちゃんと話せるかな。
ラインでは普通に喋れていたけど、電話なんてほとんどしたことがない。
言葉が詰まったら、どうしよう。
変な声が出たら、どうしよう。
手がガタガタと震えながら、慌てて十一ケタの数字を打ち込み、送信する。
画面を見つめる間もなく、着信画面が突然表示された。
ベッドの上で正座し、息を整えようとするけれど、呼吸は浅く、心臓が耳の奥でバクバク響く。
指を震わせながら、通話ボタンをスライドした。
「もしもし……」
「ああ、宵? 大丈夫?」
耳に落ちてきた声は、思っていた以上に柔らかかった。
「晄……」
自分の声が情けないほど弱気で、掠れたのに気付いて喉がきゅっと縮む。
「やば。声、死んでるじゃん」
「いや、あの……そんな大したことでは……」
「いいから、話せよ。大したことあったんだろ」
促されるまま、ぽつぽつと今日の出来事を話し始めた。
晄は静かに聞いて、時折相槌をうち、最後にはっきりと言った。
「……つーか、それ宵は何も悪くなくね?」
あっさりと言われたその一言が、胸の奥にするりと落ちる。
「でも、フォローしてくれた先輩にも申し訳なくて……」
「は? お前どんだけ真面目なん?
つーか、申し訳ないとか言いながら、ファンタジーとラブコメとホラー。
三本ガッツリ現実逃避してんの草」
晄はそう言って、低い声で笑った。
落ち込ませないように、明るく引き上げるような茶化し方だった。
その声だけで、沈んでいた心がすっと持ち上がっていくのを感じる。
「宵はやることやったじゃん。それでよくね?……まぁ、俺もモヤる時あるし、気持ちは分かるけど」
その言葉で、俺の中での晄のイメージが変わった。
晄は、大勢の中心でいつも自然に笑っていられる人だと思っていた。
でも、その言葉から、誰にも言えない気持ちを抱えて迷うこともあるのかもしれない、と気づかされた。
――俺だけじゃない。
キラキラして見えても、晄だってそう感じる時があるんだ。
そう思えた瞬間、胸の奥で張りつめていた糸が、ふっと緩むのを感じた。
「……てか、早くシフト教えろ。行くんだろ、映画」
不意に落ちてきたその一言に、心臓が小さく跳ねた。
胸の奥が、きゅっと音を立てて縮む。
行きたい。
すごく行きたい。
誘ってくれたことが、単純に嬉しい。
でも同時に、もう一人の自分が耳元で囁く。
――本当に? 俺でいいの?
期待して、何か嫌なことが起きて傷ついたら、勝手に落ち込むんじゃないのか。
喉の奥がひりついて、言葉を選ぶ間に呼吸が浅くなる。
「……一緒に観に行く相手、俺でいいの?
そんなに早く観たいなら、無理しなくていいよ。ほら、他の人とか誘って……」
言い終わった瞬間、失敗したって分かった。
本音とは逆のことを、反射みたいに口にしてしまった。
本当は、晄と行きたい。
でも、断られるより先に距離を取るほうが、まだ楽で。
傷つかないための逃げ道を、無意識に用意してしまう。
電話の向こうで、晄が黙る。
数秒。
たったそれだけなのに、胸の奥がざわざわして、時間が妙に引き延ばされた。
「……だる」
低く、短い言葉。
一瞬、心臓が跳ね上がる。
「自己肯定感低すぎ。
俺がお前と行きたいって言ってんだから、余計なこと考えんな」
乱暴な言い方なのに、声は驚くほどまっすぐで。
突き放すどころか、逃げ場を塞がれるみたいに、ちゃんとこちらに届く。
胸の奥で絡まっていた不安が、少しずつほどけていく。
言葉にできなかった「嬉しい」が、遅れて染み出してくる。
「……うん。わかった」
自分の声が、思ったより素直で、少し驚いた。
「じゃ、あとでまた連絡する」
通話が切れた瞬間、部屋が急に広くなったように感じて、静かになる。
画面は暗いのに、スマホを握る手のひらだけが、熱を帯びていた。
ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。
“――俺がお前と行きたいって言ってんだから”
その言葉が、胸の奥で何度も反芻される。
社交辞令かもしれない。
勢いで言っただけかもしれない。
それでも。
嬉しい、と思ってしまった自分を否定できなかった。
スマホをそっと胸に置く。
背面に残るかすかな温もりが、晄と長く話したことを証明しているみたいで。
心臓は、まだ少し早く脈打っていた。



